3月 20

人間の平等の根拠は何だろうか。

西洋では、キリスト教の「神の前での平等」が根拠となっていると聞いたことがある。
本当だろうか。

加藤周一の「近代日本の文明史的位置」ではそうして前提での議論が行われた。
こうした議論がずっと気になっていた。
読者のみなさんはどうお考えだろうか。

私も、この問いを抱えて、考えてきた。
やっと自分なりの考えがまとまってきた。それを公表しておきたい。

■ 目次 ■

人格の平等の根拠  中井浩一

1 人間の平等
2 平等の根拠としてのキリスト教 ?加藤周一の「近代日本の文明史的位置」? 
3 失楽園の物語
4 人格の平等の根拠は意識の内的二分にある
5 加藤周一とは何者か

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人格の平等の根拠  中井浩一

1 人間の平等

 人間は相互に平等であるということは、今では当たり前になっている。
これに正面から反対することは難しいだろう。それは差別主義者として批判される。
しかし、多くの人が本音では、その反対のことを意識している。「女はしょせん?」とか
「田舎者は?」とか「家柄や育ちが大切」とかは普通の意識であり、したがってそうした見解は
しばしば表現され、外化される。出自や階層、地域や民族間の差別意識なども一般的だろう。
ヘイトスピーチはそれが露骨に外化したものだが、もともと内にあるから外に出てくるだけだろう。
普段は抑圧しているだけなのだ。
歴史的には、人間が対等であったことはなかった。常に奴隷が存在したし、今でも人身売買が
公然と行われている。人間の普遍的な権利として政治上の平等が主張されたのは、フランス革命、
アメリカの独立宣言が始めである。その後、それがどこの国の憲法でも保障されるに至っているが、
それは建前であることが多い。政治上の平等だけではなく、経済上の平等も求めるのが社会主義運動
だったが、それは破綻し、資本主義内で格差が広がらないようにという程度に、その欲求は押さえられている。
さて、人間の平等、政治上の平等、経済上の平等を基本的な人権とする考えは、
一体どこに根拠を持つのだろうか。ただの理想で、実現は無理なのだろうか。
しかし、それが理想とされるには、それなりの根拠がなければならないはずだ。それは何か。

2 平等の根拠としてのキリスト教 ?加藤周一の「近代日本の文明史的位置」?
 
人間の平等の根拠としてキリスト教を挙げる人たちがいる。神の前の平等、神との関係における平等は
キリスト教で確かに謳われてきたことであり、それが社会的に一般化した権利として平等を考えるのだ。
たとえば、加藤周一の「近代日本の文明史的位置」である。加藤は人間の平等の根拠を問題にし、
それを日本と西洋との比較から考えている。
加藤によれば、西洋での民主主義(人間が平等であるという意識)は、個人主義を前提とし、
「その個人主義の歴史的背景は、人格的で同時に超越的な一神教である」。「人間が平等であるという
考え方は、自明の事実に基づくものではない。社会的経験は、むしろその反対を暗示している」。
そして「神との関係において、人間は平等であるという以外に、平等の根拠がない」と言う。
つまりキリスト教の「神のもとでの平等」、「神と個々人の関係の絶対性」に、平等の根拠を見ているらしい。
その上で、日本人の意識を問題にする。「日本の大衆の意識の構造を決定した歴史的な要因は、
明らかに超越的一神教とはまったく違うものであった。西洋での神の役割を、日本の二千年の歴史の中で
演じてきたのは、感覚的な『自然』である。その結果、形而上学ではなく独特の芸術が栄え、
思想的な文化ではなく、感覚的な文化が洗練された」。
平等の根拠が、日常生活の直接の経験のレベルには存在しない以上、それを超える価値を生み出せなかった
日本人に、平等の意識は生まれないのではないか。それが加藤が問う問題である。
加藤はその困難さを受け止めつつも、「われわれの側に主体的な要求のあること自体が、半ば、その可能性を
証明しているのだ」としてこの文章は終わっている。平等を求めるのは人間の根源的な欲求だとしているのだろう。
しかし、その根拠は示されない。
このテキストは60年以上も前の1954年の文章である。しかし、こうした議論は、今も続いているのではないか。

3 失楽園の物語

加藤周一は、キリスト教が人間の平等の考えを生んだと推測する。しかし本当は逆なのではないか。
人間が人間としてこの世界に現れた時、すでに人間の平等の根拠が事実として存在していたのではないか。
そして、それを自覚していく過程の中から、ユダヤ教が生まれ、キリスト教も生まれてきたのではないか。
人間が人間としてこの世界に現れた時、すでに人間の平等という根拠が存在していたとは、どういうことか。
人間が人間として現れた時、つまり他の動物の1つ上のレベルの存在として新たな種として人類が生まれた時に、
すでに人間は潜在的に平等であり、それ以外にありえなかったのである。それは人間を他と区別する
人間の本質とは意識の内的二分にあったからだ。
意識の内的二分とは、意識が分裂し、自己意識と他者(対象)意識が生まれたことを意味する。
それは外の自己と他者(対象)とを区別することであり、同時に内的に意識内が分裂し、
意識内に自己と他者(対象)への分裂が起こることである。
もちろんこの分裂は分裂に止まるものではなく、その統合への活動を引き起こし、それが人間社会を
発展させてきたのである。これが思考、善と悪との始まりであり、目的意識と労働、社会意識の始まりである。

旧約聖書の創世記の失楽園の物語を思い出していただきたい。神は土くれで人(アダムとイブ)をつくり、
エデンの園においた。アダムとイブは裸だったが、恥ずかしいとは思わなかった。神はエデンの園に
あらゆる木を、園の中央には生命の木と善悪を知る木を生えさせた。神はアダムに命ずる。
「園にある木の実は何を食べても良いが、善悪を知る木の実は食べてはならぬ。それを食べたら死んでしまうから」。
 ところが、ヘビに誘惑されたイブは善悪を知る木(の実)を食べてしまい、
ともにいたアダムにも与えたので、アダムも食べた。すると2人の目があき、自分たちが裸であることを知った。
2人は恥じらいを知り、いちじくの葉を腰に巻いた。
神は、2人が善悪の木の実を食べたことを知る。神はイブに呪いをかけ、出産と生活に苦しむようになると言い、
神はアダムに呪いをかけ、土地を耕すことに苦しむようになると言った上に、「おまえは土くれだから土に帰る」
と言う。そして神は「人がわれらのようになった。今にも人は生命の木の実も食べて永遠に生きるかもしれないと言い、
人をエデンの園から追放した。
これが人間が善悪を知り、呪いを受けるとともに、神のようになったという物語である。
これがユダヤ教の人間観なのだ。
この神話では、善悪の知識によって、人間がまず最初に恥を知ったことが強調される。
この恥こそが、人間の意識の内的二分によって生まれたものなのだ。
恥とは自己意識の分裂が生みだしたものだ。それは他者の視線を意識し、他者から見られる自分を意識する。
それは外界に自分と他者の区別が生じたことであり、それは同時に自己内に見る自分(他者)と見られる自分
との分裂が起きていることである。ここに人間の平等の根拠があると、私は考える。

4 人格の平等の根拠は意識の内的二分にある

意識が自己意識と他者(対象)意識に分裂し、意識内に自己と他者の両者が意識される時、
この両者は意識内では対等に並ぶことになる。これが「特殊」であり、特殊は特殊に対して、同格であり、
対等である。これは同時に、外の他者と自己とが対等に並ぶことでもある。
その分裂は、もちろん分裂のままにはとどまらない。見る自分(他者)と見られる自分との分裂が正しく
統合されると、自己相対化が起こり、自己理解が深まっていく。
特殊が特殊として同格でただ並ぶだけの段階から、この特殊性を超えて、全体をとらえた時に、
普遍、類がとらえられ、それが人類である。
そこには特殊と普遍の分裂があるのだが、この分裂から、人間の本質と、自分の特殊性とをともに意識して、
自分は人としてどう生きるかが問われ、その答えを出した時に、それが個別である。
これがヘーゲルが普遍、特殊、個別、の発展として考えていることだろう。

こうした全体の過程の中で、特殊の段階としては自己と他者のそれぞれが、特殊として相互に同格であり、
対等である。ここに、人格の平等の根拠があるのではないか。
そしてここから対等な関係である「契約」という意識が生まれ、人間と神との関係すらも、
この「契約」としてとらえるユダヤ教が生まれ、神と人との契約関係から、すべての人間同士の平等の自覚が
明確になっていったのではないか。こうした前提の上に、キリスト教は成立している。
以上を考えてくると、人間が人間としてこの世界に現れた時、すでに人間の平等という論理が存在していたと、
私には思われるのである。それはキリスト教から生まれたのではなく、逆にキリスト教の基本の原理を生みだした。
そして人間の平等は、西欧とか、キリスト教とかに関係なく、すべての人類に共通する普遍的な関係性
なのではないだろうか。どのような歴史的背景や精神的背景があったかには関係なく、
人がある自覚の段階に達すれば、必ず意識され、自覚されていく原則なのだ。
それは人間の本質である自己内二分から必然的に生まれてくるからだ。

5 加藤周一とは何者か

加藤周一を例として取り上げたので、最後に加藤の評価について触れておく。日本では加藤の評価は
大きく二つに分かれるようだ。一方には加藤を「知の巨人」として持ちあげる人々がいる。
他方で、ただのデイレッタントとして低く見る人々もいる。
 加藤にはその視野の広さと認識の深さがある。西洋と東洋の対立、そのキリスト教理解、宗教的理解の的確さ、
日本文化への見識。この幅と深さのレベルに達している日本人は少ないのではないか。したがって、
こうした意味で、加藤は評価されるべきなのだ。しかし、それ以上に持ち上げるのもおかしい。
 加藤周一の真価は、その問題提起、問題の把握の仕方にあると思う。どうでもよい問題ではなく、
根本的で根源的な問題をつかめたこと、そのつかみ方でも明確な対立・矛盾を示すことができたことが
その優れた点だ。今回取り上げた問題提起がまさにそれだと思う。
加藤の限界は、自分が提起した問題の本当の解決、本当の答えには到達できない点ではないか。
対立、矛盾を示すまでで、それを超えることができない。ヘーゲル的に言えば、彼は悟性のレベルにとどまり、
彼ができることは対立と矛盾の提示に止まる。その解決は彼の役割ではない。
加藤のこの両面をしっかりと理解していれば、加藤周一を有効に活用できる。その問題提起は大いに参考になる。
その答えは不十分だから、自分で代案を出せばよい。

(2016年7月11日)

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