2月 16

◇◆ 13 身体の声に耳傾ける方法 ◆◇

人間の心や精神は、身体の状態に大きく左右されます。また、心や精神の状態は、そのまま身体に、大きく深く、影響します。
 ですから、常に身体を整えておき、精神の能力が十分に発揮できるようにしておくことが重要です。またそのためには、常日頃からその時々の自分の身体の状態を良く知っていることが必要で、そのためには、身体との毎日の対話が必要です。それがそのまま心や精神との対話になるのですから。

身体と対話するには、まずは、基本中の基本から始めるのがよいでしょう。
 人間は生きるためには、食べて、出して、寝ることが必要です。ですから、身体との対話は、まずはこの3つの状態を毎日観察すればよいのです。
 食べて、出しては、他の動物とまったく同じ物質代謝であり、これが基本中の基本です。
食べることがどうなっているか。食欲はどうか、食べることの喜びや、視覚、嗅覚、味覚の機能はどうだろうか。
次に出すこと(大便と小便)がどうなっているか。快便か否か、便秘や下痢などをしていないか。その色合いや形状、匂いはどうか。これはかなりたくさんの情報を含みますから、それらの観察と分析によっていろいろなことがわかります。自分自身の疲れや心の状態、仕事などでのストレスなどが見えてきます。
 さて、もう1つの寝るですが、これは自分の身体と心のリセットの機能です。動物は〔人間も動物です〕毎日、眠ることで死んで生き返る。それをきちんと繰り返すことで生き続けられるのです。
 寝ているときには、自分の中の無意識が働き、身体と心を回復させるように働きます。自分の潜在力を働かせ、疲れやゆがみ、こわばりをときほぐしてくれます。それがうまくいかないと、回復ができなくなり、本来の力が発揮できなくなります。ですから、眠りの状態の観察が重要です。
 寝つきはどうか。寝起きはどうか。よく眠れるか。眠りは浅いか深いか。いびきの状態はどうか。夢は見るか、どんな夢か。夢は一言でいれば、無意識からのメッセージです。
この食う、出す、寝るの3つについて、毎日観察しましょう。それで身体との対話の基本の基本は十分でしょう。

 この3つ以外でもう1つ挙げておけば、それは呼吸です。生きるための絶対条件である物質代謝には、食べて出しての他にもう1つ呼吸があるのです。
大切な状況にあっては、その時の自分の呼吸を意識し、その息の深さや浅さ、息の長さを観察すると、自分の状況がわかります。息を深くすることで落ち着くことができます。その呼吸の自覚の方法が「呼吸法」とか瞑想とかヨガとかに発展していきますが、これは先の話になります。

以上は身体の日常的な運動でしたが、身体には非日常的に起こる大きな変化があります。病気です。これについても言いたいことはたくさんあるのですが、野口晴哉の『風邪の効用』 (ちくま文庫) を紹介しておくに、今はとどめます。
病気を悪いものとしてとらえ、治して病気の前の状態に戻すことを目標にしているようでは話になりません。病気こそ身体からの最大のメッセージです。

これで大切なことは終わりです。身体の声に耳傾けるには、まずは以上をやってみることです。

2023年1月15日

2月 15

◇◆ 12 改めて、「公開の原則」 ◆◇ 

すべては公開されるのが原則である。ところが世間では全く逆に理解されているのではないか。プライバシーは晒されてはならない。プライバシーの保護は絶対である。公開はある限定された条件下でのみ行われる。公開されることが例外なのである、と。
こうしたことを考える際によく例にされるのは、裁判所の審理ではすべてが明らかにされることである。そこでは隠すこと、隠されることは何一つ許されない。
例えば離婚をめぐる家庭裁判所の裁判では、結婚生活と離婚の原因に関する限り、個人の私的なことの全てがそこで明らかにされていく。 DV も不倫も性的不能も、犯罪歴や依存症、嗜好性も、何から何までである。そこには当然ながら嘘も張ったりもある。家庭裁判所の調停が効力を持つのは、夫婦間の秘密のすべてが世間にさらされることを避けたい、という思いがあるからである。
このように家庭裁判所の審理ではすべてが明らかにされるのだが、これを例外と考えるか、これこそが本来のあり方だとして考えるかで、対極の考えが生まれる。普通は、これを特別とし、一般にはプライバシーは保護されると理解されている。それがこの特殊な場面においてのみ、それが公開されると理解する。しかし実際は逆なのである。

この裁判でのように、すべてが明らかにされることこそが、基本的で一般的なあり方なのである。個人情報も、その人の死後は公開される。私信、恋文やラブレターまでが公開される。作家や政治家などの伝記、評伝、研究書などを思ってみればわかるだろう。あ
政治上の秘密文書も機密文書も、秘密にできる期限は限られる。役所や会社での「マル秘」「内部機密」「厳禁」も同じである。どれだけそれを厳しく管理しようとも、それはすべて期限付きであり、期限が過ぎれば全てがオープンにされ批判され判断にさらされるのである。またそうでなければならない。
また、その内容が憲法や法律に違反する場合には、その内容を内部告発して外部に明らかにすることこそが正しいのではないか。
 個人のプライバシー保護も同じである。それは絶対的なものではなくあくまでも限定されたものでしかない。
つまり、公開こそが原則なのである。それがある一定の条件下では、ある一定の期間に限っては、秘密にすることが許されるだけなのである。

この、公開こそが一般的原則であるとわきまえていることは、私たちが表現者であり、批判者であるうえで、決定的に重要である。そこでは対象と闘うのであり、どんな闘いも、それがどんなに普遍的な人類の基本問題だったとしても、それ自体はどこまでも、個別・具体的なものであり、それとは固有名詞の具体的な世界で戦うのである。批判者、告発者の実名を公表するかどうかも問われる。その対立は最終的には裁判になるのであり、そこでは文字通りすべてがオープンになる。
公開が原則なのだから、それがその時点でどれだけ制限されるか、その幅が問題になるだけなのだ。それは、その時点での諸条件の中で判断していくしかないのだが、制限は一時的なものであり、最終的にはすべてが個別具体的に明らかにされるのだ、ということを意識していなければならない。その時には、すべてを固有名詞で明らかにできるようになっていなければならないのだ。そうした取材と批判がそこでは求められるということだ。
このことは、そうした特殊な職業や仕事にのみ関わることではない。人間が社会の中で生きていく上で、決定的に重要なのである。それによってその人の物の見方、判断、自分の行動原理が180度変わってしまうからである。
 私たちの言動のすべては、隠すことはできず、ごまかすこともできず、いつかはすべてが白日の下に暴かれることになる。自分の言動のすべてに対し、自分の人生に対して責任を取る覚悟を持って、生きるしかないのである。それを意識し、その覚悟をもって生きることが、私たちがよりよく生きるために必要なのではないか。
それは神の前に一人立つことと同じなのである。
                         2022年8月8日

2月 14

◇◆ 11 「カタログ」文化 ◆◇

反文化の運動からは、たくさんの試みが生まれた。「カタログ」文化もその1つだ。例えば『Whole Earth Catalog』(全地球カタログ)は全世界の若者たちに支持された。
これは、若者が自分たちの生活、共同体、社会や精神世界を新たに作り、生き直すためのカタログであり、そこには全世界の知的遺産から、有効なものだけが選択され、新たに意味づけられ、並べられる。
東洋も西洋も、仏教もイスラム教もキリスト教もゾロアスター教も、禅や瞑想も心理学も精神分析学も文化人類学もマルクス主義もアナーキズムも、チェ・ゲバラも毛沢東も、体操も太極拳もベジタリアンも玄米食も、マリファナによる意識の拡大も、全てが横並びである。
思想も身体性の問題も男女の性関係も、様々な技術も、全てが対等で横並びである。
従来の伝統的学問の体系を無視し、自分たちに利用できるものなら、何でも自由に使う。もともとの意味付けを無視し、自分たちに生かせればよい。自分たちにとって有効か否かだけが問われる。
ゲーリー・スナイダーの「四易」Four Changesの全文がそこに掲載されていて、私は納得した。「四易」は「人口」「汚染」「消費」「人間の社会と個人」の変革の提言であり、生態学、文化人類学と仏教の教えを背景とし、生物学的かつ文化的多様性を荒廃させている権力機構と資源利用の格差を告発する。『全地球カタログ』とは、その「四易」をカタログの一つとして出している雑誌だったのである。
私が大好きだった ヘルマン・ヘッセが「反文化」の先駆者として、アメリカで一大ブームが生まれていたことにも驚いた。「荒野の狼」(ヘッセの問題作のタイトル)というロックバンドも生まれていた。ヘッセなどを取り上げた『アウトサイダー』という本が売れた。前後の文脈とは関係なく、「反文化」という視点から何でも引っ張ってくるのが反文化の反文化たるところなのである。
これにはアメリカのプラグマティズムの影響も強くあるだろう。「文化としての英語」ではなく、「道具としての英語」であり、現実に有効かどうかが問題であり、使えるものなら何でも使う。
こうしたあり方は、現在のネット文化の中での知識や技術の扱われ方の先駆けだったのだ、と今思う。これは「学問」や「教養」といった権威や階層性、その意識のこわばりを徹底的に解体しようとするもので、そこに覚悟と清々しさがあるのだが、人類の歴史、技術史、科学史、哲学史を踏まえた全体性や体系性を持たないという決定的な弱さをも持っている。
                         2022年8月4日  23年1月追補

2月 13

中井の短い文章を8つ、毎日掲載します。

すでに発表した文章群に続くもので、通し番号をつけておきます。

1つ1つが、みなさんへの問題提起のつもりです。みなさんの刺激になることを願っています。

本日から、毎日以下を掲載します。

10 「反文化(カウンター・カルチャー)」運動の3人  
11 「カタログ」文化
12 改めて、「公開の原則」
13 身体の声に耳傾ける方法
14 ヘンデルのメサイア
15 ジョブズと『Whole Earth Catalog』(全地球カタログ)
16 「iPS細胞」の姑息
17 再生医療の矛盾と倫理

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◇◆ 10 「反文化(カウンター:カルチャー)」運動の3人 ◆◇

 中井ゼミのメンバーに、うた、詩、音楽、舞踊・舞踏に、またその根源は何かに、強い関心を持っている人がいる。私もかつて20代には、そうしたことに強い関心を持っていた。

1960年代から70年代にかけて、全世界に「反文化」の運動が展開された。人間の自然破壊を問題にし、資本主義、帝国主義への批判を根底に持ち、そうした諸問題への批判が、西洋文明そのもの、西洋の近代思想全般への批判に拡大した。そしてその解決のためには、すべての根源に迫り、根源を考え、根源から変えていこうとする運動になった。
それはマルクスの思想に大きな影響を受けている。疎外と根源性という観点である。マルクスの資本主義への批判の根拠は、それが人間を疎外するというものであった。その疎外の現実のあり方の研究から、剰余価値や搾取の構造を明らかにし、プロレタリアートがブルジョアジーの国家を打ち倒すことで疎外を解決しようとするものだった。
つまり問題は疎外であり、その解決のためには、すべての根源にさかのぼればよいことになった。
この疎外論は、始まりに原初の統一があり、そこからの疎外に問題があるから、始まりの始原、根源に戻れば良いとするものだったのだ。(本当はこれはフォイエルバッハの立場であり、マルクスは最初の始原に対立矛盾を考えようとする。この2人の根底にはヘーゲルの本来の発展観がある。)
社会、経済、政治への批判は、日々の生活やそこでの意識の改革、男女の性関係や性意識の改革まで拡大され、人間の体や心のこわばりの問題としてもとらえ直され、人間の無意識、そこでの欲求や衝動の抑圧の問題としてもとらえ直された。
こうした西洋文明への批判は、東洋への関心ともなり、西洋と東洋を総合しようとする志向ともなった。
この「反文化」の運動は、第2次大戦後のアメリカとヨーロッパの若者たちから生まれたもので、全世界に広がった。アメリカでは「ビート」がその中心で、そのビート運動の中心は詩人たちであった。アメリカには変革運動は詩人から生まれる伝統がある。その詩の内容は、社会と文明を批判するものだが、それは詩の形式をも生まれ変わらせようとする。詩は目で読むものではなく、朗読するもの。人間の呼吸、息、心臓、といったからだの運動やリズムにひきつけて詩をとらえ直す。
それは、人と人との直接的なコミュニケーションを生み出す媒体であり、そこには人間の共同性、共同体が現れる。
ビート運動の中心には2人の詩人がいた。アレン・ギンズバーグとゲーリー・スナイダーである。
ゲーリー・スナイダーは、東洋への関心が強く、若き日に日本の大徳寺で禅の修業をした。日本の若者たちと「部族」をたちあげ、共同体運動や環境保護活動を展開した。ここに日本のヒッピーたちの始まりがある。
こうしたアメリカの思想運動に総合的な奥行きを与えたのが、オルダス・ハクスリーである。彼はもともとはイギリス人であり、著名な科学者を多数輩出したハクスリー家の一員。D・H・ロレンスの弟子であり小説家である。『すばらしい新世界』が有名だ。後にアメリカに移住して「反文化」運動と接点を持ち、大きな影響を与えた。
ハクスリーは子どものころから身体性の問題に強い関心を持ち、意識の拡張にも関心をもっており、神秘主義に親しみ、鈴木大拙とも親交があった。全世界の文化的な遺産を総合的にとらえなおし、東洋と西洋を1つにすることに主眼があった。マリファナ(大麻)が人間の精神活動において有効であることを発見した先駆けの一人。こうした立場の表現としては最晩年の小説『島』がある。

さて、この「反文化」の運動に、私自身は20代において出会い、大きな影響を受けた。しかし、その限界を意識し、その克服のために、ヘーゲルとマルクスを学ぶために牧野紀之のもとで修行することになった。それが私の30代だった。今、その限界とは「疎外」「根源」の理解の不十分さ、つまりそこには発展についての深い理解がなかった、と考えている。
そのヘーゲルとマルクスについての私見を本としてまとめた今、この「反文化」の運動についても、今後、総括していきたい。今回はそのための「導入部」である。

                             2022年8月4日

8月 06

 中井ゼミの5月の読書会では、私の『現代に生きるマルクス』をテキストにしました。

 読書会の参加メンバーには、読書会後の感想を書いてもらいました。それを掲載します。
 参加者は15人でしたが、その中から12人が感想を寄せてくれました。

 最初のグループ(目次の1?10)は現在の中井ゼミのメンバーたち(一部ペンネームやイニシャル)です。
松永さんはこの読書会には参加していませんが、この本の原稿段階から意見をもらい、読書会の記録をまとめてもらっています。
あわせて、この本への感想を寄せてもらいました。
 目次の11,12の2人は、30年ほど前の大学生クラス(中井ゼミの前身)のメンバーで、
笹本さんとは10年程前に彼が県会議員選挙に出馬した時にそれを支援し、その失敗の総括をして以来です。
彼は山梨の甲府で「地域資源経営」に取り組んでいます。
 高山さんとは留学先のドイツでの濃密な関係がありました。彼は帰国後、演劇集団をつくり、
現在では演出家として世界を股にかけて活躍中です。最近では「あいちトリエンナーレ」の『表現の不自由展』の中止をめぐり、
「Jアート・コールセンタ」を立ち上げる対応をしたことで話題になりました。
 高校作文教育研究会のメンバーからは2人が参加してくれましたが、宮田さん(13)はその1人。
熊本県立農業高校の教員ですが、私が信頼している一人です。 
 ゆげさん(14)は、世界史専門塾ゆげ塾の塾長。塾生が鶏鳴学園と被ることがあり、交流があります。
本を送ったことへの返信から一部を掲載しました。

■ 目次 ■

1 「絶望」だけが人間を前に進める  花房 真衣
2 従来の林業の克服のために     掛 泰輔
3 使い捨て人間さようなら    白檀 栴
4 母の死の真相と私の使命    鈴木 明規
5 いまを生きる「根源」  高松 慶
6 自分を超える力        塚田 毬子
7 資本主義と家父長制      田中 由美子
8 己の限界と向き合うこと    K・K
9 徹底的にマルクスに寄り添った「内在的方法」 安藤 雷
10 ただ見ているだけでいい    松永 奏吾
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11 「地域の自立」と中央コンプレックス 笹本 貴之
12 悪こそは未来         高山 明
————————————————–
13 20世紀最大の実験、共産主義国家失敗原因探求  宮田 晃宏
14 ブルセラショップの解説を、自由主義で説明するのは、度肝を抜かれました
                 ゆげ ひろのぶ

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1  「絶望」だけが人間を前に進める     花房 真衣

 序文(「はじめに」)に書かれているようにこの本にはマルクスの代名詞のひとつである『資本論』について
触れられていない。『資本論』以前のマルクスの唯物史観がその土台であり、その唯物史観こそが世界を変えたという、
それは一体どういうことなのか。今回の読書会を通し、マルクス主義がなぜ失敗、堕落という結果を辿ったのかを
マルクス自身に内在した問題にせまることで解することができた。一方で、20代のマルクスの偉大さの一端も体感した。
これは、一人で書に向かっているだけでは得られなかったことである。
 何より、マルクスの唯物史観を探ることでヘーゲル哲学の理解に少しだけ近づけたように思う。
ヘーゲルは存在の運動によって外化する本質を「ただ見ていればいい」というが、それは何もしなくてよいということではなく、
「対象への働きかけは不可欠である」ということ、中井さんが言った「人は死ぬまで前に進み発展する可能性がある」
ということを私なりに解釈すると、その可能性があるからこそ対象に働きかけることに意味がある。
教育もその働きかけに他ならないだろう。自分より若い世代に少しでも有益な働きかけができたらと思うと同時に、
私自身も教育、学びを得られる機会に貪欲でありたい。
 そしてもう一つ、ヘーゲルの「絶望」だけが人間を前に進めるという言葉。
今回も前回も中井さんが口にされたが、本書にその「絶望」が何を意味するのかが書かれていて、はっとする。
果して自分に「それまでの自己では一歩も前に進めない」と自覚する時が来るのだろうか。自己改造は厳しい。
しかし前に進まず終わることも空恐ろしい。
 読書会に参加したおかげで、独学では到底具体化できなかった先人たちの言葉の数々が生きたものとなり、
自分自身の在り方に引きつけて考えることができた。
しかし、こうして感想文を書いてみると、感じたことや捉えたと思ったことが言葉に表せず歯がゆい。
今後どこまで自分の言葉で語れるようになるのか。今回はようやくその始まりにたどり着けたかなという感触をもった。

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2 従来の林業の克服のために     掛 泰輔

 私は林業を生業としているが、最近、「個人が所有している森林であれば、その公的側面よりも、
私的側面を中心に扱っても良いのか」ということが問題になった。
 本書を読んで、これは山林所有者個人の考え方の問題ではなく、現代の「私的所有」「農村と都市の対立」
「(山林資源という)使用価値と交換価値の対立」という矛盾がそこに現れているだけではないのか
というふうに考えることができた。
 しかし、ではそうした「矛盾が、発展の契機である」、とはどういうことなのか。それは「契機である」というよりも、
矛盾を発展の契機であるというふうに対象に働きかける欲求が認識する側に生まれた時、
その働きかけ方によって矛盾を発展の契機とすることができる、ということなのだと思うが、
その働きかけ方はどう考えれば良いのか。
これについては、フォイエルバッハテーゼからその答えを考えることができるのではないか。
 フォイエルバッハテーゼが書かれている章(p124)では、テーゼ4、6を除いてマルクスの記述の仕方
(「AではなくB」というだけの考え方)は悟性的であり、代案が出てくる必然性、
その代案が発展であるということが示されないということだった。
 自分の仕事に引きつけても、従来の林業と、これからの林業を対置し、前者を低いものとして否定的に考えていたが、
本来は「テーゼ4」のような発展的、必然的(新しい林業が新しいだけでなく真であるということをできるだけ示すよう)
な考え方をしなければならない。今までの業界の考え方を、単に自分の考えとは違うというものを低いものとして扱い、
切り捨てるのではなく、現状のものの中に大事なものがあるという姿勢で、そこにあるものを大切にし、
かつその限界や矛盾を見出し、それを示せるような働きかけ方ができるのか。それを本書を読んで考えた。

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3 使い捨て人間さようなら  白檀 栴(びゃくだん せん)

 数か月前に中井ゼミに入る前に、私は、資本主義社会の中でどこか自分が使い捨て人間であるように感じていた。
利益重視の組織から搾取され、ひたすら働いて死に向かって生きているようで、行き場を失い、苦しさを覚えた。
この本を読んだ後は、今、自分が置かれている時代を俯瞰して見ることができるようになった。
そして、マルクスの言葉から、自分が問いを立てられることは、その答えを出す能力があると思えるようになった。
 マルクスの思想は世界を変えたが、限界があった。
「マルクスは、自分自身の内なる悪を直視できなかったのではないか。」
ここは、ヘーゲルの思想との大きな違いであると思った。
ヘーゲルの思想には、「矛盾を克服し、さらなる発展段階に進む存在が新たに生まれる」という発展の考え方がある。
そして、「ある対象とその本質を、その生まれてから滅びるまでの前後の進化全体の中に位置づけなおしたものが、
その対象の概念なのである。」という概念レベルの捉え方がある。
これまでの私の生き方は、自分の中にある悪を見ることも、人と対立することも避けてきた。
しかし、概念レベルの視点で望遠鏡を覗き、組織の中で自分と他者との意見の対立を明確にして、
正義や真理に向き合って行動を起こすことで、新しい自分に出会えることがわかる。人生は面白いと感じる。
私は、今、自分以外の組織全員が反対しようが、医療職者としてどうあるべきか、
目の前の人を救うためには何をしなければならないか、問い続けながら、真理に向って進む生き方をしたいと思う。

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4 母の死の真相と私の使命     鈴木 明規

 『現代に生きるマルクス』の読書会後の感想で、私は「看護師としての病院勤務を終えたときに書いた総括は
総括になっていなかったのではないか」と発言した。
それは、自分自身に対する概念的把握ができていなかったという反省であった。
再度考え直したい。
 2019年に中井ゼミに入った当時、私の内部には2つの欲求があった。
一方は、母親の「交通事故死」(6才当時、父から聞いた)を根拠にした救命医になりたい、命を救いたいという欲求であり、
他方は、大学院で教わった公衆衛生の立場や外来業務の経験を根拠にした、
病気を生み出す個人の生活や社会の仕組みを変えたいという欲求であった。
今思えば、前者は前の段階の当為から来る欲求、後者は次の段階の当為から来る欲求であった。
 2020年、中井ゼミの場で、6才当時から母の死因に関する疑いがあったこと、それを父に聞けずにいることを文章にして出した。
中井さんからは「30代にもなって親の死因を知らないでいるというのは社会性がない」と批判を受け、
真実を知るための調査を始めた。
父は「世の中には聞かない方が良かったと思うこともある」と頑なに母の死因を話そうとしなかったが、
母の短大時代の先生、母方の叔父に話を聞き、母が精神科の専門病院に半年ほど入院していたことを知った。
周囲が反対する中、その事実と、父や母を理解したいという思いを綴った手紙を父に送った結果、
父はようやく手紙で母の死因について答えてくれた。そこには、母の死因は産後うつの末の飛び降り自殺であったこと、
父も自ら命を絶つことを考えたが、子どものことを考えて我に返ったことなどが綴られていた。
 母の死の真実を知ったとき、ようやく病気や死の原因や、それらが周囲の人間に与える影響の全体が見えた。
同時に、身体的な意味での救命を目的に生きてきた自分を反省し、個人の生き方やその家族、
社会との関係の全体を中心とした医療をやりたいと思うようになった。これを概念的に捉えれば、
母の死の真相を知ったことを契機に、人間の本質、つまり、身体と精神を統合した人間の全体性を捉え、
次の段階の当為が前の段階の当為(身体的な救命を目的とした医療)を止揚したということだと思う。
 現在は医学部に進学し、患者中心の医療という現段階での当為を実現するために、生物学を基礎とした医学の問題、
医療における医師?患者、医師?看護師などの差別構造の問題、差別意識を生み出す医学教育の問題と闘っている。

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5 いまを生きる「根源」   高松 慶
 
 「根源にさかのぼる」という言葉がある。だが本来、根源は過去を探すことで見つかるものではなく、
いまの現実に至るまでの全過程を生きている。
では、その本来ある姿の根源をとらえるには、どのような態度が認識する側に求められるか。
 以上が感想と問いである。

 「根源がいま現実に至るまでの全過程を生きている」とはどういうことか。
中井さんは、マルクスの『根源』という言葉の使い方には内化しかなく、外化の観点が抜けがちと言っていた。
根源は発展を通じてたえず自己の内へ深まり、深まった自己を外化してきた。歴史をそのようにとらえなければ、
意識が根源らしきものにとどまり、そこで安住しがちになる。いまの現実を本質の観点から変革する運動が起こらない。
 私はここ1年で葬儀屋として、流産や人工妊娠中絶による死産の遺族対応を続けた。
その過程で、刑法(1907)上初めて、人工妊娠中絶は原則犯罪とされ、死産があった際の公的な届け出義務、
火葬・埋葬義務が1952年に両親に課されたことを知った。
 「なぜ胎児を殺してはならないのか」という問いが法律として現れることを通じて、
「人間が人間として生きるとはどういうことか」という問いがだれでも自覚可能な形になる。
そしていまの私が法律を発展の一契機として位置づけて遺族対応をすることによって、問題意識は一層外化する。
そうして、人間が生きることの根源はより問題意識として明確化する。
 
 だが根源への問いを深めるはずが、なぜある原始的な段階の一時点を根源としてとらえることにとどまりがちになるのか。
その原因が端的に言えば人間の悪なのだろうか。
 マルクス個人の経験を見ると、彼は1848年の革命に失敗した。敵であるブルジョアジーに負け、革命運動の仲間とも決別した。
 中井さんからすれば、マルクスが革命に失敗した経験は、彼にとって当時の社会全体の矛盾、
自分の所属する組織の中の矛盾、何より彼自身の矛盾を見るチャンスだった。だが、結局自覚できなかった。
結局唯物史観を根本から反省するには至らず、その代償は社会主義国家が崩壊する過程に現れた。
 悪の中身を、自分の失敗の中にある矛盾、一言で言えばタブーをタブーのまま放置し、のさばらせ、
なし崩しに黙認することだとする。その意味での悪と、過去の一時点としてまだ原始的な段階という意味での根源に
しがみつくことは、私は相通じることだと思う。
 私は、人間が何かをタブーだととらえるようになる、あるいはタブーだととらえられているものを犯すということに
寄り添いたい。そういう態度で、根源を見たい。死産時の対応も同じ態度から努力してきたのであり、今後も意識的にそうありたい。

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6 自分を超える力         塚田 毬子

 私はこれまで他者との関係に悩んできたが、「対象の内在的理解」を自分なりに試みたことがある。
他人を真剣に理解したいと思ったとき、この方法を参考としてやってみた。その成果として私に残ったのは、
他者への理解が深まった実感ではなく、他者を通して自分を理解することを一生懸命やっているような空しい感覚だった。
いくらやっても他者には触れられず、自分の中を堂々巡りしているような感覚。後から考えれば、
私が目指したのは「内在的理解」だが、実際にやっていたのは「外的反省」であり、
そもそも私が抱いた他人を理解したいという欲求は、自分を理解したいという欲求以上のものではなかったように思われた。
そうすると私は、私を超えた他人を捉えられないのだろうか。
 この反省を自分の課題として持ちながら、『現代に生きるマルクス』を読んだ。
ここで中井さんは徹底的にマルクスと関係し、真理を表現しようとしている。ここに表れるマルクスは中井さんのマルクスだ。
やっていることのレベルは大いに違うが、読んでいると自分の失敗からくる嫌悪感が内に溜まっていくようだった。
自分の能力から見ると正しいことばかり書いてあって息が詰まるとも思った。
 その嫌悪感は、自分が見る他者が自分そのものであることに対する嫌悪感だ。
他者は自分ではないから素晴らしいのに、私が認識しようとした途端に生きた他者が死ぬようだった。
私は他者の内に自分を見ているだけで、何を見ても自分を見るだけなのだ。
その広がりのない世界を脱するために他者を欲しているのに、である。
 しかし他者が自分の他者となるのは、自分がそれを捉えたからだ。自分の内にあるものがそれに反応してこそ
他者との関係が始まるのだから、自分の全く外では他者を捉えられない。自己内二分がある限り絶対に不可能だろう。
つねに限られた自分の認識で他者を理解するしかなく、より良くするためには自分の認識能力を上げるしかない。
が、その中で最も重要で難しいと思われるのは、自分の内部で自分を超える力を捉えることだ。
ゴミのようでもあり宝のようでもある現実は常に私を超えて存在するが、
自分のうちにも自分を超える力があるとこの本に書いてある。それもまた自己内二分がある限り絶対に存在し、
捉えることが可能なものだろう。可能なら実現するはずだ。それを獲得することが私の退屈を打ち壊せる方法だと思った。

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7 資本主義と家父長制      田中 由美子

 本書を通して、私がゼミに参加し始めてからの十二年間の前進は、まだ私の本質内部での成長に過ぎなかったのだ
ということが整理された。それが一つ、重要な気づきだった。
 私がどういう原理原則の社会の中の、どういう家庭で育ち、私はどういう人間なのか、今ようやくその大枠が見えてきたが、
私はまだその本質を超えられず、「本質レベルでの『終わり』の地点」、「概念の立場から見るならば、
まだ、発展の過程の前半が終わったにすぎない」のだろう。直面する問題に向き合い、その展開を最後まで見届け、
これまでの自分を終わらせなければならない。

 もう一点、私はこれまで、実家に家父長制的な問題があったと考えてきたが、今回「ブルセラショップの女子高生」
を読んだときに、そのもっとベースに「私のものをどうしようが私の自由でしょ」と言う「女子高生」と同じ
資本主義の論理があることが意識された。私的所有の自由以上の意識に乏しかったのではないか、
それが問題の核心なのではないかと思われた。
 たしかに、かつての家父長制の影響は、今現在の家庭や社会にまだ強く及んでいる。
特に、家父長制における女という立場と、資本主義、という組み合わせの矛盾は大きい。
 エンゲルスの『家族、私有財産、国家の起源』によると、私的所有を認める経済と、家父長制という組み合わせは、
人類の経済発展の歴史の中で必然だった。牧畜などによる富の増大によって、それまでは氏族共同体が所有していた
生産手段や生産物が、生産に主に携わる一人の男を中心とする家族の中の、その男、個人の所有となった。
つまり、私的所有を核心とする経済体制が始まった正にそのときに、家父長制が生まれたという。
 それは、人類が当初、氏族共同体の一メンバーとしてだけ生きてきた社会に、初めて個人が生まれたという意味で
大転換だったが、他方で、私有財産を手にしたのはごく一握りの男たちだけだっただろう。その後の歴史の中で、
より多くの人に私的所有が認められるようになっていくが、封建制が終わっても、この国で戦後になるまで、
女には、男兄弟も息子も無いというような場合を除いては、夫からの相続権さえなかった。
多くの女は、個人と私的所有を基盤とする資本主義社会に生きながら、長い間、少なくとも法的には私的所有権を持たず、
また、家庭内における意思決定権も無かった。
 戦後、その矛盾は法的には解決され、家父長制は法的な制度としては終わりを迎えた。
それは世界的にも、人類史上何千年ぶりの大転換の時期だっただろう。両親はその前と後を生きた。
 しかし、今回こうして資本主義と家父長制を並べて考えてきて、経済体制と家族制度は単純に比べられるものではない
にしても、その二つは、その個人や自由のレベルにおいて、大差のないものではないかと思われた。
以前から、家父長制的なものに対しては、家族個人の人権と責任を十分に認めない古臭いものとして、批判的にとらえてきた。
しかし、資本主義や自由経済の「自由」については、その問題が社会にあふれていても、
私の根っこにその「自由」に対するひいき目がある。戦後両親は、戦争や大家族のくびきからも放たれ、
自由経済社会を活き活きと生きた。その高度経済成長の中で私は育った。
しかし、資本主義の「自由」も、大したものではない。
フランス革命の人権宣言が、私的所有の自由を保障するものでしかないという、マルクスによる批判の箇所は以前にも読んだが、
今回の読書会を通して、それを自身の意識の問題として自覚した。
 そして、資本主義がある意味その程度のものでしかないから、家父長制が制度としては廃止されても、
その経済体制の下で、家父長制的な意識が今も根強く私たちの中に残っているのではないだろうか。そういうことを考えた。

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8 己の限界と向き合うこと     K・K

 自分が信じて精いっぱい努力した結果が、当初の目的を達成できなかった点において失敗したとき、
その失敗とどのように向き合い、どのように総括すべきか。その問いが「現代に生きるマルクス」の読書会後に、
一番強く残った。
 第V章「唯物史観」のp.205~208に、方法とその限界に言及している。マルクスが1848年の革命の失敗後、
唯物史観そのものを根本的に反省したり、大きな修正をしたりしていないと書かれている。
 自分に引き付けると、自分の課題を乗り越えるために取り組んだ仕事が結果として失敗した経験を思い出した。
本来するべきことを頭でわかっていても、行動に移せなかった。そのとき、具体的に何ができなかったのか、
何が行動を踏みとどまらせたのか。これらを言葉にしていくことが、失敗と向き合う第一歩になる。
私は、まだその振り返りが不十分で、根本的な反省にまで深められていないのではないか。
マルクスの失敗への向き合い方を読みながら、そう思った。
 自分の限界と向き合うとはどういうことか。失敗で明らかになった自分の行動の限界と、
その限界がこれまでの生き方とどのようにつながっているかを考え、言葉にすることではないか。
限界となった事実の把握と、その選択をせざるを得なかった自分のこれまでの生き方や、
その時の心情を結びつけて言葉にできるかどうかではないか。
 根本的な限界には目をつむり、さほど苦にならない枝葉の部分のみ努力して、
都合よく失敗した事実を自分の記憶から消したい。
 しかし、それは自分を絶対視して、客観的に見られなくなるばかりではない。自分に例外を許してしまうと、
自分以外のすべての現象に対して、客観的にとらえることができず、真理を見抜けなくなるのではないだろうか。
だから、成長して前に進むためには、つらいけど自分の限界と向き合うしかない。

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9 徹底的にマルクスに寄り添った「内在的方法」    安藤 雷

 「現代に生きるマルクス」では、マルクスがフォイエルバッハの圧倒的影響下にあることが明らかにされている。
フォイエルバッハは「発展の論理」の半分しか我が物にしていない。内化のみで、外化が欠けている。悟性的だとも言える。
このため、疎外態が敵視され、「根源への解消」や「逆転」が解決策となる。これはマルクスにそのまま受け継がれている。
そこに大きな問題があることもまた「現代に生きるマルクス」で示されている。
 しかし、発展が内化かつ外化の運動であることからすれば、内化のみでは不十分であることは自明に見える。
どうしてこんな「初歩的」なところで躓くのだろうか。読書会でのこの質問に対する中井さんの答えは
「そもそもヘーゲルが分かりやすく発展を示せていない」。我々には、中井さんがシンプルな形で示してくれている。
だが、当時はそうではなかった。空前絶後のものを生み出した当の創始者が、誰にでも分かりやすい形でシンプルにまとめる
のは困難なのだと思うし、そこまで求めるべきではないとも思う。だからこそ、その後の世代に果たすべき役割がある。
 だが、マルクスはその役割を果たせなかった。なぜか。1848年の革命の挫折を、真っ当な形で十分に反省できなかったからだ。
その結果として、唯物史観からはある意味で手を引き、下部構造である経済学の研究に自分自身を限定した。
さらには、革命運動への関わり合いも限定的なものとなり、組織における指導者と構成員の相互関係からも切り離された。
つまり、内化と外化の両方を押さえるのではなく、片方のみに自分自身を限定し続けたのだ。
これでは発展の論理を分かりやすく示し、かつ、それを発展させることは難しい。
 「現代に生きるマルクス」では、こうしたマルクスの思想の不十分さをマルクスの生き方の問題に求めている。
若きマルクスの初心と覚悟、人権宣言の不十分さに対する衝撃と怒り、1848年の革命の挫折の意味。
これらと関連付けて、マルクスの思想の意義と限界が示されている。徹底的にマルクスに寄り添った「内在的方法」の
見本になっていて、これこそが正しいやり方だと思う。生き方と思想の関連が至る所で言及されており、
自分自身はどうだろうかと何度も思わされる。

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10 ただ見ているだけでいい         松永 奏吾

 『現代に生きるマルクス』の2章で中井さんは概念論レベルの発展を説明する。
古い自分の崩壊から、新しい自分の誕生へ。本質論レベルの発展についてはすでに、ヘーゲルのドングリの例や、
牧野さんの「発展とは本質に帰る変化」という説明を、中井さんの解説つきで繰り返し聞いていたが、
それはどうも「発展」という感じがしなかった。いや、正確には、おもしろいなあ、なるほどなあ、という気持ちで
まず圧倒されるのだが、わずかに心のどこかでおかしい、と感じていたような気がする。しかし今、あらためて、
この2章の概念論レベルの発展の説明を読むと、ドングリの話はどう見ても発展ではないなと感じることができるし、
どうも前からおかしいと感じていたような気がしてくるから不思議である。
人生ではじめて「発展」という言葉に出会った時があるはずで、そのはじめの感触を思い出してみると、
どうもはじめから分かっていたような気がするから不思議である。(プラトンの想起というのはこれか。)
その時の「発展」という言葉の感覚は、新しい段階へと進んでいく感じ、明るく外に広がっていく感じ、そういうものだった。
それと比べたら、ドングリの永遠に繰り返す成長過程の方はなんというか、もっと静かなもので、ぐるぐる廻る神秘の連鎖。
本質論の世界は、生物の本などにある生命循環や食物連鎖の絵図のイメージである。
 その言葉を「よく見れば」、その言葉にはじめて向き合った時の感覚によれば、分かるはずのことを、
中井さんの論理的説明によって思い出させられる。ヘーゲルの言葉もそうで、本書で重要な三項になっている
「限界、制限、当為」もほんとうは、それぞれの言葉の感覚そのままに理解できる、ふつうの話である。
ただし日本語の場合、「限界」はまだしも「当為」になると日常生活用語ではないという問題が別にある。
そもそも、本質も概念も認識も自由も論理も発展もすべて漢語であって幕末から明治の近代化の際にこしらえた言葉である。
しかしそれは根本問題ではなくて、言葉を「よく見ていない」こと、その言葉のはじめの感覚を忘れていることをもっと自覚したい。「発展」という言葉をヘーゲルがあまり使っていないということを中井さんから聞いたが、使おうが使うまいが、
それが「成長」と同じ言葉だと分かれば、人は、私は、どうすれば成長できるのか、という問題くらい大事な問題もないはずで、
それがヘーゲル論理学の核心になる、というのも当たり前の話である。
 ヘーゲルの「ただ見ているだけでよい」というのもこの言葉通りの意味であって、本当に見ているだけでよいのかも知れない。
むしろ問題は、ものを見ることができない、ということにある。私は日本語の助詞ハについて長年考えているが、
一段階自分の認識が進んだと思った時、ふりかえってみて、自分がどれだけ「ハ」を見ることができなかったかということに
気づいて愕然とする。よく見たらそのままじゃないか。
 言語を対象にした場合、言語で言語について考えるということになり、手段も言語、目的も言語になる。
が、そもそも言語は手段である。言語という手段をつかって言語という手段のことを考える地獄におちいる。
どこにも対象が見えないのだから、私は何も見ていないことになる。
何に使うのかもわからない道具を人生かけて作り上げる地獄である。冗談じゃない。こういうことを書くのは、
今、やっと、「ハ」が見える感じがしてきたからである。ものが見えるようになればただ見ているだけでいい。
これが2章を読んで考えたことである。
 私のマルクスとのはじめの出会いは、高校の世界史の教科書で、ロシア革命の物語の背後に、マルクスの理論があると知った時。
教科書を読んで感動したのはロシア革命の書いてあるページだけだったかも知れない。
ナロードニキという知的なやつらがロシアの田舎の農民に話しかけ、話しかけることによって世界を変えようとしていた。
レーニンのことはあまり覚えていないが、彼らの知性の親玉がマルクスだと書いてあった。当時の感覚を今の言葉にすれば、
それまでの世界史は「発展」には見えなかったが、ここに「発展」の具体例があった。
人間の知性の発展がそのまま世界を発展させたところに感動があった。
 3章のマルクスは、物語のようだった。中井さんは1、2章で発展の論理を説明した後、こんどはその論理の具体例として、
マルクスという人間の成長物語を描き出している。マルクスが古いものと闘い、革命に挫折し破綻する姿を描いているが、
そこに1、2章で説明された、現実と理想、限界、制限、当為が反映していると思う。
 中井さんはいつも、ヘーゲルから学んだことを自らやって見せ、ヘーゲルやマルクスを批判したあとにはその代案を確実に出す。
おそらく2章と4章が重要なのは、そこが中井さんの代案を出したところだからである。
中井さんの、ヘーゲル、マルクス、牧野さんとの違いは、人間のはじまりの段階の捉え方にあると思う。
すべては欲求衝動、空想、妄想、夢、悪からはじまるという理解が中井さんであり、それをはじまりに置く以上、
どこまでもそれを展開させて終わらせることが発展だということを示しているのだと思う。
 3章に話を戻すと、マルクスに「寄り添う」ことを徹底的にやったという中井さん自らの説明があったが、
対象に「寄り添う」ためには、実証的な調査が必要で、この3章の徹底した実証性もすごいものだと思う。
「経済学批判」への序言に対して精密な注釈を施し、初期マルクスの、あまりまとまりのない、おそらくは読みづらい
大量の文献を丁寧に調べ、物語にとってどうでもよいところをカットしたんだろうと推測される。
初期文献の中にあるマルクスの思い、問題意識をはじまりとして捉え、それが展開し、崩壊する過程を、
諸文献を巧みに構成することで物語っている。「ただ見せるだけ」にしてある。実証的に事実に語らせ、
マルクスという存在を運動させることによって、あとは読者が「ただ見ているだけ」でよいという状況にしてある。
ヘーゲルは「ただ見ているだけでよい」と言いながら、自分の体系を「ただ見ているだけ」で分かるようには書いていない。
中井さんがここまで分かりやすく、「ただ見ているだけでよい」状態にしてくれた。私はこの3章に感動した。

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11 「地域の自立」と中央コンプレックス   笹本 貴之

 読書会には10年ぶりくらいの参加となりました。10年前に鶏鳴学園での学びに区切りをつけて以来、
私は地元甲府で一からペレットストーブ販売事業を立ち上げ、5年前からは上記事業のショールームにカフェとシェアスペースも
併設する施設の運営もしています。
 この間、私は生産力をつけて、地域で生産関係をつくってきたのだと思います。そして地域経済に紛れながら、
それをつぶさに見てきました。これは11年前に「地域の自立」という言葉を掲げて選挙を闘いながら、
実は私自身がこの地域で自立できていなかった、という深い自己反省の結果として、どうしてもクリアーすべき課題への
取り組みでした。
 今回、中井さんの『現代に生きるマルクス』を読んで、このように私の10年間の取り組みを振り返ると共に、
やはりこのまま地域経済に留まるのではなく、もう一度、そこから見えてきた(地方の)地域のあるべき姿、
つまり「地域の自立」を世間に問いたい、という意識が強くなってきました。
 しかし、今回の読書会でZOOMの画面を見ながら、私が無意識に考えていたことは、
「この参加者たちに、私たち地方の経営者の苦悩がわかるだろうか? いや分かるはずがない」ということでした。
そしてこのことは、20-30代に鶏鳴学園で学んでいるときにも、ぼんやりと思っていたことだったと思い出しました。
 私のこのコンプレックスは、未だ経済的にも精神的にも中央に従属している地方の地域社会における中央コンプレックス
そのものなのでしょう。そのことの克服をテーマにする私自身の中の深いコンプレックスに愕然としながら、
「中央でのグローバル経済に対して、地方の豊かなローカル経済を対置」している今の私のレベルから、
より発展的な見方のできる人間になろうと、希望を持ちました。

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12 悪こそは未来          高山 明

 およそ30年ぶりに中井さんの読書会に参加させてもらいました。大学時代以来です。
高校時代に鶏鳴学園に出会い、中井さんの授業を受け、牧野さんにドイツ語を学び、ドイツに留学し、
フライブルクに引っ越された中井さんと貴重な時間を過ごし・・といったことが一気に思い出されました。
Zoomの画面には鶏鳴で研鑽を積んだ笹本さんの顔もあり、30年という月日が一気に吹っ飛んで今に接続されたように感じました。
 『現代に生きるマルクス』を読んでいて、30年前から一貫しているなと思ったことがあります。
それは「至らないもの」に対する中井さんの姿勢で、若さ、感情、空想、妄想、夢、無意識、失敗、間違いといった、
ともすると簡単に「悪」だと否定されてしまうものへの姿勢でした。高校時代、中井さんの授業に出席していた時に
最も救われたのはその姿勢でした。自分の至らなさを可能性として見てくれている、
そこに一人の人間が成長するチャンスがあるとこの人は信じてくれている。
この感覚は私のそれまでの学校生活では体験したことのないものでした。その眼差しにどれだけ救われ、励まされたことか。
「寛容さ」や「あたたかさ」という言葉で表現したくなる姿勢ですが、実は個人の人柄や性格といったものを超えて、
そうした見方こそ発展の論理を地でいこうとする中井さんの実践であり、能力なのだと本書を読みながら改めて思いました。
それはマルクスの見方にも貫かれていました。とりわけ、マルクスが至らないもの(悪)を切り捨ててしまったこと
(発展の論理を地でいけなかったこと)を批判し、本書全体を通してその限界を乗り越え、発展させようとする叙述には、
頭だけでなく胸も打たれました。
 
*今後個人的に考えていきたい点をメモしておきます。
 フォイエルバッハ・テーゼの4は、宗教の「解消」を扱っています。私は演劇をつくっていますが、
演劇は宗教から派生した芸術であるため、テーゼ4で批判されている宗教と深く関係していると思いました。
私は演劇を都市(「自然」の対としての「都市」=「社会における諸関係の総和」の意味に使いたい)に戻すことを
テーマに演劇活動をしています。芸術的に表象化された世界、「王国」として「雲の上」ならぬ「舞台の上」に
固定された演劇をどのように生活のなかに戻すことができるか。(ちなみに、古代ギリシャ劇場では舞台の後ろに
自分達が生活する都市が見えました。都市生活の基礎を支えている共通のデータベースである神話が舞台上で解体され、
批評されますが、観客は客席にいながら舞台と都市の「二重化」を体験していたわけです。)
解消でも除去でもないかたちで「舞台芸術」にすぎない現在の演劇を批判し、演劇を都市へと返すこと。
その方法がテーゼ4に先取りして書かれているように思いました。この方法(能力)を自分のものにし、
演劇を更新したいです。(それはきっと、本質的に古代ギリシャ演劇へと戻ることを意味するのでしょう。)

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13 20世紀最大の実験、共産主義国家失敗原因探求     宮田 晃宏

 今回、初めて中井先生が主催する読書会に参加させて頂いた。私は、熊本県の高校教諭で教科は「農業」、
採用は「食品製造」である。しかも、農業高校出身で大学も農学部の農芸化学科出身であり、
その後、少々の社会科学を学んできたが、哲学を勉強したことはない。このような状況下で初めて参加ということであった。
 私の「マルクス」の印象と言えば、共産主義の象徴であり、ソビエト連邦時代のクレムリン「赤の広場」でエンゲルス、
レーニン、スターリンと共に掲げてあった肖像画である。スターリンの率いたソビエト連邦は第二次世界大戦で2,800万人
(全世界8,500万人、日本310万人、ユダヤ人590万人)とも言われる犠牲者を戦死者よりも餓死者や強制収容所で多く出し、
私はヒトラーを遥かに凌ぐ史上稀にみる独裁者だと捉えている。また、この他にもカンボジアの国民の1/3を虐殺した
ポル・ポト、キューバ危機を引き起こしたカストロ、ルーマニアのチャウシェスク、北朝鮮の金日成、
中国毛沢東の文化大革命、プラハの春、ハンガリー動乱、日本の連合赤軍事件というように例を挙げるとキリがないが、
共産主義を基にした国家・組織には正直言ってかなり悪いイメージを持ってきた。
 ただ、私が住む熊本市南端の隣町に嘉島町というのがあるが、この町出身に松前重義という人物がいる。
松前重義は、東海大学の創設者であり、共産主義の思想に寄り添っていたことでも知られている。
しかし、私は悪いイメージはなく、逆に好印象を持っている。そこで、「なぜ松前重義は共産主義に寄り添っていたのか」
と疑問に思っていた。
 また、今にして思えば、共産主義国家や組織が起こした出来事や事件にばかり目が行き、
「では、共産主義とは何か?」を深く知ろうとはしていなかった。それで今回の読書会に参加することは、
世の中や人間の根幹を考えるいい機会となった。加えて、自分の思想信条の根幹を確固たるものにするために
哲学は重要であると考えるようになっていたので、その入り口に立てたのは良かった。
これからも折をみて時間を作って学んでいきたい。

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14 ブルセラショップの解説を、自由主義で説明するのは、度肝を抜かれました   ゆげ ひろのぶ

 御本は、自身の学力では及ばない所、多々でしたが、ブルセラショップの解説を、自由主義で説明するのは、
度肝を抜かれました。確かに、「マルクスは古い」と言われます。トヨタの工場に人がいない時代なので、
「剰余価値説」は時代にそぐわないと言われます。
 しかしながら、「弁証法的に、封建制から資本主義、そして社会主義への発展」は現在でもなお、圧倒的な説得力があります。
 もちろん、学問の再構築が必要であり、貴塾も当塾もその人材を準備しているところに強烈な使命感があると
勝手に推測しております。

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