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「個人の問題と組織(ルール)の問題」の続きです。
■ 目次
個人の問題と組織(ルール)の問題 中井浩一
※前号からのつづき
5.近代社会の原理原則とヘーゲルの『法の哲学』
6.マルクスの問題
7.犯罪と刑罰
付録 「部活、サークル、クラスの行事などの問題」(鶏鳴学園で高校生に配布しているプリント)
==============================
5.近代社会の原理原則
鶏鳴学園では以上のように考え、2章「組織運営上のルールの問題」、
3章「個人の問題はどのように取り扱われるべきか」に述べたように指導することにしたのだが、
実は、ここで問われているのは、現代社会の原理原則の問題そのものであり、近代以降の社会の原理原則なのだ。
ここにおいては、ルールが確立されていることが、個人を束縛するだけではなく、
同時に個人を守る側面があることに注意したい。ルールに従っている限り、互いの善悪を問題にしたり、
その内面に踏み込まなくて済むからだ。
これはヘーゲルが『法の哲学』で明らかにしようとしたことなのではないか。
その第2部道徳が、第3部Sittlichkeit(人倫と訳されることが多いがわかりにくい。法律や制度として
実現しているありかた)で止揚されることの意味は、ここにあるのではないか。
個人の言動の良しあしが問われるのは、道徳の段階と言える。それに対して、組織のルール(Sittlichkeit)
の作成や確認を、人間の自由の実現の過程と見るのがヘーゲルである。
カントの道徳律は、個人の内なる絶対的法則を示し、高く強い基準を打ち出した。
それに比較して、現実社会の諸制度や法律群は、はるかにぬるい、ゆるいものでしかない。
では、そのどこが、道徳を止揚した側面なのか。
それは、明文化され、外化、客観化されていて、みなが簡単に確認できるところだ。
そして、それを守る限り、どんな他者も国家も、個人に踏み込むことはできない点だ。
ここに自由の実現の一歩があり、これが民主主義社会の基本的な枠組みなのではないか。
そして、その時代と民族の発展段階が、その法制度にそのまま反映される。
その実体を超えたルールを作ることはできず、もしそうしたルールを作っても、
その運用面で時代と民族の現状を反映したものとなる。
そして古い民族の諸制度を超える民族や社会が現れて、古い民族とその諸制度は滅びてゆく。
これらが、そのまま、私が考えたルール設定の意味と重なる。
しかし、ヘーゲルの『法の哲学』をこのように理解した時には、ヘーゲルの考察の不十分さや限界も明らかである。
個人の道徳レベルには大きな幅があり、そこにはカントの道徳律やイエスが求めたような高い基準もある。
実際に社会に実現しているルールは、それに比較すればはるかに低いものに止まっている。
それをどう考えたら良いのだろうか。ヘーゲルの叙述と展開ではカントの道徳律のような、
個人の内的な高い生き方が実現していく契機や過程がわからなくなるのではないか。
ヘーゲルの『法の哲学』には、ルールや諸制度の確立と、個人の内面の問題の相互関係の段階が
きちんと設定されていない。本来は、第2部道徳、第3部Sittlichkeitと続いた後に、Sittlichkeitから
道徳がとらえ返される段階、両者の相互関係を問う段階が必要なのではないか。
そして、その相互関係から、時代と民族、その法制度の発展、つまり「世界史」を導出すればよかったのだ。
その段階が欠落した『法の哲学』では、個人を組織の暴力から守る観点が弱く、
「個人がない」という批判を受けることになった。
ただし、その批判は妥当ではない。または表面的なのである。
なぜならヘーゲルには「英雄論」があるからだ。
英雄=指導者と民衆の関係と、その民族の実体との関係をヘーゲルは次のように説明する。
「英雄」は、その民族精神の実体を自覚し、それに向けて民衆を指導しようとする。
英雄は民衆の中から現れ、役割が終われば、民衆の中に消える。
英雄が現れて、民衆の中の実体、真理を自覚し、民衆にその真理に目覚めることを促し、
その真理を実現するように指導していく。社会は民衆と指導者に分裂し、それを統合する過程で、社会は発展していく。
ヘーゲルはこのように考えていたようだ。したがって、民族の発展は、英雄個人の意識に媒介される。
これは、外的な必然性は個人の内的意識(自発性)で媒介されなければならないということである。
ヘーゲルは、個人(英雄)の役割を認め、個人の意識の民衆などからの独立性、自立性を、
はっきりと認めていたことになる。つまり、ヘーゲル哲学にあっても「個人」は大きな役割を果たしている。
しかし、ヘーゲルには時代の限界があり、現在の私たちから見れば、大きな問題があると思う。
それは大きくは2つある。
(1)英雄と民衆の分裂と統合は、対立のない予定調和的なものではなく、
たえざる対立や闘争を媒介として進んでいく。(2)英雄と民衆の対立・闘争は、個人の意識内での分裂と
闘争を引き起こす。ヘーゲルは、これを英雄個人だけにしか認めていないように見えるが、
意識内の分裂はすべての民衆の意識内に起こり、その克服はすべての民衆の課題となっている。
この2点を考える時、ヘーゲルの『法の哲学』では、ルールや諸制度と個人の内面との相互関係の段階が
きちんと設定されていなかった理由がわかるだろう。ヘーゲルには、個人を組織から守るという観点が弱い。
個人と社会の対立抗争によって、社会が発展するという理解が弱い。
そして、この意味では、ヘーゲルには「個人」がないとの批判は当てはまるのだ。
ヘーゲルの時代には、それは大きな問題にならなかった。民衆の意識がまだまだ未成熟だったからだ。
しかし、私たちの現代社会は民主主義の段階にまで進んでいる。
そこでは民衆の個々の意識内部の分裂と統合こそが問われるだろう。
6.マルクスの問題
以上のように、今の私たちの問題からヘーゲルの『法の哲学』にもどって、近代社会の枠組みの総体を考えてくると、
どうしてもマルクスが思い出される。
マルクスの疎外論や貨幣の物神化論、国家や私有財産の廃止論だ。それらには大きな問題があると思う。
そこでは疎外や物神化や国家や私有財産そのものを悪いとしているように見える点だ。
マルクスは、道徳から法制度へと発展したものを、また元の道徳のレベルに引き戻そうとしているように見える。
本来、疎外や物神化、国家や私有財産そのものは何も悪くない。
それは見えにくい現代社会の問題が外化、客観化されたものでしかない。
私たちは、その内実を自覚することで、初めてその問題に取り組むことができる。
したがって外化とは自由への一歩だろう。
また、その内実、問題とは、ただ善悪といった基準でとらえることはできない。
それはその社会の実情、その社会の能力の反映そのものだからだ。
そしてそう考えることが唯物史観なのだと思う。
もちろん、疎外や物神化、国家や私有財産そのものが正義や自由なのではない。そこに何が外化され、疎外されているのかを問わなければならず、その問題に取り組むから自由が実現できるのだ。それが意識されず、自覚されないでいることをマルクスは問題にしている。
しかし、それは疎外や物神化、国家や私有財産そのものが悪であり、不正義であり、
それを滅ぼさなければならないということではない。
金もうけのために、すべてを手段とし、人間までを手段とする人がいる。「金で買えないものはない」。
しかし、そうした人や考え方が生まれたのは、金のせいではないし、資本主義のせいでもない。
もとからその人は、自分のために、他人を手段としていただけのことだ。
貨幣や資本主義は、それを見えやすく外化させただけではないか。
それは問題が見えるようになっている分、自由への一歩である。
以上のように、マルクスの疎外論や貨幣の物神化論、国家や私有財産の廃止論には、
道徳から法制度へと発展したものを、また元の道徳のレベルに引き戻そうとしている側面がある。
しかし、実はそれにはヘーゲルへの批判として正しい側面も確かにあったのだ。
それは、ヘーゲルが道徳という個人の内面、個人レベルを軽視し、道徳とルールの相互関係の段階を
きちんと設定しなかったことへの批判である。
しかし、マルクスは問題をきちんととらえることができず、
法制度の道徳への引きずり下ろしとなったのではないか。
本来は、法制度のレベルから再度、法制度と個人の内面性との相互関係を問うべきだったのだ。
ここで、マルクスはヘーゲルの英雄論を検討するべきだったろう。
その意義と限界を示し、その限界の克服を目指すべきだったろう。ところがそれはできなかった。
もちろん、マルクスはその唯物史観によって、『法の哲学』第3部Sittlichkeitの市民社会と国家の理解を深めた。
ヘーゲルの理解が英雄と民衆という単純化された2項対立にとどまっているのに対して、
リアルな現実把握をした。指導者も民衆も単一ではなく、指導者群の中での闘争もあるし、民衆内部での闘争もある。
指導者個々人の背後には、民衆内部の利害対立がある。それが社会関係(社会矛盾)であり、それが意識を規定する。
指導者と民衆の対立・闘争は、英雄個人の意識内での分裂と闘争を引き起こす。
ヘーゲルも、これはわかっていたと思う。しかし、その英雄の意識内部の分裂が英雄だけではなく、
すべての民衆一人一人の意識内部にも起こること、それはわかっていなかったようだ。
少なくともそこに大きな問題があるとは思っていなかった。
マルクスでは指導者群内部の闘争、民衆内部での闘争を、唯物史観で解明した。
民衆内部での闘争を社会関係(社会矛盾)としてとらえ、それが意識を規定することはとらえた。
そして、社会関係の矛盾をさらにリアルにとらえるには、
そうした闘争が個々人の意識内部の分裂と闘争を引き起こすこと、その分裂の理解が重要になる。
しかし、マルクスも、個々人の意識内部の分裂の意味にまで深めることはできなかった。
したがって、マルクスの思想にも「個人」がないとの批判は該当する。
それでは19世紀の革命運動は指導できても、20世紀の革命を指導するには、不十分だった。マルクスの後継者たちは、自分たちの組織を絶対視し、個人の価値をおとしめ、指導者の内紛、粛清、自己批判の嵐、内ゲバ、こうした問題を解決できず、全体主義へ転落していくことになったのである。
現在の学校のクラブ活動の問題から始めた本稿は、夫婦関係や親子関係などにまで問題を広げ、
それをヘーゲルやマルクスの近代社会の原理的把握にまで立ち戻って考えてきた。
小情況の問題の中に大状況の問題が潜んでいる。
それを見据えながら、小情況の中でしっかりと問題を解決していく練習が必要だと思う。
7.犯罪と刑罰
最後に、犯罪と刑罰について考えてみた。
私は、仕事などで疲れた時の気分転換として、ミステリードラマをよく見る。
アメリカのものよりも、イギリスや北欧の番組が好きだ。そこに刑事、警部、警察官や私立探偵が登場する。
彼らは犯罪者を見つけ、つかまえることに全力を注ぐ。
そこには、人間の悪の問題があり、彼らは犯人を追い詰めていくのだが、
その過程で逆に精神的に追い詰められていく場合もある。
正義漢で、怒りの感情をほとばしらせる登場人物を見ながら、不思議な思いに駆られる。
被害者の犯罪者への怒りや憎しみは、彼らに引き継がれるのだが、その感情に翻弄されているように見える。
犯罪者やその犯罪の背景には社会の問題や人間の心の闇がある。
そうした悪の問題を追及すると、それは自分の内部や自分の前提を掘り崩していくことになりかねない。
事実、多くの主人公たちは精神的に破たんしていく。
これをどう考えたらよいのか。
昔は犯罪への処罰は、目には目をの原則で、私的報復が正義だった。
現在は、個人の報復の権利を国家が奪い、国家のみが刑罰を与えることができる。
個人と個人が直接的に憎み合い、罵りあい、殴り合い、殺し合う。
そうした私人レベルの報復の悪無限を止揚するために、警察や検察、裁判所といった公的権力・国家が介入するのだ。
それは、自由への大きな一歩である。
しかし被害者側の加害者への怒りと報復感情の発露の場がない。
そこで、被害者側の思いもまた外化される保障が求められている。
しかし、そうしたことがあっても、国家による処罰の一元化は、自由への大きな前進なのである。
ミステリードラマの愛すべき主人公たちは、公的権力の正義の抽象性を、もう一度、個人レベルに引き戻し、
そこで現実の個々の悪、社会矛盾と具体的に戦っていく。
抽象的で間接的な正義ではなく、具体的で直接的に正義を追求していく。
それがドラマとしての面白さである。
しかしそこにはまた大きな危険性がある。
それは、公的権力の代行者としてのレベルから、個人の道徳レベルへと落ち込んでしまい、
公的レベルへと浮上できなくなってしまうことである。
公的レベルと個人レベルの両者の関係の矛盾、対立が、ここに大きく問題提起されているように思う。
2018年6月11日
付録 「部活、サークル、クラスの行事などの問題」(鶏鳴学園で高校生に配布しているプリント)
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部活、サークル、クラスの行事などの問題
組織運営上の問題と、個人の問題を区別する
1.組織を理解する
組織には、目的があり、その目的を実現するために存在する。
そしてその目的実現のための意思決定と問題解決のルールがある。
したがって目的が何なのかは、常にそのメンバーで確認しなければならない。
目的が変われば、ルールも当然変わる。
2.組織運営 目的達成のためにルールがある
(1)組織の意志決定のルール
顧問、コーチ、最高学年、権限と責任はどうなっているのか
執行部(部長、副部長)はどう決まるのか
(2)問題解決のためのミーティングはどのように行われているか
誰が開催できるのか
意志決定はどうなるのか
連絡事項はどう伝わるのか
(3)問題がある時に、その不平・不満・疑問を出す窓口があるか
3.ルールが明示されていなくても、暗黙のルールがある。
だからルールを問題にし、みなで確認し、必要なら新たなルールを作っていけばよい。
4. ただし、問題が多すぎて、または大きすぎて何もできない場合は、両親に学校側と交渉してもらう。
学校側と契約しているのは本人だが、学校側と対等に交渉できるのは、本人ではなく保護者だからである。
なぜなら未成年者の法的権利は保護者が代行することが法律で定められているからである。
問題が多すぎて、または大きすぎて何もできない場合とは、例えば、
(1)組織の意志決定のルールがあいまいで特定の個人の横暴がとおっている
(2)ミーティングがない、または学期に1回などと少なすぎる
(3)不平・不満・疑問を出す窓口がない
さらに、学年での相談も、先輩との相談も、顧問やコーチとの相談もできない。
そうした場合である。
5.ルールを作る上の注意
(1)100点満点や「正義」を求めない。
(2)現状よりもよりマシなもの、現実にすぐに変えられるもの、
具体的なものになっており、それが守られているかどうかを誰でもチェックできるようにする。
(3)ルールの改正のためのルールを決めておく。
説明
ルールは、その組織の現状、そのメンバーたちの能力などの諸条件を反映し、それに依存する。
その大枠の中で、可能な範囲で、ルールを作るしかない。
ルールは、その組織の発展段階を反映するもので、現状や発展段階に合わせて変えていかなければならない。
ルールは不変のものではない。
むしろその逆で、その組織とメンバーたちの現状、直面した問題などに合わせて、たえず見直し、改訂、改正していくべきものだ。
したがって、ルールの改正のためのルールが必ず必要になるから、最初からそこまでを含めて設定しておかなければならない。
———————————————————–
個人と組織の関係は大きな問題です。
それは結局は、組織のルールの内容と運用にかかっていると考えるようになりました。
中学生や高校生を指導していて、学校という生徒たちの生活の場にはルールがない、
またはルールが明文化されていないことに驚きました。
これは深刻な問題だと思います。
なぜそうなってしまうのでしょうか。
改めて、この大きな問題をヘーゲルにまでさかのぼって考えてみたのが本稿です。
学校現場の関係者には、ぜひお読みいただき、感想やご意見をいただきたく思います。
また、この問題は、単に学校だけではなく、私たちの社会全体の問題だと私は考えています。
その意味で、読者のみなさまにはぜひ一緒にこの問題に取り組んでいただきたいと願っています。
■ 目次
個人の問題と組織(ルール)の問題 中井浩一
1.鶏鳴学園の中高生の作文
2.組織運営上のルールの問題
3.個人の問題はどのように取り扱うべきか
4.私たち大人の低さ
※以上が本日、以下は明日掲載します
5.近代社会の原理原則とヘーゲルの『法の哲学』
6.マルクスの問題
7.犯罪と刑罰
付録 「部活、サークル、クラスの行事などの問題」(鶏鳴学園で高校生に配布しているプリント)
==============================
1.鶏鳴学園の中高生の作文
鶏鳴学園の中高生は作文の題材として、クラブや部活などでの運営面の諸問題をよく書いてくる。
部長や顧問や、先輩、後輩、同学年のメンバー、その個々の言動の問題点がぎっしりと書かれてくる。
また、文化祭や体育祭などの行事へのクラス参加の際の問題もよく書かれる。
クラスや行事担当の教員、クラスのリーダーや責任者とその他のクラスメンバーの葛藤。そこでも個々人の言動が問題にされる。
これらは、彼らにとっての身近で切実な問題なのであろう。
しかし読んでいるとおかしいと感ずることが多い。
組織の運営上の問題であるにも関わらず、個人の問題ばかりが取り上げられて、組織の問題がほとんど意識されていないことだ。
これはどうしたことだろう。
一般に組織にはその運営上のルールがあり、そのルールに基づいて運営される限り、
個人の問題だけがこれほど大きな比重を占めることにはならないはずだ。
調べていくと、現在の学校では、どうもこのルールに大きな問題があるようなのだ。
そもそもルールがない。または暗黙のルールがあるだけで、明文化されていない。
役職や責任者の権限と責任があいまいだ。そのために、その時々の力関係でいろいろなことが決まっていく。
そこでその不満は個々人へと向かうことになる。その人間の善し悪しが断罪され、その言動が細部に至るまで吟味される。
2.組織運営上のルールの問題
以上のように考えるにいたったので、鶏鳴学園では、中高生たちには、組織運営上の問題にあっては
個々人の問題の前に、組織の問題があることを説明し、自分たちの組織のルールがどうなっているのかを
意識させることにした。実際に高校生に配布しているプリント「部活、サークル、クラスの行事などの問題」
は付録して収録する。
そこでは以下のように説明している。
組織には目的があり、その目的達成のために作られたのが組織なのである。
したがって組織にはその目的達成のために適切な組織の構成とルールが必要である。
そしてこれらのルールがあり、そのルールに基づいて運営されている場合、個人に求められることは
そのルールを守って、組織の中での自分の役割を果たすことだけである。
したがって、個々人の問題の前に、組織のルールの問題があるのだ。
個人を批判したり断罪できる観点とは、本来はそのルールを守っているかどうかだけなはずである。
それ以外に、それ以上に、その良しあしは、問われてはならないのではないか。
要するに、組織の運営上のことで個人の言動を問題にできるのは、組織のルールが明示されており、
それがみなで確認できるようになった後でのことだ。
ところが、実際は、その肝心なルールが明示されておらず、あいまいなことが多い。
その場合は推測や忖度がはびこり、疑心暗鬼になり、運営する個々人の言動が問題にされるようになる。
しかもそうした疑問や不満がオープンになることはなく、陰でこそこそと愚痴りあうのが関の山だろう。
だから、何よりもまず、自分たちの組織のルールを明らかにしなければならない。
そもそもルールがあるのかどうか。どのようなルールが明示されているのか。
場合によっては、「暗黙のルール」がたくさんあり、それらが明文化されていない場合も多いだろう。
それらを含めて、すべてをオープンにし、みなで確認し合うことだ。
そのためには、そもそも組織のルールとは何かを知らねばならない。
では組織のルールとはどのようなものなのか。
組織には目的があり、その目的達成のために組織とルールがある。
したがって、何よりも、その目的をメンバー全員でつねに確認し合う機会が必要だ。
そしてそれが確認されたならば、その目的達成のために組織内の分業、分担、それぞれの役割・役職などが設定され、
その権限と責任が決まる。
その上で、組織の意志決定と問題解決のルールが必要になる。
組織を運営する場合、常に何らかの意思決定をしなければならないが、その意思決定をめぐって
対立が起こるのは当然で必然的である。したがって、その意思決定のルールや手続きを決めなければならない。
その意思決定のプロセスと、最終決定に誰がどのように関わるのか。その権限と責任が明示されるべきだ。
そしてその意志決定後には、その決定がどこまで適切だったかを振り返り、その責任を含めて話し合うことが必要だ。
また、組織には常に問題が発生し続けるから、それを解決していくプロセスも決めておかなければならない。
ルール違反への対応や罰則もその中に入れておかなければならない。
さて、ではルールを作ろうとなった段階で、さらに指針を与えている。
彼らはそうした経験がほとんどなく、それゆえに、しばしば善か悪か、正しいか否かの二元論に落ち込むからだ。
そこで、以下を注意している。
・100点満点や「正義」を求めない。
・現状よりもよりマシなもの、現実にすぐに変えられるもの、具体的なものになっており、
それが守られているかどうかを誰でもチェックできるようにする。
・ルールの改正のためのルールを決めておく
説明しよう。
ルールは、その組織の現状、そのメンバーたちの能力などの諸条件を反映し、それに依存する。
その大枠の中で、可能な範囲で、ルールを作るしかない。
しかし、ルールがあること、それを意識して問題やメンバーと向き合うことは、自他が利害対立する問題を自覚し、
その解決のための話し合いを促し、その理解を深めるだろう。こうしてルールはメンバーを成長させる。
そして、メンバーが成長していく過程では、ルールも成長していく。
つまり、ルールは、その組織の発展段階を反映するものなのであり、現状や発展段階に合わせて変えていかなければならない。
ルールは不変のものではない。むしろその逆で、その組織とメンバーたちの現状、直面した問題などに合わせて、
たえず見直し、改訂、改正していくべきものだ。そうでなければ、すぐに形がい化し、神棚に飾られる置物になり下がる。
したがって、ルールの改正のためのルールが必ず必要になるから、最初からそこまでを含めて設定しておかなければならない。
3.個人の問題はどのように取り扱われるべきか
さて、ではこうして組織運営上のルールが策定され、メンバー間で確認されたとする。
そこで初めて個人の問題を正面から問うことができるのだ。
すでに述べたように、個人の言動の善し悪し、正邪を、それだけで論じることはできない。
それではただの抽象論に止まり、十分な根拠が出せないであろう。
個人の善し悪しは、当人が所属する組織の具体的なルールとの関係において初めて、
具体的かつ客観的に問うことができるのである。
では個人の問題はこの段階でどのように問うことができるのだろうか。
まず組織の側から見れば、それは簡単である。ルール違反があれば、その違反への対応もすでにルールの中に
書かれているから、それに従えばよい。ルール違反が確認されれば、ルールを守ってもらうための処置がなされる。
責任の大きさに応じた処分がなされ、罰則が適応されるだろう。役職の降格から除名までがありうる。
しかし、普通はそれだけでは済まないであろう。違反が繰り返される場合は、
そうした違反が起こった過程や原因が問題になり、その個人の生き方や姿勢、考え方などが問われるだろう。
しかし、それはルールの範囲からは逸脱している。
そもそも組織は、どこまで個人の内面に踏み込むことができるのか。
他者や組織が、ある個人の生き方や考え方を批判することは、どのように許され、可能なのか。
本人がそれをどう考えるかは、当人の責任で自由に行えばよい。
問題は他者や組織による批判や弾劾である。とりあえず、この原則だけは示しておきたい。
まずは、組織による批判には限界があり、その自覚が必要である。
この限界への自覚の有無は大きい。それがないと、組織による個人のつるしあげが起こる。
そこでは道徳的な批判もエスカレートする。そこでは、個人の人格の全否定にまで進む可能性がある。
(旧社会主義国、共産党による個人の「査問」、「自己批判」の強要、「粛清」などを想起されたし)
次に、個人の問題と組織の問題とは相互関係であるという点だ。
個人を問うことは、その組織を問うことであり、その逆も同じである。
一般には、組織のルールで個人が裁かれるのだが、実際には個人の生き方の方が、
組織のルールよりもはるかに高いレベルであることはまれではない。
その場合は、その個人を裁こうとすることは、逆に、その組織の内実が問われる。
組織の質やルールが厳しく問われることになるはずだ。(例としては企業や役所への内部告発など)
組織の側に目を向ければ、家庭、学校、会社、地域や国家にいたるまで、組織には実に様々な
レベルと種類があり、その組織の目的や、その組織への入会と退会が自由であるかなどの条件がことなる。
その目的や条件によって、そのルールの是非や個人に対する権限が改めて問われねばならない。
また、個人は複数の組織に属し、その組織間は横並びの場合(各クラブのルールや各クラスのルールなど)も
上下関係(学校のルールとクラスのルール、憲法と諸制度など)の場合もある、
ルールとルールの間の対立、矛盾もある。それも問題になる。
個人を問うことは組織を問うことであり、組織を問うとは、個人を取り巻く種々の組織の全体の関係を見ていくことである。
個人と組織との相互関係における対立や矛盾や葛藤によって、この社会は発展し、個人も発展していくのである。
なぜなら、個人の生き方(思想)も組織のルールも、その根拠を深めれば最後は「人間とは何か」という
問いに行きつくからであり、その答えとして様々なレベルが対立し、それによって深められていくのだからだ。
だから最後は発展観が問われる。
個人の成長過程、組織の成長過程の発展的理解、人間の本質、組織の本質、個々の組織の相互関係の理解、
それらを全体的に理解していくことが必要である。
組織にあっては、その実質的トップの、この観点における理解力にすべてがかかっている。
4.私たち大人の低さ
さて、では、これほどに重要なルールが確立されていない学校が多いのはなぜか。
なぜ、ルールの根本的な意味が、きちんと指導されていないのだろうか。
学校で問題が起こると、先生たちは「話し合え」などと簡単にいうが、話し合って何をすれば良いのか。
何がどうなると解決なのか。それが示されていないのではないか。
反省文を書いたり、加害者が皆の前で謝ったり、加害者と被害者を握手させることが解決ではない。
本来は、話し合って、解決に向けたルールを作ることが解決への一歩なのではないか。
学校で生徒たちにルールが意識されるのは、多くの場合校則によってだろう。
しかしそれは、制服、制帽、服装のこまごまとした規定、携帯やスマホの所持使用の禁止などの
日々の生活への規制としてのものであり、その校則改正への動きが一部にあっても、
それは規制から自由になりたいというものに留まる。
自分たちの日々の問題を自分たちで解決していく手がかりになるルールは考えられていないのではないか。
もちろん、問題は学校にだけあるのではないだろう。
日本社会のどの組織でも、同じ問題を抱えていて、それが教育の場故に学校において集約的に現れるだけだろう。
さて、このようにこの問題は、一般的に放置されているのだが、その理由は、私たち大人たちが、
教師たちが、両親たちが、こうしたルールの意味や役割をほとんど理解していないからではないか。
校則や法律などのルールのナカミを議論することはあっても、そもそものルールのあることの意味は、
ほとんど考えられたことがないのではないか。
こうしたことが理解されないのは、ルールというものを、国家、地方自治などの大きな政治上の法律や
条例など(せいぜいが学校の校則まで)しか、意識されておらず、
それが日常的な生活の場から切り離されているからではないか。
そして、日々起こっている個人間の問題は解決できないままに、その力関係で決まったり、
その場その場の状況に流されて決まるだけ。そして、それが国会の場で、狭義の政治の場でも行われているだけ、
つまり、それが大きく言えば、今の私たちの社会の能力の現状だとも言える。
ではどうするか。
狭義の政治のことは別にして、今すぐにできることから始めたい。夫婦関係、親子関係、
小グループの問題への対応である。
人間が2人いたら、そこには必ず意志決定の問題が起こる。その際、ほとんどは力関係で決まったり、
その場その場の状況で決まったりしているだけ。本来は、とりあえず、ルールを設定し、
それを守りあうことで解決していくしかなのではないか。
夫婦関係も、親子関係も、そこに現状をよく反映した具体的なルールを設定しない限り、
問題は抽象的な一般論に留まり、「世間では?」「普通は?」「本来正しいのは?」といった
水かけ論や罵りあいになるだろう。
ルールを作り、その内容を確認し合いながら、そのルールはそれに関わる人間たちの現時点のレベルの
反映であることを自覚する。個人と組織のルールとは相互関係であり、
その対立・葛藤に、私たちのどのような本質や問題が現れているかを考え続け、それを深めていく。
そこから次のルールが生まれるだろう。こうした過程を歩んでいく以外に解決に向けた方法はない。
こうした小さな組織でのルール設定は、最小単位ではあるが、まさに政治なのである。
政治の学校とは、そこにある。
そうした小さなところから、ルールの意味を学習していき、学校やクラブなどでもそれを学んでいくことが、
民主主義や政治を学ぶことになる。それが狭義の政治をも根本的に変えていく力になるだろう。
明日掲載分につづく
アダム・スミス著『国富論』から学ぶ (その6) 中井 浩一
■ 目次 ■
第7節 歴史と先人から学ぶこと
1.「労働商品」という矛盾
2.不生産的労働と生産的労働
3.矛盾から逃げない人
4.歴史から学ぶ 過去の遺産を継承発展させる
5.工業化の時代という限界
6.「学者バカ」マルクス
なお本稿での『国富論』の該当個所や引用は中公文庫版による。
1巻の15ページなら【1?15】と表記した。
『剰余価値学説史』については国民文庫版を使用した。
1巻の15ページなら《1?15》と表記した。引用文中で強調したい個所には〈 〉をつけた。
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第7節 歴史と先人から学ぶこと
スミスをマルクスがどうとらえていたか、スミスからマルクスが何を学び、何を乗り越えようとしたのか。
そのマルクス自身による説明は、マルクス著『剰余価値学説史』の第3章に詳しい。
ここではスミスがあらゆる面において二面性を持っていることを示し、
直接には労働価値説から2つの価値規定(矛盾)を示し、そこから剰余価値を導き出している。
これが後に『資本論』第1巻としてまとまる。
第4章は『国富論』の第2篇から不生産的労働と生産的労働をテーマにし、
スミスおよびスミス以降の論争を取り上げている。
しかしその論争参加者を「二流どころ」だといい、「
重要な経済学者はだれも参加していない」という《2?49》。
3章のテーマこそが核心で、4章のテーマは補足的なものだと考えているのだ。
したがって、まず第3章を検討する。
1.「労働商品」という矛盾
マルクスは、スミスの「労働商品」という矛盾(労働価値と労働者の生活費としての賃金のズレ)を、
「剰余価値」を示すことで解決したと考えている。
言い換えれば、資本家による賃金労働者の搾取と両者の絶対的な対立構造のことだ。
そして、この「剰余価値」(資本家の搾取の秘密)の発見が自分の経済学への貢献だと見ていた。
つまり、スミスを発展させたのが自分だと考えていたのだ。
マルクスの「剰余価値」の発見の前提はすべてスミスにある。スミスがすべてのおぜん立てを整えてくれていた。
『国富論』第1編には、交換価値と使用価値(4章。【1?51】)、
労働価値説(5章。【1?53?58】)、最低賃金の意味(8章。【1?116】)。
ここで、すべての商品の中で、労働力という商品だけが、使用価値と交換価値が一致しないことが
潜在的に示されている。その矛盾を全面的に展開して見せたのがマルクスである。つまり、スミスが
矛盾を示したからこそ、マルクスがそれを解決できたのである。
マルクスは、スミスが労働価値一般と労働力という商品の矛盾を把握していたことを高く評価する。
「A・スミスは、諸商品の交換を規定する法則から、外観上はそれとまったく対立し矛盾する原理に
基づく資本と労働との交換を導きだすのに、困難を感じている。また、資本が、労働能力にではなく
労働に直接に対置されるかぎり、その矛盾は解明されるはずもなかった。労働能力がその再生産と
維持とのために費やす労働時間と、労働能力そのものがなしうる労働とが非常に違うということは、
A・スミスにはよくわかっていた」《1?112》。
そして、矛盾がわかっていながらも、労働価値説そのものを堅持し続けたことも評価するのだ。
「しかし、こうした不確実さや、まったく異質的な諸規定のこうした混同が、剰余価値の性質や
源泉に関するスミスの研究を妨げていないということは、それに続く叙述によってわかるであろう。
というのは、彼は事実上、意識していなかったにしても、彼が議論を展開している箇所ではどこでも、
商品の交換価値の正しい規定?すなわち、商品に費やされた労働量または労働時間によるそれの規定?
を固持しているからである」《1?109》。
マルクスの批判は、スミスが矛盾を一般的な形では示せず、特殊な形態の話としてごまかした点にある。
「A・スミスは、剰余価値、すなわち、遂行された労働でしかも商品に実現されている労働のうち、
支払われた労働を越える?その等価を賃金で受け取った労働を越える?超過分たる剰余労働を、
一般的範疇としてつかみ、本来の利潤および地代はそれの分身にすぎないとしているのである。
それにもかかわらず彼は、剰余価値そのものを独自の範疇として、それが利潤や地代として受け取る
ところの特殊な諸形態からは区別しなかった。このことから、彼の研究上に多くの誤りと欠陥が
生じている」《1?53》。
だから、マルクスは逆に、矛盾を普遍的な形で示すことを目的とする。
そのためには、スミスがしたように労働価値一般を普遍的な実体としてしっかりと展開し、
その上で労働商品の特殊性を一般的に示すことになる。実際にそれを行ったのが、
マルクスの『経済学批判』(岩波文庫)の第1章「商品」や『資本論』における商品、資本の展開だ。
マルクスは最初に交換価値の普遍的な運動を示し、次に「労働という商品」の特殊性を示すという2段階を用意し、
第1段階の普遍性を徹底的に明らかにしようとする。それによって、労働という商品の特殊性が浮き上がるからだ。
第1段階では、商品の交換価値=商品に費やされた労働量(労働時間)を示す。ここから貨幣の成立を導き出す。
それを踏まえた上で、「労働」という商品の特殊性(労働量に比例した交換ではないこと)を
徹底的に明らかにする。それが「剰余価値」の発見になる。
2.不生産的労働と生産的労働
さて、こうしたマルクスの立場に立てば、不生産的労働と生産的労働の問題の回答はすでに出ている。
スミスでは、この区別の基準は「価値を作る」物、つまり市場で「交換される」商品になる物か
どうかである。したがって、それは内容上での区別になる。しかし、商品かどうかに、本来は内容は
一切関係ない。可能性としてはすべてが商品になるからだ。それが現実化するかどうかは条件(偶然性)
次第であるにすぎない。「可能性からいえば、これらの使用価値もやはり商品である」《2?31》。
結局、資本(剰余価値)のための労働か否かという形式面での区別をするしかない。
家事労働をスミスは非生産的労働としたが、現代では家事のすべてが商品化されている。
日常の食事もデリバリで配達する。妊娠や出産までがビジネスになる。その時それらのすべてが「生産的労働」だ。
ちなみに、私は家事労働が非生産的労働だという主張で、「専業主婦」が気になった。
主婦の位置、家庭の位置が気になる。梅棹忠夫の「主婦不要論」が大きな論争を巻き起こしたのはなぜだったのか。
専業主婦とは歴史的存在で、大家族制度の下では存在しなかった。
それは高度経済成長下の核家族の成立下で生まれた、極めて特殊なものだったのではないか。
「扶養者控除」「配偶者控除」が設けられ、専業主婦の家庭には税金が控除されるとした法律は、
その事態を確認するものだろう。
なお、マルクスが資本家は本質的にはケチであり《2?251》、
それは資本家が「資本の機能者」《2?40》「人格化された資本」《2?251》だからだと説明する。
「資本家の本質は資本」というマルクスの主張には納得だった。
彼らは資本の論理で生きていて、それに支配される。したがって、ケチなのだ。原理的にケチなのだ。
それ以外には生きられない。しかし、ケチの素晴らしさもあったのではないか。
3.矛盾から逃げない人
さて、スミスとマルクスの関係だが、マルクス自身が、スミスが矛盾を明確に示したので
自分がそれを解決できた、と証言している。だからマルクスはこの点でスミスを高く評価している。
それはスミスが経済学の説明で自己矛盾を示し、後に大きな課題をもたらしたからだ。
「A・スミスの諸矛盾がもつ重要さは、それらが、いろいろな問題を含んでいるということである。
その問題を、〈彼はなるほど解決してはいないが、しかし自己矛盾をきたすことによって表示している〉。
この点における彼の正しい本能は、彼の後継者たちが相互に、あるときは一方の面を、
あるときは他方の面を取りあげているということによって、最もよく証明されている」《1?252》。
それはスミスが矛盾に直面した時に、そこから逃げないことへの評価である。
矛盾に当惑し、煩わされることができた、として評価するのだ。。
「A・スミスの偉大な功績は、彼がまさしく、第1篇の諸章(第6,7,8章)において、
単純な商品交換とその価値の法則から、対象化された労働と生きている労働とのあいだの交換に、
資本と賃労働とのあいだの交換に、利潤および地代一般の考察に、要するに剰余価値の源泉に移るさいに、
ここに〈一つの裂け目の現われることを感知している〉こと、すなわち ?どのように媒介されるにせよ、
といっても、この媒介を彼は理解していないのであるが ? その法則が結果においては事実上廃棄されて、
(労働者の立場からは)より多い労働がより少ない労働と、(資本家の立場からは)より少ない労働が
より多い労働と、交換されることを感知していること、そして、資本の蓄積および土地所有とともに?
したがって労働条件が労働そのものにたいして独立化するとともに?1つの新しい転換、外観的には
(そして実際には結果として)価値法則のその反対物への急転、が生ずることを、
彼が強調し、そしてこのことのために〈彼が文字どおり当惑している〉ということ、である」《1?141》。
それはどういうことか。多くの人は、矛盾に直面すると、それに耐えられず、
安易な解決でごまかすということだ。マルクスはリカードをそうした例に挙げている。
「リカードがA・スミスよりすぐれているのは、これらの外観上の、結果的には現実の矛盾によって
惑わされていないことである。彼がA・スミスより劣っているのは、ここに一つの問題のあることに
まったく気づいていないということ、したがって、価値法則が資本形成とともにとるところの特殊な発展によって、
ほんの一瞬のあいだも当惑させられることなく、煩わされもしていないということである」《1?141》。
リカードは普遍的な原理として考えていた。
頭の良い人は、ほとんどがそのように抽象化で大きな概念で包み込み、矛盾が見えないようにする。
または小器用な理屈付けで、ごまかそうとする。スミスは違う。
一般化をせずに、最後まで矛盾を手放さない。非常に要領が悪く、頭が悪いように見える。
破綻を破綻のままに放置していて平然としている。
リカードとスミスの違いの核心は、スミスが資本主義社会の段階の特殊性に気づいていたということだろうが、
それは歴史的視点を身につけていたからか?スコットランド学派の影響か?
否、そうしたことよりも、スミスは自分の実感(おかしい)に忠実で、それを誤魔化すことはできなかったのだ。
私は、ヘーゲルのカント批判(評価)を思い出した。
ヘーゲルは、カントが矛盾を徹底的に押し詰めて「絶定的な矛盾」として示したことから、
初めてそれを逆転させることができた。大論理学の目的論のカント批判を読むと、それがよくわかる。
カントの「頭の悪さ」はカントの真実への誠実さの表れである。
カントは自分の理論がきれいに整うことなど眼中にない。ぶざまでも平気なのだ。
それが真理に誠実であることならば。
こうしたスミスやカントのような存在を知ると、世間の多くの人は、
その反対の頭の良い人ばかりであることに気づくだろう。
4.歴史から学ぶ 過去の遺産を継承発展させる
スミスやマルクスが、自分の思想をどのように作り上げたかを知れば知るほど、
歴史や先人から学ぶことの重要さを改めて噛みしめることになる。
人は、過去の遺産に学び、それを継承発展することができるだけなのだ。
マルクスも、過去の先人たちの検討から自説を出しただけだ。
マルクスが『資本論』を執筆するまでの過程の順番は、実際の篇別構成とは逆になっており、
経済学史の研究(「剰余価値学説史」)から始まっている(マルクス・エンゲルス全集編集部の「序文」から)。
学問は先人たちの蓄積の上にあり、それを発展させることしかできない。
それができるかどうかだけが勝負なのだ。マルクスはスミスが示した矛盾を解決するために、
「剰余価値」を発見し、それだけを自分の功績だとした。
それはスミスも同じだ。
スミスの大前提には、交換価値と使用価値の対立、交換価値が貨幣に集約されるという考えがある。
それは、すでにアリストテレスが指摘しているのだ(アリストテレス『政治学』第1巻の9章)。
また、最低賃金が労働者の生活維持と再生産のコストだという指摘も、スミス以前の重農主義のものだ《1?106》。
スミスはアリストテレスにはできなかった労働の価値一般を定式化できた。
労働力という商品の矛盾を示すこともできた。こうした前提の上に、マルクスが『資本論』を残すことができた。
5.工業化の時代という限界
人はすべて、自分の時代の限界、発展段階の限界を越えることはできない。
スミスにもマルクスにも、同じ限界がある。
彼らが生きたのは、工業化が課題の中心だった時代だということだ。それを相対化することはできなかった。
つまり、工業化によって均一の単純労働が、労働の中心になり、賃金労働が労働の中心になった。
「スミスの表現からその素朴な言い方を取り去ってしまえば、彼が言っていることは、次のことにほかならない。
すなわち、資本主義的生産は、労働条件が一階級のものになり、労働能力の自由な処分だけが
他の一階級のものとなる瞬間から始まる、ということである。」《1?123》。
これが実現していたからスミスやマルクスの考えが成立した。
しかし、それは農業の没落の上に成立した。農業の真理が商工業であった。
その「工業」の歴史的位置、その意義と限界が、2人には見えなかった。
マルクスにはスミスの農業論、都市論、工業・商業論の限界を指摘できなかった。2人は、同じ段階に立っていたからだ。
これは当時の工業化が未発達で、資本主義社会としても未完成の段階だったことからの必然的な結果でもある。
6.「学者バカ」マルクス
今回『剰余価値学説史』を読んで、マルクスへの大きな疑問を持った。
マルクスは瑣末な詮索に熱中し、本当にすべきことをおろそかにしたのではないか、
社会主義革命運動の全体像や自分の課題の意味を見失いがちだったのではないか、ということだ。
『剰余価値学説史』では、核心的な問題の3章よりも、周辺的な問題だと自分で言っている4章の方が長大である。
その4章ではスミスに言及しているのは60ページほどで、他のバカたちについて200ページも言及する(文庫版)。
バカを相手にしてどうするのか。
マルクスは、学説史の研究で大きな論点だけを押さえたならば、さっさと『資本論』を完成するべきだった。
そして運動上の問題や組織の問題に取り組むべきだった。それらができなかったことは、
マルクスの生き方として大きな問題ではないか。マルクスにも「学者バカ」の側面が強固にあったのではないか。
2014年11月7日