2月 20

◇◆ 17 再生医療の矛盾と倫理 ◆◇ 

再生医療は困難を極めるのだが、それはなぜなのだろうか。
動物の細胞には、培養下において、全ての組織に分化し得る能力を持つ細胞(万能細胞)が存在する。しかし、これらの細胞を適切な条件で培養しても、秩序だった組織は形成されず、細胞の塊ができるだけである。それはなぜなのだろうか。
また、臓器移植では、ドナーに由来する臓器を移植する際に、拒絶反応が起こる。人体は自分と他者を厳密に区別するのだ。こうした「拒絶反応」は再生医療への大きな障害であり、再生医療とは「拒絶反応」との戦いである。
しかし、そもそも「拒絶反応」はなぜ起こるのだろうか。「拒絶反応」をただの障害、邪魔者と考えることを止め、私たちは逆に、なぜ「拒絶反応」は起こるのか、万能細胞はなぜ組織にならないのか、その意味を深く、深く理解する必要があるのではないか。私たちが何者であるかを理解するためである。

再生医療の問題を考えるには、生物の進化の過程を考える必要があると思う。私たちの地球の歴史である。
地球は物質で構成されていたのだが、ある段階で生命が生まれた。生命にはその「中心」、つまり「目的」が明確な形で現れて来る。それは自己保存、自己保持である。つまり「生きる」こと、「生き続ける」ことである。
生命は単細胞から始まった。そして単細胞が集まって多細胞の生物が生まれる。細胞が全体の中に組織され、より機能分化が進んだ生物が生まれる。すべては目的を果たすためだが、この進化の過程で個々の細胞の自立性は失われていく。生物の目的、生きるために、その部分は全体の要素としての機能を果たすようになる。目的のためのものでしかなくなる。
こうした生物の進化の最初の段階は植物である。植物では基本的には組織切片から全体を再生することができる。挿し木を思えばよくわかることだ。これは自らの成長過程を、元に戻して再生できるということだが、それは原始的な機能を持っているから可能なのである。
しかし、動物が生まれ、さらに人間が生まれてくる過程で、こうした再生機能は失われていく。動物では、受精卵以外の組織はこうした能力を持たない。トカゲのしっぽ切りが有名だが、それはしっぽだけの再生であって、自分の丸ごとの再生はない。
物質から生命が生まれ、植物から動物、人間が生まれるまでの過程は、後者は前者の低さを克服(止揚)していく過程であり、よりよい機能分化、機能の高度化の過程である。その過程では、原始的な生物の持っていた機能(例えば再生機能)は失われてきた。進化の過程は高度化をめざすバトンリレーであり、そこでは何かを犠牲にして、高度化が進んできたのであり、それをもとにもどすことはできない。
しかし、ではその進化の目的とは何なのか。なぜ進化が起こり、機能分化が進み、高度化が進むのだろうか。なぜ人間は生まれたのだろうか。人間は他の動物と同じく、ただ生きるために、生き続けるために存在しているのだろうか。人間とは何なのか。
ここで人間の使命、進化の意味が問われる。これにどうこたえるかで、再生医療への評価はまるで違うものになる。
地球から生命、植物、動物、人間と生まれてきた。この地球の進化の最先端にある人間は、ついに自己意識(「自分とは何か」)を持ち、思考の能力を形成し、認識ができるようになった。
その目的は、自然界の進化・発展の意味を理解し、その全過程を完成させることである。その全過程に対して責任を持ち、その完成を実現するのが人間の使命なのではないか。
したがって、人間がその使命をはたさないで、人間だけの幸せを考えることは許されないのではないか。

 ここでヘーゲルの力を借りたい。彼の『精神哲学』は精神(人間)が地球からどのように進化してきたか、その進化の意味と、人間の使命を説明する。その『精神哲学』から生物の発生と、植物から動物までの進化の過程の説明部分を引用する。

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生物(植物)
 〔ここまでは物質について触れてきたが、物質の最後に言及した「中心」がより明確に現れるのが生命を持つものである〕。生物においては、生命を持たないものを支配している必然性より、もちろんより高い必然性 が現れる。すでに植物にあっては、その〔個体内において〕中心が周辺(葉脈や神経など)に注がれ、〔逆に〕諸区別は中心に集中されている。〔他方で、その成長発展の過程でも〕内から外に向けての自己展開が起こり、自己自身を区別し、そうした諸区別からつぼみができ〔次の種子ができる〕ということで、自己を一つの統一した植物として次々と外に現わしていく 。これは植物の「衝動」 といっても良いだろう。
しかしこの統一性〔生命のサイクル〕は不完全なものにとどまる。なぜなら植物が分肢していく過程は植物の主体が自己を外化するものであるが、その各部分は〔それぞれ〕その植物全体であり、同じもの〔全体〕の反復であり 、したがって各分肢は〔自立的であり、その植物という〕主体の統一性の下に完全に服従しているのではないからである。

動物全般
こうした外的自立性の克服 について、植物よりもさらに歩みを進めた のが動物の有機体である。動物にあっては各分肢は他の分肢を生み出し、すなわち各分肢は他の分肢の原因であり結果であり、手段と目的であり、従って自分自身であると同時に自己の他者 である。〔しかし、これだけなら植物と同じである。ところが動物は〕それだけではなく、その全体 が自らの統一性(中心)によって貫徹されており、そのために全体の中に自立したように現れるもの〔動物の各分肢で〕はなく、各規定〔動物の各分肢〕は同時に観念的なもの 〔動物全体の契機として〕であり、動物は各規定〔動物の各分肢〕に分かれていても、同じ一つの普遍性〔全体の目的、生命保存〕にとどまり、したがって動物の肉体において相互外在性は全くの非真理である ことが明らかになる〔相互外在性は止揚され、全体の契機になっている〕。
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以上は『精神哲学』第381節(岩波文庫では第5節)。訳文、小見出しは中井。

「植物の各部分は〔それぞれ〕その植物全体であり、同じもの〔全体〕の反復であり 、したがって各分肢は〔自立的であり、その植物という〕主体の統一性の下に完全に服従しているのではないからである」。
挿し木が、この具体例である。葉や枝から全体が再生する。ここでの論理がクローン技術、再生医療の論理である。
動物は「全体が自らの統一性(中心)によって貫徹されており、そのために全体の中に自立したように現れるもの〔動物の各分肢で〕はなく、各規定〔動物の各分肢〕は同時に観念的なもの 〔動物全体の契機として〕であり、動物は各規定〔動物の各分肢〕に分かれていても、同じ一つの普遍性〔全体の目的、生命保存〕にとどまり、したがって動物の肉体において相互外在性は全くの非真理である ことが明らかになる〔相互外在性は止揚され、全体の契機になっている〕」。
私がここで考えたのは人間の再生医療、「臓器移植」などがなぜ難しいかの根拠である。植物の段階では各部分は相互外在的であり自立性が高く、相互に入れ替えが可能で、全体の再生も可能だった。全体の契機になっている程度が低いのだ。動物、ましてや人間は、各部分の自立性は低く、相互の入れ替えや全体の再生は不可能で、他の動物(人間)との入れ替えもムズカシイのだ。それは部分が全体の契機になっている程度が高いと言える。
そして人間に到っては、個々の個体が自己を完成させ、他者との間に絶対的区別を持つ。それが自己意識を生み、個性がそこに確立する。それは自分が自分以外の何者でもないこと、自分は自分という一回性の生を生きるものであることを意味するのではないか。そしてこの個体性が各人の自立性の根拠であり、各人の思想の独立性へと発展していくのである。
同時にまたそれが「拒絶反応」を引き起こすのである。人間が自分以外のものを拒否する機能は、人間が自己意識を持った証であり、地球の進化の最先端にあることの証でもあるのではないか。

人間の尊厳性とは何を意味し、何を根拠とするのだろうか。
それは、人間が自然の進化の過程の最先端にあることであり、人間を生んだ目的であり、人間の使命である。この地球の全自然過程を完成させること、それが人間が人間であるという意味なのであり、ヘーゲルはそれを人間の概念と呼んだ。
そうであるならば、人間が自らの概念を実現する努力をし続けている限り、物質から人間が生まれるまでの過程は、基本的には正しかったことになる。
ところが、再生医療とは、この進化の過程に抗い、それをもとに戻す試みなのである。人間をまた植物レベルへと戻すこと、退行させることなのである。
私はそれは基本的に間違いであり、絶対的には無理があるのだと思う。私たちは植物レベルに戻らないし、戻れないのではないか。
私たちは自分の使命に責任を持つべきであり、自分を生み出した進歩、進化の過程に責任を持つべきではないか。それが再生医療における「倫理」、クローン技術、遺伝子操作における「倫理」なのではないか。
もちろん、人間の使命、その概念の正しさは、私たちが何をするかで決まることである。私たちはどちらを選択するのか。概念の実現を自らの目標としその使命を全うするのか、できずに終わるのか。それこそが私たちの最後の倫理であり、正しさの基準なのだ。

2023年1月31日

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