今年の4月から全国の高校で使用される、
大修館書店の国語科教科書「現代文」「新編 現代文」「精選 現代文」の3種類に関して、
教師用の副教材『論理トレーニング指導ノート』(3種類)を、
鶏鳴学園のスタッフの松永奏吾、田中由美子と一緒に製作・編集した。
これは、3種の「現代文」に収録された評論から10のテキストを取り上げ、
そのテキストの論理的な読解、立体的読解を示したものだ。
そこでは、取り上げた1つ1つのテキストについて、
その考え方を私が批評するコラムをつけている。
指導者が指導する上でのヒントになるように、
テキストへの1つの視点、1つのとらえ方を示したものだ。
これは、広く、世間への問題提起のつもりでもある。
昨年も大修館書店の国語科教科書「国語総合」の3種類に関して、
同様のことを行った。
高校の先生方の中には、私のコメントを楽しみに読んで切るという方々の声を聴いた。
講演に呼ばれたこともある。
教科書には、今、世間で売れていて、評価されている著者が並ぶ。
このメルマガの読者も読んだことがあったり、ファンであったりするだろう。
そうした方々にも、考えるヒントになると思うので、
このブログにも転載します。
■ 全体の目次 ■
1 ペットが新たな共同体を作る(「家族化するペット」山田昌弘)
2 消えた手の魅力(「ミロのヴィーナス」清岡卓行)
3 琴線に触れる書き方とは(「こころは見える?」鷲田清一)
4 昆虫少年の感性(「自然に学ぶ」養老孟司)
5 「裂け目」や「ほころび」の社会学(「システムとしてのセルフサービス」長谷川一)
6 「退化」か「発展」かを見分ける力(「人口の自然─科学技術時代の今を生きるために」坂村健)
7「サルの解剖は人間の解剖のための鍵である」か?(「分かち合う社会」山極寿一)
8 わかりやすいはわかりにくい(「猫は後悔するか」野矢茂樹)
9「調和」と「狎れあい」(「和の思想、間の文化」長谷川櫂))
10 才子は才に倒れ、策士は策に溺れる(「『である』ことと『する』こと」丸山真男)
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1.ペットが新たな共同体を作る(「家族化するペット」山田昌弘)
ペット論のようだが、実は家族論である。「失われた家族のきずな、その回復を!」といった論調だ。「3丁目の夕日」よ、今一度! それは甘い郷愁へといざない、世間に受け入れられやすいものだろう。しかし、私には大いに疑問がある。
著者は家族こそ守るべきだと主張する。しかし、そもそもの前提は正しいだろうか。近代と前近代の比較から、近代で初めて家族が重要になったと主張しているが、本当だろうか。逆ではないか。近代ではそれまでの大家族が崩壊し、家族は近代産業(資本主義)を支えるための労働力を提供する場へとなりさがったのではないか。高度経済成長期には、「豊かさ」という目標が家族をまとめていたように言うが、「親子の断絶」が激しく起こってもいた。そして、親から独立して若者たちが作った核家族には、芯になる目標がなくなっていた。
資本主義の進展で市場原理主義が席巻しているのは事実だし、そこでは個人が個人としての競争にさらされるのだが、そこから生まれる孤独感は家族の回復で解決されることなのだろうか。そもそも従来の意味での「家族の回復」は可能だろうか。
旧来の血縁による家族や、家族主義的な会社にかわって、新しい原理に基づく共同体が生まれる必要があるのではないか。そしてそれは今、生まれつつあるのではないか。現代はその過渡期であり、その1つの形態として「ペットの家族化」も考えるべきだろう。
たとえば、犬を飼っている人は、毎日の犬の散歩によって地域の人々と「犬仲間」としてつながることができる。ペットは人の孤独をなぐさめるだけではなく、もっと積極的に、人を社会に開く役割をも担うのである。
また「動物介在療法」は未来を切り開くモデルではないか。老人施設などでは、施設内で飼われるペットが福祉の中心的役割を果たし始めている。そこではペットがいることで、周辺の子どもたちが施設に入ってくるようになり、老人たちとの交流が生まれる。ペットは家族の補完ではなく、人と人を結ぶための媒介になっているのだ。