3月 30

2013年に中井ゼミで考えたこと その4

3「なぜ批判しなければならないのか」

   私のゼミ生には、批判や問題提起を積極的にするように求めています。
  これまでは批判の仕方が問題になることはあっても、批判そのものの是非が問題に
  なることはなかったです。それはあまりにも当たり前のことで、批判の必要を
  疑ったことは私には一度もありません。

   ところが、長いつきあいのある人から「他者をなぜ批判しなければならないのか、
  わからない。何のために批判するのかが、わからない」と言われました。その人には
  批判することを求めてきたし、実際に彼は周囲や家族や、公的機関や民間団体の諸問題に
  ついて批判をしてきました。
  それだけに、この発言には驚きました。しかし、それは本音であるようでした。

   もちろん、私が求める批判のレベルが以前よりも1段と深く根源的なものになった
  ことが関係しているのでしょう。私はその人の仲間や血縁者への根底的批判や
  その批判の公開を求めたのです。「(そこまでのレベルの)批判がなぜ必要なのか
  わからない」という意味なのだと思います。

   しかし、多くの人の本音がそこにあるようにも思いました。誰もが「批判」の必要を
  認めているのであり、批判の是非が問題になる時は、その批判がその人の想定外の範囲や
  強さや深さだと思った時なのでしょう。読者の皆さんはどう答えますか。
  改めて、この問題を考えてみました。

  (1)その人の人生のレベルを決めるもの テーマと人間関係

     人間の人生を決めるのは、その人のテーマであり、問題意識だと思う。

     人は皆、自分のテーマ、問題意識を持ち、その答えを出すために学習し、
    その答えを生きる。それが人生というものだ。したがって、そのテーマ、問題意識の
    レベルとそれへの答えのレベルが、その人の人生、生き方のレベルを決める。

     そしてそのレベルが、その人の人間関係のレベルでもある。人は一人では
    生きることはできない。先生を選び、友を選び、恋人を選ぶ。したがってその関係の
    中に、その人の本質が現れる。
    その人の生き方のレべルは、その先生、仲間や同志、恋人や家族を見ればわかる。

     その人のテーマと人間関係は、切り離せない。両者は1つであり、相互関係だ。
    誰もが自分や他者や社会に疑問を感じ、問題の本質を考え、対策を考えて生きる。
    そしてそのレベルにあった仲間や人間関係の中に生きる。
 
     しかし以前のレベルを超えた疑問を感じるようになれば、以前の人間関係は壊れていく。
    その疑問に答えを出せるレベルの人を先生に選び直し、そのレベルで戦っている人と
    仲間になる。そして、そのレベルにも疑問を感じるようになれば…(以下繰り返す)。

     こうして、最終的に、自分が納得できる最終レベルが確定されるのだ。
    いろいろな不満はあっても、闘うことを止める段階、そのレベルがある。
    それがその人のレベルだったと言えるのではないか。

     人がそれまで気付かなかったような疑問を感ずる時に、それはすべて問題意識になり、
    それはすべて周囲への「批判」になる。それは個々の事柄の批判であることに止まらず、
    それまでの関係してきた人々への全面的な「批判」になる。

     そう考えれば、その人の最終レベルの直前の段階までしか、「疑問」を感じることも
    「批判」の必要を感じることもなく、そのレベルを超えた「批判」を求めるのは無理である
    こともわかる。

  (2)批判について

    この(1)の前提の上で、私は「批判」について以下のように考えた

   〈1〉そもそも普段から、人は他者とは「まっとうな関係」、つまり
     「対等で相互批判が可能な関係」を、日々作ろうとするべきだ。
     これが人格の平等を原則とする民主主義社会の原則だろう。
 
      ところが、それができていない人が多い。誰かに支配され依存する。
     または誰かを支配する。それが「世間」で普通に行われていることであり、
     普通の生き方だろう。そうした人に、批判は無理である。その必要を感じないだろう。

      他者との「まっとうな関係」を希求し、それができている段階の人だけが
     民主主義者の名に値する。

   〈2〉闘うべき時
    「不正義、不公正とは戦うべきだし、民主主義の原則が犯されているときは
    闘うべき」とはよく言われるが、それは他者との「まっとうな関係」を
    実現する欲求と能力を持った民主主義者にだけ可能なことだろう。

     そうした人は、その能力の形成過程で繰り返し批判をしてきただろうし、
    まっとうな関係が犯されそうな時は闘ってきたに決まっている。

   〈3〉批判とは認識の1つの形態であり、認識は変革行為の認識的先取りである。

     エンゲルスが、批判は「対象を発展させ、その本質を明らかにすること」
     (『資本論』第3巻へのエンゲルスの補遺 国民文庫版第8巻455ページ)
     だと言っている。すぐれた理解だと思う。

      私たちはつねに「対象を発展させること」を考えていればよいのだ。
     それ以外はすべて副次的な問題だ。そしてこれは「教育」の使命でもある。

   〈4〉自己理解と他者理解は1つ
      他者批判=自己批判
     「対象や他者を発展させること」は「自分を発展させること」に他ならない

  (3)メンバーからの意見

    メンバーからは次のような意見もあった

   〈1〉自分が古い自分の生き方と決別し、新たな生き方に進むとき、
     以前の先生や親友との関係を清算しないではいられなかった。
     その人間関係の中に自分の本質が出るのだから、それを清算しないでは、
     前に進むことはできなかったのだと理解している。

   〈2〉誰かの主張があった時、違和感があっても以前は何も言えなかった。
     今は黙っているのではなく、「私は違う」とは、言えるようになってきた。
     「違う」だけで、どう違うのかも言えず、代案を出せるわけでもないが、
     とにかく「私は違う」とは言える。
   (もし「違う」と言わなければ、その主張を肯定し承認したことになってしまう。中井)

                                         

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