◇◆ 人はいかにして自立できるか ーマルクスの「思想的履歴書」ー ◆◇
『経済学批判』の「序言」を読み、これはマルクスの「思想的履歴書」だと思った。
人間はいかにして自立できるのか、つまりいかにして自分の思想を作り、それを生きることができるのか。その「問い」への見事な回答になっている。
回答はこうだ。まずは、1自分の生活から問題意識(テーマ)を持ち、2その問題を解決する観点から先生を選び、先生から徹底的に学び、3最初の問いへの答え(自分の思想、自分の立場)を出す。
これが思想の生成過程。しかし、この段階では、まだそれは芽でしかない。その後、その答え(自分の思想、自分の立場)を様々な課題に応用して具体化していく。これが展開過程。このようにして人は自分を作ることができる。これはヘーゲルの発展の論理を、個人の成長過程に具体化したものだ。
「序言」は以下の構成になっている。
1) 導入部
2)問いが明確になるまで
3)先生を選び学んだこと
4)問いの答え(唯物史観)を出したこと
5)答え(唯物史観)の詳しい説明
6)一応の答えを出してから、さらに研究を進めて『経済学批判』を出すまで
2)が1問題意識(テーマ)を持つ過程。問題とは、法律の問題と経済の関係はいかなるものか。当時の社会主義、共産主義をどう理解したらよいか。
3)が2その問題を解決する観点から先生を選び、先生から徹底的に学んだ過程。
4)が3最初の問いへの答え(自分の思想、自分の立場)を出したこと。
5)で、定式化された唯物史観、完成された唯物史観の説明をしている。しかし、時間的には、完成は後のことであろう。最初に生まれたのは、唯物史観の芽でしかない。それをその後、さまざまなライバルたち、論敵に適応して論争し論破する6)の過程で具体化していったものだろう。
2)から4)が思想の生成過程であり、6)が展開過程に当たる。
こう見てくると、この序言は、思想を持って生きる上での模範的な過程ではないだろうか。ただ、マルクス自身はそれを自覚していなかったようだ。
3)では、ヘーゲルを先生にして学んでいるが、この意味をマルクスは語らない。なぜヘーゲルだったのか。それが過去の最高のレベルのものだからだろう。ここで先生を選ぶことの意味、この過程こそが「発展の論理」の具体化だということを指摘できなかったのは、残念なことだ。
マルクスにそれができなかった理由の一端は「ヘーゲル哲学は本当に『観念論』だろうか」に述べたことにあると思う。
マルクスは、人が自立するための問題と回答を、自らの経験から語りながら、その意味を十分に自覚できず、それを一般化して定式化し、人々に示すことができなかった。本当は「自分を見習って、みなさんも学び、生きるように」提案するべきだった。特に共産党員には、その幹部には、それを強く求めるべきだったし、直接の指導をすべきだっただろう。
マルクスに代わり、この意味を明らかにしたのが牧野紀之の「先生を選べ」である。
(2010・2・2)