9月 11

『良い社会をつくる公共サービスを考える』から学ぶ                   (1)今の時代の課題を考える
 (2)「守り」と「ごまかし」
 (3)時代を発展的にとらえる
 (4)社会民主主義的政策と「社会的排除」
 (5)市民運動の4分類         
    
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(1)今の時代の課題を考える

 『良い社会をつくる公共サービスを考える 
  ?財政再建主義を超え、有効に機能する「ほどよい政府」を?』。

 この長ったらしいタイトルの文書は、「公務公共サービス労働組合協議会」
(自治労、日教組、国公連合などが参加)の提唱で設けられた
「良い社会をつくる公共サービスを考える」研究会の報告である。
この報告書はインターネットに全文公開されている。
http://www.komu-rokyo.jp/kokyo_campaign/final_report/final_report2.html

 今回この文書を取り上げたのは、今の時代の課題を考えるためだ。
そもそも今の時代を考えるためには、以下の4点を踏まえる必要があるだろう。

 1.高度経済成長、東西冷戦が終わり、グローバル化した資本主義が全体を支配している。 
   では、高度経済成長、東西冷戦とは何だったのか? どんな意味があったのか?
 

 2.今のあらゆるシステムは、高度経済成長、東西冷戦の下で作られてきた。
   では、どの制度、システムが、高度経済成長、東西冷戦と
   どのように内的に結びつき、発展してきたのか?

 3.古いシステムを次の時代、社会へ向けた新しいシステムに切り替えていかなければならない。
   では、このためには、新たな社会がどのような社会であり、
   そのためには、どこをどう変えなければならないのか? それはなぜか?

 4.この1?3の結果、日本では80年代のバブル、90年代のバブル崩壊からの不況が続いた。
   それへの対策として、小泉改革の新自由主義的政策が行われてきた。

 1?3の事実認識は、すでに多くの人々に共有されている。
それらに対する1つの回答として小泉改革があったのだから、
その批判(良い点も、悪い点も)をする際にも、根底には
この1?3に対する別の回答が用意されなければならないはずだ。
その別解の深さと広さによって、小泉路線を全面的に克服できるか
否かが決まるだろう。

 小泉路線の批判としては「格差拡大」「弱者切り捨て」をみなが言うが、
「規制緩和」「小さな政府」「民営化」「財政再建」などでは
それぞれの立場が揺れ動いている。誰もまだ、小泉改革の総括を
できていないと思う。自民党の小泉改革路線は
「自民党をぶっこわす」結果を生んだし、民主党の一部は
それを支持していたことを忘れてはならない。本来は民主党も、自民党も、
小泉路線の総括をきちんとすべきなのだ。民主党がそれをしないまま、
マニュフェストを出したことは欺瞞そのものだった。

(2)「守り」と「ごまかし」

 さて、この『良い社会をつくる公共サービスを考える』だが、
この文書の目的は、小泉政権の新自由主義、新保守主義や、
財政再建路線を批判し、公共サービス部門においての
具体的代案を提示することだった。メンバーには、小泉改革への
反対の立場として有名な学者名が並ぶ。北大の宮本太郎、
東大の神野直彦、佐藤学、京大の間宮陽介などだ。
それは一言で言えば、ヨーロッパの「社会民主主義」の立場のようだ。

 さて、ではこの文書は、小泉路線の総括ができたか。
それを全面的に克服できただろうか。否。個々に正しい指摘があっても、
全体としてはレベルが低いし、リアルではなく
問題の深さに届いていない。これでは、小泉・竹中路線には
到底かなわないと思った。

 第1に、時代の波に乗って「攻め」立てた小泉に対して、
この文書は依然として「守り」にまわっている。
時代から突きつけられている問題から逃げ、誤魔化している。
つまり、長く続いた東西冷戦が終わり、社会主義陣営が崩壊し、
資本主義の勝利が明らかになった意味を語っていない。

 今や時代は高度成長や東西冷戦から、次のステップへと高まった。
すべての世界が基本的には資本主義の原理の下に、一律の競争社会に
突入したのだ。小泉は、この現実の上に、新自由主義的な政策を
推し進めた。だからこそ支持されたのだ。

 これに対する代案として、社会民主主義的な政策を言うのなら、
先ずは、社会主義敗北の原因、そのどこがどう間違っていたのかについて
きちんと説明し、その社会主義と自らの立場の異同を明らかにするべきだろう。
それが全くない。それでは説得力が出てこないだろう。

 第2に、言葉のごまかしが多い。現実を直視せず、
対立・矛盾を見られていない。一言で言えば、「きれいごと」なのだ。
自分たちに都合の良いことだけを言う。

 例えば「自立した個による連帯として、国民が社会形成に参加する
連帯民主主義」(総論)と言う。この文書では他にも、
「市民」による「民主主義」の提唱が多い。それを疑う文言はない。
しかし、ここでの「市民」「個」「国民」とは何を指すのだろうか。
とても曖昧で、抽象的で、ほとんど無意味な規定だ。
階層格差が拡大し、「市民」「国民」内部の利害対立が進む中、
こうした言葉で、リアルに物事を語れるのだろうか。

 例えば、この報告では底辺層支援の政策である「ミニマム保障制度」について、
中間層からの批判があることを指摘する。その上で、
中間層自体にも底辺層への転落のリスクが大きいことが、
合意形成の可能性の拡大になると言う。しかし、そうしたリスクの大きさが、
中間層からの底辺層への差別意識を一層強める可能性もある。
そうした掘り下げが極めて弱いのだ。

 また、ここでは「民主主義」を声高に語るが、その矛盾、
つまり「人格の平等と能力の不平等」には触れない。
この「能力」の問題を正直に語らないで「教育」を語るのは
欺瞞ではないか。この「能力」の低さが、
社会主義が敗北した原因の一つではないか。
また、「ほどよい」とか「小さくも大きくもない政府」とか
と言った文言は、いかにも曖昧である。

 それに対して、小泉・竹中路線は「社会主義が負けて、
資本主義が勝った」という事実を踏まえている。その上で
「格差の何が悪い」「人生イロイロ」と言う。
そこにはリアルな現実を踏まえたあけすけな本音がある。
レトリックなしの、むき出しの正直さがある。
これが国民に支持された大きな理由ではないか。
東西冷戦下では、両陣営ともにタブーがあり、
そのことにはみなが薄々は気づきながら守っていた。
小泉はそうしたタブーを打ち破った。
だから小泉は不思議なまでに明るい。彼は「今太閤」だったと思う。

 これに対して、この文書には、あからさまに裏が見える。
昔ながらの陰険な党派性(左翼であり、組合寄りである)が
隠されている。役人、労働組合の問題の掘り下げが弱すぎる。
これでは、小泉の単純明快な発言に、到底勝てないだろう。

(3)時代を発展的にとらえる

 小泉路線を真に超えるには、時代を発展的にとらえ、
社会主義の崩壊も、新自由主義や新保守主義も、
その中に位置づけねばならないだろう。しかし、
この文書の研究者たちにはその能力も問題意識もない。
だから、小泉路線に自分たちの考えを平面的に対置しているだけなのだ。

 総論の2?4で、20世紀全体の「社会構造の変化」が
まとめられているが、表面的で一面的なものだ。

 20世紀の捉え方の根本的なことに関して、私見を述べておく。

 まず、産業構造の変化、
1次産業→2次産業→3次産業(サービス)→4次産業(情報産業)を
発展、能力の高まりととらえるべきだ。

 1次産業から2次産業までの転換では、それほど高い能力が
必要だったわけではない。工業労働に必要だったのは
「読み書きそろばん」の能力で、それは文盲が多い社会では
非常に高いものだが、絶対的にはそうではなく、
普通の「学校教育」で達成できるレベルのものでしかなかった。
その絶対的には「低い」能力のレベルではあるが、
そのレベルでそろっていることが重要だった。その意味では均一で
画一的な能力と、その人材が必要だった社会。
これが高度経済成長下の「中流社会」だ。

 しかし、経済の中心が2次産業から3次産業、さらに4次産業へと
高まるにつれて、要求される能力も高まり、当然ながら格差が
開き始める。格差が開くのは、求められる能力が高まることからの
必然的な側面がある。したがって、「格差の問題」を解決するためには
すべての人々の能力を高めることが必須であり、「教育」が課題となり、
一人一人の能力を高める学習が必要になる。
しかし、佐藤学が言うように、それを従来の学校教育が
指導できるとは思わない。それは、教員や生徒自身が
現実の問題や課題と取り組むことでしか、学べない能力ではないか。

 また20世紀の政治・経済を本質的に理解するには、
社会主義と資本主義の相克を理解する必要がある。
なぜ両者の戦いで、資本主義が勝利したのか。
一言でいえば、社会主義は平等主義(性善説)、
資本主義は能力主義(性悪説)だったからだ。

 2次産業までなら、社会主義がやや優位だった。
しかし、3次産業以降へと移行するときには
平等主義では乗り越えられず、能力主義がどうしても必要だった。
人間には限りない欲望、エゴなどの悪の側面があるのだが、
それを抑圧するのではなく、それを肯定し、それを成長や
社会発展に役立てる必要がある。そうでないと、
このレベルの能力の獲得は困難だからだ。これが「個性」と関係する。
その後ろには、人間内の「悪」の側面の理解の深さが必要だ。
性悪説の立場である。

 わが日本ではどうだったか。実際には能力主義が一部で
機能していたのだが、「建前」の平等主義や性善説で、
それを覆い隠してきた。それが「悪平等」社会の実態だ。
しかし、今、この矛盾を直視するべきなのだ。
建前の平等主義と本音の能力主義の分裂は、無自覚なゆえに、
またタブーになってきたゆえに、混乱を呼んでいる。
建前の「性善説」を乗り越えて、現実的な「性悪説」の立場に
立った社会と生き方を確立する必要があるのだ。

 もし、今、社会民主主義(大きく言って社会主義的政策)を
求めるのならば、19世紀からの社会主義の歴史を振り返り、
その発展と、その限界を明らかにしたうえで、
その克服を示さなければならないはずだ。

(4)社会民主主義的政策と「社会的排除」

 以上、この文書への根本的な批判を述べたが、もちろん、
学んだことや、参考にしたいことはある。

 第1に、アメリカ流一辺倒の小泉路線に対して、ヨーロッパの
社会民主主義的政策を紹介したのは大きな意義だし、
福祉国家の行き詰まりの分析と、その克服の試みからは学ぶことはある。
高度成長の過程で、地域が崩壊し、家庭内の女性が社会で働くことにより、
介護や育児などのサービスが彼女たちによる無償労働から、
労働市場へ投げ出される中で、社会からの現物支給が
必要になったという側面、つまり女性の自立や家庭の問題を提起し、
現金支給ではなく現物支給が有効であることを指摘している。

 また、第2に、西欧流の「社会的排除」への対策が、
小泉流の「官から民へ」「小さな政府」「財政削減」路線と
一致するように見えること。「地方自治」「自立と自己責任」など、
表面的には同じ言葉、同じ政策でも、正反対の立場から論じられ、
行われているという事実。

 そもそも、小泉路線自体に根本の矛盾があった。
それは新自由主義と新保守主義の矛盾だ。個人的競争を
あおればあおるほど、協同的な社会は壊れる。そこで、
それを愛国心や公共性といった道徳や理念でカバーしようとする。

 この矛盾が、より大きく、小泉路線の支持勢力と反対勢力が、
同じ局面で対峙しているのが現状なのだ。
だから、社会的事業や政策を評価するときの立場の矛盾がある。

 ┏「財政削減に役立つ」として評価する立場(小泉路線)
 ┗「弱者救済(自立への支援)に役立つ」として評価する立場(本書)

 すべてにこの対立がある。今、この指摘は重要だ。
 自民と民主の政策は、表面的には区別が見えない。

(5)市民運動の4分類

 第3の収穫は、ここで示された市民運動の4分類だ。

 【1】相互扶助・社会的自助型(子育てサークル等)
 【2】市民事業型(介護サービス、ワインツーリズム等)
 【3】政策提言型
   ・市民シンクタンク型→政策提言
   ・ネットワーク型→情報提供・経営支援・市民組織ネットワーク
 【4】市民資金・市民基金型(市民の資金を循環。市民事業型に資金提供)

 このように、市民運動全体をおさえると、全体の現状や
自分たちの位置づけが見えてくる。例えば、ワインツーリズムは【2】だが、
その枠内で、【2】市民事業型から【3】政策提言型への
発展の芽があり、それが今回の笹本さんの政治活動ではないか。

 今後は、まずはこれら4つの横の連携が必要だろうが、
特に【2】「市民事業型」と【3】「政策提言型」の連携を強めて、
山梨県内で新しい公共サービスの強化を図ってゆきたい。

 この【3】「政策提言型」は、実は、私が提案した「学習会」中心の
政治運動と関係する。この提言では【3】について、
今は市民の政策過程への参加が求められているとして、
自治体議会に市民が参加する「政策提案制度」などを求めている。
しかし、現状の市民に政策提案の能力があるだろうか? 
単に制度だけつくっても、お飾りのアリバイづくりになってしまう。
これを実際に機能させるには、市民自身の学習が必要なのだ。

 それをやるのが、私の提案している「学習会」中心の政治運動だ。
これは政策提言をするが、それをしながら、参加者自身の能力を高め、
認識を深めるのだ。そして、これに成功できれば、それをモデルとした
「政策提案制度」を提言できるだろう。今後は、議会のシステムの中に、
こうした学習会を組み込んでいくべきなのだ。

 実際に、「政策提言型」の市民運動が存在し、議会に「政策提案制度」が
生まれ始めているという事実は、私の学習会中心主義の現実的な根拠となる。
私は理念から方針を述べたのだが、それが現実に
深く根ざしたものでもあったことが、後から裏付けられた。

 また、行政の政策の評価が必要であるから、補助金の事後評価が必要だ。
しかし、こうした評価は確立できていない。従来にはなかった
モデルなのだから、行政にそれを求めるのは無理であり、
自らがワインツーリズムの自己評価を行い、
評価モデルを具体的に示すべきなのだ。

 また、この提言から、「報告書」の形式を学ぶことができる。
私たちは学習会で学んだことをもとにして、政策を実際に作り、
それを笹本さん自身の政策とするのだが、それはパンフだけではなく、
「最終報告書」の形でまとめるべきだ。つまり、総論と各論からなる形式だ。
しかし、この提言では、きれい事ですませ、現実の矛盾をごまかしている。
私たちの最終報告書では、リアルな本音のあるものにしたい。

 私たちの学習会では提言2に関連して、学校教育の課題も話し合った。
学校の先生自身の教育は、研修制度なのではなく、子供たちと
地域の人たちと、地域の課題に取り組むことなのではないか。
また、提言4では行政職員に求められる「コーディネート機能」に
ついて述べているが、一方で地域に出て、問題を見て、
現場の人々と共にそれを解決する行政マンが必要だが、
他方で、市民側も行政マンと組んでゆかないと、何も動かせない。
行政に情報が集中しているからだ。

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