12月 16

■ 目次 ■

牧野哲学の総括      中井 浩一

1 前置き 第二期鶏鳴学園の挫折と牧野さん自身による「第二期鶏鳴学園の反省」
2 牧野さんの総括「第二期鶏鳴学園の反省」の確認
3 「第二期鶏鳴学園の反省」の検討
(1)牧野さんの哲学の問題
(2)牧野さんの個人的な問題
(3)研鑽について
 ※本日はここまで。以下は明日

4 中井の代案 その1 師弟関係論
(1)師弟関係論「先生を選べ」の正しさ
(2)カンパは乞食、オルグはお節介
(3)生徒の側の二つの段階の区別
(4)先生の二種類
(5)個人崇拝の問題
5 中井の代案 その2 マルクスの思想の問題
6 これからの課題

 追記

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◇◆  牧野哲学の総括  中井 浩一  ◆◇

牧野さん

中井です。その後、お体の調子はいかがですか。

本日は、牧野さんと私たちの第二期鶏鳴学園の失敗について、またそれを踏まえた牧野さんの第三期について、私の考えていることを報告します。

以下は次のような順番になっています。
1 前置き 第二期鶏鳴学園の挫折と牧野さん自身による「第二期鶏鳴学園の反省」
2 牧野さんの総括「第二期鶏鳴学園の反省」の確認
3 「第二期鶏鳴学園の反省」の検討
(1)牧野さんの哲学の問題
(2)牧野さんの個人的な問題
(3)研鑽について
4 中井の代案 その1 師弟関係論
(1)師弟関係論「先生を選べ」の正しさ
(2)カンパは乞食、オルグはお節介
(3)生徒の側の二つの段階の区別
(4)先生の二種類
(5)個人崇拝の問題
5 中井の代案 その2 マルクスの思想の問題
6 これからの課題

牧野さんの眼が悪いのはわかっているので、読んでいただけるように大きな文字を使用しました。そこで分量が大きくなりました。その核心部分は「3『第二期鶏鳴学園の反省』の検討」の「(1)牧野さんの哲学の問題」と「中井の代案 その1 師弟関係論」です。その始まりのページに付箋を付けました。そこだけでも読んで頂ければ幸いです。

1 前置き 第二期鶏鳴学園の挫折と牧野さん自身による「第二期鶏鳴学園の反省」

第二期鶏鳴学園の挫折は牧野さんにとって決定的なものだったと思います。そして、牧野さん自身によるその総括として「第二期鶏鳴学園の反省」(1997・10・10の日付があります。雑誌『鶏鳴』145号1998年1月発行に掲載)を出しています。運動の失敗から五年後に出ていることが、その挫折の大きさと深刻さをよく表わしています。
なお、私は以下で牧野さんの考えとしては主にこの総括文を検討するのですが、これ以外に、牧野さんのまとめた総括などがあれば教えてください。以下では、これが唯一の総括文であるとして、この後を書きます。
牧野さんは、「第二期鶏鳴学園の反省」で第二期鶏鳴学園を前半と後半に分けて、「前半(1985年12月から90年3月まで)はこの種の運動としては最高の段階に達していた」。後半(90年4月から92年3月末まで)では「それ以上のもの(共同体の実現)を望んだのが間違いの元だったのです」とまとめています。
これは私の実感、その評価とも一致します。牧野さんの指導した鶏鳴学園の全歴史の中で、前半はピークだったと思います。その成果は『ヘーゲル的社会主義』にまとめられていますが、これは戦後の日本における哲学の最高レベルだと私は考えています。
しかし、この第二期は前半で大きな成果を出しながら、途中から共同体の実現に大きく梶が切られ、それがすべてに優先されました。数少なかった仲間が運動から離れたり、恋人と別れるなどの結果がありました。そうした大きな犠牲を払いながら実現した共同体運動は二年も持たずにあっけなく崩壊しました。
私にとって、その失敗という結果は意外ではありませんでした。無理に無理を重ねていることは感じていたので、予想された結果です。牧野さんの「暴走」を止める力は私にはなかった。しかし私には運動を辞める選択肢はなかった。そこで牧野さんに最後までついていき、その最後までを見届けることを決めていました。しかし、牧野さんの考えを十分に理解していたわけではなく、納得していたわけでもなかった。
そこで、その失敗の総括は、当時の私には不可能でした。ドイツに二年間留学して1997年4月に帰国した後に、牧野さんの「第二期鶏鳴学園の反省」がでました。その内容は衝撃的で、これは重く私にのしかかりました。
 衝撃だったのは、共同体や分業の止揚、大学や講壇学問の否定、研鑽への大きな期待、といった運動の根幹にあった理念が、ほぼ全否定されたような内容であったからです。私が前提とした(させられた)すべてが崩壊して、自分を支えるものがなくなったような心細さでした。
当時の私は牧野さんの考えを十分に理解できていなかったし、結局は牧野さんについていくだけで、自分で考える力がなかったのですから、自業自得です。
 私はそこから始めました。バラバラに砕け散った破片を1つ1つ拾い上げて、もう一度1つ1つを確認するために、ヘーゲル、マルクス、牧野さんの著作を読み直すことを始めました。
自分の中井ゼミを開始し、そこでは師弟契約に基づく師弟関係を始めました。契約者は最初は1人だけでした。今は10人ほどがいます。
そして中井ゼミで20年間、ヘーゲルを、マルクスを、牧野さんを読んできました。大学外でこうしたことを継続できたのは、師弟契約にもとづく強い信頼関係があったからだと思っています。また若い彼らの抱える問題を一緒に考えながら、第二期鶏鳴学園の運動について考えてきました。
私は今年、マルクスについて、二年前にはヘーゲルについて、本に考えをまとめました。そして今、自分なりに、第二期の総括をまとめられるところまで来たと思っています。
それを以下に、報告します。これはこれからの私の生き方、中井ゼミのありかたを確認するものです。

2 牧野さんの総括「第二期鶏鳴学園の反省」の確認

「第二期鶏鳴学園の反省」は失敗の総括としては3つの部分からなっています。(1)失敗の根本の原因、(2)失敗後の牧野さんの大きな変化、(3)研鑽についての反省、です。この順番に見ていきます。

(1)失敗の根本の原因として、牧野さんは「教師として」の間違いを挙げています。そしてその中で、共同体と分業の止揚の失敗をとらえています。
教師としての間違いとは、第一に「相手〔弟子たち〕の素質などを正確に判断しないで過大なことを期待したり要求したり」したことです。「哲学をやるというのは百メートルを十秒ゼロで走るようなもの」であり、「その素質のない人には無理なのです」。
そして「その不可能なことを追求するために、『共同生活で良い環境を』と考えたのが第二の間違いだったのです。つまり、言ってみれば『おんぶにだっこ』で十秒ゼロを実現しようとしたのです。それは原理的に不可能でした」。
これは牧野さん自身が設定した「教師の自戒」の第一原則「生徒の成長の過程を自覚して、順を追って生徒に練習させよ」の違反です。
 また、ここで分業の止揚の問題も出しています。分業をすぐに止めて自然生活を目指さなければならないと考えたのは間違いであった。分業の止揚のはずが、分業に否定になっていた。分業を否定することはできない。
「この世の中で戦って生きていくには、何らかの分野で人より優れているものがなければならないし、それを維持するために日頃から自分で勉強し続けなければなりません」。こうして改めて分業の意義を確認します。
そして、分業の問題を解決するには共同体というあり方とは「別の方法」を考えなければならないと述べます。しかし、その「別の方法」とは何かは書かれていません。
そしてこの教師としての反省の最後では、「その上、私には経営者としての才能も組織者としての才能もありませんでした」と述べます。これはつけたしであり、わずか36文字です。次の段落の冒頭には「〔我々の共同体は〕直接的には経済的に行き詰まり、人が去って終わりました」とあるのです。この経済、経営、組織のとらえかたの軽さには驚きました。
以上が(1)失敗の根本原因として牧野さんが挙げた内容です。それは一言でいえば、教師としての間違いだったとしているということになります。

したがって、第三期では、教師としての教え方を大きく変えることになりました。それが(2)にまとめられています。相手に過大な期待を持つことをやめた。素質ややる気のある人に限定して、自分の授業をその人をその人に限定してより良いものにすることだけを考えた。自分の仕事の限定をした。分業を推し進め、家庭教育は家庭教育に任せた。
 それはそれまでの大学否定の姿勢の反省にもなりました。「『大学ではダメだ』ということで鶏鳴学園を始めたのですが、共同生活まで追求してみて、結局大学以上のところは無理なのかと思うようになりました」。「大学を原理的に否定するのは間違いだ」。

そして、最後に研鑽についての反省(3)があります。第二期では研鑽、つまり話し合いと相互批判を、大変に重視しました。「私たちが今追求しているのは話し合いと自己反省の中で自分も相手も変わっていくことを前提してその相互研鑽を保障し高める主体的民主主義のシステムづくりだと思います」(『ヘーゲルと自然生活運動』の「あとがき」)。
この考え方にも大きな修正が加えられます。もちろん牧野さんも第二期での研鑽の成果を認めています。共同生活の失敗の状況下でも「暴力沙汰は一切なく、大きな声を出したりすること」もなかった。「ただ、考えが一致しなかっただけです」。
ここから「話し合いの調整能力を過大に考えていた」。「『言論の限界について認識しておく』ことを忘れると、『何でも話し合いで』という観念論になってしまいます。共同生活の中で話し合いによって変えうる範囲は極めて小さいことを思い知らされました」という結論が出ます。そして、ここから「そもそも人間変革などということは神の仕事であって、人間の考えて良いことではないのかもしれません」との思いが吐露される。

以上が「第二期鶏鳴学園の反省」の運動の失敗の総括部分の内容です。

3 「第二期鶏鳴学園の反省」の検討

「第二期鶏鳴学園の反省」を検討するにあたって、何よりもまず、牧野さんがこの運動を主導したリーダーとして、運動の失敗を認め、その原因についての反省を公表したこと、その責任の取り方と生き方の高さを確認したいです。多くの場合、こうした運動の失敗の際に、責任者は一切沈黙したり、何も語らないのが普通なのですから。
私はマルクスのことを考えるのです。彼は1848年の革命失敗後、そうした自己反省の表明はついにできなかったと思います。
 しかし、この総括文は次のような欠点を持っていると思います。ここにはリーダーの個人的な問題や教師としての反省はあっても、運動として、組織としての問題は明らかにされていません。経営や組織の運営については軽く触れるだけです。何よりも、哲学者としての反省、運動の理論、運動の原理原則の反省へと深まっていません。

(1)牧野さんの哲学の問題
失敗の根本原因を考える時、牧野さんは何よりもまず「哲学者」なのですから、その反省はまずは、その「哲学」そのものの反省にならなければならないはずです。教育者としての失敗、経済や組織の面での失敗があるのなら、それはその哲学の低さの結果として理解すべきではないでしょうか。
 牧野さんの「哲学」は相対的には他を圧倒していましたが、絶対的にはまだまだ低いものであったということなのだと思います。それは何よりも発展の理解の不十分さにあります。牧野さんは、現実の肯定的理解ができず、否定しかできず、止揚の道筋を示せなかったのではないでしょうか。
 発展の理解を問題にする場合は、存在の運動と認識の運動を区別して考えると、わかることがあります。牧野さんは認識の運動については立派な理論をまとめていますが、実際の存在の運動になると、その理解が弱かったということです。
 実際にそれは弟子たちについての理解に現れました。その素質、それぞれの発展過程を的確に理解することができなかったようです。そして結果的に甘やかすことになりました。それは牧野さんの総括文にも失敗の第一の原因として書かれています。
しかし、それは弟子たちに対してだけではなく、この現実社会について、そこでのビジネス、経営、経済活動や組織運営の面でも、その対象を発展としてとらえることが極めて弱かったと思います。
牧野さんは総括文の中で、経営や組織については軽く触れるだけで終わりにしています。これには唖然としました。
唯物史観の立場に立つ者にとって、物事の根本は経済の問題であり、それがその上に立つ組織と、その上の意識を規定するはずです。ところがここで牧野さんは自らの意識のあり方を第一の原因だとするのです。
私は牧野さんが経営をわかっていないと思ったことがたくさんあります。「ダンケのパン」の失敗、「鶏鳴出版」が大きな成功を収められなかったこと、そして第二期後半の共同体運動を株の運用で行おうとしたこと。それはバブル崩壊とともに決定的な負債を抱える結果となり、これによって運動は終わりました。共同体運動の失敗とは言えないレベルだった思います。この経営面の問題を、総括文では真剣に反省せず、どこにどういう問題があったのかを考えようとしません。
これは全体として牧野さんの認識が抽象的普遍にとどまりがちだったことを意味します。このことが牧野さんが現実の肯定的理解ができず、否定になったことを説明すると考えます。
牧野さんには、ヘーゲルの「現実的なものが理性的なものであり、理性的なものが現実的なものである」という際の「現実的なもの」の理解が不十分すぎたと思います。つまり、その思想や認識には、理性レベルではなく、悟性レベルのものが多かったということです。

第一期、第二期の鶏鳴学園は現実世界(固定した分業、私的所有、格差拡大、教育機関としての大学及び大学の教員のサラリーマンとしてのあり方の問題など)を止揚すると標榜しながら、実際は否定するだけで、それを真に超える原理を出せなかったのだと思います。
従ってそれが失敗した以上は、最初に全否定した現実世界にもどり、現実世界を肯定し、その大枠の中でできることをする、ベストを尽くすものになりました。それは、その運動が現状を「止揚」するといいながら、実際は「否定」になっていたために、その反省は「肯定」にひっくりかえることになったのだと思います。
 もちろん、牧野さんは、その大枠の中で他の研究者を大きく超える仕事をしました。しかし本当の反省をし、新たな運動を組織することはできなかったと考えています。このことは牧野さんの第三期の仕事全体のレベルを規定していると思います。例えば、『関口ドイツ文法』は他に類を見ない大きな仕事ですが、関口ドイツ語学に可能性としてあった理性的なものを切り捨て、悟性的なレベルでまとめていると思います。また牧野さんの許万元さんへのこだわりにもおかしなものを感じます。許さんについてはすでに牧野さんによって、その根本への批判は終わっていると思います。どうして今も許さんを問題にするのでしょうか。

人はどんな人にも自らの限界があります。挫折があった時に、それを超えられる場合もありますが、越えられない場合もあります。誰もが人間としての限界を持ち、さらに時代の子なのですから当然のことです。牧野さんが自分の限界を自覚し、その限界内でベストをつくすように生きようとしたことは立派でした。しかしそれがどの程度までできたかは、また別に考えるべきだと思います。
私自身は牧野さんの第三期の道は取りません。私は、牧野さんが第一期、第二期に打ち立て、実践した理論と運動の中に、今の現実社会を超えていけるものがあると思っています。それを明らかにし、その実現を目指すのが私の課題です。つまり改めて牧野哲学の意義と限界を明らかにし、それを継承し、真理を実現することです。その際に、自分、自分たちの限界の自覚。それをわきまえた言動を心がけるつもりです。

牧野さんの哲学の問題については以上とします。次に、牧野さんの個人的な問題を考えたいと思います。

(2)牧野さんの個人的な問題
牧野さんの総括文を読んで、まず思うことは、牧野さんという人の理論の高さ、志の高さと、実際の運営、実践との間の驚くべき乖離と落差です。これは理論と実践の不一致の問題で、誰もがそうした問題を持っているのですが、牧野さんの場合は大きすぎます。これは先に述べた牧野さんの哲学の弱さの原因でもあり、結果でもあると思います。
 牧野さんは、個人としては善意の塊のような人で、普通の意味での理想主義者です。実行レベルでも、妥協せずに、信念を貫ける人です。しかし、人の弱さ、醜さ、悪の部分を直視できず、そうした人に振り回されたり、引きずられたりします。
総括文にもその反省がありますが、そこにないのは、「人の弱さ、醜さ、悪の部分」が牧野さん自身についてもあったし、しかも大きかったことへの反省です。その点の自覚がとても弱いと思います。
これは大きく言えば、牧野さんが性善説で性悪説の立場ではなかったということです。自分の中に巣くう大きな悪を見抜き、それに対処していく力が弱かったということです。
また個人の性格というレベルでも問題があります。牧野さんには、すぐに調子に乗るという欠点があると思います。性急さ、焦る、あわてる、こうした傾向性を押さえることができないといった問題もあります。これは改善されることはありませんでした。むしろ危機的な状況の中では、それらはより大きな欠陥として現れました。

もちろん、人は誰でも長所も短所もあります。ですから個々の問題があっても、全体として運動を前に進めることができればそれでよいのだと思います。そしてそのための大きな役割が研鑽にあったのだと思います。それが実際は機能しなかったということこそ、哲学者としては反省すべきではないでしょうか。

(3)研鑽について
牧野さんの研鑽についての総括には、私は異論があります。
牧野さんも第二期での研鑽の成果を認めています。共同生活の失敗の状況下でも「暴力沙汰は一切なく、大きな声を出したりすること」もなかった。「ただ、考えが一致しなかっただけです」。
そしてここから「話し合いの調整能力を過大に考えていた」「共同生活の中で話し合いによって変えうる範囲は極めて小さいことを思い知らされました」という結論が出ます。

これは私の理解とは大きく異なります。私の理解では、研鑽の力は前期では機能していたと考えます。先生と生徒の間で先生からの率直な指摘、アドバイスができるようになった。さらに以前は鶏鳴学園には先生と生徒の関係しかなく、仲間同士の研鑽がなかなかできていなかったです。それが、「成績発表」として各自が自分を含めた全員についての評価、批判をするようになり、その解決につながっていました。同じ先生を選んだことこそが、相互の信頼関係を深め、その研鑽を可能にしたと思います。こうした研鑽の成果が前期の学習上の成果だったと思います。
 問題は後半です。この後半においては研鑽の力はほとんど機能しなかったと思います。
なぜでしょうか。共同体運動は牧野さんの夢であり、目標でしたが、他の弟子たちにはそうではなかったからです。そこでは共同体運動を自発的に希望するメンバーはいなかった。
共同体運動に舵を切ったのは牧野さんであり、弟子たちがそれに参加したのは、事実上は牧野さんによる強制でした。それに参加しないものは運動から去らなければならなかったからです。すでに皆、それまでの仕事を辞めて退路を断っているのであり、追い込まれていたのです。
共同体に参加したメンバーも、牧野さんに言われて嫌々ながら、半信半疑でやるというのが実態であったと思います。私自身のことはすでに「1 前置き」に書いた通りです。
 さらに、師弟関係の中には大きな問題がありました。「先生を批判するな」として、牧野さんへの批判が禁じられていたために、共同体運動への反対、批判、疑問を抑え込むことになりました。それは牧野さんを絶対化しそれに従うという、全体主義への転落を意味しました。そこには主人と奴隷の関係しか存在しません。
したがってその状況下で共同体運動を、みなで冷静に検討することはできず、また共同体運動が始まった後も内部での研鑽は十分には機能しなかったと思います。これについては、師弟関係論の問題として後述します。

 以上、牧野さんの運動の研鑽の問題を述べてきましたが、私は今も研鑽の可能性を信じています。本来は正しい師弟関係と正しい仲間の関係があるならば、それは研鑽を深め、また逆に研鑽によって師弟関係と弟子相互の関係を深めることが可能であり、それこそが共同体運動を可能にしただろうと思います。その可能性は研鑽の成否にかかっていると思います。

※つづきは明日掲載

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