■ 目次 ■
牧野哲学の総括 中井 浩一
1 前置き 第二期鶏鳴学園の挫折と牧野さん自身による「第二期鶏鳴学園の反省」
2 牧野さんの総括「第二期鶏鳴学園の反省」の確認
3 「第二期鶏鳴学園の反省」の検討
(1)牧野さんの哲学の問題
(2)牧野さんの個人的な問題
(3)研鑽について
※今回はここから。
4 中井の代案 その1 師弟関係論
(1)師弟関係論「先生を選べ」の正しさ
(2)カンパは乞食、オルグはお節介
(3)生徒の側の二つの段階の区別
(4)先生の二種類
(5)個人崇拝の問題
5 中井の代案 その2 マルクスの思想の問題
6 これからの課題
追記
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4 中井の代案 その1 師弟関係論
(1)師弟関係論「先生を選べ」の正しさ
運動を考える時には、その運動の目的そのもの、そしてその目的を実現するための方法・手段が問われます。
牧野さんは、真理の認識、真理の実現を目的としました。その真理を具体化した立場としては、「ヘーゲルの概念の立場とマルクスの賃労働者階級の立場」とを掲げ、それを「大衆の生活の立場からとらえ直し、それを全生活に及ぼして生きることを目的とする」としました。(「牧野道場の規約から)
ここで「全生活に及ぼして生きることを目的とする」としたこと。これこそが牧野さんの運動の核心だと思います。それは思想運動ですが、何よりも「生き方」を具体的な日々の生活の場で問題にするのです。他の人とまるで違います。
次に、この目的を実現するための組織原則が、牧野さんの「先生を選べ」を中心とする師弟関係論でした。牧野さんの言葉では、講壇学問を上回る真の学問を目指し、その実現のために「先生を選べ」に規定された「真の師弟関係論」を打ち出しました。
この原則は直接的には牧野さんの個人的な経験と悩みから生まれたものだと思います。東京大学の哲学科での経験、その後自らの先生として選んだ寺澤恒信のいた東京都立大学大学院、博士過程での経験。それは弟子、生徒としての経験ですが、他方で牧野さんが色々な大学で教えていた時の学生に対する先生として向き合った経験があります。その両者の立場を経験した上での、学習・研究を進めるための師弟関係の原則でした。しかしこれは当時の大きな思想上の問題に、社会主義運動の内部における個人崇拝の問題に対する牧野さんの答えでもあったのです。それについては後述します。
師弟関係論は次の三段階から成ります。(以下は「先生を選べ」「道場の三原則」から)
第一原則 先生を選べ
第二原則 先生から徹底的に学べ
第三原則 先生を追い越せ
この第一原則の先生を選ぶ段階を、牧野さんは学問の主体的性格と客観的性格の二面から説明します。主体的性格とは生徒が自分の問題意識、自分の関心を追求していくという側面であり、その客観的性格とは、そのために人類の過去の最高の成果を先生として選ぶという側面です。その両者の分裂と統一として、師弟関係論をとらえようとしているのです。
第一原則は「始まり」ですから重要なのですが、その成否は第二原則にかかっています。そこで第二原則「先生から徹底的に学べ」の補足として、牧野さんは「正しい学ぶ姿勢」を示します。?自分でやってみて先生に批判を求める、?先生の話を大人しく聞く、?先生に不満を言う、の三つの姿勢を挙げた上で、?が正しいとします。「一般に人間は自分の能力を高めるには自分で何かをやってみなければなりません」「自分の問題意識をはっきりさせ積極的に自分の意見を述べて先生や他の人の意見を聞く」という態度が求められるのです。しかし実際はほとんどの人が?で、一部が?で、正しい?の人はほとんどいない。
この学ぶ姿勢とは学問の主体的性格から出てくるものですから、弟子にとってはこの理解が重要だと思います。私自身は牧野さんから「学ぶ姿勢」が悪いこと、つまり「先生を選べ」ができていないことを繰り返し、繰り返し批判されました。特に、第二期の最初の1年間は、毎回のゼミで批判され続けた記憶があります。それは私が?の姿勢だったということです。
今、私は次のように考えています。
まず?を、生徒の真の自立、真の主体性だと考えます。これに対して?と?は?に対しては、他者への依存、先生への依存の姿勢だと思います。
?が依存なのはわかりやすいでしょう。こういう人は、そもそもの問題意識がないのですから、先生を選ぶこともできないはずです。
問題は?の人です。この人は、他者への反発や、反抗、批判ばかりです。先生に対しても変わりません。これは一見、依存ではなく自立しているように見えるのですが、実際はこれは裏返しの依存でしかありません。この人が自立の根拠としている反発や、反抗、批判には、その向けられる対象があるのですが、反抗や批判とはその対象があるがゆえに可能になっている。つまりこれも大きな意味では、その対象に依存していると言えるのです。「反体制」や「反対運動」をしている人には、この段階の人が多いのです。
この?の人と、?とは何が違うのでしょうか。?の人には、批判ばかりで代案がないということです。代案を自分の力で作っていないということです。作るだけの覚悟もなく、批判するだけに甘んじている、それで自己の存在証明になっていると考えるのです。
この代案こそが、「自分の思想」と言えるもので、これを作るために、先生を選び、先生から徹底的に学ぶのです。それが代案「自分の思想」を作ることになり、それが真の自立であり、それが?なのです。そしてその先に「先生を超えろ」と言われるわけです。
ここで人間の弱さを考えたいと思います。人が自分のテーマや問題意識を持ちながら?にならず、?または?になってしまう理由は何なのでしょうか。
人が自分の問いを持ちながら、その答えを出せないのは、根本的には自分の能力の低さが原因であり、それを克服する以外には解決の道はありません。しかし、その低さを直視するのが難しいのです。能力の低さは、自分の生き方、人との関係、組織との関係における中途半端さ、対立を避けて問題から逃げてきたことが深く関わります。その根底には両親や世間の価値観から自立できていないことがあります。そうした自分の弱さ、限界を直視することが難しいのです。
そしてその時、自分自身の弱さや苦しさを他者に転嫁する、それが先生への批判として現れる。それはよくあることです。それが?です。そして?でやった結果、先生からそれを徹底的に叩かれた場合は、?になりおとなしくなってしまう。これもまたよくあることです。つまり、?と?は実は同じ依存なのです。ここに人の弱さ、悪の問題があります。
例えば、ソクラテスを裁判で殺したアテネの市民たちは明らかに?ですが、ソクラテスの弟子たちや死刑に反対した市民たちの多くは、?ではなく?でしかなかったのではないか。
私の話をすれば、私は20代の自分の行動、社会運動の反省をする覚悟を持てず、この問題を正面から出して、その答えを出すことに専念することができないでいたのでした。それが?の形に現れたのです。
こうした主体性の問題を牧野さんは確かに感じていたのだと思います。しかし問題は定式化されていないためにそれは不十分でした。
以上、牧野さんの師弟関係論を検討しましたが、これは原理的にはあくまでも高く正しいと思います。この原則を打ち立て、それを三〇年間実行して生きたことが、牧野さんの哲学史上の最大の功績だと思っています。
この原則こそ、人類史を踏まえ、ヘーゲルの概念を踏まえたものです。人間は真理、理念を実現してきたのであり、その実現過程が人類の歴史であり、哲学の歴史です。その真理と理想と正義の実現を目指す以上、その運動自体がその真理の実現過程における継承、発展を純化したものでなければならないことになります。それが牧野さんが明らかにした師弟関係論であると私は考えています。
この「先生を選べ」の原則では、人間に先生を選ぶという強い主体性とその責任を要求します。ここには選び、選ばれた関係から生まれる信頼関係があります。選ばれた先生は強い指導力を発揮して、生徒を成長させることが可能です。もちろんそれには強い責任が求められます。
これは現在の大学制度の根幹の批判であり、それを超えるものです。そのことは牧野さんがこの原則を示した1970年代から今に至るまで変わらないと思います。現行の大学制度内には、この真の師弟関係はありません。そこで教え研究する教授たちは、みながサラリーマンであり、その生き方の限界を持っているからです。
第二期鶏鳴学園の大きな成果の根本原因とは、この原則を純化したことにあると思います。そしてこの原則の純化は、弟子同士の関係を深めることになりました。
第一期鶏鳴学園では、牧野さんの弟子同士の関係は深いものではありませんでした。牧野さんが「三宝を敬え」(『囲炉裏端』)と、真理、師、弟子たちへの敬意を挙げたのは、弟子たちに互いを敬うことを求め、この問題を解決するためでした。
それは師弟関係の純化でのみ可能でした。同じ人を自らの先生としている、そしてそこでは「正しい学ぶ姿勢」を実行しようと生きる。ここから相互の信頼関係が生まれ、これによって研鑽の充実が可能になるからです。
これは、私には生まれて初めての経験となりました。人が、個人の嗜好や傾向性、好き嫌い、その階級・階層の価値観、そうした「自然性」、出自の偶然性の延長の「思想」ではなく、選んだ先生とその先の真理との関係、そうした生き方でのみつながる。それが実際に可能なことを知った時、それまでの私の人との関係はその逆であったことがわかりました。自然性や偶然性をはるかに超えた関係を、先生と真理を媒介にすることで、人はもてるのです。これが本当の人間関係だと思います。
以上から、第二期鶏鳴学園の前期の大きな成果の原因としては二つが確認されます。師弟関係論の根本的な正しさであり、それゆえの研鑽の充実です。
(2)カンパは乞食、オルグはお節介
この師弟関係論から、牧野さんの「運動の拡大」についての大方針が確定されます。それが「カンパは乞食、オルグ(勧誘)はお節介」(『ヘーゲルの修行』に収録)の原則です。意味は明確です。そのままですから。
これは、何よりも実際の社会運動のほとんどが、勧誘とカンパによってその拡大運動をしていることへの批判です。それは宗教団体も、政治団体も、経済団体も、市民運動もかわりません。
多くの社会運動は、自分たち(だけ)が正しいという信念を持っており、その信念が社会全体に実現されることを求めます。そして、その方法とは運動のメンバーが増えるように勧誘(オルグ)し、そのための財源が確保されて、拡大運動が継続されることです。これは思想の内容に関係なく、ほとんどすべての運動の実態です。
しかし、牧野さんはその真逆を提示します。弟子たちに勧誘はさせず、自己研修第一を求めます。世間の一般的な運動に自らの運動を対置させ、外へ向かう運動と内に向かう運動、他者を教えようとする運動と自己教育を第一にする運動として示します。牧野さんは自らの方針を「熟柿主義」と称し、「桃李もの言わざれど下自ら蹊を成す」とします。
私はこの原則は、学ぶ姿勢の原則と同じであり、他者への依存か真の自立か、他者を教えようとするのか自己学習第一かを問題にするものだと考えます。これを根底に置くのが牧野さんの師弟関係論なのです。
そしてこの師弟関係論の主体的性格の原則からは、熟柿主義しか帰結せず、その「哲学主義」、その「共同体運動」が生まれるのだと考えます。そして、以上は正しいと私は考えます。
(3)生徒の側の二つの段階の区別
ここまで述べてきたように、私は、師弟関係論の根本的な正しさを認めるのです。しかしその内部における「先生を批判するな」という原則には問題があったと考えます。
牧野さんは、第二原則の「先生から徹底的に学べ」は「先生を批判するな」ということだと言います。これは先の学ぶ姿勢の原則の?「先生への不満を言う」への批判をさらに徹底し、それを全否定するに至ったものだと思いますが、そうしたレベルには収まりません。ここで牧野さんは「個人崇拝」の克服をめざしているのです。
二〇世紀の後半になれば、マルクスの社会主義運動の内部からスターリン信仰や毛沢東信仰の問題が明らかになり、「科学的社会主義」の内部からなぜ宗教的な個人崇拝の問題が生まれたのかが厳しく問われることになりました。スターリンや毛沢東だけではありません。それはマルクス自身への信仰であり、レーニンへの信仰でしかなかったのではないか。社会主義をただ信仰していただけではなかったのか。
牧野さんのこの問題についての回答とは「道場員は牧野の哲学を信仰してはならない。道場員は自分の問題意識に立って、牧野哲学を疑い尽くし、他の諸思想と比較検討し、自分の思想を作ろうとしなければならない」(「牧野道場の規約」)。
「道場の目的は牧野主義者や牧野信者を作ることではなく、一人一人が自分の思想を持ち、したがって豊かな個性を持った人間になることです。こういう人をヘーゲルは『概念の個別』と呼んだのです」。そしてこの実現のための原則が師弟関係論であり、それを「概念的組織原則」と呼ぶのです。
この牧野さんの意図と構想の壮大さには驚きます。1970年代の前半、まだ30歳代の前半の時点で、こうした構想を考えて実行していたことのすばらしさ。
一般的には社会運動の組織とは、その目的実現のための手段であり、手段としての有効性が問われるだけです。しかしこの師弟関係論はそれ自体が真理そのものであり、その実現を目的とする側面を持つのです。
しかし、なぜ「先生を批判するな」の原則が、個人崇拝の問題を解決できるのでしょうか。牧野さんは以下のように説明します。
第三原則は、「後輩が先輩を追い越す」ということですが、後輩が先輩を追い越す理由は先輩の仕事に不満を感じるからです。「従って後輩は先輩に不満を持つべしという命題」(第三原則)と「後輩は先輩に不満を言ってはいかんという命題」(第二原則)という矛盾する二つの命題を持つことになる。どうしたらよいか。「後輩が先輩に不満を持ったらそれを先輩にむけないで自分で背負い解決」すればよい。
「要するに後輩が先輩に対して行なって良い唯一の批判は先輩を追い越すという行為による批判だけです。第二原則で先生に対する批判を禁止し第三原則で先生を行為によって批判することを勧めたのは批判という名の甘ったれを禁止し真の批判を奨励し強制さえしているということです」。これが牧野さんの真意だと考えます。
したがって「先生を批判するな」の原則の是非を考えるには、この原則が個人崇拝の問題を解決できたのかどうかが基準になります。結果は否でした。牧野さんが総括文で「言ってみれば『おんぶにだっこ』で十秒ゼロを実現しようとしたのです。それは原理的に不可能でした」と書いてあることが全てです。これほどの厳しさを求めた運動が、実は大甘の運動であったという矛盾。これをどう考えたら良いのでしょうか。ここでは現実の人間の成長・発展段階が無視されていたということだと思います。
人は、最初から「先生を追い越す」ことや「自分の思想を作ること」を目指すことはありません。とりあえず困っていて、その解決策を求めるだけです。困っているとは、問題を抱え、問題意識を持ち、その答えを求めているが、未だ見出せていないということです。そしてその問いと答えを媒介するものとして先生を求めているだけなのです。それ以上のこと、例えば先生を追い越すとか、人類の最高点に到達したいとか、そういうことは、普通の人々の意識の中にはないのです。
私はその現状、現実を踏まえて師弟関係論を二つに分け、それを立体的に発展としてとらえればよいのだと考えています。
第一段階(低い段階)
第一原則 先生を選べ(自分の問題、問いを自覚し、その答えを出すために最適の人を先生とせよ)
第二原則 先生から徹底的に学べ(答えを出せないのは能力が低いからなので、自分の能力を高めよ。それには自分で高めるしかない)
第三原則 自分の問題意識の答えを出せ
第二段階(高い段階)
第一原則 先生を選べ
第二原則 先生から徹底的に学べ
第三原則 先生を追い越せ(これは「自分の思想を作る」と言い換えられます。これを目標とします)
この二つの段階を比較すると、第一段階は最初の低い段階であり、生徒の主体性の側から、その悩み・問題に寄り添うものであり、第二段階はより先の高い段階であり、先生や人類という客観的で絶対的な立場から見ていることがわかります。
第一原則の先生を選ぶ段階で、牧野さんはすでに学問の主体的性格と客観的性格の二面を出していました。これを実際の生徒の段階において分裂しているものとしてとらえて、原則を二つのレベルに分けたのが私の原則です。
私の原則の第一段階こそが、多くの人が切実に求めているものです。しかしこの段階の人は、先生を超えるということは意識していません。それどころではないのです。眼前の自らの問題に直面しているだけで、その先を考えるような余裕はないのです。またそれがその人の現在の発展段階なのです。この段階に必要な先生とは、人類史上で問題になるレベルの人ではありません。しかし、この段階でこそ、学ぶ姿勢の問題が問われるのだと思います。
そして、この段階の人は、自分の問いの答えを出せればそれで満足であり、それ以上を求めていません。答えが得られ、当初の目的が達成できれば、先生の下を離れますが、それで良いのです。
しかしこの段階の人のごく一部ですが、その段階には満足できず次の段階に進む人が出てきます。なぜなら第一段階で能力を高めその思考を深めていく中で、自分の問いが大きくなり深まっていくと、それを解決できるレベルの先生は限られるからです。そこでは先生のレベルが問われ、人類史上の発展が問題になります。この過程では先生の選び直しが起こります。それが繰り返されることもあるのです。そのようにして人類史上の最高点である先生が問題になる段階に至るのです。ヘーゲルやマルクスの思想の本当の価値を理解し、それをさらに理解したいと思うようになる人が出てきます。
第一段階においては、先生やヘーゲルやマルクスはあくまでも答えを出すための媒介・手段であり、それ自体が自分の目的・目標にはなりません。しかしその思想の理解が深まることによって、その巨大さに圧倒されながらも、それを本当に理解したい、その頂点を目指したい、いやさらにはそれを超えたいという欲求が芽生えてくるのです。これが第二段階であり、これが牧野さんの提示した師弟関係論なのです。この段階こそ、人類史、哲学史の中に自分を位置づけ、先生を追い越し自分の思想を作る段階です。そしてこの段階では自己反省はいっそう厳しいレベルで求められます。
「先生を選べ」といっても、第一段階では先生は複数の横並びの中から選ぶにすぎません。それはたまたまその人を選んだという偶然性の段階です。先生と呼ばれる他の人たちと上下の差があるのではなく、その問題の専門家であるにすぎません。しかし第二段階になり、その過程が進むにつれて、先生とはただ一人であり、他の可能性をすべて捨てる段階が来ます。これが自分の「立場」になります。
以上のように二つの段階を区別すれば、第一段階の人に「先生を追い越せ」とか、さらには「先生を批判するな」と求めることは無理なのであり、それを求めれば破綻するという予想が可能です。そして第二期の後半はそれをしたがために、事実破綻したのです。
では第二段階においては、「先生を追い越せ」や「先生を批判するな」を求めることは正しいでしょうか。私はそこにはやはり問題があり、無理があると考えます。
なお、牧野さんは牧野道場という組織の意志決定をする上で、道場員の分類をしています(「牧野道場の規約」)。意志決定に参加できる一級道場員と、できない二級以下の道場員です。しかしその区別の基準が示されていません。その本来の基準とは、この第一段階と第二段階の区別にあるのだと思います。この運動を決める会議の参加権は第二段階(高い段階)のメンバーだけが持ち、その決定権は、第一に先生が持ち、第二に先生のレベルに到達したメンバーだけが持つのです。
(4)先生の二種類
私は弟子側の発展として二段階を示しました。それは生徒、弟子側の問題の解決のためでした。しかし問題は、先生の側にもあります。それは先生にも二種類があるということです。
先生といってもすでに亡くなっている死者であり、その書き残したテキストから学ぶだけの場合があります。他方で、先生が生きており、その人について直接に指導を受ける場合があります。それは明確に区別する必要があります。死者からはテキストから学ぶしかなく、そこでは「批判を言う」必要はありません。しかし、生きた人から直接に指導を受ける場合にはそうはいきません。そこには現実の関係からトラブルが起こり、それを解決しなければなりません。ここには研鑽の問題があるのです
師弟関係が具体的に深まっていけば、そこでは人間の個人の傾向や性格レベルの様々なぶつかり合いが起こります。そうした低レベルから始まって、人間観、社会観、世界観といった最高のレベルまでの広がりの中で師弟関係は成立しています。問題がそのどのレベルのものなのか。その区別は難しいものです。
まず、弟子にとっては、本来は自分の思想を作ることが目的であり、そのためには個々の具体的な状況の中で問題を考えなければなりません。その中にはどうしても師弟関係の問題も含まれます。しかし批判をするなと言われれば、それが禁じられるということになってしまいます。
もちろん、弟子は自分の低さや課題を解決するために、師弟関係を結んでいます。ですから、自分の課題を中心にそれを第一に反省していくのが弟子のあり方です。先生の問題や課題を考えるためではありません。しかしそうは言っても、師弟関係が深まれば、人間の個人レベルの様々な問題は、大きな問題になるし、それが共同生活ということになれば一層大きな問題になります。
また、これは先生にとっても大きなマイナスです。先生の言動への批判が出てこなくなるので、先生の自己反省が難しくなってしまいます。これでは師弟間の十分な研鑽ができません。
以上の結果、第二期の後半にあっては、結局は先生に従順な生徒を生み、運動全体が全体主義に転落しました。
牧野さんが「批判をせずに質問をしろ」と言ったこともありましたが、それは実際は解決にはなりません。これは言葉を変えることによるごまかしを生みます。なぜならその質問の中には、同時に潜在的には批判が含まれているのであり、それを外化させなければ問題は解決しないからです。
ではどうしたらよいのでしょうか。
「先生を批判するな」の原則は廃止し、逆に批判を奨励する。これが正しい対策だったと思います。「先生の言動に疑問や問題があると思った人は、できるだけ早く、きちっとした問題提起をせよ」を原則にするのです。
ただしその際、牧野さんが示した弟子の「甘え」の問題や「弱さ」や「悪」の問題は、前もって示しておきます。そして「先生を追い越せ」とは弟子が「自分の思想を作る」ことであり、それを目的とすることを繰り返し確認します。
そして「自分の思想を作る」ことが目的となれば、問題提起をした場合は、その答えを出すのは、先生ではなく、まず問題提起した自分自身だということになります。その答えを自分自身で展開しつくすことを求め、それを実行することが自分の思想を作ることの一助になります。
問題提起をするということには、そうした責任が伴うとの自覚、その責任とは最終的には自分の思想を作ることであることを、事前にきちんと示しておくのです。
その上で、先生に対する問題提起を奨励し、それがなされた場合は、この原則を徹底すればよろしい。
(5)個人崇拝の問題
以上は、生きた先生との師弟関係にあって、具体的な場面で起こるトラブルをどう解決するかについてでした。
さて、ではここから本題であった個人崇拝の問題にもどります。「先生を批判するな」ではこの問題は解決できません。
牧野さんの総括文が、まずは「教師としての間違い」に言及し、「相手の素質などを正確に判断しないで、過大なことを期待したり要求したりする」ことの反省にあった点をここで思い出す必要があります。能力(素質)の観点をここでしっかりと持たなければならないのです。
人の素質と能力は残念ながら限界があります。さらに個々人の能力の格差とその偏りは人類史と共に巨大なものになっています。階級・階層への分裂とその激化です。ここに問題の根本があります。それは第一段階でも大きな問題ですが、第二段階ではごまかしようがない形で現れます。つまり能力の低い人には、先生を超えることは無理なのです。
第一段階でも、能力が低ければ、先生の言うことをおとなしく聞くか、または反抗するしかありえません。それは全面的な依存と言ってもいいでしょう。
その段階をクリアした第二段階の人だけが、この問題と真に向き合うのです。しかし最終的に先生を越えられない場合、自分の思想を作るに至らない場合を考えなければなりません。その可能性は自分の抱えた問題が大きいほど、また先生のレベルが高ければ高いほど大きくなります。そして先生のレベルに届かなかった場合、先生を超えられなかった時にはどうなるでしょうか。一方は反抗、反逆(いわゆる「逆恨み」「居直り」)であり、一方は依存つまり信仰(盲従)になります。つまり能力の低さは必然的に反抗か信仰かになるのです。大きく言えばともに、依存です。
ここで、用語を整理し、確認しましょう。議論に不要な混乱が起こらないためです。
「自分の思想を作る」という時の、「思想」と何でしょうか。
人が自分の問題の答えを出す時、ひとつの問題、その問題に関係する専門分野、専門領域に限定した答えでしかない時、それを思想とはまだ言えないと思います。それが人間観、社会観、世界観にまで拡大され深まったものを思想というのです。
では「先生を超える」とはどういうことでしょうか。
「先生を超える」とは、自分の思想の中に先生の思想を止揚することです。
生徒・弟子は自分の問いの答えを出すために、先生の思想を手掛かりにして考えていきます。自分の問いの観点から、先生の思想を学習し、それを吟味することになります。その問いが表面的なものではなく、その専門分野の根本的な問題に深まるなら、必要とする先生のレベルが高いものになり、その思想の吟味もまた全体的なものになります。そして、根本的な問いの答えを、先生のレベルで出せた時、その側面において先生を超えたと言ってよいのだと思います。しかし、その止揚した内容が、先生の思想を全体として、その中心において止揚しているかどうかが次に問われます。そしてこの段階クリアーした場合に、真に先生を超えたと言うのだと思います。その時は、それは人間観、社会観、世界観にまで拡大され深まった思想になっているはずです。
では「信仰」とは何でしょうか、その何がどう問題なのでしょうか。
自分の問いの答えを出せずに終わった人、または先生を越えられなかった人。その人には、その敗北、自分の限界をどう受け止めるかが問題になります。
この事実を認められず、その事実を踏まえた上で生きる方法がわからない場合は、一つは反抗・反逆になります。もう一つは先生を絶対化してそれに盲従することになります。後者がここで「信仰」と呼ぶものです。
両者ともに問題なのですが、それはそこにウソやごまかしがあるからです。
反抗・反逆とは、自分が先生を超えられなかったということを、先生及びその思想の間違いのせいにするのですから、そこにウソがあります。しかしその反抗は自分がその思想の側に立っていないこと、立てなかったことを露わにしています。そこにはウソはありません。若いころに共産主義にかぶれ、後年になって反共主義者になる人などを思い浮かべるとよいでしょう。
他方で、より問題なのは先生への盲従、信仰の場合です。反抗と同じく先生を超えられなかったという結果、今度はその逆に先生に盲従し、自分がその思想の側に立っているような振る舞いをすることになります。そこには二重のウソがあります。ウソにウソを塗り重ねていることになります。
ヘーゲルは「知っているだけでは認識していることにはならない」「博識はまだ科学ではない」と言っています。また宗教は真理の表象を扱い、哲学は真理の思考による認識を目的とすると言います。つまり「信仰」とは、真理を本当には理解することができず、その言葉の表象、言葉を知っているレベルに止まることです。それは理解していなのに、理解しているようにふるまうことになり、それが二重のウソになります。
それは自己に対しては、自分が真理を認識できていないという事実、自分の弱さや限界を見ないでいること、したがってその弱さ、低さと戦うことをしないことが問題です。それはその人の成長を不可能にします。
しかし、問題はそれにとどまりません。そうした人は他者に対しては、ただ自分の「真理」を教えようとし、他者をバカにし、見下す結果になります。先生を絶対視してしまうと、虎の威を借りる狐の状態で、自分以外の全てを攻撃し、全ての上に立てると思い、すべてを貶めようとします。
こうした人は、自分が本当には認識できていないことに薄々は気づいているのです。そこで、それに激しいコンプレックスを持ち、内心ではやましさを抱えています。そのためにこうした人は、他者に対する攻撃的な言動が増えていきます。内なる弱さは、外に向かうのです。
世間では「他者を裁くような態度」の「正義の味方」がたくさんいるのですが、それはみなこうした人たちです。
彼らは、敵〔だと信ずる人〕に対してだけではなく、むしろ仲間に対して、一層激しい攻撃をすることになります。そこに自分のやましさやコンプレックスを刺激され、それを抹殺しようとするからでしょう。そうした活動こそ自己証明となるからです。社会主義運動での自己批判の強制や査問の横行などがその典型です。これがスターリンや毛沢東の引き起こした巨悪の大きな作用ではなかったでしょうか。これは自己相対化を失い、自己を絶対化するものであり、人間の弱さであり、人間の悪そのものです。
これでは個人は成長できなくなり、その組織もまた発展ができなくなります。
これはすでに問題にしたオルグやカンパの問題と同じです。いや、それそのものです。そこにあるのも自分の弱さを外に転化することです
しかし、能力上に大きな格差があり、自分の思想を作ったり、先生を越えられない人が多数存在するのです。どうしたらよいのでしょうか。それでもなお、反抗でも盲従でもない生き方をすればよい。それは可能です。
自分の低さ、限界の自覚を持ち、自分の能力のレベルをわきまえ、自分のやれること、やるべきことを意識し、それを実行すること。分をわきまえて生きることです。つまり、私たちが目指すべきなのは真理の契機となること、自分が真理の契機として、真理のために生きることです。
人はその人生において、ただひたすらに真理の契機として生きれば良いのです。それが真理全体の主役であり中心であるかどうかは関係なく、それがどこであろうが、とにかく真理の契機であるということ。断じて、偽りの契機としてではなく生きることです。
この段階で先生を追い越せという第三原則自体が相対化されます。
「先生を追い越せ」は真の目的ではなく、真理の契機に至るための必然的過程、その必然的な手段に他なりません。
実際に先生のレベルに到達できるかどうか、先生を越えられるかどうかは、問題ではないのです。大切なのは力の限り自分のベストを尽くして真理のために生きることだけなのです。
自分が絶対ではなく、真理の前に相対化され、その契機として生きること。この点において実は全ての人が同じなのです。ヘーゲルもマルクスもイエスもソクラテスもプラトンもです。
そうであれば、その生き方はどこで、どのように可能なのかを考えなければなりません。それは正しい師弟関係の中でこそ可能になると思います。これを実現するための組織こそが真の師弟関係なのです。先生と生徒は真理の契機としては全く対等であり、しかし真理実現のどこにどういう位置づけ(役割)を持つかが違うだけです。
そこでは個々人の能力、実力の格差も、その偏りも隠されておらず、透明になっていること。各自は自分の能力の限界の自覚、先生の全体と人類史の全体、その中での自分の位置を自覚できること。弟子たちの相互の能力の種類、その高低、上下を明らかにし、その理解において自分と他者を律すること。
その運動の中で、個人が自分の中で、また運動する組織がその組織の中で、また外に対しても、それを透明にできること。それは相互の批判、評価が、どのレベルで行えるかにかかっていますが、それが、その組織の研鑽の能力です。その前提が相互の信頼関係であり、それを強め、研鑽能力を高めていけるのは師弟関係の深まりだけです。
私はこの透明な自己理解と他者理解のあり方こそが、ソクラテスの「無知の知」なのだと考えています。そしてそれは、組織においては「無私の私」なのではないか。これはいわゆる「滅私奉公」ではありません。その真逆のものであり、主体性の完成した姿なのだと思います。
以上が、個人崇拝、信仰的な態度を超える方法であり、この実現のための原則が師弟関係論であり、それを「概念的組織原則」と呼ぶのでしょう。
私はこの原則を可能な限り貫き、実現していきたいと思っています。
なお、牧野さんが総括文で、自分の限界、分をわきまえる、自分を限定することを学んだと述べています。これは私の言葉では「真理の契機として、しっかり生きる」となります。
それはもちろん正しいのですが、人が若い時からそれができることはあり得ず、自分の立場や自分の思想を持った上で、初めてそれが可能になるのではないでしょうか。師弟関係の第二段階での切磋琢磨なしに、真理の契機となるという考えとその実行はありえないでしょう。
5 中井の代案 その2 マルクスの思想の問題
牧野さんは、真理の認識、真理の実現を目的としました。その真理を具体化した立場としては、「ヘーゲルの概念の立場とマルクスの賃労働者階級の立場」とを掲げ、それを「大衆の生活の立場からとらえ直し、それを前生活に及ぼして生きることを目的とする」としました。(「牧野道場の規約から)
ヘーゲル、マルクスの思想そのものではなく、それを現在の社会の発展段階の上で、さらに発展させた立場としてとらえていて、それを牧野さんは「大衆の生活の立場」からとらえ直すとしているのだと思います。
私はヘーゲルの発展の立場は、哲学史上の最高の立場であり、今もこれを超える思想はないと思います。しかしマルクスの思想には大きな問題があり、一部ではヘーゲル哲学をより具体的にした側面があるものの、全体としてはヘーゲルの思想をとらえそこない、ヘーゲルの思想の発展に失敗していると思います。
牧野さんは、マルクスとそのマルクス主義一派に対して、それを根本的に批判し、その政治主義、つまり国家権力の奪取というだけの方法論に対して、「哲学主義」を掲げ、哲学がすべてを指導するという理念を出しました。これは高い目標・立場を示したと思います。またそれに共同体運動を対置したのも意義があったと思います。
牧野さんのマルクスに対する総括は「マルクスの感情的社会主義」にまとめられており、牧野さんの第二期後半の運動は、その総括の上で行われました。ですから、そこに大きな問題があったのであれば、再度マルクスの思想全体における問題を考えなければならないはずです。しかし、それはなされていません。
やはり大きな問題となるのが、マルクスの唯物史観と社会主義の目的の理解にあると思います。
もちろん、マルクスの唯物史観の画期的な功績を認め、この視点を常に考察の中に入れることは正しい。またマルクスの社会主義が目標とした方向性もあくまでも正しいし、それを目指していくこともあくまでも正しい。しかし唯物史観の一面性やその理解の浅さを理解する必要があります。また、分裂の克服、止揚という枠組みが、実際には否定になってしまったことは大きな間違いでした。
マルクスは都市と農村の分裂、工業と農業の分裂、精神労働と肉体労働の分裂という三大分裂を克服(止揚)することを目標にし、さらに私有財産の止揚、国家の止揚をも目標にしました。それ自体は正しかったと思います。
しかし問題はその「止揚・克服」が一面的な「否定」「廃止」と事実上理解されていたことです。宗教もただ疎外として、否定されるだけでした。
これはマルクスが、存在の運動を十分には理解できなかったことを意味します。私有財産も、分業も、その問題は大きいですが、他方でそれらには大きな意義があります。
牧野さんがその否定を今すぐ実行しなければならない、共同体をすぐに実現するべきだとしたのは間違いでした。しかし、牧野さんの間違いは、実はもともとのマルクスの間違いを引きずったものだったのだと思います。つまり牧野さんも、マルクスを真に克服はできなかった。
マルクスがヘーゲル哲学に対して、その弁証法を高く評価する一方で、その観念論的側面を批判し、それが逆立ちしているので再転倒して、「唯物」弁証法にするとしたのも浅はかでした。これらは、マルクスにそもそものヘーゲルの発展という考えの理解が不十分だったことに起因します。フォイエルバッハの疎外論に引きずられ、発展のなかに疎外論をどう位置付けるべきかが明確でなかったのです。そこには存在するものの肯定的理解がなかったのです。
唯物史観は、生産力が生産関係を規定し、その下部構造が上部構造を規定するとしました。その一面性と、この規定関係が最終的に逆転することを示せなかった限界を、はっきりと指摘しなければなりません。発展の始まりから終わりに向けた運動は、終わりが始まりに戻る運動になります。規定するものは逆に規定されるものになります。規定されたものはそれを逆に規定することができます。ヘーゲルはそれを、前提は定立されると言いました。この理解がマルクスにはできなかったようです。詳しくは私の『現代に生きるマルクス』に書きました。
ではどうしたらよいのか。
マルクスの示した大きな方向性の正しさを認めるが、それを今すぐにすべて実行するのではなく、まずは運動の内部において、可能な範囲でその実現を目指す。私有財産も分業も精神労働と肉体労働の分裂も、その意義を十分に理解した上でそれを本当に克服して止揚していけるあり方を絶えず模索していくことです。あまりにも平凡ですが、これを着実に実行していくことが大切なのだと考えます。
牧野さんが総括文に述べているように、分業については、本来は一人一人のメンバーはその専門分野を持ちその専門分野でまず一流にならなければならない。そうであれば、そのための指導を指導者はしなければならない。そうして政治・経済・文化のあらゆる分野において有能な人材を輩出しなければならなかった。そうであれば、そのすべての分野で、現実の肯定的理解が問われます。発展の理解が問われます。
この局面での指導でこそ、その成否は指導者の能力に大きくかかっており、そこでこそ「哲学主義」の意義が問われるのだと思います。
しかし、哲学主義の理念は正しくとも、実際の人間には限界があります。ですから指導者は自らと運動の能力を高めるように不断の努力をし、また全員に対してそれを保障するような組織と原則を作る必要があります。その限界を絶えず自覚し続けられるようなシステムが必要です。
それは研鑽だったでしょう。またその基礎には、師弟関係と弟子同士の関係を正しく律する原則が必要だと思います。
以上が目的についての検討です
6 これからの課題
さて以上を踏まえて、運動の理論を深め実践をしていくことが私のこれからの目標です。
そこで、現下での緊急の課題であり、今後の最大の課題となっていると思うのが、研鑽についてのより深い具体的な理論と実践を示していくことだと考えています。
つまり、みなが「概念の個別」を目指し、真理の契機として生きること、その実現のための師弟関係、「概念的組織原則」を明らかにし、それを実現していくことです。「4 中井の代案 その1 師弟関係論」の「(5)個人崇拝の問題」でまとめた内容の具体化です。
それは個人の自立とそれを保障する社会・組織の確立です。これは真の民主主義社会の確立の問題に他なりません。そのための理論と実践を提示していくことです。
その全体を展開することが私の課題ですが、まだそれを示せません。牧野さんがすでに明らかにしている原則を研究し、それを発展させ、それをさらに具体化し、実現していくことを自分の課題とします。
これが個人崇拝の問題を真に克服することになるはずです。以上で、私の現状の報告を終えます。
牧野さんと出会えたことは私の人生での最大の転換点となりました。牧野さんからの指導なしに、私の「古い自分」を滅ぼすことはできず、「新たな自分」へとの再生もありえませんでした。ここまで牧野さんへの批判を述べてきましたが、それは牧野さんへの感謝は、牧野哲学の先の展開を示すことで、表すべきだと考えるからです。
2022年12月29日
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追記
4の(2)「カンパは乞食、オルグはお節介」の牧野自身の文章では、「カンパ」や「オルグ」が全否定されているようで、悟性的だと思います。
「カンパ」にも、「オルグ」にも、正しい「カンパ」と「オルグ」があり、間違った「カンパ」と「オルグ」があります、間違った方を批判するだけではなく、正しい方をも具体的に示す方がより高い立場だったと思います。
4の(3)「生徒の側の二つの段階の区別」は私の考えであり、言っていることはわかるのですが、実際にはこの区別を師弟契約時に示すことは不可能でしょう。弟子の側ではわかりようがないからです。4、5年がすぎて、成果として何がなされたかを振り返る時に、この2つの段階を示して、その成長、発展段階を考えることが有効だと思います。
これについては、まだまだ試行錯誤が必要だと思います。様々な工夫をして、よりよい方法を考えて行きたいです。
一番重要な論点は、4の(5)「個人崇拝の問題」で取り上げた師弟関係論の第3原則「先生を追いこせ」(自分の思想を作る)の段階において、ついに先生を追いこせない人が現れてくるという事実と、それへの対応です。
先生を越えられなかった人には、その敗北、自分の限界をどう受け止めるかが大きな問題になります。
この事実を認められない場合は、一つは先生を絶対化してそれに盲従することになり、もう一つは反抗・反逆になります。
この間違った2つの態度と、それを超える生き方を考える際に、ここでも「学ぶ姿勢」が問われていることに気づきました。
この反抗と盲従は、学ぶ姿勢の悪い例である?と?のことに他ならなりません。それが最終局面だからこそ、大きく現れるのです。
しかし、盲従でも反抗でもない生き方は可能です。それは?の正しい学ぶ姿勢からのみ生まれます。
自分の低さ、限界の自覚を持ち、自分の能力のレベルをわきまえ、自分のやれること、やるべきことを意識し、それを実行すること。分をわきまえて生きることです。つまり、私たちが目指すべきなのは真理の契機となること、自分が真理の契機として、真理のために生きることなのです。
これが「正しい学ぶ姿勢」の真理なのだと思います。
以上2025年12月12日に記す。