8月 28

デハナイ、デハアル 松永奏吾 その2

■ 目次 ■

デハナイ、デハアル 松永奏吾 

0.問題提起

1.AはBである
1.1 名詞「A」
1.2 判断

2.デハナイ
2.1 AはBではない
2.2 AはBではなくCである
2.3 AはBではないか?
※ここまでが昨日(8月27日)掲載。

3.デハアル
3.1 AはBではないが、Cではある
3.2 AはBではあるが、Cではない
  3.3 AはBではある

4.結論と今後の課題
※ここまでは本日(8月28日)に掲載。

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3.デハアル

3.1 AはBではないが、Cではある

デハナイの助詞ハは、文、判断を対象化する。何かを対象化することは、即、その対象について問うことであり、
文、判断を対象化して問うことの中には、肯定と否定とが内在している。すなわち、「AはBである」を
対象化して問うということは、即、「AはBであるか、ないか」を問うことである。ただし、はじめに出て
来るのは否定の方である。なぜなら、否定の意識なくして、「AはBである」という判断が問題になることは
ないからである。つまり、何かがおかしい、その疑いからしか認識は始まらない。かくして、「AはBである」
に対する疑いから否定の意識が顕在化して、「AはBではない」という否定判断が生じる。
ところが、「AはBである」に対する疑いからはじまって、それが反転して、肯定されることもある。
これは、「AはBである」がそのまま直接的に肯定されるというのではなくて、「AはBである」が
いったん疑われ、否定された上で、しかしやはり肯定される、という屈折的な認識である。
つまり、「AはBである」が、否定されると同時に肯定されるという認識のしかたである。
同一の対象について、肯定と否定が同時に対立的に現れるのは、逆接文を典型とする。

 (19) 山田は真面目な学生ではないが、一応、学生ではある。

(19)では、「山田は学生である」という判断を問うた結果、否定がまず為され、しかし同時に肯定も為されている。
「山田」は、一面から見ると「学生らしからぬ」が、別の一面から見ると「学生」である。(19)では、
「山田は学生である」という判断に内在する、否定的側面が「真面目な学生ではない」と表現されている。
そして、それと同時に為された「(山田は)学生ではある」という肯定は、「山田は学生である」という判断が、
助詞ハによって対象化され、いったん疑われた上で為されている。すなわち、この肯定は、疑いを内在化させている。
言い換えると、「学生ではある」とは、疑いを、ないし、否定を含みもつ肯定である。助詞ハによって、
疑いが内在化された肯定、それがデハアルである。

3.2 AはBではあるが、Cではない

 (20) 山田は学生ではあるが、真面目な学生ではない。

(19)と(20)はどちらも逆接文であるが、(19)では逆接文の後件に、(20)では逆接文の前件にデハアルが現れている。
この(20)のように、デハアルが逆接文前件に現れる場合、「?ではあるが」、「?ではあるけれど」など、
逆接句の形式をとることによって、ある特殊な逆接句を形成する。すなわち、(20)のような譲歩、ないし、
(21)のような前置き、である。

 (21) 僭越ではございますが、スピーチをさせていただきます。
 
譲歩も前置きも聞き手を意識した表現である。譲歩は、聞き手に同意しつつも反論するという文に、
前置きは、聞き手に対して、発話することの不適切さを前もって断りながらも発話するという文に現れる。
デハアルが逆接文の前件に現れて、デハアルの含みもつ疑いが、逆接文の後件で表されている。
なお、(19)のような逆接後件に現れるデハアルと、(20)(21)のような逆接前件に現れるデハアルとでは、
後者の実例が圧倒的に多い。これは、逆接文に限らず、複文一般のもつ表現構造と関係がある。すなわち、
複文一般は、前件が従属節であり、後件が主節であり、主節とは、主張、結論を述べる場所である。
かたや、デハアルは、屈折的な肯定であるから、デハアルの述べる内容は、確固たる主張、明瞭判然たる結論ではない。
したがって、主節、後件にデハアルは現れにくい。逆にいえば、デハアルは、後件の主張、結論と対立する内容を
述べるのにこそふさわしい。それがすなわち、譲歩であり、前置きである。

3.3 AはBではある

デハアルの含みもつ疑いが表現されずに、デハアルだけが単独で現れる場合もある。

 (22) 山田は、確かに、学生ではある。

(22)は、「山田は学生である」という判断を疑いつつも肯定するが、ここに否定的側面は表現されず、
デハアルの「ある」の中に疑いが内在化されている。その含みを外化させると、先の(19)(20)のようになるわけ
である。この (22)のような例は、書き言葉による文章中よりむしろ、話し言葉にこそ多く見られる。(22)は、
デハアルのもつ含みを、含みのまま残したような文であり、このような文は、明晰さを意識して書かれる文章
にはふさわしくない。逆に言えば、日常の会話では、不正確な言い回し、言い淀み、発言の逡巡、といったことは
むしろ常態でさえある。(22)のようなデハアルは、含みを言い表すことなく、含みを含みとして言い残した表現である。
その含みは、デハアルの助詞ハの中にある。

4.結論と今後の課題

助詞ハは、何かを意識したこと、何かを対象化したこと、何かを問いとして立てたこと、を表す助詞である。
「これは?」という問いから始まって、「これはA」という形で「A」という名前が付けられると、
ここに名詞が生まれる。その「A」が対象化され、問われ、答えが出されると、「AはBである」が成立する。
ここにおいて主語と述語が現れ、助詞ハは問いを立て、答えを導く助詞となる。こうして名詞と助詞ハが生まれ、
そこから形容詞、動詞などが生まれていく。
しかし認識が発展して、高度なレベルにまで到達していく過程で、対象が現実世界のものから、認識上の判断
(文)そのものへと拡大する。「AはBである」が対象化され、疑われ、否定されると、「AはBではない」が
現れる。さらに、「AはBである」が対象化され、疑われながらも、肯定されると、「AはBではある」が成立する。
助詞ハは、自ら問いを立て、答えを導く、「設問」の助詞である。意識が対象としてとらえたものを、
問いとして設定する。問いを「?」で示し、答えの導かれた結果を「→」の先に示すと、上に要約した
一連の運動は、以下のように図示できる。

・これは?    → これはA。
・Aは?     → AはBである。
・AはBである? → AはBではない。
・AはBである? → AはBではある。

 こうした認識の発展は、設問というその本質の現れてゆく過程である。その過程で、助詞ハの本質も明らかに
なり、その多様な機能が現れてくる。本稿では否定と肯定の対比の意識がどのように生まれるかを説明した。
助詞ハの他の機能も、この延長上に証明できるはずである。また「AはBである」の基本文から詠嘆文、
勧誘文、譲歩や前置きなどの形態が派生することを説明したが、他の形態もすべてここから派生したものとして
説明できると思う。
こうしたことを今後の目標としたいのだが、当面の課題として以下が設定できる。

認識の発展、設問というその本質の現れてゆく運動は次のような例に展開する。これらの例のうち、
特に(23)(24)のような条件用法を考えることを第一の課題にしたい。

 (23) 廊下を走ってはいけない。
 (24) 寄せては返す波。
 (25) くわしくはここをクリック。
 (26) では、始めましょう。
 (27) 実は…

 また、次の(28)のような、「対比」と言われる例が、助詞ハの本質からいかにして出て来るかという論理を
考えることを、第二の課題としたい。

 (28) コーヒーは飲んでもよいが、酒はダメだ。

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