2月 25

「家庭・子育て・自立」学習会をスタートしました

昨年の秋から、田中由美子さんが責任者となって、家庭論学習会が始まりました。

田中さんは、鶏鳴学園の塾生の保護者でしたが、6年前から中井ゼミ(大学生、社会人のクラス)で、
ヘーゲル哲学を中心とした学習を積み重ねてきました。5年半前からは鶏鳴学園に中学生クラスを開設し、
担当してきました。

その田中さんのテーマは「家庭・子育て・自立」であり、満を持して、その学習会が始まったわけです。
今回は、この学習会の目的や概要と、最初の2回の報告をします。

■ 目次 ■

1.「家庭・子育て・自立」学習会をスタートしました 田中 由美子
(1)家庭についての思想をつくる場
(2)オープンに学び合う場
(3)「自立」を考える場

※ここまでを本日に掲載。

2.斎藤学著『アダルト・チルドレンと家族』学習会  田中 由美子
(第1回、2015年11月8日)
(1)生きる目標の問題が核心
(2)親による無意識の刷り込み

3.斎藤環著『社会的ひきこもり』学習会  田中 由美子
(第2回、2015年12月13日)
私たち大人の「ひきこもり」

※ここまでを明日掲載。

==============================

◇◆ 1.「家庭・子育て・自立」学習会をスタートしました 田中 由美子 ◆◇

(1)家庭についての思想をつくる場
数年前から、鶏鳴学園の大学生・社会人ゼミに参加して、自分が築いた家庭について、
また、私が育った実家について振り返ってきた。
夫婦や子育ての問題について考え、また、両親の老後の問題にも取り組んでいく。
子育てが、社会で働く人間を送り出す仕事であるのに対して、
老後の問題は、それまで社会で働いてきた人が自力では生活できなくなったときに、
その生活をどう支えるのかという問題だ。
また、私自身はどう老いて、どう死ぬのか。
子どもを育てる中で、自分の子ども時代から思春期をある意味辿り直し、「復習」してきた。
そして、今後は親の介護や看取りに際して、
自分の今後のことを「予習」していく。それはどういうことなのだろう。

また、ゼミでは、私だけではなく、その多くが独身者であるゼミ生全員が、家庭、家族の問題を考えてきた。
直面する問題に対処しようとするとき、自分の生き方、考え方をつくっていこうというときに、
その問題は外せない。
私たちは誰もが、自分の人生を生きるために、一つの家庭で子どもとして育てられたことを
相対化する必要がある。

家庭、家族とは何か、自分はどう育てられたのか、また、子どもをどう育てるのか、
親の介護とは何かということについて、私たちそれぞれが自分の思想をつくっていこうということが、
学習会スタートの趣旨だ。まず、テキストを切り口として、私たちの生活の実感を率直に話し合い、
それぞれの生活を振り返ることができるようにしたい。また、その上で、問題解決のための方向性を、
テキストも手掛かりにして考えていけるような学習会を目指す。

(2)オープンに学び合う場
家庭の外での仕事については、たいてい同じ仕事をする仲間が周りにいて、学び合う場がある。
また、日々社会的な評価を受ける。
それに対して、家庭内の仕事、子育ては、各々の家庭という閉じた場で行われる孤独な仕事になりがちだ。
「家庭の恥」を外にさらしたくないという気持ちも働きがちだ。また、子育てへの評価は、親自身の価値観
の中に閉じたものになりやすい。
そして、子育てに関する自己教育の機会は乏しい。
私は、子どもの思春期に戸惑い、悩んだときに、本を読んだり、夫や友だちに愚痴をこぼしたりするだけで、
問題を根本的に考えて深められる場を持たなかった。
私たちの親の世代とは異なり、今は、一般教養的なことを学ぶカルチャーセンターや娯楽の場、また
ママランチなどの交流の機会には事欠かない。しかし、子育てなどの悩みについて本気で語り合い、
親自身の生き方について考えられる場は、今も乏しいのではないか。
PTAも、行事などのときに教師の手伝いをする役割しか担っていないのが現状だ。

しかし、本来子育てとは、子どもを社会に送り出すことを目的とする、正に社会的な仕事だ。
主婦の仕事と言えば、私はそれを家事だと考えがちだったが、それだけではない。むしろ、どう子育てするのか、
どういう家庭をつくるのか、そして、どう子別れするのかという思想をつくっていくことが中心にあるべきだった。
 そういう広い視点を持つことはなかなか難しく、いきおい、家事の完璧を追求することに偏ったり、
子どもの過保護や過干渉に陥りやすい。
 また、家庭の思想をつくることは、主婦に限らず、全ての母親、父親の仕事だ。
こういう大人の学習会の必要性を、中学生のための国語の授業に取り組む中でも感じてきた。
より広く言えば、どういう社会をつくっていくのかという思想が必要だ。
今現在の社会に合わせて子どもを育てようとするのではなく、こうありたいという理想の社会に向けて
働く子どもを育てようとするのが本来だ。そのために、現実社会にどれだけ向き合い闘えるのかが、
まず親自身に問われる。親の人生を切り拓くことが、子どもがその人生を切り拓くことの土台になる。
つまり、親の「自立」が問われるのではないか。
子育てから、また自分自身が「育てられた」ことから、社会を考え、また子育て、その他の問題を
社会的な視点をもって解決するために、オープンに語り合い、真剣に考えていける場をつくりたい。

(3)「自立」を考える場
「自立」とは何か、何をして、どう生きることが「自立」なのかというところで、私は長年混乱し、
つまずいていた。
また、それは私だけの問題ではなく、世間一般に根深い混乱があるようだ。大学生・社会人ゼミの
女子大生が、母親を「専業主婦で、ダメだ」と断じ、一方で、女子高生が「男が女を養う」と何の
留保もなく言う。梅棹忠夫の、経済的基盤を持たない主婦批判に対して、女子中学生が同調したかと思えば、
一転、感情的に反発する。
本来、「自立」の基準は、女性が外で働いているか否かではない。
家庭の中でも外でも、社会的な展望のある自分のテーマを持って生きているのかどうかだけが、その基準である。
男性も同様だ。社会で働いていることが、即、どういう社会をつくり、どういう家庭をつくるのかという展望を持ち、
「自立」していることを意味する訳ではない。
家庭内の仕事は、ある意味最も「共依存」の問題が問われる場だ。それは、家庭が、人間の本性がむき出しになり、
第三者の入る余地に乏しい閉じた場であるという話に留まらない。
また、妻が夫に経済的に依存することが多いからでもない。むしろ、そのように必然的に依存し合って生活する中で、
同時に個々人の「自立」が求められ、子どもを「自立」させる必要があるからだ。
親の「自立」、自分の「自立」を問うていきたい。

※明日につづく。

Leave a Reply