6月 18

ゼミのヘーゲル学習会の成果。

?から?を、この順でブログで発表する。今回は?

?ヘーゲル『法の哲学』へのノート 
?ヘーゲルの国家論 
?マルクスの「ヘーゲル国家論批判」へのノート 
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◇◆ マルクスの「ヘーゲル国家論批判」へのノート  ◆◇

昨年2008年8月にはヘーゲル学習会の合宿でヘーゲル『法の哲学』の国家論を読んだ。さらに秋にかけて、マルクスの「ヘーゲル国法論批判」と「ヘーゲル法哲学批判序説」を読んでみた。そこで考えたことをまとめておく。テキストは「ヘーゲル国法論批判」は『マルクス・エンゲルス全集第1巻(大月書店)』、「ヘーゲル法哲学批判序説」は岩波文庫『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』を使用した。ページ数はこれらのテキストのもの。

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○マルクスの学ぶ姿勢
(1)「先生を追い越す」ために「先生から徹底的に学ぶ」姿勢がある
「徹底的に学ぶ」ことは、徹底的に「真似」をすることだ。

?「科学的社会主義」
マルクスは、当時のドイツに入ってきたフランス直輸入の共産主義について「この共産主義はそれ自体、その対立物である私有制度の影響を受けた一現象、人道的原理の特異な一現象にすぎません」と言う(岩波文庫『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』の訳者解説から 165ページ)
これは次のように言っていることになる。「この共産主義は私有制度に反対するだけで、私有制度を理解した上で、それを止揚する立場として自らを構築したのではない。したがって、それは反対する私有制度に依存している低い思想でしかなく、自立していない。一方的に否定するだけで、その根拠は抽象的人道的原理があるだけだ」。
マルクスの言いたいことは、ヘーゲルの論理展開と一致する。この批判が「空想的社会主義」と概念化され、その代案としての自らの立場に「科学的社会主義」が対置された。それはヘーゲル主義と言って良いと牧野紀之は言うが、その通りなのだ。

?「疎外」論もヘーゲルから。
「疎外」論もヘーゲルからの継承発展。ただ、フォイエルバッハを媒介にして、ヘーゲルから間接的に導入したと言えるかもしれない。即自的や対自的「an sich][feur sich]もそう

?フォイエルバッハも、ヘーゲルから「徹底的に学ぶ」ことをしている。
彼の神の存在の否定(唯物論)、つまり「神は人間の本質を外に投影したものでしかない」ことを導き出す論理が、「ある存在が何であるかは、ただその対象からのみ認識され、ある存在が必然的に関係する対象は、その明示された本質に他ならない」。つまり、ある対象の本質は、それが必然的に関係する対象に現れるのだが、そのヘーゲルの論理を応用したものだった。

(2)マルクスには性急で強引に否定する面がある。青二才の部分
 「論理的汎神論的神秘主義」(236ページ)の説明など
 これは青年期特有の、功を焦り、自立をあせり、唯物史観の確立へのあせりが大きな要因だと思う。しかし、これは大志を抱く青年につきものの欠点であり、批判しても仕方ない。マルクスは後に反省し、また周囲がヘーゲルの優れた点をあまりにも理解していないことにも気づき、ヘーゲルを持ち上げるようになる。

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○マルクスのヘーゲル国家論批判
核心は2点

(1)思想家としての自立のために、唯物史観を完成することが緊急の課題だった

?ヘーゲル哲学を観念論として激しく批判する
ヘーゲルは「観念論」だとの、マルクスのヘーゲル批判(「論理的汎神論的神秘主義」236ページ)は、結局、唯物史観での上部と下部のどちらを規定的と考えるかの相違なのだろう。
マルクスは経済と政治の対立を述べている。経済的解放と政治的解放との違い。
「政治的国家」と「市民社会」、「市民身分」と「政治的身分」の矛盾としてマルクスが指摘しているのは、すべてこの問題ではないか。

?ヘーゲルは唯物史観の観点でも、観念論的とは決めつけられないと思う。
第1部で所有権を人格の平等の根拠としていること。
第3部の市民社会論で、ヘーゲルは経済問題を取り上げ、格差の拡大(窮乏化論)、市場拡大の至上命題、植民地政策と国家との一体化などを述べていた。
こうした点を、マルクスはどこまで理解していたのだろう。

?市民社会論で、ヘーゲルは経済問題を取り上げ、格差の拡大(窮乏化論)、市場拡大の至上命題、植民地政策と国家との一体化などを述べていた。
それを受けて、国家論では、植民地政策と国家との一体化の運動について詳しく論述されると、私は期待していたが、それはない。ヘーゲルの国家論は政治組織論で、経済問題はごっそりと落ちている。制度論(形式論)で、内容の話がない。
この点の批判としてならば、マルクスの批判は妥当。

?§274へのマルクスの批判(251ページ)にもマルクスの曲解がある。
エンゲルスは、マルクスとは反対に、ヘーゲルの真意を、当時のドイツ民族の程度(民度)が、君主制しか可能にしなかった、と理解している。私も同じ。
エンゲルスは「フォイエルバッハ論」で、ヘーゲルの有名な「現実的なものは理性的であり、理性的なものはすべて現実的である」という言葉を説明して、「現実的=必然性」の意味だと述べ、「必然的なものは結局のところ、理性的でもあることが明らかになる」という意味だと説明する。  
そして、次のように述べる。
「これを当時のプロイセン国家にあてはめると、ヘーゲルの命題の意味するところは、だから、ただこういうことにすぎない。すなわち、この国家が合理的であり、理性にかなっているのは、それが必然的であるかぎりにおいてである。もしこの国家がそれにもかかわらずわれわれに悪いものに思われ、しかもそれが悪いにもかかわらず存在しつづけるならば、政府の悪さは、臣民たちがそれに照応して悪いという事実で正当化され説明される。その当時のプロイセン人たちは、自分たちにふさわしい政府をもっていたのである」。
(エンゲルスの「フォイエルバッハ論」より)

 ?唯物史観の立場からヘーゲルを批判したければ、彼の「観念論」を批判するのではなく、当時のプロイセンの経済状態から、プロイセンの君主制を説明するべきだったはずだ。それをマルクスは行っていない。

 ?ヘーゲル哲学を根底から批判するとしても、唯物史観の観点からに限定しておけば良かった。「観念論」として斥けたことは、どれほど大きな災いをもたらしたか知れない。ヘーゲルを読まない人間を増やしたからだ。

(2)国家論
「政治的国家」と「市民社会」の矛盾(263?267ページ)が核心的
「政治的国家は亡くなる」(264下)。政治的国家(の彼岸の定在)は国民自身の疎外の肯定態に他ならない(265下)。

この点については牧野が次のように述べている。「マルクスは、国家は最初共同体の純粋な行政として(現在の自治体の住民サービスみたいなものとして)共同生活を円滑にするための道具として発生したが、階級社会に入ってそれは階級支配の道具に変質した、ととらえるからです。こうとらえる時には、宗教や国家を原始社会で発生した時の姿に求めて、階級社会での姿をその疎外態とみるか、階級社会での姿を本質とするかで考えが分かれます。レーニンの国家暴力説は後者に立つものです。(「唯物弁証法問答」より。『ヘーゲルと共に』180ページ)
ここで階級社会での国家は、国家のそもそもの本質の現れか、その疎外態か、という問題提起はまさに急所だ。これはやはり疎外態と考えるのが正しかったのだと思う。ソ連の失敗の原因としてレーニンの理解が間違っていたことが大きいだろう。
ただし、国家の始元をどこに取るかが重要で、この点では牧野にも理解が不十分な点がある。ヘーゲルも、したがってマルクスも、ここでは近代国家を前提としている。したがって、その国民(市民)とは地縁・血縁、共同体から切り離された人々であり、その人々の人格の抽象的平等と、市場を求めて拡大し続ける資本主義社会が前提なのだ。牧野が言うような原始社会で発生した時の姿、「共同体の純粋な行政」が前提ではない。こうした共同体が崩壊した後に、それを補うために成立したのが近代国家だろう。
問題は、原始社会で発生した国家の疎外ではなく、共同体崩壊後に生まれた近代国家、近代社会の本質とその概念であり、その疎外態かどうかなのだ。 

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○ヘーゲルとマルクスの違いは、時代の進展の違いが最大の理由
ヘーゲルが知っていたのは近代社会の生成史まで、マルクスも展開史の初期でしかなかったと言えるのではないか。

     ヘーゲル マルクス
目的  ?立憲君主制の確立 ?立憲君主制の批判=打倒=革命前夜
ドイツの独立、自立の達成
プロイセン政府の擁護

                     ?ヘーゲルの観念論批判
                       =唯物史観の模索
                     ※この目的がすべてに優先した

時代背景 フランス革命後
    立憲君主制が進歩的だった 立憲君主制が反動化
             ※マルクスはこの意味を唯物史観から明らかにすべきだった

     産業改革前        産業改革後=工業化
農村国家

土地の所有権は不自由 私的所有権が前提
土地は特殊な私有財産 土地所有も自由
市民社会内の自由競争=格差の拡大

     大土地所有者が基盤 市民階級(ブルジョア)が台頭してきた
     農村国家 プロレタリアートも存在

     身分社会 階級社会へ

     国家と市民社会の分裂 国家と市民社会の分裂
その解決は、官僚制と議会 官僚制と、身分議会では無理
 土地所有階級が媒介 市民社会の混乱を国家が抑制する
                     完全な普通選挙の実施
                     市民社会内部での階級対立の解決

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○しかし、マルクスの問題提起で、近代の矛盾がよりはっきりと捉えられた側面がある
それは人格の平等ゆえの階級社会の成立、格差の拡大という矛盾だ。形式的(人格の)平等と内容的(能力の)平等との矛盾だ。

(1)人格という抽象的平等と、実質的な能力の平等、個性化の実現には決定的な矛盾がある。
 地縁、血縁は、その内部では均一でも、全体としては多層的で複合的で多様。
その地縁、血縁が壊れたことと、抽象的人格や所有権での平等とは同じこと。それは人間の均一化であり、画一化である。その上に成立したのが近代国家。
地縁、血縁社会には抽象的な所有権はない。身分が固定していた中世との違い。
人格という抽象的平等と、実質的な能力の平等、個性化の実現には決定的な矛盾がある。

(2)国内部の均一化が国家成立、国内統一ということ
 日本の明治維新で言えば、徳川幕府は諸藩の連合体の代表で、国家は存在しなかった。
  横の関係が中心で、絶対的な抽象的な一般的な上下関係ではない
 国内の多層的で複合的で多様な統治が壊れ、均一化し、中央集権化する。
 「教育」が、国家の観念を植え付けるための先兵になる
 天皇制だけが、血縁関係を残した部分

(3)国内統一と国外への対抗・侵略とは一体
?先進国では国内の対立を使用するために植民化
それを協力に押し進めるために国家が必要
  ?後進国では国家の目的は、外の他国から守るため。植民地化される危機。
また、内部の統一体を作るため
教育と殖産を振興し、産業改革で工業化を達成するため

(4)マルクスは国家と市民社会、公私の対立を強調している。ヘーゲルの予定調和の考え方への批判。これは絶対的に矛盾し、対立する、と言う。
  マルクスにあっては、これは階級社会を意味した。その克服を考えたのがマルクス。
  しかし、さらに根底には(1)の矛盾があるのだ。

(5)愛国心を言う人
国はムラではない。その正反対のもの。地縁、血縁が壊れ、抽象的人格や所有権での平等、つまり人間の均一化の上に成立したのが近代国家。
近代以前には公私の区別はなかった(266ページ)。それは一体だったから。
私が私になり、公が公になったのは、同時である。
愛国心や公共心の確立・再建を言う人は、公を求めているのではない。公私の分裂前の一体の時代への回帰を求めているのだ。
  公を確立するには、私を確立するしかない。現代の日本では、私が私にならず、小さなムラに留まっている。依然として個人はいない。

(6)市民社会と国家の分裂、対立
 官僚機構や国の諸制度は、本来の目的から離れて自己運動してしまう
 高度経済成長下で生まれ、拡大し続けた制度を変えられない
 ここから「小さな政府」「官から民」が出てくる必然性がある。

6月 17

ゼミのヘーゲル学習会の成果。

?から?を、この順でブログで発表する。今回は?

?ヘーゲル『法の哲学』へのノート 
?ヘーゲルの国家論 
?マルクスの「ヘーゲル国家論批判」へのノート 
 
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◇◆ ヘーゲルの国家論  ◆◇

昨年2008年8月にはヘーゲル学習会の合宿でヘーゲル『法の哲学』の国家論を読んだ。そこで考えたことをまとめておく。テキストには中央公論社の「世界の名著」版を使用した。ページ数はこのテキストのもの。

(1)国家とは何か
§257には国家の概念が示される。ヘーゲルは国家を意思(自由を求める意思)の概念で説明する。

「国家ははっきりと姿を現して、己自身にとって己の真実の姿が見まがうべくもなく明らかになった意志の実体としての倫理的精神である。この意志の実体は、己を思惟し、己を知り、その知るところの物を知る限りにおいて完全に成就する」。
「国家は個々人の自己意識に媒介された形で顕現するが、他方、個々人の自己意識もまたその自由の実体を国家の内に持っている」。

 人間一人一人の自己意識=意志が国家の基本になっている。個人の自由実現は国家によって可能になるとヘーゲルは言う。ここで一人一人の「自己意識」を基本においていることに注意したい。「自分とは何か」と「自分たちとは何か」「わが国とは何か」。これらは一連の問いで切り離せないと言うことだ。

 また、近代国家とは、あくまでも「国家を作ること」を意識して自覚的につくったものだ。先進国イギリスは、産業革命後の市場拡大のために、国内市場を拡大し安定化するために、イングランド、スコットランド、ウエールズを統一し、対外的には植民地政策を推し進めた。フランスも革命後のナポレオンによる帝政下で中央集権化が進む。

 これらの先進国への対抗上、後進国も国家を作るしかなかった。それがドイツ(プロイセン)、イタリア、日本などの「民族国家」だ。日本は植民地化されないために、西欧から国家という諸制度を輸入する形で作り上げた。近代国家は他の諸国家(先進国)に対抗する必要性から後進国が自覚的に作ったものだ。

 しかし、後進国の国家が「民族国家」である必然性はなく、他民族国家でもかまわない。「己を思惟し、己を知り、その知るところの物を知る限りにおいて完全に成就する」という意味では、アメリカこそ、旧来の歴史や社会を前提にせず、理想的な憲法の理念から作った純粋な近代国家と言えるだろう。憲法に賛成するすべての者を国民と認めるほどに、それは理念先行国家だ。

 市場拡大のために内部の分断、分裂を克服し、統一した中央集権の統合を実現する。さらに外との対抗上も国家を必要とする。後進国では逆に、対外的な必要から国家を必要とする。いずれにしてもそれが近代国家だ。そのナカミは多様だ。それぞれの民族、国民が、自分たちにふさわしい国家を自覚的に作り上げたものだからだ。

(2)君主制について

 マルクスなどヘーゲル国家論の批判者は、ヘーゲルが君主制とその官僚制を擁護している点で、ヘーゲルを批判する。この批判、特に君主制擁護への批判は正しい。それは叙述によく現われている。

 ヘーゲルの君主国家論(3章のAの? §272?320)は明らかに、当時のプロイセンの君主政権を擁護するのが目的だった。というよりは、彼の国家論は近代国家論だが、その国内体制の箇所はプロイセン国家論になっているのだ。当時のドイツ民族の程度(民度)が、君主制しか可能にしなかったからだ。しかし、露骨にそうは書けなかった。

 擁護の姿勢は叙述の不自然さに現れる。ヘーゲルはここでは、いつもの普遍→特殊→個別の順番を壊してしまう。

 カントの立法→司法→執行に対して、ヘーゲルは立法→司法→執行を主張していたそうだ。そして、本書ではそれを、立法→執行→君主に変えた。ここにすでにおかしな物があるが、それを問わないとしても、展開の順番は立法→執行→君主になるはずだ。

 それが君主→執行→立法と逆転している。その結果、君主論の内部(a §275?286)も、個別から普遍への順番になっている。そして、ラストの立法(c §298?320)の導出、その内部展開もおかしくなっている。これは、そうまでして、君主権を強調したかったことの現れで、政治的な操作だ。なお日本の注釈書で、この叙述の不自然さの指摘ができているのは三浦和男(未知谷)のものだけだった。

 以上、ヘーゲルの叙述の問題、彼の君主制擁護の姿勢を批判した。しかし、ヘーゲルの真意は「当時のドイツでは、立憲君主制しか可能性がない」ということだったろう。§274の【注釈】には「どの国民も、自分にあった、自分に似通った体制を持つ」とある。民度とその政権、政体は一つなのだ。日本の天皇制もそうだ。エンゲルスはこれを正確に理解している(「フェイエルバッハ論」)。

(3)意志決定は個別者が行う。
§279
「なんでも皆が決める、多数決で決めることが民主主義的で平等だ」という考えは間違っている。ごまかしがある。民主主義がしばしば衆愚政治になる理由を考えるべきだ。

 意志はそもそも個別的なものだ。国家、集団の意志決定でも、一人の人格が最終意志決定を行うしかない。重要な局面では、トップ自らが責任を持って決定するしかない。トップの孤独を思わねばならない。

 家族や団体でも、執行の場面では個人(トップ)が意志決定をするしかないし、事実そうしている。決定前に、メンバーの意見をしっかり聞いておくことは重要だが、意志決定はそれとは別のレベルのことだ。    

 意志決定は個別者が行う。これを私は認める。しかしこのことはヘーゲルのように君主制度の擁護には必ずしもならない。どのようにトップを決めるかは別のことだからだ。それは民度や外的状況などによってきまる。
国家とは別の話になるが、人の中には意志決定ができない人、できない場合がある。その時には、外的に意志が与えられるしかない。それもまた個別的な意志でなければならない。多くは親の子どもへの干渉であり、大人になっては占いなどがそうだ。国家でもそれができない段階では神託で決めたりした。そうした外的な意志を内面化したのは、ソクラテスだとヘーゲルは言う。それが彼のダイモンだ(534ページ)。

(4)世論 §316から§318

 世論についてのヘーゲルは、リアルだ。その矛盾を突き、その二面性をおさえている。この点、マルクスはお人よしと言える。

 思想の自由、表現の自由が保障されるのはなぜか。それが真理の表現になっていくからだ。

 世論には、真理(現実社会の要求=普遍性)の現れの面と、それが個人の特殊性をまとって現れるという矛盾があり、その特殊性は独自性を主張しようとする間違った態度も含む。

 従って、それとの付き合い方は、世論の中に潜在的に含まれている真理を顕在化させるために努力すればよいことになる。

(5)国家間の争いが低レベルになる理由

 私にはかねてからわからないことがあった。国と国の争いのレベルになると、なぜにああも低級で暴力的で幼児性むき出しになるのか。例えば、アメリカだが、国内の民主主義がある程度成熟している一方で、対外的なことになると急に幼稚きわまりない行動をとる。ブッシュのイラク戦争開始のでたらめさ、その正当化の理屈「民主化する」「先行攻撃の権利」などのめちゃくちゃさ。イラクや北朝鮮のめちゃくちゃもひどいが、アメリカもいざとなると変わらない。

 国家間の関係が個人間の関係(契約)より酷いレベルになるのはなぜなのか。長いことこの疑問を抱えていたが、誰からも応えてもらった覚えがない。ところが、ヘーゲルはそれに論理的な回答を与えていた。初めて、私はこの設問への回答があることを知った。それが正しいかどうか以前に、他は、そもそもこうした問いを立てることがないのだ。

 国内の統一によって国家が誕生すれば、それは個体性を持つ。個体性には否定の働きが含まれるから、他の個体(他者)に排他的な関係を持つ。それが独立ということでもある(§321)。これは「排斥性」(他への攻撃性)とイコールではない。性関係、家族が閉じる理由も同じだろう。
さて、その国同士の関係はどうして極端に低レベルに落ち込むのか。「諸国間の契約内容は、相互の独立した特殊的意志(恣意=自然状態)がもとになる」。これは個人と個人の契約と同じレベル(ただし契約の素材の多様性は限りなく少ない)だとへーゲルは言う(§332)。その結果、契約よりももっとひどいレベルの粗雑な関係になる。自分たちの領土や金、自分たちの利害のことしか考えない(590ページ)。

 つまり、第1部の契約のレベルを止揚して生まれた国家なのだが、国家間の交渉になると、第1部の契約のレベル(それ以下)に戻ることになるのだ。個別性が復活してしまうからだ。
 個別性の克服の結果、またも個別性に戻る。これがヘーゲルの円環論法だ。

 国際法についても、ヘーゲルはカントの構想(国家連合による永久平和)をあざ笑う。なぜなら、自然状態としての国家の関係では、「相互の独立した特殊的意志(恣意)」がもとになってしまうからだ(§333)。その結果は、戦争だ。「戦争は、合意形成ができなかったときの、最後の解決策」。一応の解決策である。

 ヘーゲルは辛らつだ。戦時国際法のヒューマニズム的な理性的な外観についても容赦なく、その真実を暴く。戦時国際法の趣旨は、打ち負かした敵国をも「国家としては認める」ことにある。その結果、ヒューマニズム的な外観が生まれる。しかし、本当の理由は「他国家を認めないと、自分を認めてもらえなくなる」からだと言う(§338)。岩波の全集版では「戦争も国家間の『相互承認」が前提となっている』とする(614ページの注151)

 以上がヘーゲルの国際関係論である。それは個別性という概念を徹底的に展開したものだ。これが論理的に考えるということなのだろう。 (2009年4月15日)

6月 15

昨年からゼミのヘーゲル学習会が活発になった。ヘーゲルの『精神現象学』の序言を原書で読み、『法の哲学』は翻訳で通読した。『精神現象学』の序言を手がかりにして、許万元『ヘーゲルの現実性と概念的把握の論理』(大月書店)を読み直し、ヘーゲルの本質論を再考した。『法の哲学』の「国家論」については、関連するマルクスの著作を読んでみた。

かなり収穫があったと思う。それらを、以下の文章にまとめた。?「ヘーゲルの本質論」だけは、まだまとまっていない。現在も、ヘーゲルの大論理学の現実性の箇所を読んでいるところだ。
?から?を、この順で本日から発表する。

?ヘーゲル『法の哲学』へのノート 
?ヘーゲルの国家論 
?マルクスの「ヘーゲル国家論批判」へのノート 
?ヘーゲルの本質論 

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◇◆ ヘーゲル『法の哲学』へのノート  ◆◇

ヘーゲル『法の哲学』へのノート 2008年秋から09年春

昨年春から約1年かけて、ヘーゲル『法の哲学』を読み終えた。そこで考えたことをまとめておく。テキストは中央公論社の「世界の名著」版を使用した。ページ数はこのテキストのもの。

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○『法の哲学』は、「近代社会とは何か」の問いへのヘーゲルの回答。すべての叙述の前提が近代社会である。第3部3章の国家の君主制以下は事実上プロイセン国家を前提している。

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○第1部、第2部、第3部の関係
(1)第3部は(近代の)現実社会、現実の近代社会が対象だ。自由がそこに実現している社会の内実。国家、市民社会、家族のこと。そこで個人の自由、社会の自由が実現している。

ここに「個人」が出てこないことに意味がある。普通は「個人」から初めて、そこから「国家」を出す。それを媒介するために「社会契約」などを考える。ルソーがそう。ホッブスもそう。「個人」が国家の成立の前提なのだ。

ではヘーゲルではなぜ、ここに「個人」が出てこないのか。現実社会では、個人は個人として存在していないからだ。実際に存在しているのは、家庭であり、社会であり、国家だ。
ではヘーゲルの体系で「個人」とはどこにいってしまったのか。

(2)それは第1部なのだ。そこに近代社会の原理として、その成立の条件として「個人」が存在する。人格の平等=所有権として。
この意味は、それは最も抽象的なもので、具体的でない=現実に存在するわけではない
しかし、すべての基礎でもある。それからすべてが始まる。近代の概念(始まり)なのだ。

(3)では第2部とは何か
それは「道徳」となっているが、人間の外界への目的的活動と、その内的反省である内面世界を問題にしている。人間の意識の「内的二分」「内的分裂」が問われるから、幸福、「善」と「悪」、良心が問われる。

(4)この第1部と第2部が、近代の「個人」の意味なのだ。普遍的な前提としての条件(第1部)と、その内面化された姿(第2部)。
それを踏まえて、第3部で、現実社会を分析している。
第2部ではカントが徹底的な内化を完成させた。そして、カントが極論にまで進めたので、ヘーゲルはそこから一転して自由を外化した第3部を展開できたのだ。
また、内面的な自由を守るために、国家が存在するという論理も重要だ。

※こうした「立体性」があるかないかで、何が違ってくるのか。答え。ルソーのような社会契約説などが入る余地が亡くなる。

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○第1部
人格 人格の平等 個人主義
自分のことは自分で決める。僕は僕
「ボクのもの」が守られること(「所有権」の保障)が、「ボクはボク」であることの保障
※これは唯物論的。経済が精神を保障する

この所有権を否定し、家族を否定し、国家も否定したのが、社会主義・共産主義。
それがいかに根源的な否定だったかがわかる。しかし、それは単純な否定でしかなく、否定の否定にはなっていないのではないか。それで近代社会を止揚する可能性があったのだろうか。

○国家を否定し、または無視や軽視する人
一部の文化人は、国家を語らず、国家を敵視する。
しかし市民社会の上に国家が存在している。これは事実である。
実際に、社会への絶対的権力として機能している。
国家否定論の安易さは、この厳しい現実を直視していないからではないか。

○ヘーゲルのリアルさ、現実感覚
ヘーゲルは理想論をしていない。事実、そうなっていることを示し、その説明をしようとしている。
国家と宗教との関係で特に、リアルなことがわかる。
マルクスの「宗教は阿片だ」とのえらい違い
ヘーゲルが受け止めた、国家成立の重さを、マルクスはきちんと受け止めているだろうか。

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○概念の生成史と展開史の区別の観点から
 ヘーゲルの時点では、近代社会が生まれてまだ50年から100年。展開史にはまだならない。
 それを書けるのは我々。その後、資本主義社会を止揚すると唱える社会主義が生まれ、逆にそれが止揚されて、今の「資本主義社会」が生まれた。工業化社会から情報社会に移行し、豊かになり、フリーターやニートが急増している現在の時点で、明らかになってきた近代の意味(本質)があるはず。 

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○選択の問題 なぜ選択ができないか (「緒言」より)
 先生、友、恋人。進路・進学の問題。仕事(フリーターやニート)の問題
選択とは、他の可能性のすべてを捨てること。すべてを捨てる覚悟がないから、一つを選ぶこともできない。
5節から7節の展開でわかる。すべてを捨てること(5節の意志の普遍性)ができない人間は、一つを選択(6節の意志の特殊性)できず、意志の自由(7節の意志の個別性)まで進めないのだ。
12節から16節でも同じ問題と関係する。フリーターの望む自由は15節と同じ抽象的自由だ。しかしこれは多くの大人たちが望むものでもある。すべてを捨てる覚悟がないのだ。
 
○意志(の自由)の3契機
 第5節 3契機のその1 普遍=絶対的抽象=無規定=悟性の自由=否定的自由
       純粋な自己反省             フランス革命
第6節 3契機のその2 特殊化=対象を規定する=現存在に踏みいる
        =普遍(第1の抽象的否定)の否定
 第7節 3契機のその3 個別=意志の自由
  意志は始めから主体ではない。運動そのものであり、その結果。
   【追加】自由=多のものの内にありながら、しかも自分自身のもとにある

○12節から16節
 第12節 意志の決定 (選択を)決定する=個別性の形式を与える=現実性
    外に現れる
 第13節 意志決定の形式的抽象的自由(知識の有限性)
  意志決定によって意志は個人の意志、外と自分を区別する意志として自分を定立する
  【追加】無限(抽象的普遍)を捨てて、有限となる
 第14節 選択の可能性
 第15節 恣意=偶然性=(普通の人が考える「自由」)
   反省哲学(カント、フリース哲学)の批判
 第16節 無限進行=偽の無限
    選択したものを放棄することもできる

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○善と悪について  136節から140節。特に139節、

人間には内的二分が起こり、すべてを内面化・主観化・特殊化することができる。
この時、すべてが仮象として現れる。すべてが特殊性(悪の可能性であり、善の可能性でもある)として現れ、それが発展して、その真の姿としてのみ善が現れるのだ。その段階で、善と対立する悪もはっきりと現れる。
この過程を経ずに行われる「善」。つまり抽象的悪と対立した善は、抽象的善でしかない。形だけの善、世間の善を外見上行うだけ。
善と悪との両者を、その生成から転化までを視野に入れて見るべき。
大きな悪、根源的な悪(の可能性)からこそ、巨大な善は生まれる。
悪の中に善がある。悪ナシで善はない。その上で、善から悪への転化も起こる。
定義としては、絶対的普遍性=善、特殊性=悪と分けられるが、それは結果であって、最初から両者の区別が立てられるのではない。
悪(特殊)をくぐらずして、善はない。
自己の特殊性(悪の可能性)を生かすことが、社会全体(普遍性)のためになることを理解していく過程で、善は実現していく。最初からエゴや特殊性を放棄することで、実現するのではない。
むしろ徹底的なエゴの主張、特殊性へのこだわりの中にこそ、善や普遍的な意志の実現の可能性がある。