4月 11

家庭、親子関係を考える その2 中井久夫の二面性 12月の読書会から

12月の読書会のテキストは中井久夫『精神科医がものを書くとき』(ちくま学芸文庫)。
 精神科の臨床医である中井久夫については名前を知っているだけだった。『全体主義の時代経験』に収録された書評で、藤田省三が中井を絶賛していた。そこで彼のエッセイ集を読んでみたところ、断然面白かった。続けてエッセイ集を4冊ほど読み、有名な『最終講義 分裂病私見』(みすず)、『精神科治療の覚書』(日本評論社)も読んでみた。
中井久夫は文学にも造詣が深く、人間についての幅広い知識を持ち、深い人間洞察のできる優れた臨床医だと思う。しかし、どうにもしっくりこない点もある。

今回読書会で取り上げてみて、中井久夫の二面性を強く意識した。彼は個別性、特殊性の大家であるが、普遍性、一般化ではぼろぼろだと言うことだ。彼のエッセイが面白いのは、その個別面での能力の高さがよく表れているからだ。彼は実践家として、臨床家として非常に優れている。そして、個々の場面や、個々の事態への対応は見事で、そこから生まれる発見が、きらきら輝くような言葉で描かれる。それがたまらなく見事だし、面白い。
しかし、それらは断片的な知恵のようなものであり、事柄の本質を一般化して語ることはない。精神医療の歴史を長々と語り(「近代精神医療のなりたち」)、サリヴァンの業績と人生を長々と語る(「知られざるサリヴァン」)が、結局、それは何なのか、と振り返ると、ほとんど何も語っていないことに気づく。
結局、精神分裂病とは何なのか。結局、精神病とは何で、精神医療はいかにあるべきなのか。サリヴァンの仕事の精神医療における位置づけとはどのようなものなのか。その答えは、霧の中にただよっている。

読書会参加者から「こういう人はみなから好かれる」という発言があったが、そうだろうと思う。事実、多数のファンがいるようだ。本書には、中井にとっての先輩、同僚、後輩の精神科医が多数登場するし、個々に人物規定があるのだが、それらはするどく核心をついてはいるが、すべて断片的で、その人物の医療の本質や、精神医療全体における位置づけをしない。つまり、ここには根源的な批判がないのだ。これでは嫌われようがない。
そうした中井久夫の生き方がどのように成立したのか、それは「私に影響を与えた人たちのことなど」でわかりやすく示されている。
戦争中でも、彼の周囲には、祖父、大叔父、父など合理的な考えの大人たちが多く、日本の軍隊への批判などをよく聞いていたし、天皇の神格化などになじめなかった。そのために小学校では孤立し、よくいじめられた。周囲が集団ヒステリー状態にある中で、その空虚さを、冷めた目で眺めていたらしい。
戦後もそれは変わらない。アメリカ軍の占領政策による改革や、共産党や社会主義革命への狂騒に対して、中井は距離をとって冷ややかに眺めていた。しかし、中井はそうした運動や組織に距離を取りつつも、関係は持ち続けた。国内の左翼運動は、ソ連や中国の動きによって、しばしば外的な急旋回が行われ、その都度多数の思想難民が出ていた。彼らは精神的に深い傷を負い、中井はそのカウンセラーのような役回りになっていた。
こうして直接には政治や思想運動に関わらないが、悩み相談係として間接的に深く関わる。これが中井の位置である。そして、こうした関わり方を生涯の仕事にしたのが彼の人生だったのだろう。もちろんここには断念があり、自分の役割の自覚、明確な自己限定がある。だからこそ、「私に影響を与えた人たちのことなど」は読みやすく、分かりやすいのだ。

先に、中井久夫の二面性を指摘した。個別性、特殊性ではすぐれているが、普遍性、一般化の能力は低い。中井自身はもちろんこのことに自覚的であり、「エッセイかアフリズムしか書けない」と明言している。
本書の文庫版には斎藤環の解説があり、斎藤も中井の二面性を取り上げている。しかし、彼は「一般化のなさ」を肯定的にのみとらえ、中井への批判がいっさいない。しかし、それでは「ひいきの引き倒し」ではないか。
斎藤は中井久夫を「いっさい『体系化』を志向しなかった」とし、それゆえに精神医療を「カルト化」から守れたと評価する。確かにそうした面があるだろうが、反対に、一般化によって「カルト化」から守れる場合もあるのではないか。斎藤にとって「カルト化」とは、「ある種の思想やイデオロギー、すなわち『体系』が状況を支配する状態」だと言う。そして、「中井久夫のみがカルト化を解毒した」と言い、その理由を「いっさい『体系化』を志向しなかった」からとしている。
しかし「ある種の思想やイデオロギー」とは具体的に誰のどういった思想のことか、それを斎藤は言わない。本当にすべての『体系』が悪いのだろうか。斎藤の言う「状況を支配する」思想と闘えるのはどういう思想なのだろうか。まさか「状況に支配される」思想ではないだろう。「状況を支配しない」思想だろうか。それはどういう思想だろうか。「状況を支配しない」思想で、「状況を支配する」思想と本当に闘えるのだろうか。
中井久夫には二面性がある。中井の良い点は、それを自覚し、自己限定によってマイナス面が大きな欠点とならないようにしていることだ。しかし、それも十分ではなかった。斎藤は、中井が「原則として依頼原稿しか書かない」ことを、中井の自己限定として評価しているようだが、依頼原稿なら書いて良いわけではない。「近代精神医療のなりたち」や「知られざるサリヴァン」のような、彼に向かない仕事をも引き受けてしまい、その馬脚を現すことになっている。それを彼に注意できる人はいないようだ。

3 Responses to “家庭、親子関係を考える その2 中井久夫の二面性 12月の読書会”

  1. じゅん Says:

    普遍性一般化の能力が低いとヤバいということでしょうか

      

  2. じゅん Says:

    あれ?コメントしたのですが消えていますね
    普遍性一般化がないとヤバいのですか とコメントしたのですが。。。まあいいです 馬脚を現す とあるくらいですからヤバいのでしょう
    普遍性一般化とはこの場合どのレベルをさすのでしょうか
    おそらく 日本語で書かれた文章としての普遍性一般化ということにあると思われます 精神医学の普遍性一般化について 中井久夫は それは西欧における個別性特殊性と位置づけています

  3. pipi Says:

    別に中井氏を、槍玉に挙げる(と私は感じました)事はないと思います。
    槍玉に挙げる人物は、世の中枚挙に暇がないと思っておりますので。
    むしろ中井久夫氏を読書会のテーマになさろうとした、中井浩一様の意図、お考えの方に興味を持たせて頂いてます。
    中井久夫氏のファンなので、初めからバイアスがかかってますが。失礼。お許しを。

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