貧しい時代の生徒文集を、飽食の時代の若者が読み解く シリーズ13回の9回目
吉木政人君の卒論と、その振り返り、私のコメントを掲載する。
卒論は『山びこ学校』。
『山びこ学校』は、戦後間もない時期に、山間の貧しい集落で、中学生たちが家の労働で中学にも通えない中で、仲間を助け合い、村落社会の矛盾とも正面から向き合い闘った生活文集である。それを指導したのは、大学を卒業したばかりの若い教員、無着成恭。これは戦後教育を代表する仕事であり、その最高峰の1つである。
当時の貧窮した生活、学校にも通えず家の労働を手伝う中学生たち。困窮は病気を生み、親を病気で失う生徒も多く、村中をいつも死の影がおおう。しかし、その中で理想と家族愛が燃え上がる。その文章群の圧倒的な迫力。
それを、「豊かな時代」「飽食の時代」しか体験していない吉木君がどう読み、自分や今の時代を考えたか。
「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人 全11回の9回目
■ 目次 ■
第3章 佐藤藤三郎「ぼくはこう考える」
第1節 「ぼくはこう考える」
=====================================
第3章 佐藤藤三郎「ぼくはこう考える」
第1節 「ぼくはこう考える」
第3章では、佐藤藤三郎の書いた「ぼくはこう考える」を扱う。佐藤藤三郎は農家の生まれで、女7人男2人の9人兄弟の7番目の生まれだ。作文に書かれているが、彼の家は山元村の中では特別貧しい方ではなく「中より上」だったという。佐藤藤三郎は次男だったのだが、跡取りとして育てられた。長男が小さい頃に亡くなっていたのだ。この作文が書かれたのは、1949年の8月で、佐藤は中学2年生だった。
佐藤藤三郎は無着学級の代表的な人物だった。まず、当時彼は学級の級長を務めていた。また、『山びこ学校』の中には佐藤の文章が多く収められている。この論文で扱う「ぼくはこう考える」以外にも、「すみやき日記」や彼が班長として書いた「学校はどのくらい金がかかるものか」など文量としても生徒の中では相当多い方だ。中学校の卒業式の「答辞」も佐藤は務めていて、それも『山びこ学校』に文章として収められている。また、佐藤は卒業生の中では珍しく高校に進学している。上山農業高校(定時制)に進んだ。山元中学校卒業生42名のうち、高校に進学したのは4人だけだ。
それでは以下で本文を引用する。引用の仕方は、第1、2章を引き継いでいる。
ぼくはこう考える
佐藤(さとう)藤(とう)三郎(ざぶろう)
(前略)
昼食後、いろりばたにどっかりあぐらをかいて、屋根ふきさんのいつも語る農民組合の話を聞いていた。それは「農民組合のことで山形に行き、共産党の本部へついでに寄ったら、長岡から『入党したらどうだ。相談ばかり来て、はいらねっずぁあんまえな((ということはあるまいな))(ということはあるまいな)』とすすめられた。」ということである。そして、「入りたいには入りたいのだが、帰ってから村の人からきらわれるといけないから『まず、いますこし考えてみてからだ』といって帰ってきた」ということ。そして最後に「やっぱり共産党でなければならない。」というのだった。
しかし、私は本当にそうなのかわからなかった。【本当に共産党がよいのなら、屋根ふきさんが「村の人あどう思うか」などと考えずに、はいるべきなのではないだろうか(1)】。私は子供だからだまって聞いていたが、次には疑問がおこってきた。
たとえば小白府の方で横戸了(さとる)(さとる)氏の未墾地を開墾させてもらうようにお願いしたところが、横戸氏は許さなかった。だから県の農地課へ行って願った。そして全部かな((叶))(叶)った。そのとき意地で、いらない土地でも書類を作って願ったというのである。【いったい共産党は意地で党を持っているのであろうか(2)】。しかし、私は、まだ「意地だ」ということだけならたいして問題でもないのだが、【横戸氏の場合は「意地」だけでなく「自分だけよければ他人はどうなってもよい」というような気持があるが、この屋根ふきさんにはないのか(3)】?
とにかく私は「今のうち本を読んで、みっしり勉強しておかないと、今にこの屋根ふきさんみたいに、気持ちの小さい人間になってしまうぞ。」と思い、「午後こそ山に行かないで目的の本を読んでやろう。」と考えて、そっとうつえん((内縁側))(内縁側)に行ってねむったふりをしていた。
五分もたったろうか、「ヤロ、ヤロ。」と三、四回ほどよんで「アマガリ((地名))(地名)さだ。」といって、父はむしろをばさりと背負って、母に「よこせよ」と言い捨てて出て行った。「ヤロ」と呼ばれたとき、【私は「もうダメだ」と思うと身体がじいんと痛んできた(4)】。
私たち四十三人の学級で、私の家のくらしはそう悪い方ではない、中よりもよい方だ。
考えてみると、これで昔からくらべてみればよくなっているんだ。第一、父が私の家にむこに来たとき、なんにもないのでたまげた((驚いた))(驚いた)というではないか。もちろんないことは承知で、ただ一人娘にだから、やっかいがなくてよい、といって向うでもくれたのだそうだが、こんなにないとはまさか思わなかったのかも知れない。
だから一番大きい姉ちゃんは小学校を卒業すると和歌山の紡績工場へ、募集人からよいことを語られて、どうせこんなびんぼうの中にくるしんでいるよりは、工場へでも行った方がよっぽど幸福だと考えて、親はあんまり遠いのでゆるさなかったがびりびり((むりやり))(むりやり)いやそればかりではない。もう一つの理由は、祖父の妹が子供を持たないので、それにもらわれるのがいやだということだ。いつも母は私たちにかたってきかせることだが「ンぐどぎあ((行くときは))(行くときは)ンぐンぐ((行く行く))(行く行く)いって、あとからやんだぐなたみた((いやになったような))(いやになったような)ことばかり手紙よこすっけまなは((よこしたものだ))(よこしたものだ)」と。そして行ってから半年もたつだろうか。水があわなくてはらをわるくしたという手紙がきて、まもなく病気になって家へ帰ったのだ。その時は蚕が四つ((四齢))(四齢)におきて、忙しい最中だった。だから病人もおちついてねていられず、かいこのあとたて((除糞))(除糞)したり、くわかせ((桑食わせ))(桑食わせ)したりしたもので身体はがおる((よわる))(よわる)ばかり、強くなるものは病気だけだった。
そこで金井の横山医院に入院した。もうその時は、あつかうのは、ばんちゃんが一人ではまにあわなくなり、おばちゃんのばんちゃをもたのんで二人であつかった。
だが、いくらたっても病気はわるくなるばかりで、「医者がえしてみろは((かえてみてはよう))(かえてみてはよう)」というので、今度は山形の至誠堂病院にうつったのだった。だが、よくなるどころが、かえってわるくなるばかりだった。
そしてその年の秋もすぎるころ、とうとう腸結核で死んでしまった。その時は十九歳であった。この時は私は四歳の時であったそうだ。母と病院に行って姉ちゃんがせがめっつら((しかめつら))(しかめつら)をしてねていた顔、それが私の姉ちゃんの記憶だ。
こうして女工にうられたのも私の姉ちゃんだけではない。すこしくらしのわるいような家へ行って募集人がすすめたもので、この年頃の娘は大体みんなかわれたのだった。母は「いっぱえ((たくさん))(たくさん)行ったんだげんども((のだけれど))(のだけれども)、みな病気したわけでないから、身体よわかったんだベな((だろう))(だろう)。」とあきらめている。
以上が私が四歳のころのことだが、このことは家の人がいつもかたるのでよくおぼえている。ときどき私たちがちょっと仕事をいいつけられてきかなかったりすると、じき「がきぴらいっぱえ((子供らがたくさん))えっど((いるが))かしぐもんでない((かせごうとしない))(子供らがたくさんいるがかせごうとしない)。トヨノばなの((などは))(などは)めちゃこえ((小さい))(小さい)ときから子守なの((など))(など)させて、おこさま((お蚕様))(お蚕様)のときなど赤んぼおぶって『いいがは((もういいでしょう))(もういいでしょう)、いいがは』てえっけあ((といっていたよ))(といっていたよ)、もつこえったら((かわいそうだったことよ))(かわいそうだったことよ)、もつこえったら」といわれると、なんだかほんとにもつこえ((かわいそうな))(かわいそうな)ような、【ごしゃける((腹が立つ))(腹が立つ)ような気がする(5)】。
ほんとに今三十代四十代の人が子供のときとはくらべることができないほど、農村のくらしがよくなっているのだ。だからこそ、いまのうち本をよんで勉強しておこうと思うのだ。だが【そんなよくなったにもかかわらず、たった一冊の本を読む時間すら持っていないのだ(6)】。【これでは私たちがどうがんばってみたところで、本をたくさんよみ、上の学校にはいった人から((によって))(によって)政治をとられるだろう(7)】。【そうすれば、そういう人は金持に都合のよい政治をとるだろう(8)】。【そうすれば、どう考えてみたところで私たちがよくなりっこないだろう(9)】。
あらゆる少年雑誌を見よ!
あらゆる少年新聞を見よ!
あらゆる本を見よ!
それがどうであるというのだ!
そこにはまったく一日を自由に使える子供たちのために、「五日制の土曜日は、こんな計画を立てて」とか、「日曜日はこんな計画でたのしくすごそう」等々、遊びと勉強があるだけで、【私たちのような山の子供たち、年中労働にかりたてられている子供たちがどんなことを勉強すればよいのか、どんなことを考えればよいのか、ちっとも書いていないじゃないか(10)】!
【私が今までよんだ小説だってほとんどそうだ(11)】。ただ国分一太郎の『少し昔のはなし』と、徳永直の『はたらく一家』だけが、勉強しようと思っても家が貧乏でできないことが書いてあっただけだ。そこにあらわれた子供たちは、私たちよりもっともっとひどい生活をしていたような気がする。しかし、【先生にいわせると「働くことが勉強だ。」という。おれには、それがどうしてものみこめないのだ。それがほんとうになるためには「働く」ということについて考えられるだけの土台が必要なのではないか(12)】。たとえば【炭を上手にやくことを研究しなければならないことはわかっている。その研究はやいてみなければわからないこともわかる。それは炭をやいてみて、炭やきはむずかしいことがわかったのだ(13)】。【ところがそんなになんぎしてやいた炭を、なぜ父や母がヤミで売ろうとするのだろうか(14)】、ここに問題がおこってくる。
ただ馬鹿かせぎしてもだめだという問題だ。なぜかというと、炭をヤミで売らず公定で供出したりすると、まにあわないということがおこってくるからだ。
この間、【先生と計算したら(15)】一俵(四貫)の炭をつくるのになんとしても百八十八円十銭かかるのだ。それを公定で組合に出せば、楢の上等で百五十円、並であれは百二十円である。だから百八十八円十銭よりは並が六十八円も安いのだ。それに、木も全部楢だけであればよいのだが、そうばかりでもない。山代も雑木だからといって安いわけでもないのだ。それに雑炭といえば百二円という安さだ。これではいくら「ヤミをするな」といわれたって、しないでは生活が出来ないのだ(21)。では、ヤミはどのぐらいしたかといえば、二百円くらいで、これがようやく手間になるようだ。いや、それよりも高いものがないから、それぐらいでがまんせねばならないのだ。しかし全部ヤミで売るわけにもいかない。大体全部が供出でヤミはわずかなものなのだ。ヤミ炭を買う人だって金持だけで、びんぼうな人はヤミでは買えず、困っているのだ。
【なぜこういうふうに炭のねだんは原価をわり、また一方では炭が不足しているのだろう(16)】。こんなことを、【そしてその土台を作る一番最初の仕事は、私たちがみんな毎日たのしく学校に来ることが出来るようにすることだ(17)】。学校がたのしくないとすれば原因を考えねばならない。もしもそれが私たち生徒同志のきまずい感情が原因だったり、先生がビンタを張るなどという問題だとすれば、自治会で簡単にかたづくし、私たちの学級にはそんなことは全然ないのだ。とすれば何だろう。それは教科書代金などを早くもってこい、早くもってこい、などとあまり催促されて、つぎの日から金が工面つくまで学校を休んで、材木ひっぱりなんかするなどということ、家で「学校なの休んで手伝え」といってびりびり学校を休ませること、などだ。
【政府では、義務教育を三年のばすとそれだけ実力がつくと思っているのだろうか(18)】。【三年のばしただけで私たちは、親からブツブツ云われ、かせがせられて、そのあい間をみつけて学校にはしって行かなければならない、ということは、いったいどういうことなんだろう(19)】。
【ほんとに、学校教育がすばらしくなるというのは、どんな貧乏人の子供でもその親たちにさっぱり気がねしないでくることができるようになったときでないだろうか(20)。こういう問題はいったいだれが解決するんだろう(21)】。
こんなことを考えながらみのを着ようとして背中にやったら、三年の昇君が得意の流行歌を歌って、鎌をふりふり山へ行くところだ。それを見て「昇君だ((なんかは))(なんかは)いいものだ。何も考えずにただ『おらえの((うちの))(うちの)昇あ、かしぐまあ((はたらくよ))(はたらくよ)』とほめられるのをたのしんでいることが出来て……」と思った。が「【そういう考えは、生活について考えるのに正しい方法だろうか(22)】」と疑問がすぐおこってきた。
(後略)
(一九四九年八月二八日)
(無着成恭編『山びこ学校』岩波文庫、1995年、151-159頁)
以上で引用を終わり、第2節へ移る。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――