家庭、親子関係を考える その4 堺利彦の「家庭論」
(1)堺利彦の「家庭論」
鶏鳴学園で大学生たちと行っている読書会で、堺利彦『新家庭論』(原題『家庭の新風味』講談社学術文庫)を読んでみた。
堺 利彦(さかい としひこ、1871年(明治3年) – 1933年(昭和8年))は、明治から大正、昭和初期にかけて活躍した社会主義者・思想家・小説家である。
『家庭の新風味』は明治34年から35年に書かれている。つまり日露戦争の2年前であり、日本が富国強兵を押し進め、上昇機運に乗っていた時だ。多くの人々は日本がなんとか西欧の諸国と肩を並べられるようになってきて、慢心するようになっていた。工業力や軍事力は大きく伸びたが、一方で貧富の格差が広がり、労働者は苦しんでいた。その時に、社会主義者が家庭の実用書を書いたのだ。もちろんそれは、原理原則の書でもあった。
(2)進む親子の一体化への歯止めを
本書を読む気になったのは、最近の家庭における親子の一体化、子どもを親の所有物化している風潮への、私の強い危機感があるからだ。
昨年秋に教育専門誌からモンスターペアレンツ(学校への理不尽なクレームや要求をする保護者)についての寄稿を求められ、本書を思い出した。
モンスターペアレンツが急増している背景には、明らかに家庭の変質、親子の一体化の問題があるように思う。盛んに報道されている「子どもの親殺し」「親の子ども殺し(児童虐待や育児放棄)」にも、この問題が横たわっているだろう。
昔から「わが子」という言い方があった。親にとって子どもは自分の所有物のように感じられるようだ。そこに他者が入ることのない一体の関係。これは無償の愛ともなるのだが、自他の区別がなく、子どもが別人格であることを理解しないことにもなる。現代はこうした親子の一体化、共依存関係が進行しているために、子どもの親離れ、親の子離れが極めて困難になっているのではないか。
他方で、この数年でビジネスマンの父親をターゲットにした子育て情報雑誌が多数出版されるようになった。経済紙誌の「お受験キッズ誌」だ。私立中高一貫校の受験に成功した子どもの家庭を紹介し、受験情報を提供する。
これは児童虐待とは反対のあり方に思われる。しかし、親子一体の強化という意味では同じ事態が進んでいるのではないか。これまでの母子一体化に父親までが加わったのだ。母子一体化を壊す役割は、他者(社会)を代表する父親が担っていた。その父親までが家庭の一体化に加担してしまうと、そこには他者がいなくなってしまう。親離れ、子離れが極めて困難になっているのだ。
こうした一体化への歯止め、抑制を可能にする論理は何だろうか。それを考えるとき、堺利彦の「家庭論」が思い出されるのだ。初めて読んだのは25年以上前になるのだが、それ以来、私の中に「子どもとは次の時代の働き手」という定義がしっかりと根を下ろしている。私自身が二人の子育てをしながら、「子どもは親の所有物ではない。子どもは次の時代の働き手であり、社会(人類)からの預かりものである。したがって、別人格として尊重し、大切にしなければならない」との堺のテーゼを時々思い出しては、拠り所にしてきた。愛情に溢れた温もりのある家庭、しかしそれは私的で閉じている。それに対して対抗できるのは、社会や人類の立場からの論理しかない。
今は親子の一体化が強まっている。その時に、堺のテーゼはますます有効性を増していると思われる。確固たる原則がなければ、子どもかわいさという感情に流されるだけだろう。
「子どもとは次の時代の働き手」ということは、私たちは現在の時代の働き手であり、人類とはそのように前の時代の遺産を継承し、より発展させて次につないで生きてきたことを意味する。それは人類史上に自分を位置づけ、労働を自分の使命と自覚することと結びつく。
若者のフリーター、ニートが急増していることが話題になって久しいが、それももちろんこの問題と関係するだろう。若者の間に、仕事における自己実現を求め、「自分探し」をしているような風潮が流行っているようだ。しかし「自分探し」とは自己理解を内化によって成し遂げようとする低い考えだ。本来は、「自分作り」という外化によってこそ内化も可能になると思う。そして「自分作り」は自己理解の範疇内に限定されてはならない。そもそも、自己理解は、他者や社会全体の理解と一体になって可能になるものだ。つまり、自己理解とは、自分が社会でどのような役割をはたせるか、自分の労働の意味を考えることと切り離せず、それは自分を「次の時代の社会の働き手」「労働力」として「作る」ことを意識しない限り不可能だろう。
社会や人類史を視野に入れず、「自分探し」しかできないでいることと、子どもの自立を促せないでいる親子関係は一対のものなのだ。
(3)家庭と社会との矛盾
堺の『家庭の新風味』は夫婦論・家庭論から家庭の家事や育児や娯楽までを述べた「実用書」だ。しかし、「子どもとは次の時代の働き手」という「人類発展の立場」からすべてを論じ尽くしている理論書でもある。その意義についてはすでに述べたが、当時も家庭のあり方が大きな問題になっていたのだろうか。
今回全体を通読してみて、すべてに貫かれる論理の力強さ、自立と人間平等の思想、世間をよく知った大人の知恵に心打たれた。しかし、道徳的な平板さも強く感じた。悪や対立、矛盾が、発展に必要な媒介、過程としてとらえられていないということだ。
例えば、夫婦間の親愛を「相見る」「相思う」から「相化する」「相合す」までの発展の10段階で示している(第4冊の第2章)。しかし、その段階の高まりは平坦に進むものではないだろう。夫婦間には様々な対立、葛藤がおこり、それを克服することで次への高まりが可能になるのではないか。それが明示されない。また、最終ゴールが一体化だというのは適切だろうか。夫婦には理解が進み一体化する一方で、互いの孤独がかえって深まる面もあると思う。そうした距離感も大切にしたい。それと関係するが、「夫婦間には秘密があってはならない」との指摘にも疑問がある。戦友としての夫婦の戦場に関することは別だが、二人が適切な距離を保つためには、秘密はあった方が良いと思う。その方が人生は面白くないだろうか。
こうした平板さは、家庭を「理想社会のひな形」として、その理想のあり方を次第に発育成長させ、ついには全社会に及ぼす、といった堺の言説(282ページ)に最もよく現れている。『君たちはどう生きるか』の吉野源三郎も同じ様な主張をするが、それはあまりにも単純化しすぎた表現ではないか。家庭と社会との間には、一般化したり、広げたりするには、あまりにも大きな隔絶、矛盾があるのではないだろうか。
国家間にも、国家内部の社会にも争いがあり、強盗、殺人、詐欺、脅迫、賄賂など、無数の悪徳が行われている。「その中にただ一つきれいな清潔な平和な愉快な、安気な、小さな組合がある。それが家庭である」。「夫はわが身を思うがごとく妻を思い、妻はわが身を思うがごとく夫を思い、親はわが身を忘れて子を思い、家族はたがいにわがままを控えて人の便利を計る」。「将来の社会は、一国家にせよ、全世界にせよ、すべてこの家庭のごとき組合にならねばならないと思う」(以上281,282ページ)。
確かに、家庭では相互の親愛や理解が簡単で、社会ではそれが難しい。家庭は血縁で成り立っており、親子の愛情は血縁という自然性の上に成り立っているからだろう。それに対して赤の他人同士には自然性に基づく親愛の根拠はない。そこには混乱、悪、犯罪が横行する。
そこで、血縁や地縁関係で結ばれた関係を全社会に、全世界に及ぼすことで、諸々の問題が解決できると夢想したい。その気持ちは理解できる。人類を一家に例えたり、「人類皆兄弟」と唱えたりするのもわからないわけではない。
しかし、それは根本的には間違いではないか。その間違いは、親子や地域の自然な感情を全肯定するように見えるところにある。否、本当は全肯定しているわけではないのだろうが、そのようなイメージに乗っかっている。そこには問題があるのではないか。
そもそも血縁関係は、ただ肯定されるだけで良いものだろうか。それは自然性に基づくだけに、無私の愛情を可能にするが、他者に対しては閉じた関係なのだ。地域の自然な仲間意識も、他者を排除した関係である。また閉じた関係であるがゆえに、核家族化と少子化が進むと、親子の一体化や親の子どもの所有物化を妨げるものがなくなる。
その閉じた家庭や地域共同体に対して抵抗できるのは、他者に開かれた自由な関係、一般社会(近代以降の市民社会)だけなのではないか。社会には確かに、他者同士の金や権力をめぐる争いがあり、無数の悪が行われているが、家庭や地域の閉鎖性を超えているという側面がある。閉鎖した関係より、市民社会の方が高い段階にあることを見逃してはならないだろう。
もちろん、社会的な混乱、不正は確かにある。そしてその克服のために、社会主義的な思想が生まれている。しかし、その解決を家族主義的、地域主義的に理解することは後ろ向きであり、本来の方向ではないだろう。むしろ、家庭という直接性を否定し、そこで生まれた市民社会の矛盾をさらに克服することで生まれる社会、それが本来の理想社会だったのではないか。
確かに否定の否定は最初のものへの環帰になるのだが、家庭と社会との関係は一直線に結ばれるものではなく、二回の否定で媒介されていることを弁えなければならないだろう。
もちろん、堺も吉野源三郎も、そんなことはわかっている。わかった上で、人々にわかりやすいイメージを与えようとしているのだろう。しかし、家庭という愛に溢れた平和な共同体を社会全体に拡大しようというイメージは、その家庭の自然性が否定され、克服されなければならないという厳しさを、忘れさせてしまうのではないか。むしろ、血縁関係の否定面を強調する必要もあるのではないか。
(4)子どもとは家庭と社会の矛盾を克服するシンボルだ
もちろん堺がこうした矛盾に触れていないわけではない。例えば、親の子どもへの愛情でも、父親と母親の違いを堺は述べている。
「母親の子への愛は本然の愛(自然の愛)」で「父親の子への愛は自覚の愛」だと言う。母親も「本然の愛」の他に「自覚の愛」を持っている。そして、動物と人間の違いは「自覚の愛」にこそあると言う(208ページ)。母親の直接的な愛情は、一旦は否定されなければならないということだ。しかし、その否定はどこから生まれるのか。自覚からだ。何の自覚か。夫婦間の親愛が「相化する」「相合す」にまで高まって具現化したのが子どもだという理解だ、と堺は言う。さらに言えば、「子どもとは次の時代の働き手」だという認識だろう。
この自覚は、親自身が社会で働くことで、自らを「現在の時代の働き手」であることを自覚し、人類史の中に自分を位置づけることから生まれるだろう。
この父親と母親の愛情の違い、立場の対立を考えると、家庭とは実は大きな矛盾であることが分かる。そこには血縁関係だけではなく、他者同士の関係が含まれるからだ。そもそも夫婦からしてもともとは他人同士なのだ。それが夫婦になり、子どもという血縁関係を生む。しかし離婚すれば、夫婦は他人同士にもどる。しかしその時でも親子の血縁関係はそのまま続く。
実は、この矛盾が「嫁姑問題」をも引き起こしている。母親と息子という血縁関係に他者(嫁)が侵入したために生まれているのが、この問題なのだ。
そして、堺はこの「嫁姑問題」に有効な解決案を出せないでいる。せいぜい、別居を勧めるだけだ。ここにも原理的な解決策を打ち出すべきだったろう。
また、堺は夫婦それぞれの出身階層の違いの問題に触れない。「上流家庭の家風」を批判するだけだ。これは堺が「健全なる中等社会」だけを相手にしているせいかもしれない。しかし、「中等社会」内にも階級の区別はあるし、他者である二人にとっての強固な「他者性」とは互いの階級固有の価値観、感性の違いだろう。それはどうやって克服できるのか。
こうした矛盾は、実は「子ども」という存在に集約されている。他者同士である夫婦を親子の血縁関係で強固なものにするのも子どもである(子はかすがい)。しかし、家庭の中で親の愛情を一身に受けて育ちながら、両親から自立し、社会に出ていってしまうのも子どもなのだ。それによって「次の時代の働き手」となる使命を果たすために。
子どもには、こうした矛盾が集約されている。それは何と不思議な存在であることか。私達大人が、両親が、子どもたちを尊重し、大切にしなければならないのは、彼らが「次の時代の働き手」であるからだが、それだけではあるまい。子どもたちはこの人類社会発展のための矛盾の体現者であり、その克服のシンボルなのだ。私達は子どもの使命の厳粛さに頭を垂れるのだが、それは私達自身の使命の厳しさを噛みしめることになるはずだ。
2008年4月2日