8月 05

中井ゼミの5月の読書会では、私の『現代に生きるマルクス』をテキストにしました。

 この本は、現在の私の持てる力のすべてで、マルクスと勝負した結果であり、これまでの35年ほどの
私の研究の総決算となっています。何カ月も集中して作業をしていたために、書き上げ、刊行されてからも、
しばらくは、私自身は茫然とした状態でした。
 読書会で『現代に生きるマルクス』をテキストとして取り上げたのは、刊行した後の私の心に一区切りを
つけることが目的でした。読書会で参加者と意見交換することで、この本の意義、意味を客観的に見つめ直し
たかったのです。読書会に参加してくれたみなさんに感謝しています。
 読書会の参加メンバーには、読書会後の感想を書いてもらいました。
 この読書会の記録と、参加メンバーの感想を、発表します。

 本日は読書会の記録、明日には参加メンバーの感想を掲載する予定です。

■目次 

読書会の記録
テキスト:『現代に生きるマルクス』中井浩一
記録者:松永奏吾
読書会日時:2022年4月24日
参加者:15人

1.参加者の読後の感想
2.全体
3.存在は運動し、自らの本質を現わす。だから認識はそれを見ているだけで良い(第二章)
4.マルクスの人生(第三章)
5.若きマルクスの闘い(第四章)
6.唯物史観(第五章)
7.読書会を終えての感想

========================================

〇=参加者の発言  ●=中井さんの発言

1.参加者の読後の感想

〇これまでばらばらだったマルクスが、この本を読んで全体が整理された。
マルクスがヘーゲルを理解するための具体例になった。
たとえば、下部構造が上部構造に止揚されるということは、上部に責任があるという意味だと理解した。
自分自身については、「発展」の理解。低レベルの当為で存在と一致するのではなく、
高いレベルの当為と存在を一致させるために、自分の認識能力をあげなければならない。(Aさん)

〇六章で、マルクス自身が自覚できていないことを中井さんが明らかにしているところがすごいと思った。
「問い」を立てて答えを出すことの重要性を思った。(Bさん)

〇マルクスに寄り添って書かれている。特に、1848年の革命の失敗の話と、人権宣言のところが、
マルクス自身にとってどういう意味をもっていたのかという視点で書かれていた。(Cさん)

〇四章が大きく響いた。中井さんが畳みかけるように、マルクスがフォイエルバッハとヘーゲルのつぎはぎに
なっていることを問題にしていた。また、自分の階層の自覚ということ、自分の限界の自覚ということが
どうすれば可能なのかが自分の課題としてある。(Dさん)

〇三章から四章で、マルクスの革命運動の失敗後の絶望を思った。二章で、ほんとうに「終わり」を終わらせる
ことのできる人というのは、認識の主体性が必要なのだと思った。(Eさん)

〇最近、他者がない感覚がある。他者を見てもその中に自分を見ているだけ。
六章に「自己の内部の自分を超えるもの」と書いてあったところが響いた。
また、六章に「人間の無意識に踏み込んだのが唯物史観」とあったのが参考になった。(Fさん)

〇発展と発展でないものが対比して書かれていて、ヘーゲルを学ぶ媒介としてマルクスは有り難いと思った。(Gさん)

〇今自分の生き方を白紙にしているところ。自分の心からやりたいこと、社会の発展につながるものを考えるヒントになった。
また、前回の読書会で問題になっていた、個人がどこから生まれるかということも引き続き問題になっていた。(Hさん)

〇私有財産の問題を考えた。山林管理の仕事をやっているが、山の所有者が個人の勝手で何もしないと
地域全体の問題になる。この問題を発展の契機として次に何をすればよいのか、考えている。(Iさん)

〇はじめに、四章の5、五章の5に感銘を受けた。一、なぜ売春は禁じられるのか。
これは社会が向き合っていない問題。二、思想は人の生死にかかわり、能力のない人がやると問題になる。
誰がやれるのか。三、「宗教は究極的には終る」とあるが、いつか。(Jさん)
●宗教の終わりはとうぶんない。数千年はない。しかし、終わりが何かということは、はじまりが何かと同様、
考えないわけにはいかない。

〇七章が響いた。しばらく学習から離れていたのでまとまったことは言えない。(Kさん)

〇山梨で地域資源をどう活かすかをテーマに仕事をしてきたが、11年経ってようやく経営が安定してきたので、
今後どうするかという現在、また学習を再開しようと思っている。(Lさん)

〇難しかったが、四章の「鶏鳴学園の実践」のところではじめてストンときた。(Mさん)

〇マルクス主義、社会主義、共産主義といえば、毛沢東、スターリン、ポルポトなど、非常にイメージの悪い人ばかりで、
あの人たちのことが頭に浮かびながら読んだ。彼らはなぜああなったのかということを考えながら読んだ。(Nさん)

2.全体

●今回の本は、マルクスに徹底的に「寄り添って」書いた。
マルクスの思想を内在的に理解すること、生成の必然性を示すことを心掛けた。特に三章。
こうした内在的な理解がなければ、マルクスを超えることはできないと思っている。
●本書で最重要なのは、二章と四章。
二章は存在論と認識論の捉え方について、中井の「足場」となる思想をはっきりと出した。特に、二章の3の(5)。
四章はマルクスを根源的に捉えて超えようとしたところ。
●マルクスを理解しマルクスを超えるためには、ヘーゲル哲学の理解が必須。(はじめに)
●マルクスの唯物史観は、人間が無意識に「前提」としていることを問うものだった。(はじめに)
●1960年代70年代に学生時代を過ごした人間にとって、20cの世界にとって、マルクス主義、社会主義は
それに賛成にせよ反対にせよ、ひとつの「転換軸」になっていた。(おわりに)
●牧野紀之の運動が失敗したことの総括をこの本の中で中井がしなければならない。
マルクスも牧野も自分たちの活動の総括ができていない。(おわりに)
●「付論」(2010年)は、中井がマルクスから自立したと思った時点の文章。それはそのまま牧野からの自立を意味する。

3.存在は運動し、自らの本質を現わす。だから認識はそれを見ているだけで良い(第二章)

●ヘーゲルの「存在は運動し、自らの本質を現わす。
だから認識はそれを見ているだけで良い」という認識論には、「結果論的考察」、「ミネルバの梟」といった問題がある。
●われわれの中にある欲求、衝動というはじまりの中に、未来がある。
その正体を言葉にし、認識のレベルにまで高めればよい。この、中井の「欲求、衝動」というものの捉え方が、
ヘーゲル、マルクス、牧野との立場の違い。
●「見ているだけ」というのは、何もしないでよいという意味ではない。対象がその本質を現わすように
、対立矛盾を深めるように、つまり発展するように主体的にはたらきかけることが、まず必要。
それがなされたならば、対象は発展して自らの本質、概念を示す。だから、認識はそれをただ見ているだけで良い。
●ヘーゲルの「存在論、本質論、概念論」という三段階の理解がすべて。
●マルクスはヘーゲルの存在論の論理(限界、制限、当為)を使って時代の変革、社会の変革の説明をしているが、
そもそも存在論の論理で発展(概念論)は説明できない。マルクスの概念論の理解は不十分だった。
●「分裂のない一体の状態→分裂、対立→一体の状態にもどる」は、本質レベルの発展。
概念レベルでは、「対象が生まれ(古いものが崩壊し)→対象が本質を実現し(古い世界を止揚し)→
対象が完成し崩壊する(新たな世界が生まれる)」となる。
●人間の成長、発展をどうやって認識するか。人間には、存在と当為の分裂、当為の選択の問題がある。
選択の基準となるものが概念。

4.マルクスの人生(第三章)

●マルクスの唯物史観は、フランスの人権宣言に対する批判という側面がある。
その自由、平等、安全、所有の権利は、ブルジョアの権利、利己的人間にとっての権利であって、
全人類のためのものではない。マルクスの先見性。
●しかし、マルクスはそれを理解しない他の思想をすべてイデオロギーとして切り捨てた。
本来は、人権宣言の「自由」を発展のはじまりの段階のものとして位置付ければよかった。
●マルクスはエンゲルスと共同で『ドイツイデオロギー』『共産党宣言』を出した。
個人主義の克服、共同性、協同性を主張したマルクス自身の、理論と実践の統一。
●1848年の革命の失敗のあと、マルクスは堕落することなく前進した。が、その時の反省に問題があった。

5.若きマルクスの闘い(第四章)

「フォイエルバッハ・テーゼ」は20代のマルクスが、世界を相手に一人で立った文章。
●「環境が人間を作る」ことと「人間が環境を作る」ことを統合するには社会を変革するしかない(テーゼ3)。
●テーゼ4こそが最重要であり、マルクスのすごさ。
ふつうは相手の意見に自分の意見を対置するだけだが、テーゼ4はフォイエルバッハ自身の考えを発展させ、
そこから自分の主張を導出している。これがほんとうの批判。このテーゼ4から直接テーゼ6が導出され、
テーゼ4と6の対立から他のテーゼが導出される。
●フォイエルバッハの疎外論は、発展の正反対の立場。疎外論は対立矛盾をわるいものとみなし、問題を「取り除く」。
●疎外論は「根源」に戻ろうとするが、根源に戻ったら、再度そこからの捉え直しで現在の外化された現実、
現象にまで進まなければならない。対象を真に発展させるために。
●マルクスは、先生を選べなかった。ヘーゲルの発展論とフォイエルバッハの疎外論のつぎはぎになっている。
●疎外論の本丸である宗教に対して、マルクスは疎外論の枠組みでしか考えられなかった。
宗教そのものへの批判ができておらず、堕落した宗教の形態を前提としてそれを批判しているだけ。
マルクスの宗教に対する浅い理解から、マルクス主義自体が宗教に転化してしまった。

6.唯物史観(第五章)

●唯物史観の最大の問題は、それを「能力」の問題として見ていないという点にある。
方法と能力は一体であり、方法には能力が必要。しかしその能力を上げる前提には、生き方の問題がある。

7.読書会を終えての感想

〇概念論の話のところに、存在論に出てきた「限界、制限、当為」が出てくるのはなぜか?(Aさん)
●存在論にあるものは本質論の中にも概念論の中にも止揚されてある。
ただし、それを本質論の意味で使うのか、概念論の意味で使うのかという違いは、明確に意識しなければならない。
マルクスにはそれがない。

〇欲求衝動の中に未来がある、と言われて、今の自分はそれが分からなくなっていると思った。(Bさん)
●欲求衝動がなくなると人間は死ぬ。

〇一、マルクスにとって唯物史観の一般化がなされた時点は、中井さんだと「付論」を書いた時点だろうと思った。
二、「経済学の方法」に唯物史観が書かれていないのは、1848年の革命後のマルクスの方針転換による、という説明は納得がいった。三、ヘーゲルは自分の弟子をどうやって教育していたのか?(Cさん)
●ヘーゲルもマルクスと同様、弟子をちゃんと教育できていない。これは大きな問題。

〇1848年の革命の失敗後、自分の限界の自覚と克服ができなかったマルクスは、運動から退いてしまった。
どうやって自分の能力の低さを反省し克服していくかが大事。(Dさん)
●マルクスは革命後の失敗を克服できないことを正直に表明し、自分のできないことを仲間に、
後世に託すことを表明すればよかった。それをせず大御所になってしまったことの俗物性。

〇ほんとうに根源が根源であるのなら、今の中にその根源がどう生きているのかを捉えないとおかしくなると思った。
根源だけ見ても現状への考察は出てこない。(Eさん)
●はじまりにあったものが根源ではなく、はじまりから今に至るまでのすべてを貫き、自己を実現してきたものが根源である。

〇マルクスの初期のユダヤ人問題の叙述などを読むと文学的なものを感じるのに、
マルクスはなぜ宗教、人間に浅い理解しかもてないのか。(Fさん)
●フォイエルバッハ・テーゼも文学的。文学的能力だけでは自分の限界は超えられない。

〇自分が3月に提出した総括の文章は、中井ゼミに入る前と後とで、自分のそれまでの生き方がどう発展したかを
ちゃんと総括することができていなかった。(Gさん)
●自分の人生の「区切り」を考える時には、古い自分がどう壊され、新しい自分がどう現れたかを、
発展を、まとめなければならない。

〇世間には「能力を上げる」と称する下らない方法がたくさんあるが、哲学を根本にしないと能力は上がらない。(Hさん)

〇自分は林業をやっているが、自分たちの新しい林業と従来の林業を対置していることに気づいた。(Iさん)
●古いものの中から新しいものの現れて来る必然性を見抜くことが大事。

〇資本論とか共産党宣言よりも前のマルクスを知った、マルクスがヘーゲルから出ていることを知った。
マルクスの若い時代がすごかったことを知った。(Jさん)
●私がすごいと思うマルクスは、ほぼ若い時代に限定されている。革命の失敗後ではなく。

〇この10年間、自分の人生のやり直しをやってきて、ようやく一息ついたところ。
この読書会に出たことで、自分を見つめ直しこれからのことも考えたい。(Kさん)

〇一、認知症の高齢者を相手に仕事をしていて、変わらない相手に言ってもしかたがないという気持ちを抱いているが、
それは相手の問題ではなく、認識している自分の問題。
二、自分の見ている患者は基本的には治らないが、それでも何か新しいなにかは生まれているのかなと思った。(Lさん)
●人間は生きている限り前に進み、新しいものを生み出そうとしている。
それを見ている人間がどうはたらきかけるか、によって変わる。人は死ぬまで発展することが可能。

〇自分の教えている農業高校にいるのが、ブルセラ高校生と同じ。彼らとの関りを考える時に、
今回学んだようなことが考えるヒントになるのだと思った。(Mさん)

〇最後の能力の話がすとんときた。(Nさん)

〇昔、高校でおちこぼれだった自分を、鶏鳴学園で拾い上げてもらった。
本の中の、空想や妄想や夢、悪のとりあつかい方、叙述に、あたたかいものを感じた。
当時の自分の抱えきれないものを思い出した。
宗教、芸術も同じこと。自分のやっている演劇は宗教から生まれた。
フォイエルバッハ・テーゼ4に衝撃を受けた。彼が批判している宗教にあたるものを自分自身が、今やっている。
自分はそれを社会の中にどうやったら返せるか、だけでなく、
それを再度外に出せるか、活かせるか、という課題に取り組んでいる。(Oさん)

6月 13

短文をたくさん書いていく

 短文をたくさん発表しようとしている。これまでは長い論文や論考を発表することが多かったが、これからはもっと短い文章をたくさん発表していきたいと思っている。
 こうした形式は日本では随筆とかエッセイとか呼ばれるのだと思う。『徒然草』がその典型例であろう。しかし、私の短文はそれとは違い、思索の核を持ったものであろうとしている。
 そうした思索においては、体系化された文章と、体系化を拒否する文章に分けて考えられる、後者をアフォリズムということがある。そうした分類になると、私のはアフォリズムではない。今は短文として区切られているが、先に進めば、体系としてまとめられるはずだという予想を持って書いている。一つ一つが全体の契機となるものであることを強く意識して書いているし 、書いていく。

2022年6月6日

6月 12

イエスとキリスト

 「イエス」と「キリスト」を私ははっきりと区別しており、イエスを指す言葉としては、「イエス」を使用し、「キリスト」は使用しない。
 イエスというのはただの人名であり、キリストと呼ぶのはイエスを救世主であると認める立場からの呼び名であり、それは自らがキリスト教の信徒であることの表明になる。イエス・キリストとは、「キリストであるイエス」、「イエスはキリストである」という意味だからである。
 私はイエスを人間としては最もかっこいいやつだと思っているし、重要な局面になると、彼を思うことが多いが、あくまでもイエスを人間としてとらえており、イエスを救世主であるとか、神の子であるとか考えることはない。もちろんキリスト教徒ではない。したがって、イエスをキリストと呼ぶことはない。
 この2つの言葉を、立場の違いとして、明確に使い分けするべきだと私は考えている。

2022年6月6日

6月 09

ソメイヨシノが私は嫌いだ

 4月は桜のシーズンですね。入学式には、満開の桜がよく似合います。この時期には、日本全国の「桜前線」が連日報道され、各地が「花見」でにぎわいます。「桜吹雪」の舞い散る姿もなかなかです。
 ところで、その桜で、実際の種としては何を思い浮かべるでしょうか。それはほぼ100%ソメイヨシノでしょう。
 そのソメイヨシノですが、私は嫌いです。私にとって、桜とくれば、まずは山桜です。これはすがしく気持ちが良い。次に大島桜。緑の葉と白い花がとても似合う。これも好きです。この2種は、日本の原生種だとされています。
これに対して、ソメイヨシノは人工的に作ったものです。園芸種です。その特殊性は繁殖機能を持たないことです。すべてが挿し木によって、日本中に広がったわけです。つまりクローンなのです。
 ソメイヨシノには、花だけがあって葉がありません。花が散ったあとに、葉が出てきます。普通は、花と葉は仲良くともに出てきます。花だけの姿に、またそれが「満開」の姿に、私は何か尋常ではない怪しさを感じます。
 敏感な作家たちは、ソメイヨシノの怪しさに大きく反応しています。「桜の樹の下には屍体が埋まっている」と梶井基次郎は書きました。その感覚はとてもよくわかります。
 ちなみに本居宣長が桜を愛したことは有名ですが、その有名な和歌「敷島の大和心を人問はば、朝日に匂ふ山桜花」の桜は、山桜でなくてはならないと思います。これがソメイヨシノであったらどうなってしまうでしょうか。
 桜は昔から日本人に愛されてきました。和歌の中で桜を歌ったものは数知れません。
「ひさかたの 光のどけき 春の日に 静心(しづごころ)なく 花の散るらむ」(紀友則)。しかし、この桜はソメイヨシノではなかった。
 昔は日本の桜はソメイヨシノではなかったのです。太閤秀吉の花見とは、山桜であってソメイヨシノではなかった。それがどうして今のようになってしまったのでしょうか。それを『ウィキペディア』で調べてみました。

 現在の日本の桜の約8割はソメイヨシノだそうです。
 しかし、ソメイヨシノの歴史は新しいのです。幕末のころ、江戸の染井村(東京都豊島区駒込)の植木職人らが売り出した「吉野桜」が始まりだと言われています。
サクラの名所として名高い大和の吉野山にちなんで、「吉野」「吉野桜」として売られ、広まったのですが、のちの調査で吉野山の桜の多くはもともと日本に自生していた「山桜」で吉野桜とは違うことがわかりました。そのため、染井村で売り出された吉野桜ということで、ソメイヨシノ(染井吉野)改名されたのです。1900年のことでした。
 ソメイヨシノは、日本原産のエドヒガンとオオシマザクラを交雑させた栽培品種で、接ぎ木で増やしていったクローンです。
 その起源がクローンのため全ての個体が同一に近い特徴を持ち、その数も非常に多いため「さくらの開花予想」(桜前線)には、主にソメイヨシノが使われます。
 しかし、どうして新しく作られたソメイヨシノが日本中の8割ほどを占めるまでに至ったのでしょうか。
 その秘密は、そのクローンであることとその内実にあるようです。
 クローンであるために、環境特性が同じ同地では同時に開花し満開になること、母種のエドヒガンの特徴を受け継いでいるため葉より先に花が咲き大量に花が付くことで開花が華やかであること、父種のオオシマザクラの特徴を受け継いでいるため成長が速く若木から花を咲かし、なかでも桜の中では圧倒的に成長が速く大木になりやすいことなどが特性です。
 つまり、ソメイヨシノはそれまで多く植えられていた山桜に比べて成長が早く、しかも花は大ぶりで密集して枝につきます。5年ほどで花見ができるほどの大きさになります。
 そのために、明治以降、花の名所を作ろうと各地に植えられたのです。明治以来徐々に広まっていったのですが、第二次世界大戦後の昭和の高度経済成長期に爆発的な勢いで各地に植樹され、日本で最も一般的な桜となったのだ、ということです。

 さて以上が事実で正しいと仮定した上で、私は次のようなことを考えました。
 ソメイヨシノは本来の生殖機能を失った花です。花本来の内実を失い、その華やかさ、幻想的な美しさを演出します。そこには質素さや素朴さや本来の自然そのもののあり方はありません。
 それは現実から切り離された、非常に観念的で抽象的な花です。しかし、その一方でそれは5年で大木になり見事なサクラを咲かせるという、大きな経済効率をも持つのです。ソメイヨシノは経済法則の上での勝者であり、極めて現実的な花なのです。
 日本は明治以降、日本の近代化を推し進め、西洋列国並みの軍事大国にのし上がりました。そうした外的で外に向かう運動の内部では、国内各地に名所をつくりたいという激しい欲求が生まれていたようです。それは内的な空虚さを埋める欲求だったのではないかと思います。
 さて日本の外的拡大も、太平洋戦争の敗北により終わり、日本は戦争という手段を放棄することになりました。しかし日本はめげることなく、敗戦後には目標を経済復興に向け、昭和の高度経済成長に邁進することになります。そして、その過程でソメイヨシノが全国の8割の桜を代表する地位へとのし上がったのです。このことは、極めて象徴的だと思います。
 日本が西洋に追いつき肩を並べるために、国力の拡充と軍事大国を目指した時、その外的な拡大の一方で日本各地に桜の名所を広げていったこと。
 同じく敗戦後に日本が経済成長に邁進する中で、各地の桜が桜の名所をさらにソメイヨシノで染め上げていったこと。この日本の姿はソメイヨシノそのものだったのだと思います。
 それは内容のない、本物ではない、見かけの美しさや壮麗さであり、その裏では経済原則と資本主義そのものの姿であったのではないでしょうか。
 ソメイヨシノは実ることのない花、視覚的なだけの幻想の花です。
 私は、ソメイヨシノが嫌いです。それにうかれる人々が嫌いです。

2022年6月5日

6月 08

伊佐義朗  花木と人間の社会と歴史

 草木が好きだ。植物園によく行く。植物園が主催するガイドツアーにもよく参加する。その場合には専門家の説明を聞きながら、一緒に椿や薔薇やさつきや紫陽花を見て回ることになる。
 ガイドツアーから学ぶことは多いのだが、不満もまたある。それは花や樹木の形態の説明に終始し、そこには人間にとっての園芸や鑑賞という観点しかないことだ。つまり、それが人間の社会や産業の中で果たしてきた役割の説明がないことである。こうした不満を感じるのは専門家からそうした観点からの花や樹木の説明を受けた経験があるからだ。私の20代の終わりごろのことだ。
 当時は、それを普通のこととして受け止めていたのだが、その後そうでない経験を重ねてくると、それが貴重で、私にとっての教育になっていたことがわかる。
 その指導者とは伊佐義朗である。この人がどういう人かは私も詳しいわけではない。彼の経歴でわかることしかわからない。
 彼は京都府立大学農学部の卒業。京都府立植物園在職18年。京大演習林上賀茂試験地主任在職22年。その間に京都大学農学部講師。後に京都芸術短期大学講師。
 京都府立植物園在職期間に、京都園芸倶楽部の設立にかかわる。ここで、園芸家や花木のファンを相手にガイドツアーを始めたのだろう。
 著書に『新しい庭木200選』『竹と庭』『観賞花木』『街路樹』『花木への招待』などがある。
 経歴の中に、植物園と園芸倶楽部、演習林があることと、その著書の内容が、伊佐とは何者かを解き明かすだろう。
 私は彼が京都芸術短期大学講師として、また園芸?楽部で彼が行っていたガイドツアーに5,6回参加した。いずれも彼の晩年だったのだろうと思う。
 彼にとっての花木の意味は庭木などの鑑賞用だけではない。日本の外来種は古代から数多く渡来してきたが、その多くは鑑賞用ではなく、薬用効果を目的としていた。そうした効用の観点、染色や生活用具などの工芸や産業、街路樹などの都市設計や景観づくり。そうした人間社会での役割の歴史を重視していた。
 そうした話を聞きながら、植物と人間との関りの深さに感動し、私の周りの世界が違う見え方をするようになった。花木とは何かという問題は、人間とは何か、社会とは何か、へと広がっていくのだ。
 私は彼との出会いに感謝しているし、その教えはその後の30年、静かに私の中で育ってきていることを感じている。

2022年5月31日