7月 01

新しい学習指導要領では「全教科での言語活動」「その中心の国語科」が謳われている。
その実際の実現のための提言を月刊『高校教育』に連載している。

7月号の第4回 社会科のレポート
インタビューを生かす構成と文体

1 理科と社会科の違い
前回までは、『理科系の作文技術』で有名な木下是雄氏の方法論を紹介し、理科のレポートを検討した。木下氏の方法の基本的枠組みには賛成した上で、そこでは切り捨てられた「主観的な感想」の意味と、それを生かしたレポートの書き方を論じた。今回は社会科のレポートを取り上げる。
私は、レポートでは、対象理解だけではなく、自己理解(なぜその対象を取り上げるのか、それが書き手自身にどんな意味があるのか)も必要だと考える。それが高校生の進路・進学の動機づけになるからだ。そこで「主観的な感想」が重要になるのは、それが対象理解を深める上で基礎となるだけではなく、自己理解の第一歩でもあるからだ。
この点では理科も社会も同じである。しかし、理科と比較して、社会科では、「主観的な感想」は一層重要になるだろう。それはそもそもの対象が違うからである。理科系では自然が対象だが、社会科では人間やその社会が対象である。自然が相手であれば、対象と自分を一応切り離すことができる。しかし社会科では対象も書き手も、同じ人間なのである。対象と自己との相互関係はいっそう緊密になり、自己理解と対象理解は切り離せない。
これは文献や統計だけからの調査でもそうなのだが、フィールドワークやインタビューや取材ではさらに重要だ。現場そのものが強烈なインパクトを持つのだが、それ以上にインタビューの持つ教育力は大きいからだ。

2 海城学園社会科の総合学習
今回取り上げるのは、私が高く評価している海城学園の社会科の実践だ。海城学園は東京都にある私学で併設型中高一貫の「進学校」。海城の社会科では約二〇年前から問題解決型の総合学習科目を導入した。それが、中学全学年における「社会?・?・?」と高校1年次の「総合社会」(いすれも週2時間)だ。
 個々の生徒が関心のある社会的な問題でテーマ設定し、文献・取材調査やフィールドワークを通じて、問題解決策の提言を含めたレポートを作成する。文献だけではなく、必ず現場でインタビューをしている点がすばらしい。それも毎学期1本ずつのレポート作成だ。二〇年近くにわたり、大学生顔負けのすぐれた作品が多数生まれている。
高校1年「総合社会」の学期毎のテーマは「自分探し」「世界探し」「地域探し」。「自分探し」では、将来像を模索・構築するために、仕事の聞き書きをする。例えば、ある年度では弁護士志望の者はインターネットで企業批判・告発を行う「見えない相手」と戦う弁護士を取材した。また、職業選択とは別に、中古パソコンの学校などへの寄贈活動を行っているNPO代表を取材した生徒もいた。
 三学期の「地域探し」では、自分たちの生活圏の調査が中心。海城のある東京都新宿区大久保地域は外国人の多い街だが、そこを生徒たちが巡検する。足立区に暮らすある生徒は、巡検で見聞したことから、自分の地元にも在日韓国人・朝鮮人が多いことに気づき、その聞き書きに挑戦した。
調査結果はいずれも、最終的にはレポート(400字の原稿用紙15枚程度)にまとめるが、構成は取材の目的(テーマ)、取材先の人物紹介と活動報告、自分が取材で得たものの総括(答え)からなっている。
  
3 インタビューの持つ力
 こうしたレポートを読んでみて、何よりも驚かされるのは、インタビューが持つ教育力の巨大さである。高校生たちは、相手の回答に驚いたり、逆に問い返されることから、自分の考えや生き方を見つめ直していく。「主観的な感想」が激しく揺れ動く心を伝える。
 弁護士志望の高校生が行った弁護士への取材では、当初の「弁護士=正義の味方」というイメージが壊される。「自分(弁護士)と検察官の主張は必ずしも正義とは限らず、いわゆる綺麗事のようなものよりも、ドロドロとしている」。この弁護士からの回答は、「僕にとってとても驚くべきものであった」。
 また、「弁護士は、もっと真面目そうで、堅い人だというイメージを持っていた僕にとっては、優しそうな弁護士は少々意外だと思った」。「でも、弁護士という仕事は、人の話を親身になって聞くことも大切であるから、人が話しやすい雰囲気を持っている事は、もしかしたら弁護士をしている人が持つ独特の雰囲気なのかも知れないと思った」。
 その弁護士は、弁護士としての悩みとして「(裁判での)自分の判断が本当に適切なものかどうか不安になること」を挙げる。そこで高校生は「確かに僕も日常生活で自分の判断が正しいものなのか、ふと考える事もあった」と考え始める。
 また、パソコンの寄贈活動をしているNPOへの取材では、その代表は用意した質問にはほとんど「即答」する。しかしそうした中で、「なぜNPOを続けてきたのか」という問いには「今までの即答とは違って、『何でだろう』と自分でもはっきりとはわからないようだった。お金の問題について答える時のように笑いを交えながら即答しなかったのも、それだけ深刻に悩んだからではないかと思う」と、高校生はレポートする。
 また、インタビューに応じてくれた代表以下三人が「自分の存在意義」を熱弁する姿に
「おそらくは、三人とも過去に、一般の会社と呼ばれる枠組みの中で自分の価値を見いだせずに苦しんでいたのではないだろうか」と自問する。
 そして、最後にNPOの代表に逆に質問される。「将来何になりたいの」。しかし、彼は答えられない。「自分には今、趣味はあっても、『絶対にやりたい』ということが見あたらない。そのことに気づきはずかしくなった」。インタビューの間、高校生が自分の内面でずっと問答をしていることがよくわかる。
面白いのは、こうした自分の思いや相手の語りや表情をたくさん書き込むのは、高校からの入学者に多いことだ。中学の三年間で鍛えられた生徒は、客観的に対象を捉えることに慣れていて、自分を語ることには慎重だ。これは、海城の指導が大学でのレポート(つまり木下氏の方式だ)を模範とし、全体としては「客観的な対象理解」に大きく傾斜している結果ではないだろうか。

4 インタビューの「要約」
 「総合社会」で配布される「レポート執筆要項」中の「引用箇所の扱い」では「参考文献から引用する箇所、取材先の意見を載せる箇所では、できるだけ自分の言葉で要約して、最小限度の分量に限る」とある。文献の要約は当然だが、インタビューもそれで良いだろうか。
 社会科の林敬教諭は「放っておくと一問一答形式になってしまうし、インタビューはラストに書く自説に持っていくための根拠として使うのだから、ある程度まとめなければならない。だから『できるだけ自分の言葉で要約』するのだ」と説明した。もちろん、「最小限度の分量に限る」ことは、制限枚数におさめるためにはしかたがない面がある。インタビューが、例証・根拠なのも当然だ。しかし、中学・高校段階では、最終結論よりも、インタビューそれ自体の方に大きな意味がある場合も多いのではないか。ここは考えたいところだ。
 例えば、地元の在日朝鮮人四世の方に取材したレポートでは、「外国籍を持った人の本当の気持ち」を三つほどに整理して挙げている。その一つは「民族的な差別」だが、その内実は「例えば、就職するとき朝鮮人の名前だと、ほとんど断られるし、アパートを借りるときも日本人の証人がいないと断られる事もあった。また、政治的な側面から見ても、発言権がなく、ただただ税金を取られているだけ」とあるだけだ。インタビューを要約すれば、こうなるのもしかたがないだろう。
しかし、ここは、是非、「差別」の詳しい中身を知りたいし、その語り口を生かしたり、その表情などを描写することで、高校生がその内容を追体験し、自分の問題として考えるようにしたいと思う。

5 インタビューを生かす構成と文体
ではインタビューにふさわしい構成や文体はどのようなものだろうか。
構成だが、海城のレポートは、ほとんどが冒頭に「テーマ設定の動機」が書かれ、最後に「結論」や「総括」がある。「テーマ設定」は丁寧に指導されているし、自己との関わりもよく書かれている。しかし、ラストが不十分なものが散見される。最後にも、その対象の調査を通しての「自己理解」について書かせたいと思う。それでこそ、インタビューや、そこでの「主観的な感想」が生かされるだろう。
また、文体としては、説明文だけではなく、描写文が必要に応じて使われなければならないだろう。文体は大きく言うと、描写文と説明文とに分かれる。意見文も論文も説明文の発展形である。一方、物語や小説が描写文の発展形だ。もちろん、説明文の中に、描写が入るし、描写文の中に説明も入る。
インタビュー前の、問題の背景や取材相手の経歴などは説明文になる。問題はインタビューそのものをどう書くかだ。海城のレポートを読むと、説明文の中に描写を挟むものが多く、その逆も見られる。例えば、先に挙げた弁護士への取材では、インタビューの様子がリアルに再現されるような描写が中心で、そこに説明風の文体がはさまる。
相手の語り口や表情などを再現する描写の文体は、相手の思いや自分の思いを書くためには不可欠だ。相手や自分の主張や意見をまとめるには説明の文体が必要で、それは要約が可能だ。長くなる場合は、描写は肝心な場面にしぼるべきで、それは「主観的な感想」が激しく呼び起された場面になるだろう。
こうした文体の使い分け、適宜、必要なところに必要な文体を入れる能力、それが今後は教育されねばならないだろう。

 さて、私見の当否はともかく、こうした考察ができ、その指導ができることが、表現における国語科の役割だと思う。しかし無い物ねだりをしていてもしかたない。今後、各教科との連携によって進めていくしかないだろう(以前学習院の「言語技術の会」がそうしたように)。
しかし、これまでは、こうした検討はほとんど行われてこなかったのではないか。私が関わっている表現指導の研究会では、この問題に二年ほどかけて検討を重ねてきた。その成果は月刊『国語教育』誌に「聞き書きの魅力と指導法」のタイトルのもとで長期連載中だ。ぜひ参考にしてほしい。

6月 02

 ディベートと「聞き書き」を学び合う  

高校作文教育研究会6月例会
シリーズ:「聞き書き」を学び合う 第11回 

新しい学習指導要領では、「全教科での言語活動の充実」と「国語科がその中心で指導する」ことが謳われています。教科書にもインタビューやディベートが取り上げられ、そうした言語活動に取り組むことが求められています。こうしたことに取り組もうとされる方々を支援できるように、私たちの学習会も進めていきたいと思います。

今回は、ディベートの持つ教育力を丁寧に検討してみたいと思います。まだディベートを指導したことのない方も、すでに試みてきた方も、学び合える学習会を用意しました。

また、一昨年から取り組んできた「聞き書き」シリーズですが、今回はこれまでの例会報告の中で取り上げた生徒作品から2作品を選び、その生徒作品をじっくりと読み直してみたいと思います。表現指導では、事前指導でどのような生徒作品を使用するかが重要ですし、その指導から生まれた生徒作品をどう理解するかが、その実践の意義や成否を決めます。ですから、生徒作品を読みとる能力が一番重要なのですが、これが一番ムズカシイとも思います。そのためには、さまざまな観点から、その表現の意味を読み解いていく練習を積み重ねるしかありません。
 
どなたでも参加できる研究会です。どうぞお気軽にご参加ください。
参加予定の方には生徒作品を送りますので、連絡ください。

1 期 日    2010年6月27日(日)10:00?16:30

2 会 場   鶏鳴学園御茶ノ水校
         東京都文京区湯島1?9?14  プチモンド御茶ノ水301号
         ? 03(3818)7405 JR御茶ノ水駅下車徒歩4分
       ※鶏鳴学園の地図はhttp://www.keimei-kokugo.net/をご覧ください

3 報告の内容

(1)「聞き書き」の生徒作品の分析
連載「聞き書きの魅力と指導法」の中で、以下の生徒作品4編を紹介することになりました。戦争体験の聞き書き2編は5月例会で読み合いました。今回は仕事の聞き書き2編を取り上げ分析します。

1.戦争体験の聞き書き
?小野田さんの実践から「慟哭」(中学生、三人称、創作風 古語の危険)
?程塚さんの実践から「陸軍病院で死んだ伯父」(三人称、語り手と聞き手の思いが混乱。ルポ風の書き方。)

2.仕事の聞き書き
?藤本英二さんの実践から「OLとは言え、企業戦士」(一人語り、弾けた面白さ)。藤本さんは『聞かしてぇーな仕事の話』(大月書店)で有名ですね。どっしりとした内容がある面白い作品群から一篇選びました。OLが、普段着のことばで、自分の仕事と職場の様子を語ります。ロッカールームでのOLたちの生態は抱腹絶倒。

?中井の実践から「企業戦士『親父』」(高校生、インタビュー型、問いを立ててインタビューに臨んでいる。) 親父(銀行マン)への仕事の聞き書きで、問いと答えの形で書かれますが、親父の関西弁の語り口がそのまま生かされていて迫力があります。

?と?では、文体や構成も違い、内容も弾けた面白さやシリアスな側面もあります。こうした違いも考えながら、その作品を味わってみたいと思います。

(2)高校教育における「ディベート」を考える
報告者はもう20年近く、実践を積み重ねてきた杉浦正和さん(芝浦工業大学附属柏高校の社会科担当)と、杉浦さんとともに、県立小金高校などで実践されて、現在は大学の教職課程を指導されている和井田清司 さん(武蔵大学人文学部)です。
高校における言語活動でディベートを行う意味から、その指導法、その評価までを考えたいと思います。また、ディベートによって高校生の認識はどのように深まるのか、それを実際の文章から検討したいと思います。
世間では、ディベートへの批判や反対論もありますから、そうしたことも考えたいと思います。
和井田さんには大学生(教職課程)におけるディベートの意味をも語ってもらいます。
 
今回の報告者のお二人が編集した単行本には以下のものがあります。
◆生徒が変わるディベート術 国土社 1994
◆授業が変わるディベート術!―生徒が探究する授業をこうつくる 国土社 1998

4 参加費   1,500円(会員無料)

6月 02

週刊「教育資料」2010年5月24日号で以下を書きました。

新学習指導要領で国語科が問われる/鶏鳴学園塾長 中井浩一/

問われる国語科の意味
新たな学習指導要領には画期的な点がある。?全教科での言語活動を求め、?その中心に国語科を位置付け、?高校生の体験、現場調査(フィールドワーク)を重視した――ことだ。
これを正面から受け止めるならば、その衝撃力は、前回の「総合的な学習の時間」の導入以上のものになるはずだ。なぜならここで、「国語科とは何か」が初めて真正面から問われたからだ。国語科とは何を教育する教科なのか。他教科とは何が違うのか。これが今後、具体的に問われることになる。
例えば、理科や社会のリポートと国語科の表現とは、どう関係しているのか、関係すべきなのか。これに明確に答えられる人がいるだろうか。
ある公立高校の国語科の先生は、祖父母の戦争体験の聞き書きを、叙事詩の形式で書かせた。「調査結果のリポートが目的なら、調査の方法や、調査内容の客観性・資料的価値が重要になるが、それでは社会科になってしまう。だが、詩という文学の形式なら、その人がこう語ったということがあればいい。事実でなくとも思いが表現されていればいい。生徒の主観的な思いを書き込むことも許される」。
つまり、事実や客観性を重視するのが社会科で、思いや生徒の主体性を重視するのが国語科、という棲み分けの主張なのだ。読者のみなさんはどう考えるだろうか。
 
国語科の問題点
私は長らく、高校生を対象とする国語専門塾で国語を指導してきた。世間で行われている国語教育への疑問を感じ、それに変わる教育方法を模索してきた身にとって、今回の学習指導要領には深く頷けるものがある。
私の国語教育への疑問とは、それが事実上、文学教育、道徳教育、マニュアル教育になっていて、本来の使命を果たしていないのではないか、ということだ。
内容を教えようとするあまり、「型」を重視した形式の指導が弱すぎるのではないか。答えを重視するあまり、問いを立てることが軽視されていないか。共同体の空気を読むという感性や感情を学習させられ、集団との一体感を壊すことも恐れず、異論をぶつけ合い、本質理解を深めるという論理(=思考)が指導されていないのではないか。そこで学ぶ一般的な知識が、自分自身や現実社会と十分には関係付けられていないのではないだろうか。

論理の能力が国語科の領域である
それにしても、国語科とはそもそも何を教育する教科なのか。他教科とは何が違うのか。それに対する私の考えは、学習のナカミを内容と形式に大きく分け、国語科以外の教科はすべて「内容」が中心で、国語科だけが「形式」を主に学ぶ教科だととらえることである。  
内容中心ということは、つまり知識の獲得に重点が置かれることだ。国語科だけが形式を学ぶ教科だということは、国語科は思考・論理のトレーニングや表現の型の学習をする場であり、知識と型の運用能力を獲得する場だということである。
 しかし、世間では形式を学ぶことは極めて評判が悪い。それは空虚なもので、内容となんの関係もなく、装飾的なものでしかない――。そうした理解が一般的だ。だからこそ、「無内容」な国語科にも何か内容を求め、他教科にはないものを探した。その結果が、今の「文学」教育ではないだろうか。

 内容=知識 → 国語科以外の全教科
 形式=思考・論理=能力 → 国語科

ところが、真実は世間の理解とはまるで逆なのだ。形式こそが物事の核心であり、形式なしに内容を学習することはできない。例えば、読解では、テキストの内容(イイタイコト)は、その形式をつかむことで、初めて的確に理解することができる。
逆に言えば、深く正確に考えるには、思考・論理のトレーニングが必要なのだ。つまり、形式の学習とは考える力そのものの習得であり、それが全教科の基礎となる。詳しくは拙著『日本語論理トレーニング』講談社現代新書を参照にしてほしい。
先に例に挙げた「表現」でも同じである。内容とは一応別に、その表現の形式を徹底的に指導するのが国語科の役割だ。表現の目的別に、それに相応しい文体と構成の選択をする能力の習得である。それが理科や社会科などでの表現の基礎となるはずだ。詳しくは月刊『高校教育』で連載中の拙稿を読まれたし。

PISA型の学力不足
PISA型の学力不足が問題になっている。どうして日本では問題解決型の教育ができないのか。日本では答えを教え込む内容主義がはびこり、問いを出す力を育てる形式の学習が弱いからである。 
今回は国語科におけるその問題を取り上げたが、これは全教科に共通する。どの教科にも、内容と形式の両面があり、いずれも内容に大きく偏っているのではないだろうか。国語科が本来の使命に立ち返ることは、他教科の内部の形式面を重視することにつながるはずだ。今回の新しい学習指導要領が、私と問題意識を共有してくださる先生方を増やすことを期待している。

6月 02

新しい学習指導要領では「全教科での言語活動」「その中心の国語科」が謳われている。
その実際の実現のための提言を月刊『高校教育』に連載している。
生徒のレポートは紙面をご覧ください。

6月号の第3回 理科系のレポートと「主観的な感想」

1 自分のテーマを持つ
前回は、木下是雄氏の『理科系の作文技術』(中公新書)で説明されている理科系のレポートや論文の書き方を紹介した。そこでは「原則として『感想』を混入させてはいけない」。これは文科系のレポートでも同じだとされている。
しかし、「主観的な感想」を排除して、本当に良いのだろうか。そもそも「主観的な感想」とは、学習に対してどういう意味を持つのだろうか。この問題を高校生段階で、具体的に考えてみたい。

例に取り上げるのは千葉県立小金高校の総合学習「環境学」。「総合的学習の時間」が導入される五年前から実施された。生物の川北裕之氏と彼を支える教師集団が中心になり、三年生の自由選択科目「生物?」の約半分、一単位分を使い、年間を通した取り組みである。事前学習の後、班ごとに研究テーマを設定して、フィールドワークを含む調査研究をしたうえでレポートをまとめ、発表する。

目を引くのは、事前指導の期間が三ヶ月と長く、そこでも体験学習が中心になっていることだ。休日を利用して、三番瀬を観察し(ついでに潮干狩りも)、近くの里山では竹の間伐を体験する。それらの体験をもとにディベートもする。これは探求学習の「方法」を教えると同時に、予行演習にもなっていたのだろう。
これだけ豊かな事前学習を用意したのは、生徒一人一人が自分にとって意味あるテーマを設定するためだ。「探求学習では、一番難しいのは、生徒自身が興味のある課題(テーマ)をきちんとした形で課題化できるかである」。川北氏は、広すぎるテーマ、一般的なテーマではなく、自分にとって本当に知りたいと思うこと、身近なことで興味があるものを選ぶように指導している。

総合学習は、従来の一方的な知識詰め込み型に対する、問題解決型学習であるが、川北氏はその総合学習にも二種類あると言う。ひとつは教科的(模倣的)研究で、初めから正解が用意されている。これは研究の手法を学ぶには良いが、生徒にとってのテーマの切実さに問題がある。もうひとつは、生活的(変容的)研究で、個々の生徒にとって切実で身近なテーマを取り上げるが、すっきりとした解答が出せるとは限らない。

もちろん両者が必要なのだが、川北氏が追求するのは後者だ。総合学習の目的を、各自が自分の問題意識を深め、自分の進路を切り開くことに設定しているからだ。
この二種の総合学習を比較すると、前者が「答え」と「対象理解」を重視するのに対して、後者は「問い」の深まりと「自己理解」を重視すると言える。木下氏の方法論を考えれば、それがそのまま通用するのは前者の場合であることがわかるだろう。
では後者の場合に有効な方法とは何か。そのレポートはどのようなものになるのか。構成と文体での違いはあるのか。

2 くつがえされる予測
 川北氏の生徒たちのレポートも、構成としては木下方式と大きな違いはない。多くのものが、一テーマの設定理由、二研究の方法、三調査の報告、四まとめ(結論)となっている。最後に「感想」の項目を置いている班があることが違うぐらいだ。

「PETボトルは何処へ?リサイクルの現状と対策?」というユニークなレポートを見てみよう。
1の「テーマ設定理由」を読むと、高校生の身近に溢れている五〇〇mlのPETボトルに目をとめ、それがリサイクルされているのだろうか、という素朴な疑問から出発していることがわかる。
最初は文献で調べ、PETボトル推進協議会で説明を聞く。それが3で紹介される。この段階では、リサイクルはうまくいっていると納得した。リサイクルの意識を高めれば問題は解決できる。
しかし、次に訪れたリサイクル工場で彼らは大きなショックを受ける。工場は悪臭と騒音がひどく、そこで働いているのは知的障害者だった。彼らはリサイクルのクリーンなイメージはうそであること、何か根本が違っていることに気づき始める(4の「いざ、工場へ」)。
そして出会った新聞記事が、彼らの考えを大きく飛躍させることになる。その記事には容器包装リサイクル法の矛盾が告発されていた。PETボトルが予想を上回って回収されたために各地の自治体がその保管に苦労していること、つまり企業が作り出したPETボトルを、自治体が税金を使って分別回収し保管しているという事実(5から)。
こうして彼らは、初めの仮説に変えて、よりよい社会にするためには、義務教育に環境学を取り入れること、再生できないものは売ってはいけないこと、消費者はそれを拒否すべきであること、容器包装リサイクル法は見直すべきであること等を考えるに至る(6の「理想社会」)。

3 成功した学習とは何か
もし調査が最初のPETボトル推進協議会で終わっていれば、それは予定調和の世界のママだった。当初のクリーンなイメージのままのリサイクル観が維持できただろう。しかし、彼らは実際のリサイクル工場を見学し、その甘い幻想を打ち砕かれた。この時初めて、彼らの体を通った問題意識が生まれたのではないか。そしてそれゆえに、普段なら見過ごしたかも知れない新聞記事に飛びつくことができ、一応の結論を出す。しかし、それが当座の結論でしかないことも彼らはわかっている。

この調査全体を通して、彼らの心が激しく揺れ動き、それが彼らの認識を深めるための大きな力になっていることがわかる。こうした調査報告は、「主観的な感想」をきちんと反映したものでなければならないだろう。

図はそのレポート4の部分だが、イラストが彼らの思いを生き生きと伝える。また、傍線1や傍線2が、彼らの主観的思いを率直に語っている。

6の「理想社会」では、遠大な理想を言う事への突っ込みも入る。「ちょっとすぐに手を出せる領域ではないから、ずるいと言えばずるいけれど、考えるのは勝手でしょう」。7の小見出し「ひとまず、本当に今できることは」からは、これが当座のものでしかないとの自覚がうかがえる。

8の「まとめ」は以下だ。「私たちはリサイクル=いいことという関係しか見ておらず、PETボトルをリサイクルに出したという満足感だけでその後のことを考えていなかったようです。それではリサイクルしたとはいえないでしょう。つまり、これからの地球環境のためには何かしたいという意識だけではだめです。そのためのちゃんとした知識とその知識や意識を使う行動力、そして使う場、いわゆる法律が必要なのです。そうしなければいつまでたっても何も変わらないでしょう」。

ここには対象理解だけではなく、自己理解(自己反省)の深まりが確かにある。
最後の9の「感想」から、あるメンバーのコメントを紹介する。「ずっとめんどくさかったけど、やっているうちに手放せなくなってしまった。特に、自分の手の届かない領域の話をするのは、無責任な気がしてもどかしかった。でも私もそのうち社会に出るはずなので、そうしたときに、ここで感じた無責任をそのままにしないで行動しよう」。

しかし、これで終わりではない。川北氏は、このレポートとは別に、さらに「学びのストーリー」を書かせている。一年間にわたる学習の中で、どう行動し、何を学んだのかを書かせるもので、対象理解と自己理解を更に深めていく試みだ。

高校生にとって成功した問題解決学習とは、当初の自分の理解の浅さを思い知り、学んでいく強い意欲が持てた場合を言うのではないか。

4月 13

新しい学習指導要領では「全教科での言語活動」「その中心の国語科」が謳われている。
その実際の実現のための提言を月刊『高校教育』に連載している。

5月号の第二回 『理科系の作文技術』

1 隠れたベストセラー
理系のレポート、論文と言えば、物理学者だった木下是雄氏の『理科系の作文技術』(中公新書)が有名だ。大学研究者の隠れたベストセラーだと言われ、三〇年近く前の本だが、今もよく売れているようだ。二〇〇九年五月刊行の版で、すでに六六版を数えている。作文技術だけではなく、パラグラフ理論(段落の構成法)を日本に紹介したのも本書の大きな功績だ。
それだけではない。木下氏は学習院大学の学長の時に、学習院の小学校から大学までの先生方(国語科・文系だけではなく教科横断)と「言語技術の会」を組織し、小学校から大学までの一貫した言語教育の体系と教科書を作り、日本の教育に対して大きな問題提起をした。これは今回の学習指導要領の完全な先取りだったのではないか。
「読み・書き、話し・聞き、考える」。このすべてで、小学校からしっかりした論理教育を行うべきだ。しかし日本ではそうした教育が放置されている。国語科は文学偏重でその任を果たしていない。したがって、理科系の研究者である彼が、自ら言語教育に乗り出したのである。
私は、木下氏の問題意識に強く共感するし、偉大な先駆者としての彼の活動を高く評価している。また言語技術研究会の成果からは多くを学ぶべきだと考えている。それについては、この連載でも稿を改めて、検討したい。

2 「主観的な感想」を排除する
それにしても、こうした活動は、木下氏が理科系の方だったからこそできたのだと思う。文系、特に国語教育関係者には到底無理だったろう。
『理科系の作文技術』が、圧倒的に支持されたのはなぜだったろう。もちろん、シンプルで誰にでもわかる方法を提示したからだが、それだけではないだろう。理系に限定することで、「心を打つ」ことを目的とする文学的な「美文」の伝統を切り捨て、それまでの文学偏重の風潮に風穴をあけたのではないか。それが爽快感を与えたのではないか。
木下氏は言う。「理科系の仕事の文書」とは「事実(状況をふくむ)と意見(判断や予測をふくむ)にかぎられていて、心情的要素をふくまない」。その中には、「原則として『感想』を混入させてはいけない」のだ。
そこで、木下氏は「いい文章」というときに人がまっさきに期待する、「人の心を打つ」「琴線に触れる」「心を高揚させる」「うっとりとさせる」というような性格をいっさい無視する、と宣言する。
以上を前提にすれば、レポートの書き方は以下のような実にシンプルなものになる。1.事実と意見で書くべき内容の精選、2.事実と意見の峻別、3.それらを順序よく明快・簡潔に記述する。3.のためにはイイタイことを「目標規定文」でまとめ、その目標に収束するように全体の構成を練る。ここでパラグラフ理論を使用する。
レポートの構成は序論、本論、結びの組立で、序論では、主題(テーマ)、なぜその主題を取り上げたか、その問題がなぜ重要なのか、問題の背景、問題への取り組みの方法などを書く。
その文体は、事実を書く「記述文」「説明文」、意見を書く「論理を展開する文章」だけで良いことになる。
しかし、これは理科系に限定されるものではない。木下氏は文系の大学生向けの『レポートの組み立て方』(ちくまライブラリー)で同じ事を主張し、「レポートに書くべきものは、事実と、根拠を示した意見だけであって、主観的な感想を排除しなければならない」とし、「この点に、レポートといわゆる作文との大きなちがいがある」としている。
この木下氏の見解は、理系、文系を問わず、多くの大学の先生方のものである。また、多くの高校の先生方の考えでもある。高校生のレポート指導などに熱心に取り組まれている理科や社会科の先生方も、こうした前提で指導されているようだ。そして、そこから排除された「主観的な感想」部分を引き受けるのが国語科の役割になっているのだ。

3 「主観的感想」をどう取り扱うべきか
さて、ここまで来れば、読者のみなさんも、何かおかしいと思われるのではないか。そもそも木下氏は国語科が文学教育になっていることを批判し、論理教育をすべきだとして活動を始めたのではなかったか。それが、結局は、国語の文学化を強めてしまっては本末転倒だろう。
論理教育の一貫性という立場からは、排除された「主観的な感想」をどう考えるべきだろうか。それは論理の範疇ではなく、「文学」に任せる領域になるのだろうか。私は、主観的な思いや感情にも論理が貫徹されていると考えている。それらに取り組み、解決できるような論理でなければ、使い物にならないのではないか。
理系の研究者が、「仕事の文書」から「主観的な感想を排除しなければならない」としても、彼もまた研究中に、激しい心の動揺や高揚感、不安や恐怖などに襲われるのは事実だろう。そして、それが研究に大きな役割を果たしていることも疑えない。したがって、研究者もこの問題を直視すべきではないか。木下氏も、この問題を取り上げた上で、公的文書からは「主観的な感想」を排除すべしと、言ってほしかった。
ただし、誤解のないように断っておきたい。私は木下氏のレポート指導法を否定しているのではない。それは文章を書く上での基本中の基本をわかりやすくまとめたすぐれた原則であり、すべての若者に教育すべきトレーニングだ。
私はそれを肯定し、それを強烈に推進することに賛同した上で、さらにそれを発展させるための提言をしたいのだ。
木下氏の不十分さとは、排除した「主観的感想」の取り扱いについては触れず、それを文学(国語教育)関係者にゆだねてしまったことだ。しかし、事実(客観的側面)と意見(主観的側面)の区別をするためには、主観的側面における「意見」と「主観的感想」の違いと関係について、改めて問わねばならなかったはずだ。
もちろんそれを彼の責任にするのは酷なことだ。彼が依拠した欧米流の文章指導でもそれは無視されていたのだろう。本来それを仕事とするべき国語教育関係者こそが、この問題に取り組むべきだった。
さて、この問題を考えよう。主観的側面、つまり人間の意識にはさまざまなレベルがある。木下氏は、その内で明確に言語化できた主張だけを「意見」とし、他をすべて「主観的感想」とくくってしまった。しかし、その中には心情的なレベルはもちろん、言語化できないもやもやしたレベルの意見もあるのではないか。
発生的に考えれば、人間の意識の最初の段階に心情と意見の分離はない。それらが混然一体の状態があるだけだ。そして、心情が言語化されていく過程で、意見もまた言語化されていき、両者の分離も自覚されていくのではないか。したがって、両者は切り離せない。まず、混沌とした経験を描写する文章があり、その中から意見文が立ち現われてくるのであり、意見文の前に、またそれと並行して、経験や混沌とした感情や想いを丁寧に描写する文章が必要なのだ。
それは事実と心の動きを正確に丁寧に追っていくもので、文学的な美文とか「人の心を打つ」文章とは、別のものである。こうした文章と、意見文やレポートとの関係をしっかりとらえておくことが必要なのだ。
しかし、ここは、一般論をすべき場所ではないし、大学生や研究者を問題にしているわけでもない。私たちの課題は、眼前にたたずむ中学生や高校生である。私が「主観的な感想」にこだわるのは、それが中学生や高校生の学習やレポートでは決定的に重要だと考えるからだ。
実験や文献調査のまとめなら、正確な事実に基づき、正しい論理展開で答えを出すことが求められよう。そこでは正しい思考過程と正解が問われる。そして、それも基本的で大切な能力である。しかし、今の彼らに第一に必要なのは、学校や教室内で完結できる実験や文献調査ではなく、フィールドワーク、体験学習などで、現場に出ていくことではないだろうか。そこでは、「体験」や「心情」が大きな働きをする。

4 高校生にとっての理想のレポートとは
中学生や高校生。彼らは大学の研究者とは違う課題を持っている。彼らは未だ専門家ではなく、大学の研究者でもない。その前の段階にあり、今まさに、将来の進路・進学を決めるという岐路に立たされている。しかし、今の時代が、それを困難にしていることは前回書いたとおりだ。その彼らにとっての緊急の課題は「自分探し」「自分作り」にある。
 そのためには、1.個人的な体験を掘り起こし、個人的な体験の意味を考えさせること、2.現実社会(自然も)の問題にぶつからせ、その問題の本質を考えさせること、3.その問題と、自分の生き方を関係させて考えさせること、が必要だ。
そうした彼らに必要な表現とは、1.の「体験」を描写し、自己理解を深めていく文章であり、2.のように、ある対象について学習する際にも、その対象理解の中で1.や3.のような自己理解をも深められる文章だ。つまり、その対象を取り上げるのが自分にとってどういう意味があるのか、自分の進路・進学とどう関係するのかをも書くのだ。
そうした2.の文章では、先に書いたように、実験や文献調査以上に、フィールドワークや現地での調査・取材こそが重要になってくるはずだ。なぜなら現場には厳しい問題が剥き出しで転がっており、その問題と闘っている人へのインタビューでは、問いかける高校生自身が厳しく問い返されることになるからだ。
当初の仮説、先入観、常識がひっくり返されるような体験。自分自身が否定されるようなショック。そこに強烈な心の動きがおこり、深刻な反省が迫られる。それをしっかりと書くことで自分を見つめ、それによって改めて対象を深く考え直すことが可能になる。
彼らには必要なのは、整った論理や正解の前に、「答え」の見えない「問い」に耐えていく力、そこからより深い「問い」に到達するような力だろう。それによって「自分を作っていく」ためである。
 では、そうしたことが可能になるような指導法、レポートの構成と文体とはどういったものになるのだろうか。それを考えるために、次回から理科や社会科ですぐれた実践をされている方々の生徒作品を取り上げて、具体的に考えていきたいと思う。