12月 12

 「聞き書き」における文体の選択についての私見を述べます。この文体の選択は、聞き書きに限らず、文章一般における大きな問題です。取材したことをレポート、ルポ、小説などで表現するときに、文体をどう使い分けするのでしょうか。
 この問題は重要であるにもかかわらず、教育現場でも自覚的な指導はなされておらず、研究者の間でも、ほとんど研究されていないようです。みなさんは考えたことがありますか。
 なお、以下の私見は、現在『月刊 国語教育』誌に連載中の聞き書きの討議を踏まえて行った座談会での発言です。分かりにくい点は無視して、私見の骨子をとらえてください。

◇◆ 「聞き書き」における文体の選択について ◆◇

 聞き書きというのは、普通何を意味するかというと自伝だと思います。本人が語った人生を他者が文章化したもので、『マルコムX』や矢沢永吉の『成りあがり』が有名です。つまり、本人の人生経験が一人称でまとめられたものを指すのです。ただここでは、教育としての聞き書きを考えているので、文献調査したり、現場に行ったり、現場の経験者の話を聞いたりするようなことも含めて、広い意味で考えています。

 聞き書きの文体ですが、これはふたつに分けられます。書き手が残されるものと、書き手が完全に消えるものです。書き手を残すというのは、問いと答えをそのまま残すインタビューの形や、書き手の観点が最初から最後まで貫かれるルポのような形になると思います。書き手を消す時には、一人称が普通ですが、三人称で書く方法もあります。
次に、取材対象の面ですが、ここでも大きくは二つに分けられます。一つは問題そのもの、事柄そのものを聞くことが中心となるものです。事実やデータであったり、それを基にした意見や主張を聞くものです。もうひとつは、問題に関わった語り手自身の人生や経験を中心に聞くものです。
 
 ではこうした対象と文体を、一般にはどう結びつけているでしょうか。事柄や問題点を中心に書く場合には、書き手を残すのが普通です。社会科や理科のレポートや論文の書き方です。対象を客観的にとらえようとします。

 一方、人生ドラマを前面に出す場合は、書き手を消す文体が選択されるようです。藤本実践や小野田実践では、一人称や三人称で、小説や物語風に書かせています。これはいわゆる「文学」的手法で、書き手が対象と一体化することをうながします。
この場合は、前者のレポートやルポでは、要約が中心になり、後者では描写が中心になってきます。意見や主張が問われるところでは、要約しなければまとまらないですが、人間ドラマでは、要約すると大事な要素が消えてしまいます。

 さて、以上は、現在の教育現場での一般的な考えだと思います。事柄中心に書かせるのが社会や理科のレポートで、人間ドラマを書かせるのが国語科だと思われているのです。しかし、ここには大きな間違いがあると思うのです。第1に、人間ドラマと事実は切り離せません。人間ドラマを書かせる場合でも、事実や問題そのものもきちんと取り上げるべきだし、社会や理科のレポートでも、そこに関わった人の人生経験も書かせるべきです。

 第2に、人生ドラマは、書き手を消す文学的文体だけではなく、書き手が残されるルポやインタビュー形式でも十分に表現できます。そこでの違いとは、何を教育目標とするかの違いなのです。

 ここで忘れてならないのは、表現において、「対象理解」と「自己理解」は切り離せず、高校生にとっては常に「自己理解」を起点とし、また最終目的としなければならないということです。「対象理解」としては、事柄も人間ドラマも、しっかりととらえさせたいと思います。そして、その「対象理解」から、「自己理解」を一層深めなければなりません。つまり、自分は聞き書きを通してどういうふうに考えが変わったか、影響を受けたかをきちっと書かせることが重要です。そのために必要な文体と構成を考えなければならないとうことです。

 こうした考えから、僕は、書き手が残される文体を基本にするように、高校生には薦めています。教育の場で行われる調べ学習や聞き書きにおいて、自分が消えてしまっては困るからです。

 しかしこれは、書き手が消える文体を否定するものではありません。対象を深く理解するには、感情移入も必要です。その場合は、その前後に書き手を表せるような他の文体が必要になると思うのです。社会科のレポートでもそうですが、最初に、人物やテーマを選んだ動機を書かせたり、最後に聞き書きを通して考えたことを書かせることが非常に重要です。林実践ではそれを書かせています。藤本実践は一人語りの文体ですが、初めに語り手の略歴(事実)を説明の文体で入れ、最後に、「聞き書きを終えて」という書き手を語る作文を書かせている。要するに、三つの文体を使っています。このように構成と文体を意識して、しかも選択的に使わせるという指導をするのが国語科の役割ではないか。そんなことを考えてみたのですが、読者のみなさんは、どう考えますか。

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