2月 26

「家庭・子育て・自立」学習会をスタートしました

昨年の秋から、田中由美子さんが責任者となって、家庭論学習会が始まりました。

その学習会の目的や概要と、最初の2回の報告をします。

■ 目次 ■

※以下、昨日のつづき。

2.斎藤学著『アダルト・チルドレンと家族』学習会  田中 由美子 
(第1回、2015年11月8日)
(1)生きる目標の問題が核心
(2)親による無意識の刷り込み

3.斎藤環著『社会的ひきこもり』学習会  田中 由美子
(第2回、2015年12月13日)
私たち大人の「ひきこもり」

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◇◆ 2.斎藤学著『アダルト・チルドレンと家族』学習会  田中 由美子  ◆◇

斎藤学著『アダルト・チルドレンと家族』(学陽書房)学習会
                      (第1回、2015年11月8日)
 
「アダルト・チルドレン」とは、家庭の中、主に親との関係の中で深く傷付いた人を指す。
そのトラウマに苦しむ人の様々な事例は、壮絶である。
しかし、予想以上に、私たちの多くは、本書をたんに他人事としては読めない。
自分の親との関係や、子どもとの関係、夫婦関係など、様々な経験が思い起こされるのである。
今回の学習会でも、父親は「仕事人間」で、母親は過干渉、かつ肝心なことには無関心で、
いつもどこか不機嫌という家庭像、母親の顔色を見て生きてきて「自分がない」という思い、
しかし自分も親と同じ子育てをしているのではないか、つい子どもを過保護にしてしまうという悩み等々が出された。
それは、本書でこの問題の本質としている、「共依存」的生き方の問題を、私たちの多くが抱えているからだろう。
つまり、自分というものを持たず、誰かに必要とされることを生きがいとするような生き方を、
親から継承してきた人が少なくない。
そのことは、親子の強力な一体化という、現代の深刻な問題に真っ直ぐにつながる。
つまり、親子の「共依存」関係のために、親の子離れが難しく、子どもの親からの自立が難しくなっている。
しかし、今回の学習会では、子どもを持つ参加者も、自分の親との関係を振り返る話が中心となった。
そして、子どもの問題をどうするのかという話ではなく、私たち自身のことを話し合えたのは正しい方向だったと思う。
私たちは、まず自分自身の問題に取り組むしかない。子どもを救うとしたら、そのことによってのみである。
斎藤も、まず親自身が自分の親との関係の問題を直視することが重要で、そこからしか始まらないと述べている。

(1)生きる目標の問題が核心
初回の学習会であったにもかかわらず、何を目標に生きるのかというところにまで話が進んだ。
まさにそこが本丸ではないだろうか。
今回のテキストのアダルト・チルドレンの問題も、「共依存」や子どもへの過干渉の量の問題ではなく、
まずは大人がどんな目標を持って生きるのかが問われるのだと思う。

問題のない家庭を目標とする生き方
学習会の中で、できるだけ問題のない家庭を目指したいという意見が出された。
私はその意見に違和感を持ち、それでは子どもが問題を抱えていても外に表せないのではないかと疑問を投げかけた。
ところが、後でゆっくりと考え直してみると、それは無意識のうちにも私を含めた多くの人の望みだ。
誰もが問題は避けたい。また、目の前に問題があっても、なかなか真正面から見ることができない。
大した問題ではない、否問題なんかないんだと思いたい。
しかし、この意見を出した方自身が話されたように、実際には問題は起こり続け、避けられない。
そうであるのに、親が、問題が起こらないようにという減点方式なら、子どもには、究極的には
何も行動しないという選択肢しか残らないのではないか。何か行動を始めたら、問題が起こる確率が跳ね上がるからだ。
私に目標がなかったときの我が子の思春期の無気力には、そういう意味もあったのではないか。
問題に向き合い、取り組んで生きていこうということでないなら、問題を避けて生きようということしか残らない。

家族の幸せを目標とする生き方
別の方からは、家族の幸せを目標としているという意見が出された。
夫についても、外で働いているから何か特別なことがあるのかと考えると、突き詰めれば、
彼の幸せも子どもや自分の幸せであると。
そういうことが共依存だが、共依存し合ってお互いが幸せであり、そのことがお互いに高め合っていくという
よい連鎖になるなら、共依存は悪いことではない。また、結婚して20年経った今は、ここまでの心理的な幸せ、
葛藤があり、いろいろなことを乗り越えてきて、自分についても、夫についても、そういう確信があるという話だった。
確かに、そもそも、人間は、依存しなければならない状態で生まれてきて、関係し合い、分業し合い、
依存し合って生きるものである。「共依存」がたんに「自立」に対立する、悪いものという訳ではない。
足を引っ張り合うような「共依存」が問題なのであって、切磋琢磨し合うような「共依存」は、むしろ、
人間が生きる醍醐味である。
彼女の話を聞きながら、主婦として家事をするだけではなく、自分の家庭をどうつくるのかということを
よく考えてこられたのだろうと感じた。子育てを巡っても夫婦でよく話し合ってこられたのだろう。

ただし、家族の幸せとは何かという問題が残るのではないだろうか。
同じ方が、娘を大学に入れても、それがゴールじゃない、次は、結婚できるのか、そっちの方が大事だったんじゃないか
という不安を話された。
子どもに、共に生きようという伴侶を得てほしいと願う気持ちは、とてもよくわかる。
また、自分の家庭をつくって生きてほしいという気持ちもわかる。
しかし、家族の幸せ自体を目標にして、それを達成することが可能だろうか。
むしろ、結婚や子育ては新たな問題を生みさえする。その中で、家族がそれぞれどう生きることが、家族の幸せなのだろうか。
それはどう実現していけるのか。

社会的な観点を持つ生き方
 私自身が、家族の無事や幸せを求めて生きてきた。
 さて、この後の人生を、何を目標に、どう生きるのか。
また、私たち、大人がどういう生き方をすることが、子どもたちがよりよい人生を送ることにつながるのか。
社会という観点を持つ生き方が必要なのではないかと思う。しかし、それは具体的には何をどうすることなのだろうか。
学習会の中で考えていきたいと思う。

(2)親による無意識の刷り込み
 『アダルト・チルドレンと家族』の第4章、「「やさしい暴力」」の節、p139に以下の記述がある。
「世間や職場の期待とはまず統制と秩序であり、次いで効率性です。親たちはしばしば、
これら世間の基準にそって生きることを子どもたちに強制するのです。子どもたちはこうした状況のなかで、
親の期待を必死で読み取り、ときには推測し、それに沿って生きることを自らに強いるという自縛に陥ります。」
 
 私はこの中の「強制する」という言葉に違和感を持った。
学習会で、それに対して、何故私が違和感を持つのかをいう疑問が出された。
親の立場としても、子どもの立場としても、とても重要な箇所だ。
私が「強制する」という言葉に違和感を持つ理由は、親が「世間の基準」が自分自身の基準ではないことを意識し、
さらに、子どもにそれを押し付けていることも自覚したうえで「強制する」ことを意味しているように感じられるからだ。
しかし、実際の「やさしい暴力」とは、「世間の基準」以外の基準を持たない親が、
それを子どもに押し付けているという自覚もなく押し付けることだと思う。その基準に従う以外に、
親も子も生きる道がないという強迫観念の中で、子どもと共に生きることだ。
確かに、それは正に、子どもにその中で生きることを強いる、「強制」だと言える。親にその全責任があり、
子どもにはそれ以外の人生を選ぶ能力がないからだ。
しかし、「強制する」という言葉では、むしろ、親が自らの子どもへの「やさしい暴力」を自覚するところから
遠ざけると感じる。親は、自分は子どもに「強制」などしていないという認識に留まるのではないか。
また、子どもの立場としても、親に「強制された」と被害的に考え続けたとしたら、その問題を解決できない。
それは主に中学生クラスの授業の中で考えてきたことだ。
中学生たちは、親の価値観を刷り込まれたまま行き詰まる。
しかし、それがどんな価値観であっても、刷り込まれたこと自体が問題なのではなく、それが人間になる前提だと
考えなければ、一歩も前に進めない。生まれたときから毎日毎日、「これ、美味しいね」、「おもしろいね」、
「きれいね」、「それはダメ」と親に話しかけられたから、人間に育ったのだ。
刷り込まれなければ人間にはなれない。
そうやって親に与えられた人生を、いかに意識的、主体的に、自分の人生として捉え直すのかというテーマを、
私も含めて誰もが背負っている。
 だから、親が子どもに世間基準の生き方を「強制する」、ではなく、「無意識に刷り込む」という言葉を、私は使いたい。

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◇◆ 3.斎藤環著『社会的ひきこもり』学習会  田中 由美子 ◆◇

斎藤環著『社会的ひきこもり』(PHP新書)学習会
(第2回、2015年12月13日)

私たち大人の「ひきこもり」
                                 
今回「ひきこもり」についてのテキストを取り上げたのは、現在若年無業者(ニート)が70?80万にも上るという
社会問題について学ぶためだけではない。
まず、この問題が、私たちの子育ての問題の核心とつながっていると感じるからだ。
一言でいえば、親子の一体化の問題だ。そもそも、家庭には、必然的に家族間の「共依存」関係が強い中で、
子どもを「自立」させていかなければならないという矛盾があると言える。親として、子どもに何をどう指導し、
また子どもの自主性、主体性をどう尊重するするのかという問題は、子育ての中で日々直面するものではないだろうか。

また、子どもの「ひきこもり」増加は、私たち大人の「ひきこもり」的生き方がそのまま反映したに過ぎないと考え、
私たち自身を振り返るためのテキストだった。まず、私たち大人に、他者と深く関わるのではなく、
あたりさわりなく付き合う傾向が強いのではないだろうか。
斎藤は、親が社会とのつながりを持っていようとも、肝心な「ひきこもり」の問題に関して社会との接点を
失うという問題を指摘している。特に、子どもの「ひきこもり」という最も大きな困難を避けて仕事に逃避する
(=ひきこもる)父親の問題だ。ただし、最近、父親が子育てに参加することで、より強力な親子の一体化に
つながるケースもあり、一筋縄ではいかない問題である。
また、学習会の中で、男性が仕事にひきこもっているという言い方ができるとしたら、主婦も家庭の中に
ひきこもっているという見方もできるという意見が出された。主婦が成長の機会に乏しいのではないかと
いう問題提起だったと思う。
私自身は特に40代に社会からひきこもっていたと感じている。多少の仕事や付き合いはあっても、
子どもの思春期に戸惑いながら、その問題に関して家庭の外でオープンに話し合う場はなかった。
20代の参加者からも、友だちと群れ、顔色をうかがい合い、同調し合う傾向や、その裏での陰口の問題が出された。
私が授業で接する中学生たちも同じだ。「傷付けてはいけない」や「他人に迷惑をかけてはいけない」が
至上命題として刷り込まれ、その裏で陰口やいじめが日常化している。
私たち大人自身が「ひきこもり」的生き方をしていることが、「ひきこもり」や不登校が多発するような社会を
つくったのではないか。その大人の「ひきこもり」の解決なしには、子どもの「ひきこもり」の解決はない。

また、人が人と薄い関係しか持たないという問題は、今の社会だけの問題ではないように思う。
私の親も、そのまた親も、私の知る限りの世代の多くの人が、人と対等に本音でぶつかり合って生きたとは思えない。
貧しい時代を生き延びるために共同体やイエの中で生きた昔の人たちも、個人がバラバラでもとりあえず
生きていける私たちも、その「ひきこもり」的生き方に大差はなく、基本的には同じ生き方が継承されてきた
のではないだろうか。
人が互いにひきこもるのではなく、深く関わって、お互いを発展させるような関係は、私たちが今ここから
つくっていくべきもの、つまり、私たちの課題なのではないだろうか。さて、それはどういう生き方なのか、
それが私たちのテーマだ。

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