6月 17

個人と組織の関係は大きな問題です。
それは結局は、組織のルールの内容と運用にかかっていると考えるようになりました。

中学生や高校生を指導していて、学校という生徒たちの生活の場にはルールがない、
またはルールが明文化されていないことに驚きました。
これは深刻な問題だと思います。
なぜそうなってしまうのでしょうか。

改めて、この大きな問題をヘーゲルにまでさかのぼって考えてみたのが本稿です。

 学校現場の関係者には、ぜひお読みいただき、感想やご意見をいただきたく思います。
また、この問題は、単に学校だけではなく、私たちの社会全体の問題だと私は考えています。
その意味で、読者のみなさまにはぜひ一緒にこの問題に取り組んでいただきたいと願っています。

■ 目次 

個人の問題と組織(ルール)の問題  中井浩一

1.鶏鳴学園の中高生の作文
2.組織運営上のルールの問題
3.個人の問題はどのように取り扱うべきか
4.私たち大人の低さ
※以上が本日、以下は明日掲載します

5.近代社会の原理原則とヘーゲルの『法の哲学』
6.マルクスの問題
7.犯罪と刑罰

付録 「部活、サークル、クラスの行事などの問題」(鶏鳴学園で高校生に配布しているプリント)

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1.鶏鳴学園の中高生の作文

 鶏鳴学園の中高生は作文の題材として、クラブや部活などでの運営面の諸問題をよく書いてくる。
部長や顧問や、先輩、後輩、同学年のメンバー、その個々の言動の問題点がぎっしりと書かれてくる。
 また、文化祭や体育祭などの行事へのクラス参加の際の問題もよく書かれる。
クラスや行事担当の教員、クラスのリーダーや責任者とその他のクラスメンバーの葛藤。そこでも個々人の言動が問題にされる。
 これらは、彼らにとっての身近で切実な問題なのであろう。

 しかし読んでいるとおかしいと感ずることが多い。
 組織の運営上の問題であるにも関わらず、個人の問題ばかりが取り上げられて、組織の問題がほとんど意識されていないことだ。
これはどうしたことだろう。
 一般に組織にはその運営上のルールがあり、そのルールに基づいて運営される限り、
個人の問題だけがこれほど大きな比重を占めることにはならないはずだ。

 調べていくと、現在の学校では、どうもこのルールに大きな問題があるようなのだ。
そもそもルールがない。または暗黙のルールがあるだけで、明文化されていない。
役職や責任者の権限と責任があいまいだ。そのために、その時々の力関係でいろいろなことが決まっていく。
 そこでその不満は個々人へと向かうことになる。その人間の善し悪しが断罪され、その言動が細部に至るまで吟味される。

2.組織運営上のルールの問題

 以上のように考えるにいたったので、鶏鳴学園では、中高生たちには、組織運営上の問題にあっては
個々人の問題の前に、組織の問題があることを説明し、自分たちの組織のルールがどうなっているのかを
意識させることにした。実際に高校生に配布しているプリント「部活、サークル、クラスの行事などの問題」
は付録して収録する。
 そこでは以下のように説明している。

 組織には目的があり、その目的達成のために作られたのが組織なのである。
したがって組織にはその目的達成のために適切な組織の構成とルールが必要である。
 そしてこれらのルールがあり、そのルールに基づいて運営されている場合、個人に求められることは
そのルールを守って、組織の中での自分の役割を果たすことだけである。
 したがって、個々人の問題の前に、組織のルールの問題があるのだ。
 個人を批判したり断罪できる観点とは、本来はそのルールを守っているかどうかだけなはずである。
それ以外に、それ以上に、その良しあしは、問われてはならないのではないか。
 要するに、組織の運営上のことで個人の言動を問題にできるのは、組織のルールが明示されており、
それがみなで確認できるようになった後でのことだ。

 ところが、実際は、その肝心なルールが明示されておらず、あいまいなことが多い。
その場合は推測や忖度がはびこり、疑心暗鬼になり、運営する個々人の言動が問題にされるようになる。
しかもそうした疑問や不満がオープンになることはなく、陰でこそこそと愚痴りあうのが関の山だろう。
 だから、何よりもまず、自分たちの組織のルールを明らかにしなければならない。
そもそもルールがあるのかどうか。どのようなルールが明示されているのか。
場合によっては、「暗黙のルール」がたくさんあり、それらが明文化されていない場合も多いだろう。
それらを含めて、すべてをオープンにし、みなで確認し合うことだ。
そのためには、そもそも組織のルールとは何かを知らねばならない。

 では組織のルールとはどのようなものなのか。
 組織には目的があり、その目的達成のために組織とルールがある。
 したがって、何よりも、その目的をメンバー全員でつねに確認し合う機会が必要だ。
 そしてそれが確認されたならば、その目的達成のために組織内の分業、分担、それぞれの役割・役職などが設定され、
その権限と責任が決まる。
 その上で、組織の意志決定と問題解決のルールが必要になる。
 組織を運営する場合、常に何らかの意思決定をしなければならないが、その意思決定をめぐって
対立が起こるのは当然で必然的である。したがって、その意思決定のルールや手続きを決めなければならない。
その意思決定のプロセスと、最終決定に誰がどのように関わるのか。その権限と責任が明示されるべきだ。
そしてその意志決定後には、その決定がどこまで適切だったかを振り返り、その責任を含めて話し合うことが必要だ。
 また、組織には常に問題が発生し続けるから、それを解決していくプロセスも決めておかなければならない。
ルール違反への対応や罰則もその中に入れておかなければならない。

 さて、ではルールを作ろうとなった段階で、さらに指針を与えている。
彼らはそうした経験がほとんどなく、それゆえに、しばしば善か悪か、正しいか否かの二元論に落ち込むからだ。
 そこで、以下を注意している。
  ・100点満点や「正義」を求めない。
  ・現状よりもよりマシなもの、現実にすぐに変えられるもの、具体的なものになっており、
   それが守られているかどうかを誰でもチェックできるようにする。
  ・ルールの改正のためのルールを決めておく

 説明しよう。
 ルールは、その組織の現状、そのメンバーたちの能力などの諸条件を反映し、それに依存する。
その大枠の中で、可能な範囲で、ルールを作るしかない。
 しかし、ルールがあること、それを意識して問題やメンバーと向き合うことは、自他が利害対立する問題を自覚し、
その解決のための話し合いを促し、その理解を深めるだろう。こうしてルールはメンバーを成長させる。
そして、メンバーが成長していく過程では、ルールも成長していく。
 つまり、ルールは、その組織の発展段階を反映するものなのであり、現状や発展段階に合わせて変えていかなければならない。
 ルールは不変のものではない。むしろその逆で、その組織とメンバーたちの現状、直面した問題などに合わせて、
たえず見直し、改訂、改正していくべきものだ。そうでなければ、すぐに形がい化し、神棚に飾られる置物になり下がる。
 したがって、ルールの改正のためのルールが必ず必要になるから、最初からそこまでを含めて設定しておかなければならない。

3.個人の問題はどのように取り扱われるべきか

 さて、ではこうして組織運営上のルールが策定され、メンバー間で確認されたとする。
そこで初めて個人の問題を正面から問うことができるのだ。
 すでに述べたように、個人の言動の善し悪し、正邪を、それだけで論じることはできない。
それではただの抽象論に止まり、十分な根拠が出せないであろう。
個人の善し悪しは、当人が所属する組織の具体的なルールとの関係において初めて、
具体的かつ客観的に問うことができるのである。
 では個人の問題はこの段階でどのように問うことができるのだろうか。
 まず組織の側から見れば、それは簡単である。ルール違反があれば、その違反への対応もすでにルールの中に
書かれているから、それに従えばよい。ルール違反が確認されれば、ルールを守ってもらうための処置がなされる。
責任の大きさに応じた処分がなされ、罰則が適応されるだろう。役職の降格から除名までがありうる。
 しかし、普通はそれだけでは済まないであろう。違反が繰り返される場合は、
そうした違反が起こった過程や原因が問題になり、その個人の生き方や姿勢、考え方などが問われるだろう。
しかし、それはルールの範囲からは逸脱している。
そもそも組織は、どこまで個人の内面に踏み込むことができるのか。
他者や組織が、ある個人の生き方や考え方を批判することは、どのように許され、可能なのか。

 本人がそれをどう考えるかは、当人の責任で自由に行えばよい。
 問題は他者や組織による批判や弾劾である。とりあえず、この原則だけは示しておきたい。

 まずは、組織による批判には限界があり、その自覚が必要である。
この限界への自覚の有無は大きい。それがないと、組織による個人のつるしあげが起こる。
そこでは道徳的な批判もエスカレートする。そこでは、個人の人格の全否定にまで進む可能性がある。
(旧社会主義国、共産党による個人の「査問」、「自己批判」の強要、「粛清」などを想起されたし)

 次に、個人の問題と組織の問題とは相互関係であるという点だ。
個人を問うことは、その組織を問うことであり、その逆も同じである。
 一般には、組織のルールで個人が裁かれるのだが、実際には個人の生き方の方が、
組織のルールよりもはるかに高いレベルであることはまれではない。
その場合は、その個人を裁こうとすることは、逆に、その組織の内実が問われる。
組織の質やルールが厳しく問われることになるはずだ。(例としては企業や役所への内部告発など)
 組織の側に目を向ければ、家庭、学校、会社、地域や国家にいたるまで、組織には実に様々な
レベルと種類があり、その組織の目的や、その組織への入会と退会が自由であるかなどの条件がことなる。
その目的や条件によって、そのルールの是非や個人に対する権限が改めて問われねばならない。
また、個人は複数の組織に属し、その組織間は横並びの場合(各クラブのルールや各クラスのルールなど)も
上下関係(学校のルールとクラスのルール、憲法と諸制度など)の場合もある、
ルールとルールの間の対立、矛盾もある。それも問題になる。
 個人を問うことは組織を問うことであり、組織を問うとは、個人を取り巻く種々の組織の全体の関係を見ていくことである。
個人と組織との相互関係における対立や矛盾や葛藤によって、この社会は発展し、個人も発展していくのである。
 なぜなら、個人の生き方(思想)も組織のルールも、その根拠を深めれば最後は「人間とは何か」という
問いに行きつくからであり、その答えとして様々なレベルが対立し、それによって深められていくのだからだ。

 だから最後は発展観が問われる。
 個人の成長過程、組織の成長過程の発展的理解、人間の本質、組織の本質、個々の組織の相互関係の理解、
それらを全体的に理解していくことが必要である。
 組織にあっては、その実質的トップの、この観点における理解力にすべてがかかっている。

4.私たち大人の低さ
 
 さて、では、これほどに重要なルールが確立されていない学校が多いのはなぜか。
 なぜ、ルールの根本的な意味が、きちんと指導されていないのだろうか。
 学校で問題が起こると、先生たちは「話し合え」などと簡単にいうが、話し合って何をすれば良いのか。
何がどうなると解決なのか。それが示されていないのではないか。
 反省文を書いたり、加害者が皆の前で謝ったり、加害者と被害者を握手させることが解決ではない。
本来は、話し合って、解決に向けたルールを作ることが解決への一歩なのではないか。
 学校で生徒たちにルールが意識されるのは、多くの場合校則によってだろう。
しかしそれは、制服、制帽、服装のこまごまとした規定、携帯やスマホの所持使用の禁止などの
日々の生活への規制としてのものであり、その校則改正への動きが一部にあっても、
それは規制から自由になりたいというものに留まる。
自分たちの日々の問題を自分たちで解決していく手がかりになるルールは考えられていないのではないか。
 もちろん、問題は学校にだけあるのではないだろう。
日本社会のどの組織でも、同じ問題を抱えていて、それが教育の場故に学校において集約的に現れるだけだろう。

 さて、このようにこの問題は、一般的に放置されているのだが、その理由は、私たち大人たちが、
教師たちが、両親たちが、こうしたルールの意味や役割をほとんど理解していないからではないか。
 校則や法律などのルールのナカミを議論することはあっても、そもそものルールのあることの意味は、
ほとんど考えられたことがないのではないか。
 こうしたことが理解されないのは、ルールというものを、国家、地方自治などの大きな政治上の法律や
条例など(せいぜいが学校の校則まで)しか、意識されておらず、
それが日常的な生活の場から切り離されているからではないか。
 そして、日々起こっている個人間の問題は解決できないままに、その力関係で決まったり、
その場その場の状況に流されて決まるだけ。そして、それが国会の場で、狭義の政治の場でも行われているだけ、
つまり、それが大きく言えば、今の私たちの社会の能力の現状だとも言える。
 ではどうするか。
 狭義の政治のことは別にして、今すぐにできることから始めたい。夫婦関係、親子関係、
小グループの問題への対応である。
 人間が2人いたら、そこには必ず意志決定の問題が起こる。その際、ほとんどは力関係で決まったり、
その場その場の状況で決まったりしているだけ。本来は、とりあえず、ルールを設定し、
それを守りあうことで解決していくしかなのではないか。
 夫婦関係も、親子関係も、そこに現状をよく反映した具体的なルールを設定しない限り、
問題は抽象的な一般論に留まり、「世間では?」「普通は?」「本来正しいのは?」といった
水かけ論や罵りあいになるだろう。
 ルールを作り、その内容を確認し合いながら、そのルールはそれに関わる人間たちの現時点のレベルの
反映であることを自覚する。個人と組織のルールとは相互関係であり、
その対立・葛藤に、私たちのどのような本質や問題が現れているかを考え続け、それを深めていく。
そこから次のルールが生まれるだろう。こうした過程を歩んでいく以外に解決に向けた方法はない。

 こうした小さな組織でのルール設定は、最小単位ではあるが、まさに政治なのである。
政治の学校とは、そこにある。
そうした小さなところから、ルールの意味を学習していき、学校やクラブなどでもそれを学んでいくことが、
民主主義や政治を学ぶことになる。それが狭義の政治をも根本的に変えていく力になるだろう。

明日掲載分につづく

6月 13

高校作文教育研究会(高作研)運営の8月開催の日本作文の会主催の全国作文教育研究大会(九州・福岡大会)での高校分科会について御案内します

高校作文教育研究会は、中井が関わっている高校段階を中心とした表現指導の研究会です。
年に3・4回の例会を開催し、夏には全国大会の高校分科会を運営しています。

今年の夏の高校分科会では、私も報告をします。
また、農業高校での宮田晃宏さんの実践報告や、中俣さんの実践報告を私も楽しみにしています。
今年、宮田さんの実践を知り、感銘を受けました。国語という教科とは無縁の教師が、ただただ目の前の高校生のためになることを必死でやった結果、それが3年間の膨大な表現指導となったのです。それによって高校生が生まれ変わったように、それぞれの夢を持ち、その夢に向かって走り出します。
関心のある方は、ぜひ、おいでください。晩には懇親会もあり、じっくりと話し合うことができます。

◎8月全国作文教育研究大会(九州・福岡大会)での高校分科会「青年のことばと表現」の案内

高校作文教育研究会は、今年も、「日本作文の会」主催の「全国作文教育研究大会」で、高校分科会「青年のことばと表現」を運営します。
みなさん、どうぞ奮ってご参加ください。

今年の全国大会は、8/3?5、福岡で開催されます。高校作文教育研究会が担当している高校分科会は、8月4日(午前と午後)?5日(午前中)に行います。
高校2本、中学・専修学校各1本のレポートが報告されます。
思春期から青年期にかけての生徒・学生たちとのどんな文章表現による取り組みが発表されるのか、今年も注目です。

〈高校分科会での報告の概要と発表者〉
8月4日(土)

1 作文「自己を見つめて」を通して生徒につけさせたい感性と力
中村 薫(北海道・中学)

自分を取り巻く環境や自分の姿に向き合わせ、これまでどう生きてきたのか、これからどう生きるのかを考えさせるための実践を報告する。時代は変化しても子どもにとって大切な学習であるとは思いつつ、文科省の学力調査の悪しき影響をまともに受けて、義務教育の中では、生活文を書かせること自体に困難さを感じながら指導している。

2 文章表現指導は全科目指導そして全学校生活指導
宮田晃宏(熊本・高校)
         
指導困難校である農業高校において行った実践。クラス経営の根幹としての「書かせる指導」であり、生活・学習習慣・進路だけでなく、その生徒の人生にも多大なる効果をもたらした。方法としては、週に2本、1,000字程度で、身の回りの事・時事・農業について書かせた。これは、農業教科教員(採用:食品製造)の指導で、一個人でもできる実践である。

3 個人の問題と組織(ルール)の問題
中井浩一(東京・国語専門塾)

鶏鳴学園の中高生は作文の題材として、クラブや部活、文化祭や体育祭などでの運営面の諸問題をよく書いてくる。しかし読んでいておかしいと思うことが多い。組織の問題であるにも関わらず、個人の問題ばかりが取り上げられて、組織(ルール)が問われることがほとんどない。現在の学校では、どうもこのルールに大きな問題があるようなのだ。
鶏鳴学園では、組織のルールと個人の関係を整理し、生徒には問題への原則を提案し、それに基づいた問題解決をうながしている。

昨年秋の高校2年生への意見文とこの春の小論文講習での指導から、生徒の認識の深まりや、実際の活動や考え方の変化を報告したい。意見文や小論文指導の意義や役割についても考えてみたい。

8月5日(日)
 「ありのままに書くこと」「読み合うこと」は「後ろに発達を従えた教育である」か?
中俣勝義(鹿児島・専修学校)

柴田義松著『ヴィゴツキー入門』(寺子屋新書)のなかの、「明日の発達に目を向ける教育」というところに≪教育はつねに「後ろに発達を従えた教育」でなければならないのです≫という言葉がある。
私は勤務する看護専門学校で学生たちと『蟹工船』(小林多喜二作)を講読している。『蟹工船』を読み解き、書き合い読み合う中で、桜子は、自分自身と向き合い、家庭の貧困を語り出す(内面的発達)。学生たちが書いたレポートを読んで、果たして「書くこと」「読み合うこと」が、「発達を後ろに従えた教育」であるかを皆さんとともに検証してみたい。

○高校分科会への参加をご希望の方は、下記、高校作文教育研究会ブログ内のお問い合わせフォームにてお申し込みください。
https://keimei-kokugo.sakura.ne.jp/sakubun-contact/postmail.html

○なお、分科会参加のためには、大会参加券が必要です。
大会参加券や宿泊については、以下「全国作文教育研究大会の全体について」の「参加券」「宿泊」を参照してください。

○「全国作文教育研究大会の全体について」
■ 期日・会場
8月3日(金)全体会 西南学院コミュニティセンター・ホール
8月4日(土)分科会 西南学院小学校
8月5日(日)分科会・全体会・特別講演 早良市民センター

■ 参加券
3日通し前売り券 教職員5,000円 退職教職員3,000円
(当日参加はそれぞれ500円増し)
各自で申し込んでください。
→申込先  現地実行委員会事務局 楳本晃章(うめもとてるあき)
TEL 070-6949-5399 FAX 092-608-0367
PCメール:umemoto@d7.dion.ne.jp
携帯メール:teruakiumemoto@willcom.com

■ 宿泊 案内にあるホテルをご利用ください。
詳しくは、nissaku.c.ooco.jp/2018fukuoka.pdf で検索してください。

※詳細は、「日本作文の会」のHP http://nissaku.c.ooco.jp/ をご覧ください。

6月 12

高校作文教育研究会(高作研)の6月例会(6月24日(日))について、御案内します

高校作文教育研究会は、中井が関わっている高校段階を中心とした表現指導の研究会です。
年に3・4回の例会を開催し、夏には全国大会の高校分科会を運営しています。

高作研に関心のある方は、以下のブログから、研究会の活動の詳細を知ることができます。
また参加申し込みもできます。

高校作文研究会ブログ
http://sakubun.keimei-kokugo.net/

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6月例会(6月24日(日))の案内

6月の例会では二つの報告と、その討議があります。
一つ目は、茨城の菅井さんの実践報告です。長編小説を読みあい、エッセイを書きました。どのように指導され、どんな作品が生まれているのか、たいへん楽しみです。
二つ目は、運営委員の一人、宮尾さんの報告です。今は、若者たちの保守化が問題にされますが、自衛隊や戦闘機などに関心の高い「右翼少年」がとても多いのです。こちらも今ぜひ考えたいテーマです。

例会の時間が午後になっています。ご注意ください。

1 . 期 日   2018年6月24日(日)13:00?16:30

2. 会 場  鶏鳴学園
〒113?0034  東京都文京区湯島1?3?6 Uビル7F
ホームページ https://www.keimei-kokugo.net/
 ※こちらで地図をご覧ください

3. 報告の内容
(1) 同時代・純文学小説の読解とエッセイによる表現の可能性
茨城 太田第一高校 菅井洋実

論理的な文章の読解と、推論に基づいた論理的表現の重要性が再認識されている一方で、文学の担う役割はますます重要になってきているのではないか。
人生を真摯に生きていくなかで、ときには断言て?きず決然たる立場を取り得ないことや、語り得ないことについて沈黙することか?、知的誠実さて?あるような局面も現に存在するのて?はないか。
論理と論理の狭間で明確に形を結ばないものを、有意化しようとする言説の過程で、どこにも回収されずに漂っている、未言語で一見無意味に見える「あわい」ものを、切り捨てず語らせることは、国語教育に関わる者の本来的な使命のひとつではないか。

昨年度、高校1年次の国語総合(現代文)の授業で、後期10週19回にわたり導入の時間を使い長編小説(『淵の王』舞城王太郎著)を読破させた。
生徒が同時代純文学の魅力に触れて成長するようすを、生徒のエッセイ作品を通して報告し、 論理的な文章の読解と表現だけでは得られない、豊かな文章表現の広がりと可能性を考えたい。

(2) 18歳選挙に見る生徒の姿から生徒の学びを考える
?「右傾生徒」をどう考えるか?
東京 正則高校 宮尾美徳

選挙権を手にした高校生による新聞読み比べ作文には、これまで見たことのない高校生の本音が現れた。彼らの生活の現実とその政治感覚がまったくつながっておらず、総じて右傾化している。それはなぜなのか? 3年間で何を学ばせるべきなのか? 生徒の作文から考えたい。

4. 参加費   1,000円(会員無料)

5. 参加をご希望の方は、下記、高校作文教育研究会ブログ内のお問い合わせフォームにて、開催日の一週間前までにお申し込みください。
https://keimei-kokugo.sakura.ne.jp/sakubun-contact/postmail.html

5月 02

高校作文教育研究会の再出発
1998年に我々高作研が発足してから20年、2016年には『「聞き書き」の力』を大修館書店より刊行し、活動の成果を一応形にすることができました。一区切りついたところで、昨年の秋以降半年ほど、今後の方針を巡って、運営委員で話し合いを続けてきました。
高校3年間を貫くような指導体系、基礎となる経験作文の意味や諸問題、高校段階のゴールとしての論理的な文章の意味や諸問題、そうしたことをテーマにして、共同研究を重ねていきたいと思います。

以下、5月例会は、そうした方針をもっての最初の例会になります。

高校作文教育研究会5月例会
2つの報告と討議があります。

1つめは、古宇田さんによる、表現指導の入門期の指導についての報告です。入門期の指導は重要です。始まりがその後のすべてを決めるからです。どういう考えで、どういう指導をしていったらよいのでしょうか。それを古宇田さん自身の若かりし日の実践を題材にして検討します。
古宇田さんは、長く日本作文の会の常任委員を務めてきました。その古宇田さんの「初心」が聞ける貴重な機会になると思います。

2つめは、中井さんによる意見文、小論文の指導の実践報告です。クラブや部活、文化祭や体育祭などの行事作文や、それに関する意見分はよく書かれていると思います。そこには様々な問題が出てきますが、本来はどういう観点からの、どういった指導が必要でしょうか。それを検討したいと思います。
中井さんは、『日本語論理トレーニング』や『脱マニュアル小論文』などの著書があり、そのエッセンスを聞く機会です。

みなさんにとって、すぐに参考にして授業に生かしていただけるとともに、表現指導をさらに本質的に考えていくヒントにもなると思います。どうぞ、みなさん、おいでください。

1  期 日   2018年5月27日(日)13:00?16:30

2 会 場  鶏鳴学園
〒113?0034  東京都文京区湯島1?3?6 Uビル7F        
 TEL 03?3818?7405
 FAX 03?3818?7958
ホームページ https://www.keimei-kokugo.net/   ※こちらで地図をご覧ください
       
3 報告の内容

(1) 初めての実践「今でも忘れられないことを、出来事の通りに、詳しく書いてみよう」を
書かせた時のこと
茨城 古宇田栄子

1973年、教師2年目で初めてやった作文の授業を報告します。

当時、班日誌の指導に行き詰まっていた私は、「あったことをあったとおりに、事柄を押さえながら詳しく書いていく展開的過去形表現」の方法で、
「長い間の生活の中で、今でも忘れられないある日ある時のことで
喜んだり 悲しんだり 苦しんだり 腹立ったりしたことなどを
よく思いだして、時間の順序に生き生きと書く。」(高校2年)
を指導しました。
その時生まれた生徒作品「私の胸に輝く日々」が今でも私を励ましてくれます。事柄をふまえて書くこと、がすべての文章表現指導の始まりであると思います。

自分が書きたいことは何か、を考えさせること。
事柄をふまえて書く、詳しく書くということはどういうことか。
誰でも実践できる入門期の指導をやさしく詳しく報告するとともに、それが若い先生たちと今時の生徒たちに通用するのか、どう役立たせることができるのか、を皆さんとともに考えたいと思います。

(2) 個人の問題と組織(ルール)の問題
                                      東京 鶏鳴学園  中井浩一
 
鶏鳴学園の中高生は作文の題材として、クラブや部活、文化祭や体育祭などでの運営面の諸問題をよく書いてくる。しかし読んでいておかしいと思うことが多い。組織の問題であるにも関わらず、個人の問題ばかりが取り上げられて、組織(ルール)が問われることがほとんどない。現在の学校では、どうもこのルールに大きな問題があるようなのだ。
鶏鳴学園では、組織のルールと個人の関係を整理し、生徒には問題への原則を提案し、それに基づいた問題解決をうながしている。

昨年秋の高校2年生への意見文とこの春の小論文講習での指導から、生徒の認識の深まりや、実際の活動や考え方の変化を報告したい。意見文や小論文指導の意義や役割についても考えてみたい。

4 参加費   1,000円(会員無料)

連絡先  田中由美子 (鶏鳴学園)
メールアドレス keimei@zg8.so-net.ne.jp

3月 24

報告
3月20日の朝日新聞の「平成とは あの時」で、私のコメント(数行)が掲載されました。

「平成とは あの時」は、平成になってからの30年を大きく振り返る企画です。

今回のテーマは、20年前の大騒ぎ「学力低下」で、その論争を振り返り、現在進行している教育改革を考える企画でした。

記者は朝日で教育を担当している編集委員の氏岡真弓さん。

鶏鳴学園で2時間ばかり話し合いました。

彼女とはこの20年間で何度も、教育現場で顔を合わせてきましたが、じっくり話したのは初めてでした。