ゼミのメンバーである守谷航君の修士論文「精神医学・精神医療における精神分析の役割」を掲載したが、この論文への私見を述べる。
「歴史」の存在しない日本医学界 守谷航君の「精神医学・精神医療における精神分析の役割」について
3.その他の問題
4.体と心と →4月10日
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「歴史」の存在しない日本医学界 ?守谷航君の「精神医学・精神医療における精神分析の役割」について?
3.その他の問題
この論文は、私にとっては大いに刺激的で、いろいろなことを考えさせられた。例えば以下のようなことだ。
(1)医療行為と治療行為について
医療行為(国家による管理下の近代医学)と治療行為(広く一般的で日常的な行為)の区別は守谷君から聞いた概念だが、これは今の医療問題を考える上で大きなヒントになると思う(メルマガ174号の「『医療行為』と『治療行為』」参照)。日本における明治維新の近代化、国家による医療管理によって、何が失われていったのか。失われたのは自然治癒の考えであり、民衆の素朴で健全な感覚や治癒行為であり、その意味での「民間療法」である。本来それらは「止揚」されるべきなのだが、単に切り捨てられただけなのではないのか。その回復運動の芽が、精神分析であり、チーム医療や地域医療なのではないか。そうした大きな方向性を考えておく必要があると思う。
(2)カウンター・カルチャーと薬(ドラッグ)
アメリカの歴史(1章)で、60年代に精神医学の中で急に精神分析が勢力を拡大したのを読んで、久しぶりに当時のカウンター・カルチャーを思い出し、なつかしかった。
当時、ベトナム戦争の長期化と厭戦気分でアメリカは揺れ動いていた。反戦運動、学生紛争とカウンター・カルチャー(ヒッピー・ムーブメント)、1くくりにすれば「反体制運動」が拡大していた。カウンター・カルチャー(反文化)とは、従来の学問、科学、体制に反対して、「今、ここ」と感性、無意識、身体性を強調するものだ。東洋思想や禅、瞑想などが流行し、精神分析なども流行っていた。その思想的リーダーだったオルダス・ハクスレーを思い出した。彼の『島』、『知覚の扉』などがその典型だが、「今、ここ」に集中するための強烈なツールは薬(ドラッグ、マリファナ、LSD)だったし、性格改造のために積極的に薬物を使用する。
こうした時代背景から、精神分析が力を持ったのならば、そこから薬物療法の流れが強まることは当然予測されるのだ。「精神分析」と「生物精神医学」(薬物療法)は、単純に対立させてだけ考えることはできない。少なくとも、カウンター・カルチャーの中で両者は1つだった。そうした視点からも、カウンター・カルチャー運動の弱さを考えるべきだと思った。これは20代にその強い影響を受けた私自身の課題として述べている。
なお、「反精神医学運動」が出てくるが、これは何なのだろうか。カウンター・カルチャーの1つか。
(3)精神分析の流れにあるユングはアメリカではどうして臨床心理学として位置付けられてしまったのか。『破壊』の著者でもあるフロムや、中井久夫が傾倒しているサリヴァンは、どこにどう位置づけられるのか。
(4)日本の歴史(2章)で、河合隼雄、土居、中井久夫など、日本の有名な人たちは、どこにどう位置づけられるのだろうか
4.体と心と
最期に、この論文の裏事情に触れておきたい。守谷君がこの論文をまとめる作業には、論文そのものとは別に、もう一つの大きな目的があった。
守谷君は、医学部編入試験の準備の中で「ぎっくり腰」になることで、体から強烈なしっぺ返しをくらった。そこから自分の体と心の関係を考えざるを得なくなる。しかし、守谷君はその問題を表面的にごまかすことはしない。それまでの自分の生き方と結びつけて深く理解しようとする。そして、その問題の本質をさぐる中で、論文の作業を、問題解決のための練習として、医学部編入試験の予行演習として行っていたのだった。これには驚いたし、感心した。
守谷君が精神分析に関心を持ったのは、自分の中の体と心の葛藤からだろう。それを日々見つめながら、その意味を考え、その解決方法を試してみる。これはすでに精神分析であり、自己治療である。
今回の論文はそうした中から生まれている。それがこの論文のまっとうさを、二重にも保障する。自己理解の深さは、他者理解の深さに広がっていく。それが今後の彼の医師としての可能性を保証すると思う。
なお、守谷君は「修論を書き終えての総括」のような自己批判、自己理解の文章を、卒論についても、京大の大学院進学が決まった時点でも書いている(メルマガ127から130号参照)。ことあるごとに、自分の中での目的とその達成度、その人生における意味を考え続けている彼の姿勢は立派なものだと思う。そして蛇足ながら、それこそが、「精神分析」に含意された、その真理(真意)なのではないかと思う。