ゼミのヘーゲル学習会の成果。
?から?を、この順でブログで発表する。今回は?
?ヘーゲル『法の哲学』へのノート
?ヘーゲルの国家論
?マルクスの「ヘーゲル国家論批判」へのノート
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◇◆ ヘーゲルの国家論 ◆◇
昨年2008年8月にはヘーゲル学習会の合宿でヘーゲル『法の哲学』の国家論を読んだ。そこで考えたことをまとめておく。テキストには中央公論社の「世界の名著」版を使用した。ページ数はこのテキストのもの。
(1)国家とは何か
§257には国家の概念が示される。ヘーゲルは国家を意思(自由を求める意思)の概念で説明する。
「国家ははっきりと姿を現して、己自身にとって己の真実の姿が見まがうべくもなく明らかになった意志の実体としての倫理的精神である。この意志の実体は、己を思惟し、己を知り、その知るところの物を知る限りにおいて完全に成就する」。
「国家は個々人の自己意識に媒介された形で顕現するが、他方、個々人の自己意識もまたその自由の実体を国家の内に持っている」。
人間一人一人の自己意識=意志が国家の基本になっている。個人の自由実現は国家によって可能になるとヘーゲルは言う。ここで一人一人の「自己意識」を基本においていることに注意したい。「自分とは何か」と「自分たちとは何か」「わが国とは何か」。これらは一連の問いで切り離せないと言うことだ。
また、近代国家とは、あくまでも「国家を作ること」を意識して自覚的につくったものだ。先進国イギリスは、産業革命後の市場拡大のために、国内市場を拡大し安定化するために、イングランド、スコットランド、ウエールズを統一し、対外的には植民地政策を推し進めた。フランスも革命後のナポレオンによる帝政下で中央集権化が進む。
これらの先進国への対抗上、後進国も国家を作るしかなかった。それがドイツ(プロイセン)、イタリア、日本などの「民族国家」だ。日本は植民地化されないために、西欧から国家という諸制度を輸入する形で作り上げた。近代国家は他の諸国家(先進国)に対抗する必要性から後進国が自覚的に作ったものだ。
しかし、後進国の国家が「民族国家」である必然性はなく、他民族国家でもかまわない。「己を思惟し、己を知り、その知るところの物を知る限りにおいて完全に成就する」という意味では、アメリカこそ、旧来の歴史や社会を前提にせず、理想的な憲法の理念から作った純粋な近代国家と言えるだろう。憲法に賛成するすべての者を国民と認めるほどに、それは理念先行国家だ。
市場拡大のために内部の分断、分裂を克服し、統一した中央集権の統合を実現する。さらに外との対抗上も国家を必要とする。後進国では逆に、対外的な必要から国家を必要とする。いずれにしてもそれが近代国家だ。そのナカミは多様だ。それぞれの民族、国民が、自分たちにふさわしい国家を自覚的に作り上げたものだからだ。
(2)君主制について
マルクスなどヘーゲル国家論の批判者は、ヘーゲルが君主制とその官僚制を擁護している点で、ヘーゲルを批判する。この批判、特に君主制擁護への批判は正しい。それは叙述によく現われている。
ヘーゲルの君主国家論(3章のAの? §272?320)は明らかに、当時のプロイセンの君主政権を擁護するのが目的だった。というよりは、彼の国家論は近代国家論だが、その国内体制の箇所はプロイセン国家論になっているのだ。当時のドイツ民族の程度(民度)が、君主制しか可能にしなかったからだ。しかし、露骨にそうは書けなかった。
擁護の姿勢は叙述の不自然さに現れる。ヘーゲルはここでは、いつもの普遍→特殊→個別の順番を壊してしまう。
カントの立法→司法→執行に対して、ヘーゲルは立法→司法→執行を主張していたそうだ。そして、本書ではそれを、立法→執行→君主に変えた。ここにすでにおかしな物があるが、それを問わないとしても、展開の順番は立法→執行→君主になるはずだ。
それが君主→執行→立法と逆転している。その結果、君主論の内部(a §275?286)も、個別から普遍への順番になっている。そして、ラストの立法(c §298?320)の導出、その内部展開もおかしくなっている。これは、そうまでして、君主権を強調したかったことの現れで、政治的な操作だ。なお日本の注釈書で、この叙述の不自然さの指摘ができているのは三浦和男(未知谷)のものだけだった。
以上、ヘーゲルの叙述の問題、彼の君主制擁護の姿勢を批判した。しかし、ヘーゲルの真意は「当時のドイツでは、立憲君主制しか可能性がない」ということだったろう。§274の【注釈】には「どの国民も、自分にあった、自分に似通った体制を持つ」とある。民度とその政権、政体は一つなのだ。日本の天皇制もそうだ。エンゲルスはこれを正確に理解している(「フェイエルバッハ論」)。
(3)意志決定は個別者が行う。
§279
「なんでも皆が決める、多数決で決めることが民主主義的で平等だ」という考えは間違っている。ごまかしがある。民主主義がしばしば衆愚政治になる理由を考えるべきだ。
意志はそもそも個別的なものだ。国家、集団の意志決定でも、一人の人格が最終意志決定を行うしかない。重要な局面では、トップ自らが責任を持って決定するしかない。トップの孤独を思わねばならない。
家族や団体でも、執行の場面では個人(トップ)が意志決定をするしかないし、事実そうしている。決定前に、メンバーの意見をしっかり聞いておくことは重要だが、意志決定はそれとは別のレベルのことだ。
意志決定は個別者が行う。これを私は認める。しかしこのことはヘーゲルのように君主制度の擁護には必ずしもならない。どのようにトップを決めるかは別のことだからだ。それは民度や外的状況などによってきまる。
国家とは別の話になるが、人の中には意志決定ができない人、できない場合がある。その時には、外的に意志が与えられるしかない。それもまた個別的な意志でなければならない。多くは親の子どもへの干渉であり、大人になっては占いなどがそうだ。国家でもそれができない段階では神託で決めたりした。そうした外的な意志を内面化したのは、ソクラテスだとヘーゲルは言う。それが彼のダイモンだ(534ページ)。
(4)世論 §316から§318
世論についてのヘーゲルは、リアルだ。その矛盾を突き、その二面性をおさえている。この点、マルクスはお人よしと言える。
思想の自由、表現の自由が保障されるのはなぜか。それが真理の表現になっていくからだ。
世論には、真理(現実社会の要求=普遍性)の現れの面と、それが個人の特殊性をまとって現れるという矛盾があり、その特殊性は独自性を主張しようとする間違った態度も含む。
従って、それとの付き合い方は、世論の中に潜在的に含まれている真理を顕在化させるために努力すればよいことになる。
(5)国家間の争いが低レベルになる理由
私にはかねてからわからないことがあった。国と国の争いのレベルになると、なぜにああも低級で暴力的で幼児性むき出しになるのか。例えば、アメリカだが、国内の民主主義がある程度成熟している一方で、対外的なことになると急に幼稚きわまりない行動をとる。ブッシュのイラク戦争開始のでたらめさ、その正当化の理屈「民主化する」「先行攻撃の権利」などのめちゃくちゃさ。イラクや北朝鮮のめちゃくちゃもひどいが、アメリカもいざとなると変わらない。
国家間の関係が個人間の関係(契約)より酷いレベルになるのはなぜなのか。長いことこの疑問を抱えていたが、誰からも応えてもらった覚えがない。ところが、ヘーゲルはそれに論理的な回答を与えていた。初めて、私はこの設問への回答があることを知った。それが正しいかどうか以前に、他は、そもそもこうした問いを立てることがないのだ。
国内の統一によって国家が誕生すれば、それは個体性を持つ。個体性には否定の働きが含まれるから、他の個体(他者)に排他的な関係を持つ。それが独立ということでもある(§321)。これは「排斥性」(他への攻撃性)とイコールではない。性関係、家族が閉じる理由も同じだろう。
さて、その国同士の関係はどうして極端に低レベルに落ち込むのか。「諸国間の契約内容は、相互の独立した特殊的意志(恣意=自然状態)がもとになる」。これは個人と個人の契約と同じレベル(ただし契約の素材の多様性は限りなく少ない)だとへーゲルは言う(§332)。その結果、契約よりももっとひどいレベルの粗雑な関係になる。自分たちの領土や金、自分たちの利害のことしか考えない(590ページ)。
つまり、第1部の契約のレベルを止揚して生まれた国家なのだが、国家間の交渉になると、第1部の契約のレベル(それ以下)に戻ることになるのだ。個別性が復活してしまうからだ。
個別性の克服の結果、またも個別性に戻る。これがヘーゲルの円環論法だ。
国際法についても、ヘーゲルはカントの構想(国家連合による永久平和)をあざ笑う。なぜなら、自然状態としての国家の関係では、「相互の独立した特殊的意志(恣意)」がもとになってしまうからだ(§333)。その結果は、戦争だ。「戦争は、合意形成ができなかったときの、最後の解決策」。一応の解決策である。
ヘーゲルは辛らつだ。戦時国際法のヒューマニズム的な理性的な外観についても容赦なく、その真実を暴く。戦時国際法の趣旨は、打ち負かした敵国をも「国家としては認める」ことにある。その結果、ヒューマニズム的な外観が生まれる。しかし、本当の理由は「他国家を認めないと、自分を認めてもらえなくなる」からだと言う(§338)。岩波の全集版では「戦争も国家間の『相互承認」が前提となっている』とする(614ページの注151)
以上がヘーゲルの国際関係論である。それは個別性という概念を徹底的に展開したものだ。これが論理的に考えるということなのだろう。 (2009年4月15日)