3月 22

10のテキストへの批評  8 わかりやすいはわかりにくい(「猫は後悔するか」野矢茂樹)

■ 全体の目次 ■

1 ペットが新たな共同体を作る(「家族化するペット」山田昌弘)
2 消えた手の魅力(「ミロのヴィーナス」清岡卓行)
3 琴線に触れる書き方とは(「こころは見える?」鷲田清一)
4 昆虫少年の感性(「自然に学ぶ」養老孟司)
5 「裂け目」や「ほころび」の社会学(「システムとしてのセルフサービス」長谷川一)
6 「退化」か「発展」かを見分ける力(「人口の自然─科学技術時代の今を生きるために」坂村健)
7「サルの解剖は人間の解剖のための鍵である」か?(「分かち合う社会」山極寿一)
8 わかりやすいはわかりにくい(「猫は後悔するか」野矢茂樹)
9「調和」と「狎れあい」(「和の思想、間の文化」長谷川櫂))
10 才子は才に倒れ、策士は策に溺れる(「『である』ことと『する』こと」丸山真男)

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8 わかりやすいはわかりにくい(「猫は後悔するか」野矢茂樹)

 なぜ、こんなに難しく書かないといけないのだろう。それが率直な感想だ。このテキストは、読んでスーッと頭に入ってくる文章ではない。しかし文の構成を分析すれば、「分節化された世界」(現実世界)と「論理空間」(観念世界)と「分節化された言語」(言語世界)の3者の関係を説明しているだけであることがわかる。それがわかれば、それはそれでわかりやすく簡単な説明のように思えてくる。ところが少し突っ込んで考えようとすると、急にわけがわからなくなる。これで何が明らかになったのだろうか。
ここでは「分節化された世界」と「論理空間」と「分節化された言語」が同時に成立したと説明しており、この3者の関係も説明されている。しかしそれだけでは説明にならない。
そもそもなぜこの3者が出てくるのか。この3者以外には世界は存在しないのか。そうした問題には触れることがない。3者の存在は前提されてしまい、この3者がどこから生まれるかは問われない。
野矢の文章は、いくつかの対象や結論が、突然で偶然で恣意的な形で提示される。そしてそれらの必然的な関係や証明は、提示後に野矢の得意の「背理法」によって行われる。こうした展開は野矢の嗜好なのかもしれないが、非常に分かりにくい説明法だと思う。
たとえば「論理空間」の導出は、「ひとつ用語を導入しておきたい」(4段落)で始まる。しかもそれが他人が使ったに過ぎない用語だ。「ウィトゲンシュタインは、可能な事実の総体を『論理空間』と呼ぶ」。なぜ、ウィトゲンシュタインのこの用語から始めなければならないのだろうか。
「分節化された世界」の提示は、いきなりの「なによりもまず、世界が分節化されていなければならない」である。
「分節化された言語」の提示はこうだ。「さらに、論理空間の成立のためには、それゆえまた分節化された世界の成立のためには、われわれは分節化された言葉をもっていなければならない」(16段落)。この冒頭の「さらに」は、どのような意味で「さらに」なのだろうか。これらはすべて背理法で後から根拠づけられていく。
こうしたわかりにくい展開を、論理的と言えるだろうか。野矢には背理法への偏愛があるようだが、そもそも「背理法」は証明法としてどのレベルのものだろうか。これはすでに証明されたことを、逆の書き方で書くだけのものではないだろうか。
さて、最後まで読むと、著者は動物を次のように分類していることがわかる。まず動物は、「言語を持っていない動物」と「言語を持っている動物」に分かれ、後者はさらにその「言語が分節化されていない動物」と「言語が分節化されている動物」(人間)に分かれる。そして人間だけが後悔できる。
この分類(分節化)も一見わかりやすいように見えるのだが、これも私にはわかりにくい。分類はそれ自体が「分節化」なのだが、「分節化」は最初から出来上がっていたわけではなく、ある運動の結果生じたものだ。「言語を持っていない動物」だけの状況から「言語を持っている動物」が生まれてきた(分節化した)のはなぜなのか。さらに「言語が分節化されている動物」(人間)が生まれてきたのはなぜなのか。その分節化、つまり発展にはどのような意味があり、どのような運動が起こっていたのか。それがわからないのだ。なぜわれわれは猫でなく、猫はわれわれではないのだろうか。

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