4月 01

 あるビジネスマンから、私の2月20日(2009年)のブログ(拙著『日本語論理トレーニング』の第1章)の感想をいただきました。それを紹介します。
 
 彼は「外資系の経営コンサルティング会社に勤務し、海外での仕事を多く経験してき」た人です。その彼は、海外で日本の一流大学、大学院出身者がまるで通用しない事実を知って愕然とします。日本人の論理力の圧倒的な低さです。
 そして、その理由を考えていきます。そして、日本の国語教育の酷さに行き着きます。

 まったく違う仕事をしてきた二人が一致した結論に到るというのは面白いものです。
 経験から感じた疑問を、執念深く考え続けている彼の姿勢は、とても立派です。実は、論理よりも、こうした姿勢こそが重要なのだと思います。論理力はその結果でしかないと思います。

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中井浩一様

 ブログで日本語論理と国語教育に関する文章を拝読し、私と同じ意見をお持ちの方を発見したことに感激し、メールをさせて頂きました。

 日本人の論理力と日本語教育に関して全く同意見です。私の場合、教育を通してではなく、ビジネスの現場を通して同様の意見を持つようになりました。私は長年経営コンサルタントとして、外資系の経営コンサルティング会社に勤務し、海外での仕事を多く経験してきました。ご存じかと思いますが、経営コンサルティング、特に欧米で経営戦略コンサルティングと言われている分野は、情報、データの分析と言語による論理構築とプレゼンテーション技術を含む説得が標準的な方法論です。

 欧米の経営コンサルティング会社は、所謂経営大学院(MBA)卒の多国籍エリート集団であり、日本人もすべて東大を中心とした日本の一流大学、大学院出身者です。また、彼らは日本人の秀才の中でもかなりの倍率の入社試験を勝ち抜いてきた人たちであり、理系の修士、博士修了者も含まれています。外国人の同僚との共同プロジェクトやトレーニングを経験する機会がありますが、残念ながら日本の秀才は、文系理系を問わず言語的論理構成力がかなり劣っています。更に、英語のコミュニケーション力不足も加わり、残念ながらグローバルな環境での知的競争力が全くありません。また、当然のことながら、英語に堪能で英語を論理ツールとして利用し仕事が出来る日本人は非常に限られています。

 一方、日本人は数学に関しては能力が平均的に低いわけではなく、記号論理としての論理力に関しては問題があるわけではないようです。以上のような経験を繰り返すうちに、日本人は言語操作を使った論理には非常に弱いのではないかという仮説を持つように至り、なぜそのようなことになるのかを疑問に思う日々を過ごしてきました。勿論、欧州言語に比較し日本語は情緒的な面、曖昧な面が多いように感じることもありますが、それも世界に多くの言語がある中で日本語のみが極端に非論理的な言語かはどうかは疑問が残ります。ちなみに、韓国、中国出身者に関しては、そのようなことが言われることは少ないと思われます。

 そのような日本人の傾向の起源が何となく理解できるようになったのは、3年前から娘が就学し学校の国語の教科書を見るようになり、国語の先生と話をするようになってからです。まず、教科書がご指摘のように日本的価値観、日本的情緒の教育に極端に傾斜しています。私のようなビジネス界の人間から見ると実生活ではほとんど役に立たない言葉の羅列にショックを受けました。グローバルな時代になり、国語学者或いは行政府の反動であるかと思えるほど極端に見えます。また、国語教師と話して理解したのは、教師が“論理”というものを全く理解していません。あまりの理解の低さに、会話を止めたほどでした。要するに、言語が思考の基礎であり、論理がユニバーサルな思考のツールであることが理解されていません。国語教師は、語彙と漢字と日本的情緒と価値観を教えればよいと思っているように見えてしまいます。

 想像ですが、国語の教科書を書いている人たちも、“論理”を理解していないのではないかと思います。日本語の語彙研究、文学研究は、思考のツールとしての“論理”、コミュニケーションツールとしての“論理”は無縁であろうし、また、日本という研究環境でのみ生きている日本語学者たちに、生死がかかるような厳しい“論理”の世界は理解不可能でしょう。しかしながら、現在の日本人が置かれているのは経済的にも政治的にもそのような環境であり、決して日本的情緒、価値観に逃げ込むことはできなくなっています。

 ご存じの通り、欧米には言語による論理の学としての哲学の伝統があり、歴史の差があることは否定できません。しかしながら、今だに言語における“論理”の存在にすら気づいていない日本の国語教育界には失望を感じます。更に、コミュニケーションツールとしての英語教育も惨憺たる状況であり、思考のツールとコミュニケーションツールを欠いた日本人は、今後どうなるのか心配になります。また、英語教育の問題が指摘される度に、まず正しい日本語を勉強することが重要と言われます。それは正しい議論だと思いますが、英語コミュニケーションの基礎としての日本語とは、当然思考ツールとしての母語という意味が重要だと思います。残念ながら、今の日本語教育は、外国語教育の基礎にもなり得ない母語教育だと思われます。ぜひ、中井様には、日本語における論理の方法論を日本に教育界に広めて頂き、次の世代がグローバルな世界で希望を持てるような時代にして頂きたいと思います。

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