3月 23

10のテキストへの批評  9「調和」と「狎れあい」(「和の思想、間の文化」長谷川櫂))

■ 全体の目次 ■

1 ペットが新たな共同体を作る(「家族化するペット」山田昌弘)
2 消えた手の魅力(「ミロのヴィーナス」清岡卓行)
3 琴線に触れる書き方とは(「こころは見える?」鷲田清一)
4 昆虫少年の感性(「自然に学ぶ」養老孟司)
5 「裂け目」や「ほころび」の社会学(「システムとしてのセルフサービス」長谷川一)
6 「退化」か「発展」かを見分ける力(「人口の自然─科学技術時代の今を生きるために」坂村健)
7「サルの解剖は人間の解剖のための鍵である」か?(「分かち合う社会」山極寿一)
8 わかりやすいはわかりにくい(「猫は後悔するか」野矢茂樹)
9「調和」と「狎れあい」(「和の思想、間の文化」長谷川櫂))
10 才子は才に倒れ、策士は策に溺れる(「『である』ことと『する』こと」丸山真男)

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9「調和」と「狎れあい」(「和の思想、間の文化」長谷川櫂))

よくある日本文化論である。比較文化論に慣れていない高校生にとって、こうした比較は最初は面白いかもしれない。「へえ?っ」と感心して、何か重要なことがわかったような気になる。しかし、それが続くとあきてくる。こうした議論には、何か現象面をなでているだけのようなところがある。なぜだろうか。
1つには、一面的な、つまり表面的にしか見ていないように感ずるからだ。区別の面のみを強調している。たとえば、著者はバッハやモーツァルトの音楽が音によって埋め尽くされ、沈黙を恐れているようだ、と述べる。しかし、私は両者の音楽に深い深い沈黙(間)をいつも聴くことができる。つまり、著者のくくり方は、細部の切り捨てやわりきりで成り立っているのだ。
それ以上に問題なのは、区別や対立の側面ばかりを見て、その同一の面を、つまり人間としての共通の面を見ていないことだ。実は、区別や違いの面よりも、それでもなお「同じ」側面こそが重要ではないだろうか。それをしっかりと見据えるならば、その同じ本質を持った人間同士なのに、それでも決定的な違いがあることに深く驚くことになる。そしてその同じ本質が、その違いの中にどうのように現れているかを考えることになるだろう。そこにこそ、本当の意味の対立が現れてくるはずだ。
そうしたことを思う時、私はいつも世界的なドイツ語学者の関口存男を思い出す。彼は日本語とドイツ語の違いはもちろん指摘するが、そこにとどまらず、両者に共通する言語一般の本質に迫っている。世界のすべての言語は、言語が言語であるための根底的な同一の側面を持つ。関口はそこに迫り、さらにそこに「人間とは何か」を見ようとする。そしてそこから再度、日本人とは何か、ドイツ人とは何かを把握しようとする。こうしたダイナミックな思考が、本テキストにはない。
さて、最後に今回のテキストのテーマである日本の「和」について一言。「和」について取り上げるなら、何よりも「和して同ぜず、同じて和せず」の問題を指摘したいと思う。日本人の「和」は本当に「和」だろうか。実は「同」なのではないか。「和」(調和)の名のもとに、ほとんどが「同」(狎れあい)になっているのではないか。
本テキスト16段落を見ると、「和を実現させること」を「異質なもの同士の対立をやわらげ、調和させ、共存させること」と説明し、「二人のあいだに十分な間をとってやれば、互いに共存できるはずだ」としている。しかし、これこそ「同」そのものではないか。本当の「和」とは「異質なもの同士の対立を激化させ」、その対立のただ中から、対立があるがゆえに相互理解を深めることが可能になり、互いに異質なままに共存できるようになることを言うのではないだろうか。

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