2月 13

旧約聖書読書会の感想 その2

昨年の9月から12月まで、旧約聖書(中公クラシックス)の読書会を4回行いました。

参加者の感想を掲載します。

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◇◆ 2.人と向き合う旧約聖書 K.N(社会人) ◆◇

(1)人間の本性
旧約聖書の第2回(10月24日)に参加した。私が聖書に触れるのは、高校を卒業して以来だ。
中学高校と毎日礼拝があり、聖書の箇所を繰っていたのに、つまらない本だ、
礼拝での睡眠中の枕として役に立つなという以外、特に何の感想もなかった。
そして、5年ぶりに読書会に参加した。まず第一に、旧約聖書に書いてある出来事の残酷さと人間の
リアルさに衝撃を受けた。私は、自分たち人間がとても汚い、ドロドロした感情を常に備えていることに
目をそむけがちだ。殺人のニュースをもっても、犯人はどこか自分と違う生き物のような気がして、
そんな人間と私は違うんだ、と自分に言い聞かせる。汚い部分は現実世界では極力他人に隠そうとする。
しかし、旧約聖書の世界はちがう。何千年前の本なのに、そのような人間の醜い部分に、
真正面から向き合う力強さがあった。神がノア一族と一部の生物以外を滅ぼしたことを後悔するシーンで、
神は「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。」と結論づけた。
聖書に出てくる人間は、感情や欲望に忠実だ。憎ければ殺すし、欲しければ奪う。強盗、殺人、近親相姦、
同性愛など、とにかく野蛮な人間像。神に選ばれた者も例外ではない。私が実にエグイなと思ったシーンがある。
アブラハムの妻サラが、不妊のため、奴隷の女に子どもを身ごもらせるようアブラハムに勧めた。
しかし、実際女奴隷に子どもが出来ると、彼女は奴隷とその子どもにつらくあたるようになった、というシーン。
どこの昼メロドラマだよ、と思ったが、同じ立場になったら、現代の多くの女性もサラと同じ様にふるまうだろう。
女の嫉妬心は、今も昔も変わらない。
旧約の読書会には1回しか参加できなかったのか、私の理解不足か、旧約聖書における神がなんなのかについては、
全然理解が及んでいない。読んでみて、旧約の神の行動が意味不明だった。新約聖書のキリストが話す神様は
ものすごい包容力と慈愛に満ちていて優しいイメージなのだが、旧約の神様はどこか人間的だ。
バベルの塔では、繁栄する人間を恐れて人間の居住地と言語をバラバラにする(=混乱を与える)。
ノアの方舟の箇所では、人間を作ったこと自体後悔して、ノアとわずかな生物以外を皆殺しにして、また後悔する。
なぜ失敗して、後悔するような不完全な神を描いたのか。また、神はソドムを滅ぼそうとする時、
アブラハムに「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。」というすごい正論を言われ、
一時譲歩する。人間ごときに譲歩する神、なんて信者は許容できるんだろうか。そのあたりがいまいち腑に落ちなかった。

(2)聖書の読み方から浮上する、自分の問題
読書会に参加して、中井さんの聖書の読みを聞いて、登場人物が、リアルな人間だったんだということに
初めて気付いた。なんとドロドロしていて、生き生きとしていて、こんなにドラマチックで面白い本だったのか、
朝の礼拝で聞き流していたときより、断然ワクワクしていた。登場人物をゴロツキと言い表したり、
一部の登場人物に祝福を与えることを神のえこひいきと指摘したり、本と格闘している感じだ。
この本を、骨の髄まで感じ取って理解してやろうというパワーに気圧される感じだった。
そのパワーに触れて、無味乾燥だと思っていた聖書の世界観が、リアルさをもって感じる経験が出来た。
私は中高をキリスト教系の学校で過ごしたので、聖書に触れる機会そのものは多かった。
だが、聖書を読んでも全く感銘を受けることも面白いと思うこともなく、何故キリスト教が
世界三大宗教になるまで信じられているのか、なぜ学年が上がるにつれて同級生が次々に聖書やキリストを
信じ洗礼を受けていくのか、全く理解ができなかった。今回読書会に参加し、それは私の読み方の問題、
読み方が非常に表面的だったことによるのだと考える。聖書は一見淡々とした文体で、神や人間の行動
(「言った。」「現れた。」など)と、セリフと、ちょっとの心理描写(「後悔した。」など)で構成される。
聖書の一句、その行間を読み取る想像力と、本と向き合おうという意識が決定的に欠けていた
読書会後に再読した際、ふと「聖書は六法に似ているな」という感想を持った。以前、文ゼミで私は
「心理学は人間の心を解き明かそうとするから好きで、法律は無味乾燥がから嫌い」といった内容を提出した。
六法も、淡々とした条文が並ぶだけで、全く人間味を感じられず、つまらない本だと決めつけていた。
そこで、中井さんに、「本質をみていない。法律は、ドロドロで、ほんとにどうしようもない人間を、
どうにかして押さえるために作って、試行錯誤してなんとか整備してきた、最も人間の本質が現れたものだ。」
と指摘され、裁判所に勤めているのにそんなこともわからなかったんだと恥ずかしくなった。聖書も同じだった。
一見無味乾燥に見えるが、こんなにも人間のほんとうのことが書いてある本だったのに、
私は本質を見る事ができないし、見ようともしないから、そんなことにも気付かないでずっとスル─していたのだ。

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