夏の集中ゼミには12人が参加しました。学生が1人で、他は社会人です。
参加した方々の感想を掲載します。なお、『国家』の読書会の記録も公開します。
私の現段階での理解や問題提起はそこで示すつもりです。
■ 目次 ■
■ 目次 ■
集中ゼミの感想
1 「現実と闘う」とはどういうことか 宮下陽菜
2 畏敬の念 鈴木明規
3 プラトンの透明な目 塚田毬子
4 笑って読めばいいじゃん 鈴木英規
5 欲求への信頼 高松慶
※ここまでが本号掲載。以下は次号へ。
6 配偶者や子を「所有」するという意識 田中 由美子
7 いつもとちがうソクラテス 松永奏吾
8 全体小説 松永奏吾
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◇◆ 1 「現実と闘う」とはどういうことか 宮下陽菜 ◆◇
私は今回初めて集中ゼミに参加した。予習が追い付かないと思ったため現実と闘う時間のある初日のみ、参加した。そこでは許萬元の弁証法の論理の第二編を読み、牧野さんの書いたサラリーマンの弁証法の主張を確認するように読んだ。そのあとに現実と闘う時間に参加しだ。
私は読む順序を間違てしまい、許萬元の本については日本語の意味を理解するのに精いっぱいであった。しかし前の読書会で中井さんの『ヘーゲル哲学を研究するとはどういうことか』を読んでいたので少しは書いてあることは日本語として理解できた。また現実と闘う時間で実践されている、自己内省を通じて自己矛盾を克服することや、以前中井さんがいっていた真にリアルなものが本質だということの意味も、現実と闘う時間を通して少し理解できたような気がした。
またそのあとに行われた「現実と闘う時間」では、主に親子関係の三つの段階について議論をした。 この問題は私が現在直面している問題でもある。親子関係について、また意見が対立した場合はどのように対応するべきか、についても意見交換をした。私は意見が対立した時に、どちらか一方がどちらかの意見に合わせるしかないと考えていた。しかしゼミのメンバーの方の意見を聞き、ヘーゲルの哲学の対立こそが矛盾であり、両者の意見の対立を乗り越え、発展させていくことが重要であることが分かった。哲学書を呼んでも
内容を理解するので精一杯だったがヘーゲルの真にリアルなものが本質であるということは日常生活、現実に哲学を実践する場面があるのだと,当たり前のことだがより一層理解できた気がした。
今回で哲学書など、ヘーゲルを理解することは自分にはまだ難しく、しかし中井ゼミで読んだ本などをしっかりと読み直して自分の中に問いを立てられるようにしていきたいと思った。私は批判意識が弱く、読書会でも問いを立てながら読むことができていないのでまずこれまでに参加した読書会の本を読み返そうと思った。また「現実と闘う時間」に参加して、普段の生活の中に出来事は起こっているのだと思った。自分の問題意識次第だと思った。
そのためには一回一回の文章ゼミに必ず精いっぱい文章を提出し、常に自分の現実と向き合い進んでいくことしかないと思った。
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◇◆ 2 畏敬の念 鈴木明規 ◆◇
プラトンの『国家』第6巻10章にある「すべてこうしたことをよくよく考えてみたうえで、彼は、静かに自分の仕事だけをして行くという途を選ぶ」。この一文は、救いようのないようなプラトンの現実認識の記述の後に現れる。読書会でこの一文を読んだとき、私は、ここにプラトンがいるなと思った。自身の作ったアカデミアをも否定した上で、何も飾らない等身大のプラトンが、ここにいるなと思った。プラトンでさえ組織作りに失敗するのかと、親近感さえ湧いた。
中井さんに「正解主義」、「きれいごと」と批判されることの多い私は、プラトンの現実認識を学びたくて、読書会の後に第2巻1章から9章の現実認識の箇所と、第6巻3章から10章の哲学無用論の箇所を繰り返し読んだ。プラトンの現実認識は、以下のようなものだ。
大衆が本当のところ求めているのは、やりたい放題の自由である。しかし、彼らは凡庸な素質しか持たず、やりたい放題の自由が叶わないため、逆に他者からやりたい放題されないために、法律を守っている。大衆にとっての「正しさ」、「善いもの」とは、彼らが好むもの、都合の良いものであって、本当の正しさ、善いものとは何の関係もない。そもそも彼らが求めているのは「正しさ」ではなく、それに伴う評判や名誉である。教育者、政治家、裁判官、芸術家などすべてが大衆に迎合している。そういう人たちにソクラテスは殺された。
他方で、哲学者は国にとって何の役にも立たないろくでなしである。哲学にふさわしい自然的素質に恵まれた者は、その素質の故に逆に堕落し哲学の元を去っていく。哲学の元に残るのは、哲学の持つ威厳を求めてやってきた、凡庸な素質しか持たない不釣り合いな人間たちだけである。
おそらく今の社会の現実もこのままなのだろう。この現実認識ができないと、その先はないのだろう。プラトンの肩に乗って、私も現実社会を見られるようにならないといけない。そんなことを考えながら、再び冒頭に書いた一文を読んでいたとき、この一文の中にいるプラトンではなく、自身やアカデミアも含めた現実社会を突き放して観察し、この物語を書いている側のプラトンを想像したとき、急に恐ろしくなった。2,500年も前の人間がすぐそばにいるような感覚、圧倒的な能力を持った巨人がそばにいるような感覚。
これは私が人間に対して感じた初めての感覚だったと思う。現実社会の深い洞察が、2,500年の時を超えたのだと思う。
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◇◆ 3 プラトンの透明な目 塚田毬子 ◆◇
プラトンの『国家』にある理想国家のための三つの「大浪」のうち、二つ目の「妻子の共有」のとんでもなさは、2026年でもなお色褪せない衝撃的な提言だ。すべての女たちはすべての男たちの共有であり、一人の女と一人の男が私的に結びつくことは許されない。また子供たちも共有であり、親が子を知ることも、子が親を知ることも許されない、というもの。
特に、より良い血統からより「正当」な子供を国が産み育て、他方「欠陥児」が生まれた場合は国が葬るべきだというくだりは、優生思想と捉えられても擁護できないほど極端である。
しかしプラトンがここで考えていることの核心は、人間に優劣をつけることではないと思われる。ここで優生思想が飛び出てきてしまうところに、古代ギリシアの「正義」の限界があるのではないか。
プラトンの問題提起の核心は、家庭こそが国家を分裂させる根源だと見ている点である。国家を分裂させ、一つの国を多くの国にしてしまう大きな「悪」、これが人間が産み育てられるところの家庭だとしている。ここでは楽しみと苦しみが個人的なものとして私有されている。この苦楽の共有が家庭ごとに「私のもの」として存在し、そうではない「他人のもの」もまた存在する場合、国民は分裂する。他方で、国民全体が「私のもの」として一つの国家を共有している状態が、「善」であると。
私がおそろしいのは、おそらくプラトンはこの「妻子の共有」の実現を想定していないということだ。『国家』でこれが展開されている箇所を読んでも、これが受け入れられるのはかなり無理ということをわかっているのがわかる。つまりこれは初めから極論なのだ。プラトンには国家の生成の必然性、その根源にあるものは家庭だと見えた。人間が生まれるところの家庭にどれだけ深くて大きな問題があるかという問いを、ひっくり返して我々に見せたのだ。この記述は現実的な解決策を教えてくれない。
根源まで見通したプラトンの透明な目がこちらを見ているおそろしさ。これが文学の力でなくて何だろうか。
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◇◆ 4 笑って読めばいいじゃん 鈴木英規 ◆◇
今回の集中ゼミでは、許萬元の『ヘーゲルの弁証法』、プラトンの『国家』、ヘーゲルの『歴史哲学講義』を読んだ。三つとも一人で読むにはかなり手強い本なので、こうして皆で読む機会をつくってもらったこと自体がありがたかった。
最初の許萬元は、文体に取りつきにくさがある。また、ヘーゲルをまだ十分に読んでいないわたしには、「ヘーゲル自身」と「ヘーゲルを紹介する許萬元」との区別がつきにくい。しかし今回、許のヘーゲルの読み方に目が向くようになった。ヘーゲルの論理学の概念の順序をそのまま踏襲するのではなく、あちこちから議論を拾ってくる。また、「止揚」という言葉の意味を二つから三つへと変えている。そうしたところにわたしは、許のヘーゲルに対する徹底さや忠実さの不足を感じた。
これは、ヘーゲルを読むだけではなく、ヘーゲルをどう読んでいる人なのかを読む、という経験だったように思う。
二日目のプラトン『国家』は、文体そのものは許よりも読みやすい。しかし、あまりに大作なので、こういう機会でもなければ読む気になれなかったと思う。その意味でも、今回の企画はありがたかった。
予習の段階で、わたしはかなり戦々恐々としていた。『国家』が内容的に難しいだけではなく、プラトンには「危険思想家」というイメージがある。イギリス留学中は、そんなプラトンに近づくことすらしなかったが、それこそ「眉間にしわを寄せて」読まれていることは知っていた。それが今回、「なーんだ。笑って読みゃいいんじゃん!」素直にそう思えるようになった。
もちろん、『国家』をお笑いとして読むということではない。むしろ、プラトン自身の明るさ、人間らしさに目を向けてみる、ということである。読み手の目を開かせようとしたり、心をわしづかみにしようとしたり、深刻になりすぎないように一緒にずっこけて笑ったりする。そこには、命題をひとつひとつ提示する思想家とは違う、生身の書き手がいる。
わたしはこれまで、学術論文を読むときには、いわば「テキスト分析」をしてきたのだと思う。書き手からテキストを切り離し、書き手の立場や意図や社会的文脈がどうであれ、そこにどのような意味があるのか、どのような意味が生じているのかを読む。その読み方には、それなりの意味がある。しかし今回、プラトンを読んでいて、書き手は人なのだから、人を読んでもいいのではないかと思った。
二千年以上前の人だから、現代のわたしたちとは違う誰かだと思っていたのかもしれない。しかし、自分たちのアテネが滅びるかもしれない時代に生きていた人も、心配し、恐れ、おののき、それでも笑ったのではないか?そこには現代のわたしたちとつながる人間がいる。
もちろん、古代ギリシアと現代との間には大きな断絶がある。三日目のヘーゲル『歴史哲学講義』を読むと、プラトンになかったものは、プラトンに能力がなかったからではなく、古代ギリシアがキリスト教以前の世界だったからだ、ということがわかる。この歴史的な断絶を無視して、現代の感覚でプラトンを読むことはできない。
しかし、断絶があるからといって、人間までが別物になるわけではない。歴史的には二千年以上の隔たりがあっても、恐怖の中で笑うこと、相手を笑わせること、深刻な話の途中で一緒にずっこけることには、連続性があるのではないか?
そう考えると、逆に新しい問いも出てくる。sense of humour の国ともいえるイギリスで、なぜプラトンは眉間にしわを寄せて読まれることになったのだろう?ミスター・ビーンやモンティ・パイソンのような「おバカな笑い」ですらある国なのに、なぜプラトンには笑いを見出さなかったのだろう?笑いのセンスが違うのか?それとも、思想家を読むということになると、わたしたちは人間を思想から切り離してしまうのだろうか?
今回の集中ゼミを通して、わたしは「書かれていること」だけでなく、「書いている人」を読むということを少し経験したように思う。そして、難しい思想書を読むときでも、必ずしも眉間にしわを寄せる必要はないのだと思った。書き手もまた、わたしたちと同じ、生きている人間だったのだから。
最後に、懇親会で感じた「思想縁」というものについても少し考えた。中井ゼミには、牧野─中井の思想に共感する人たちが集まる。しかし、「この人がどうしてここに…」と思う人もいるらしい。人は見た目ではわからないし、人の思想も簡単には判断できない。人間を読むことは、テキストを分析することより、ずっと難しいのかもしれない。
今回の三日間は、哲学の本を読むだけの三日間ではなかった。わたし自身が、これまでどのように人や思想を読んできたのかを、少し考え直す三日間だった。
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◇◆ 5 欲求への信頼 高松慶 ◆◇
1.「魂の世話」という言葉選び
プラトンが自身初めての作品である『ソクラテスの弁明』を書いて以来しばしば使う言葉にepimeleia tes psycheというものがある。この言葉は「魂の世話」と訳される。原語がどういう場面や文脈の中で使われるかは別にして、まずこの「魂の世話」という訳語に、私はずっと惹かれている。
この言葉を聞くと、まず魂がポットから畑に植えかえられたばかりの情景を思いうかべる。その魂はまだまだ小さな苗のような段階で、ようやく土から葉っぱが2、3枚顔を出したような段階でしかない。私はその魂に「大きくなれ?」と言いながら、水をやり、肥料をやり、光をあびせ、風を送っているのである。そうやって魂がしゃんと葉を伸ばし、花を咲かせ、実をつけるのを観察する。そういう情景が浮かぶ。「魂の世話」というのは、魂を大事にするとか、育てるというイメージがする。
しかし、その苗から育てられる魂とはなにかといえば、ほかのなにものでもなく、いま生きている私自身である。感覚・意識・思考といった区別はせず、それらすべてをひっくるめた私という一つの命である。また、その魂を育てる私も自分自身である。魂の世話というのは、いま生活している私のすべてを、私自身が大事にするという感じがする。
繰り返すが、以上の感じ方は「魂の世話」という訳語から得た印象である。その上でではあるが、この「魂」とか「魂の世話をする」という表現を選ぶことでソクラテス(プラトン)が何をいわんとしていたのか、その気持ちのところ、達意眼目に、私は迫りたかった。
2.人間の欲求を見ていく
大前提として、『国家』では、生きることは「魂の〈はたらき〉である」(353D)といわれる。魂が「自己本来の〈はたらき〉を善くなしとげる」(353E)には、魂そのものにある固有の徳を欠くことなくそなえなければならないとされる。魂には本来できる活動があるが、その活動を現実に実行するには、徳をそなえる学習が必要。だから魂の世話を実行しなければならない。
『国家』には、「魂の世話」という言葉は登場しない。「魂の向け替え」というのが出てくる。第7巻1?5章、有名な洞窟の比喩の箇所。魂は日々の雑多な現象に振り回されているが、そんなものに本来とらわれるべきではない。本来魂が見るべきはイデア界なのだから、教育によって魂をイデア界へ向けかえよう、というものである。
しかし、中井さん曰く、こういうのはただの方法論。重要なのは、プラトンがその方法で何を目的としていたのか、その目的がどういう現実認識・現実批判から出てきているのかだ、ということだった。そう言われて『国家』を読んで面白かったのは、2巻の1?9章における正義とは何かという問題提起と、同巻10?16章の国家の生成過程。
2巻の1?9章は、1巻でソクラテスがトラシュマコスという若者に対して、不正な人間が賢く優れた人間なのではなく、むしろ正しい人間こそが知恵のあり、すぐれた人であると言ったことをうけ、グラウコンとアデイマントスが世間の正義観がどういうものかを示したところ。ソクラテス、あなたは正義をそれ自体として目指すべきものといいますが、世間の本音は全く違うんです。正義なんて、所詮は自分を守りたいがための手段、世間から悪く思われないよう、評判を得たいがための手段でしかないんです。
正義がそれ自体としてなにかなんて、世間はどうでもいいんです。
ここでソクラテスは、それは世間がバカだなんて叩かない。世間の見方について「知ってはいるよ」(岩波文庫上巻の新版p114)なんて答える。それどころか、現状において人々はおろか、神々ですら評判で人を判断していると認めてしまう。ここでプラトンは全体として、世間がどういう欲求で動いているかをよく見ている。
2巻の10?16章は、国家がどう生まれ、拡大してきたかを検討している。この検討をソクラテス(プラトン)は、「生きる上で何を必要とするか」から始める。すなわち欲求から始める。その欲求を満たすための根本条件が、他の人との共同性とされる。欲求と共同性の2つをはじまりにおいて、分業、商工業、貨幣経済の形成、さらには文化、戦争のおこりをみていく。
このように2巻1章から16章までを読んでわかるのは、世間の人たちが事実としてどのような欲求を抱き、また欲求をみたすためにどのように動いてきたかを、プラトンがよく見ていること。よく見て認めたうえで、本当にその欲求でいいのかと問題提起をしていく。
3.欲求への信頼
「魂がすべてをささげてそのような存在(『神的で不死で永遠なる存在』)を追い求め、ほかならぬその衝動の力によって、いま沈んでいる大海の底から引き上げられ、岩石や貝殻などの付着物を払い落とされたとしたならば、そのとき魂はどのようなものとなるかを、よく見なければならない」(下巻p390-391、611E)
プラトンは魂がそなえるべき徳として正義とか節制とか勇気とか知恵等々を挙げる。だがプラトンがみるところ、魂が高まっていく運動の核心は、あれやこれやの徳目ではなく、その人がどういうレベルの対象を欲しているかなのだ。徳からは始まらない。欲求から始まる。ソクラテス(プラトン)は、感情・欲求を抑え込み律するなどといかにもお説教くさい言葉を吐くと同時に、人間の欲求衝動が本来持つ高さ、深さに対しては、現実を見たうえでなお堂々とした信頼をもっている。
プラトンが『国家』でいう魂とは、人間の欲求のことであり、またそれに規定された生き方のことだと思う。
普通の人は、大きく言えば自分の欲求を疑うことなく生きていく。欲求が無いという人だって、生理的なレベルの欲求があり、また無意識の欲求があり、その枠の中で生きている。
だがソクラテスやプラトンは、自分が何を欲して生きているか、その欲求はどこからきているのか、さらにその欲求がレベルとして高いか低いかを自覚し、必要に応じて高めていくことを求める。それが魂の世話だと思う。「魂の世話」という言葉には、人間に本来そなわっている欲求に対してのかぎりない信頼を感じる。この信頼には、「自己啓発」のように、自分を他人と差別化する余地はない。プラトンにとっては、人間まるごとへの信頼。
4.間引きのプラトン
しかし、やはり事実として、ソクラテス(プラトン)にお説教くさいものが多々ある。『パイドン』では感情を殺しまくる。『国家』では生まれのよくないものは間引かれる。悪しきものは現実世界から根こそぎ除去するのがソクラテス、とくにプラトンである。私はこのプラトンを「間引きのプラトン」と呼ぶ。この間引きのプラトンと、「魂の世話」でいわんとする気持ちとは、ものすごく矛盾している。この矛盾をどう考えたらいいのか、どこからきているのか。
集中ゼミでは中井さんが「プラトンは悪(キリスト教でいう原罪)をとらえていない」という問題提起をしていた。プラトンは、良い人と悪い人、魂のよい部分と悪い部分とをわけ、善いところだけを純粋培養で育て、悪いところを切りすてる。だが本当は、人間みんながそれぞれのなかに悪を持っているのだから、悪を切り捨てる、あるいは隠蔽するのではなく、むしろ悪をオープンにし、どう超えていくかを話し合うべきだと。
ここで思うのは、善を目指そうとするところにこそ、悪は深まり、解決が難しくなるのではないかということである。
プラトンにしても、まわりの弟子たちにしても、少なくとも建前としては、魂を悪から切り離して、善へ導こうとしている。しかしそのように一つの目的・目標を共有している学習会では、弟子同士の能力格差がはっきり見える。その能力格差などは、弟子たちが生まれ育った家柄や国柄に規定された面がある。アカデミアにはアテネにかぎらず他のたくさんの都市国家からも学生が集まっていたから、国力の格差は露骨に見えやすかったはずだ。その格差は、必ず個人の努力で克服できるようなものではない。
この格差を学生たちが意識すれば、相手を見下す、相手に嫉妬するということが出てくる。時には足の引っ張り合いも行われるかもしれない。高いレベルの目標を共有していればこそ、どろどろ具合も増すだろう。
だがこのような各人の内面の問題や足を引っ張り合う関係といった問題を、本当に問題として取り上げることが、プラトンたちにはできたのか。たとえば、ある生徒が先生や他の優れた弟子や嫉妬にとらわれていたとして、その自分を意識することや、学習会の場で表明することができたか。やましい、恥ずかしいと感じるだろう。結果、嫉妬を隠す、取り繕う、なかったことにする。問題にしない。善を目指そうとするからこそ、後ろめたいものが際立つ。これを隠すという悪が新たに生まれる。
プラトンの魂の世話は、魂の善悪を問題にした。しかしかえってそのことで、やましいものを隠すという新たな悪が際立つことにもなったのではないか。それにプラトンが対応できたかはわからないが、『国家』を読んでいる限り疑わしい。欲求を実現しようとしてやましいものが出てきたとしても、それらは欲求の実現に専心していれば自然と消えるはずだと思っていたかもしれない。
本当は、片方だけオープンにして片方は消えるという風にはいかない。どちらもオープンにしていくしかない。二つはセットだから。