3月 12

■ 目次 ■

1.危機にこそ本質が見える
2.「国家」が現れた
3.リスク管理
4.トリアージ
5.「自己完結型」の支援
6.「準備」
7.「普段から」
8.「性悪説」

7.「普段から」

人は「準備」していないことには対応できない。しかしそれは、緊急時に対する特別な準備に限定されないはずだ。むしろ、その人が「普段」から何を考え、どう仕事をしていたかがすべてを決めたと言える。なぜなら、普段やっていることの延長上のことしか、人はできないからだ。緊急時に発揮できるのは、普段から日常の中で行っていたことからおのずと出てくる能力、行為の範囲に限られる。
石巻赤十字病院の地域救急救命センターの石橋悟センター長は「日々の医療をきちんとやること、想定外への備えもその延長線上にしかないと思う」(186)と語っている。
私は2011年の12月に石井正医師にインタビューをした。彼の専門は外科なのだが、外科手術は予期しないことも起こるから、迅速な判断の連続だ。それゆえに最大限の準備(予習)が必要なのだ。「そういう意味で普段やっていることと、今回の震災後の活動は変わらない」と石井は語った。彼らの世界に「想定外」はない。
また、今回も被災地の県庁や市町村の「行政批判」がずいぶん多く行われた。被災した住民や医療関係者、ボランティアからの行政批判。マスコミもそれに加担した。もちろん行政には問題があった。その硬直した対応、時間がかかる対応には問題がある。しかし、行政もまた被災していた。問題があるのならば、それを解決できるのは被災した住民たち自身だけだ。そうした「自立的な」活動をしないでいて、行政批判をしていたならば、それは甘えであろう。普段から行政に依存していた「お上意識」の裏返しの役人批判ではないか。普段から「自立していた」人たちは、危機的状況下では行政を無視し、さっさと自分たちで動いたはずだ。そうした視点を出せないマスコミも同じ穴のむじなである。
県のコーディネーターとして任命されていた石井は、その肩書きを最大限利用し、「東日本大震災に対する石巻圏合同救護チーム」を立ち上げた。「行政も頑張っていましたよ。でも、避難所が300か所、推定死亡者数1万人。行政の力だけでは無理だし『私たちは医療者ですから医療以外のことはできません』とはいえないでしょう」(石井)。
今回の震災で問われたのは、私たちの現実への向き合い方なのではないか。現実を直視し、ごまかさない。そこにあるリスクを認め、それを管理するための日常的な努力をする。そして「自立する」。それは生き方そのものの問題だろう。
しかし、支援のしかたでも、報道でも、依然として、同じ間違いを犯し続けているのではないか。つまり現実を直視せず、キレイごとを垂れ流す。
例えば、被災地や避難所で、本当のリスクはきちんと報道されただろうか。そこで起こる犯罪、性犯罪、弱者への犯罪。ボランティアがどれほど迷惑をかけているか。それらは報道されただろうか。「美しい話」「感動的な話」を情緒的に垂れ流すだけで、本当の問題をきちんと提起できなかったのではないか。
 被災地を忘れないということは、被災地のリスクをしっかり受け止め、自分自身の生活や周囲の状況の中で、リスクを直視しリスク管理を始めることだろう。キレイごとは、それを忘れさせるのではないか。

8.「性悪説」

 しかし現実を直視せず、リスク管理ができず、自立できないでいるのが、私たちの社会の現状なのである。この問題を本気で考えるためには、そうした生き方とセットになっている人間観とは何だったのかを見なければならない。それは「性善説」だったのではないか。「性善説」という暗黙の了解のもとに、互いにもたれ合い、自立しようとしてこなかったのではないか。だから私は、基本的な人間観の一大転換が必要になると思う。従来の「性善説」から「性悪説」へ。
私はここで、「性善説」と「性悪説」という概念を、ただ人間の本性が善か悪かという違いで提示しているのではない。今まで述べてきた、現実を直視しリスクを見ることができるかどうかで、「性悪説」と「性善説」との分けて考えようと提案したいのだ。
「性悪説」の立場とは、次のように考えて生きることだ。
人間は誰もが悪の側面、弱さを持ち、悪は常に内側に可能性としてあり、それが実際に外に現れているか、否かだけが違う。どんな人も、権力を持ち、金と人事権を持てば必ず堕落する。だからたえざる相互チェックが欠かせない。自分の内の悪、他者の中の悪を直視し、それを指摘しあい、批判しあうだけの勇気と覚悟が必要なのだ。
名誉欲、出世欲、権力欲、支配欲は誰もがもつ。それが本人の成長や、周囲の発展につながる場合もあるが、他を抑圧する方向に向かう場合もある。また、支配者に支配されたいという依存の傾向もまた私たちの中にある。それら全体をどうコントロールしていくか。
ではなぜ今までは、こうした「性悪説」の立場に立たなくでもやってこられたのだろうか。
以前は、「悪」がなかったのではなく、ほどほどの貧しさの中で、しかも閉じたムラ社会の中では、みながそこそこで満足して共生するしかなかった。そこではそれなりの相互チェックが機能していた。「世間体が悪い」「恥」などの道徳で、あまりにも大きな悪が生まれないように規制できた。
また高度成長期には「少しでも豊かになりたい」という欲望で人々がつながることができた。「会社人間」として個人と組織が一体で機能できた時には、ムラ社会の規律が機能した。しかしその時代は終わった。一応の豊かさは獲得され、その先の目標を全員が共有するのは難しくなった。時代にあった変化に対応することが組織にも個人にも求められる。そして個々人がそれぞれの欲望と価値観のもとに生きていく時代になった。これは以前よりもはるかに高い発展段階であり、そこでの原則は以前より人間とその社会の本質と現実を厳しくとらえたものでなければならない。それが「性悪説」の立場である。
「悪」は可能性としては常に存在する。私たちにできることは「悪の管理」だけなのだ。「悪」「弱さ」「甘ったれ」は、私たちの内なるリスクである。それは本当は、いつでもどこにでもある。それをなくすことはできない。できるのはリスク管理をすることだけだ。リスクをできるだけ自覚し、その計量と予測と、最悪をも覚悟して生きることだ。そして、こうした人間観を前提に、制度や倫理を再構築していくべきなのだ。
「リスク管理」ということばが震災後さかんに言われるようになったが、悪の管理こそが究極のリスク管理ではないか。ここまで突き詰めないでいるリスク管理は必ず破綻する。それは能力の問題であり、「生き方」と「死に方」の問題なのである。

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