6月 17

ゼミのヘーゲル学習会の成果。

?から?を、この順でブログで発表する。今回は?

?ヘーゲル『法の哲学』へのノート 
?ヘーゲルの国家論 
?マルクスの「ヘーゲル国家論批判」へのノート 
 
=====================================

◇◆ ヘーゲルの国家論  ◆◇

昨年2008年8月にはヘーゲル学習会の合宿でヘーゲル『法の哲学』の国家論を読んだ。そこで考えたことをまとめておく。テキストには中央公論社の「世界の名著」版を使用した。ページ数はこのテキストのもの。

(1)国家とは何か
§257には国家の概念が示される。ヘーゲルは国家を意思(自由を求める意思)の概念で説明する。

「国家ははっきりと姿を現して、己自身にとって己の真実の姿が見まがうべくもなく明らかになった意志の実体としての倫理的精神である。この意志の実体は、己を思惟し、己を知り、その知るところの物を知る限りにおいて完全に成就する」。
「国家は個々人の自己意識に媒介された形で顕現するが、他方、個々人の自己意識もまたその自由の実体を国家の内に持っている」。

 人間一人一人の自己意識=意志が国家の基本になっている。個人の自由実現は国家によって可能になるとヘーゲルは言う。ここで一人一人の「自己意識」を基本においていることに注意したい。「自分とは何か」と「自分たちとは何か」「わが国とは何か」。これらは一連の問いで切り離せないと言うことだ。

 また、近代国家とは、あくまでも「国家を作ること」を意識して自覚的につくったものだ。先進国イギリスは、産業革命後の市場拡大のために、国内市場を拡大し安定化するために、イングランド、スコットランド、ウエールズを統一し、対外的には植民地政策を推し進めた。フランスも革命後のナポレオンによる帝政下で中央集権化が進む。

 これらの先進国への対抗上、後進国も国家を作るしかなかった。それがドイツ(プロイセン)、イタリア、日本などの「民族国家」だ。日本は植民地化されないために、西欧から国家という諸制度を輸入する形で作り上げた。近代国家は他の諸国家(先進国)に対抗する必要性から後進国が自覚的に作ったものだ。

 しかし、後進国の国家が「民族国家」である必然性はなく、他民族国家でもかまわない。「己を思惟し、己を知り、その知るところの物を知る限りにおいて完全に成就する」という意味では、アメリカこそ、旧来の歴史や社会を前提にせず、理想的な憲法の理念から作った純粋な近代国家と言えるだろう。憲法に賛成するすべての者を国民と認めるほどに、それは理念先行国家だ。

 市場拡大のために内部の分断、分裂を克服し、統一した中央集権の統合を実現する。さらに外との対抗上も国家を必要とする。後進国では逆に、対外的な必要から国家を必要とする。いずれにしてもそれが近代国家だ。そのナカミは多様だ。それぞれの民族、国民が、自分たちにふさわしい国家を自覚的に作り上げたものだからだ。

(2)君主制について

 マルクスなどヘーゲル国家論の批判者は、ヘーゲルが君主制とその官僚制を擁護している点で、ヘーゲルを批判する。この批判、特に君主制擁護への批判は正しい。それは叙述によく現われている。

 ヘーゲルの君主国家論(3章のAの? §272?320)は明らかに、当時のプロイセンの君主政権を擁護するのが目的だった。というよりは、彼の国家論は近代国家論だが、その国内体制の箇所はプロイセン国家論になっているのだ。当時のドイツ民族の程度(民度)が、君主制しか可能にしなかったからだ。しかし、露骨にそうは書けなかった。

 擁護の姿勢は叙述の不自然さに現れる。ヘーゲルはここでは、いつもの普遍→特殊→個別の順番を壊してしまう。

 カントの立法→司法→執行に対して、ヘーゲルは立法→司法→執行を主張していたそうだ。そして、本書ではそれを、立法→執行→君主に変えた。ここにすでにおかしな物があるが、それを問わないとしても、展開の順番は立法→執行→君主になるはずだ。

 それが君主→執行→立法と逆転している。その結果、君主論の内部(a §275?286)も、個別から普遍への順番になっている。そして、ラストの立法(c §298?320)の導出、その内部展開もおかしくなっている。これは、そうまでして、君主権を強調したかったことの現れで、政治的な操作だ。なお日本の注釈書で、この叙述の不自然さの指摘ができているのは三浦和男(未知谷)のものだけだった。

 以上、ヘーゲルの叙述の問題、彼の君主制擁護の姿勢を批判した。しかし、ヘーゲルの真意は「当時のドイツでは、立憲君主制しか可能性がない」ということだったろう。§274の【注釈】には「どの国民も、自分にあった、自分に似通った体制を持つ」とある。民度とその政権、政体は一つなのだ。日本の天皇制もそうだ。エンゲルスはこれを正確に理解している(「フェイエルバッハ論」)。

(3)意志決定は個別者が行う。
§279
「なんでも皆が決める、多数決で決めることが民主主義的で平等だ」という考えは間違っている。ごまかしがある。民主主義がしばしば衆愚政治になる理由を考えるべきだ。

 意志はそもそも個別的なものだ。国家、集団の意志決定でも、一人の人格が最終意志決定を行うしかない。重要な局面では、トップ自らが責任を持って決定するしかない。トップの孤独を思わねばならない。

 家族や団体でも、執行の場面では個人(トップ)が意志決定をするしかないし、事実そうしている。決定前に、メンバーの意見をしっかり聞いておくことは重要だが、意志決定はそれとは別のレベルのことだ。    

 意志決定は個別者が行う。これを私は認める。しかしこのことはヘーゲルのように君主制度の擁護には必ずしもならない。どのようにトップを決めるかは別のことだからだ。それは民度や外的状況などによってきまる。
国家とは別の話になるが、人の中には意志決定ができない人、できない場合がある。その時には、外的に意志が与えられるしかない。それもまた個別的な意志でなければならない。多くは親の子どもへの干渉であり、大人になっては占いなどがそうだ。国家でもそれができない段階では神託で決めたりした。そうした外的な意志を内面化したのは、ソクラテスだとヘーゲルは言う。それが彼のダイモンだ(534ページ)。

(4)世論 §316から§318

 世論についてのヘーゲルは、リアルだ。その矛盾を突き、その二面性をおさえている。この点、マルクスはお人よしと言える。

 思想の自由、表現の自由が保障されるのはなぜか。それが真理の表現になっていくからだ。

 世論には、真理(現実社会の要求=普遍性)の現れの面と、それが個人の特殊性をまとって現れるという矛盾があり、その特殊性は独自性を主張しようとする間違った態度も含む。

 従って、それとの付き合い方は、世論の中に潜在的に含まれている真理を顕在化させるために努力すればよいことになる。

(5)国家間の争いが低レベルになる理由

 私にはかねてからわからないことがあった。国と国の争いのレベルになると、なぜにああも低級で暴力的で幼児性むき出しになるのか。例えば、アメリカだが、国内の民主主義がある程度成熟している一方で、対外的なことになると急に幼稚きわまりない行動をとる。ブッシュのイラク戦争開始のでたらめさ、その正当化の理屈「民主化する」「先行攻撃の権利」などのめちゃくちゃさ。イラクや北朝鮮のめちゃくちゃもひどいが、アメリカもいざとなると変わらない。

 国家間の関係が個人間の関係(契約)より酷いレベルになるのはなぜなのか。長いことこの疑問を抱えていたが、誰からも応えてもらった覚えがない。ところが、ヘーゲルはそれに論理的な回答を与えていた。初めて、私はこの設問への回答があることを知った。それが正しいかどうか以前に、他は、そもそもこうした問いを立てることがないのだ。

 国内の統一によって国家が誕生すれば、それは個体性を持つ。個体性には否定の働きが含まれるから、他の個体(他者)に排他的な関係を持つ。それが独立ということでもある(§321)。これは「排斥性」(他への攻撃性)とイコールではない。性関係、家族が閉じる理由も同じだろう。
さて、その国同士の関係はどうして極端に低レベルに落ち込むのか。「諸国間の契約内容は、相互の独立した特殊的意志(恣意=自然状態)がもとになる」。これは個人と個人の契約と同じレベル(ただし契約の素材の多様性は限りなく少ない)だとへーゲルは言う(§332)。その結果、契約よりももっとひどいレベルの粗雑な関係になる。自分たちの領土や金、自分たちの利害のことしか考えない(590ページ)。

 つまり、第1部の契約のレベルを止揚して生まれた国家なのだが、国家間の交渉になると、第1部の契約のレベル(それ以下)に戻ることになるのだ。個別性が復活してしまうからだ。
 個別性の克服の結果、またも個別性に戻る。これがヘーゲルの円環論法だ。

 国際法についても、ヘーゲルはカントの構想(国家連合による永久平和)をあざ笑う。なぜなら、自然状態としての国家の関係では、「相互の独立した特殊的意志(恣意)」がもとになってしまうからだ(§333)。その結果は、戦争だ。「戦争は、合意形成ができなかったときの、最後の解決策」。一応の解決策である。

 ヘーゲルは辛らつだ。戦時国際法のヒューマニズム的な理性的な外観についても容赦なく、その真実を暴く。戦時国際法の趣旨は、打ち負かした敵国をも「国家としては認める」ことにある。その結果、ヒューマニズム的な外観が生まれる。しかし、本当の理由は「他国家を認めないと、自分を認めてもらえなくなる」からだと言う(§338)。岩波の全集版では「戦争も国家間の『相互承認」が前提となっている』とする(614ページの注151)

 以上がヘーゲルの国際関係論である。それは個別性という概念を徹底的に展開したものだ。これが論理的に考えるということなのだろう。 (2009年4月15日)

6月 15

昨年からゼミのヘーゲル学習会が活発になった。ヘーゲルの『精神現象学』の序言を原書で読み、『法の哲学』は翻訳で通読した。『精神現象学』の序言を手がかりにして、許万元『ヘーゲルの現実性と概念的把握の論理』(大月書店)を読み直し、ヘーゲルの本質論を再考した。『法の哲学』の「国家論」については、関連するマルクスの著作を読んでみた。

かなり収穫があったと思う。それらを、以下の文章にまとめた。?「ヘーゲルの本質論」だけは、まだまとまっていない。現在も、ヘーゲルの大論理学の現実性の箇所を読んでいるところだ。
?から?を、この順で本日から発表する。

?ヘーゲル『法の哲学』へのノート 
?ヘーゲルの国家論 
?マルクスの「ヘーゲル国家論批判」へのノート 
?ヘーゲルの本質論 

=====================================

◇◆ ヘーゲル『法の哲学』へのノート  ◆◇

ヘーゲル『法の哲学』へのノート 2008年秋から09年春

昨年春から約1年かけて、ヘーゲル『法の哲学』を読み終えた。そこで考えたことをまとめておく。テキストは中央公論社の「世界の名著」版を使用した。ページ数はこのテキストのもの。

———————————————————–
○『法の哲学』は、「近代社会とは何か」の問いへのヘーゲルの回答。すべての叙述の前提が近代社会である。第3部3章の国家の君主制以下は事実上プロイセン国家を前提している。

———————————————————–
○第1部、第2部、第3部の関係
(1)第3部は(近代の)現実社会、現実の近代社会が対象だ。自由がそこに実現している社会の内実。国家、市民社会、家族のこと。そこで個人の自由、社会の自由が実現している。

ここに「個人」が出てこないことに意味がある。普通は「個人」から初めて、そこから「国家」を出す。それを媒介するために「社会契約」などを考える。ルソーがそう。ホッブスもそう。「個人」が国家の成立の前提なのだ。

ではヘーゲルではなぜ、ここに「個人」が出てこないのか。現実社会では、個人は個人として存在していないからだ。実際に存在しているのは、家庭であり、社会であり、国家だ。
ではヘーゲルの体系で「個人」とはどこにいってしまったのか。

(2)それは第1部なのだ。そこに近代社会の原理として、その成立の条件として「個人」が存在する。人格の平等=所有権として。
この意味は、それは最も抽象的なもので、具体的でない=現実に存在するわけではない
しかし、すべての基礎でもある。それからすべてが始まる。近代の概念(始まり)なのだ。

(3)では第2部とは何か
それは「道徳」となっているが、人間の外界への目的的活動と、その内的反省である内面世界を問題にしている。人間の意識の「内的二分」「内的分裂」が問われるから、幸福、「善」と「悪」、良心が問われる。

(4)この第1部と第2部が、近代の「個人」の意味なのだ。普遍的な前提としての条件(第1部)と、その内面化された姿(第2部)。
それを踏まえて、第3部で、現実社会を分析している。
第2部ではカントが徹底的な内化を完成させた。そして、カントが極論にまで進めたので、ヘーゲルはそこから一転して自由を外化した第3部を展開できたのだ。
また、内面的な自由を守るために、国家が存在するという論理も重要だ。

※こうした「立体性」があるかないかで、何が違ってくるのか。答え。ルソーのような社会契約説などが入る余地が亡くなる。

———————————————————–
○第1部
人格 人格の平等 個人主義
自分のことは自分で決める。僕は僕
「ボクのもの」が守られること(「所有権」の保障)が、「ボクはボク」であることの保障
※これは唯物論的。経済が精神を保障する

この所有権を否定し、家族を否定し、国家も否定したのが、社会主義・共産主義。
それがいかに根源的な否定だったかがわかる。しかし、それは単純な否定でしかなく、否定の否定にはなっていないのではないか。それで近代社会を止揚する可能性があったのだろうか。

○国家を否定し、または無視や軽視する人
一部の文化人は、国家を語らず、国家を敵視する。
しかし市民社会の上に国家が存在している。これは事実である。
実際に、社会への絶対的権力として機能している。
国家否定論の安易さは、この厳しい現実を直視していないからではないか。

○ヘーゲルのリアルさ、現実感覚
ヘーゲルは理想論をしていない。事実、そうなっていることを示し、その説明をしようとしている。
国家と宗教との関係で特に、リアルなことがわかる。
マルクスの「宗教は阿片だ」とのえらい違い
ヘーゲルが受け止めた、国家成立の重さを、マルクスはきちんと受け止めているだろうか。

———————————————————–
○概念の生成史と展開史の区別の観点から
 ヘーゲルの時点では、近代社会が生まれてまだ50年から100年。展開史にはまだならない。
 それを書けるのは我々。その後、資本主義社会を止揚すると唱える社会主義が生まれ、逆にそれが止揚されて、今の「資本主義社会」が生まれた。工業化社会から情報社会に移行し、豊かになり、フリーターやニートが急増している現在の時点で、明らかになってきた近代の意味(本質)があるはず。 

———————————————————–
○選択の問題 なぜ選択ができないか (「緒言」より)
 先生、友、恋人。進路・進学の問題。仕事(フリーターやニート)の問題
選択とは、他の可能性のすべてを捨てること。すべてを捨てる覚悟がないから、一つを選ぶこともできない。
5節から7節の展開でわかる。すべてを捨てること(5節の意志の普遍性)ができない人間は、一つを選択(6節の意志の特殊性)できず、意志の自由(7節の意志の個別性)まで進めないのだ。
12節から16節でも同じ問題と関係する。フリーターの望む自由は15節と同じ抽象的自由だ。しかしこれは多くの大人たちが望むものでもある。すべてを捨てる覚悟がないのだ。
 
○意志(の自由)の3契機
 第5節 3契機のその1 普遍=絶対的抽象=無規定=悟性の自由=否定的自由
       純粋な自己反省             フランス革命
第6節 3契機のその2 特殊化=対象を規定する=現存在に踏みいる
        =普遍(第1の抽象的否定)の否定
 第7節 3契機のその3 個別=意志の自由
  意志は始めから主体ではない。運動そのものであり、その結果。
   【追加】自由=多のものの内にありながら、しかも自分自身のもとにある

○12節から16節
 第12節 意志の決定 (選択を)決定する=個別性の形式を与える=現実性
    外に現れる
 第13節 意志決定の形式的抽象的自由(知識の有限性)
  意志決定によって意志は個人の意志、外と自分を区別する意志として自分を定立する
  【追加】無限(抽象的普遍)を捨てて、有限となる
 第14節 選択の可能性
 第15節 恣意=偶然性=(普通の人が考える「自由」)
   反省哲学(カント、フリース哲学)の批判
 第16節 無限進行=偽の無限
    選択したものを放棄することもできる

———————————————————–
○善と悪について  136節から140節。特に139節、

人間には内的二分が起こり、すべてを内面化・主観化・特殊化することができる。
この時、すべてが仮象として現れる。すべてが特殊性(悪の可能性であり、善の可能性でもある)として現れ、それが発展して、その真の姿としてのみ善が現れるのだ。その段階で、善と対立する悪もはっきりと現れる。
この過程を経ずに行われる「善」。つまり抽象的悪と対立した善は、抽象的善でしかない。形だけの善、世間の善を外見上行うだけ。
善と悪との両者を、その生成から転化までを視野に入れて見るべき。
大きな悪、根源的な悪(の可能性)からこそ、巨大な善は生まれる。
悪の中に善がある。悪ナシで善はない。その上で、善から悪への転化も起こる。
定義としては、絶対的普遍性=善、特殊性=悪と分けられるが、それは結果であって、最初から両者の区別が立てられるのではない。
悪(特殊)をくぐらずして、善はない。
自己の特殊性(悪の可能性)を生かすことが、社会全体(普遍性)のためになることを理解していく過程で、善は実現していく。最初からエゴや特殊性を放棄することで、実現するのではない。
むしろ徹底的なエゴの主張、特殊性へのこだわりの中にこそ、善や普遍的な意志の実現の可能性がある。

5月 21

佐藤優『国家の罠』(新潮文庫)を読みました。
ひさしぶりに心が動かされました。

鈴木宗男事件で逮捕された外交官の「暴露本=告発本」です。
しかし、下卑たところは1点もない、見事な本です。

国策捜査とその背景の時代の変化
マスコミの実態、
外務省、検察の組織の実態
組織の中で生きる個人の生態
国家目的と官僚の関係、政治家と官僚の関係

それがあざやかに描かれています。

見事な生き方と、カスの生き方と。
それは最終的に「誠実さ」「真っ当さ」に行き着くようです。

6月27日の読書会テキストを変更し、佐藤優『国家の罠』(新潮文庫)を読みます。
当初予定していた中井久夫「精神科医がものを書くとき」(ちくま学芸文庫)は7月以降に取り上げます。

5月 04

(1)大学生。社会人のゼミの成果のまとめ
1カ月、ゼミを休みにして、
昨年から読んで考えてきたことを原稿にまとめました。
ヘーゲルの『法の哲学』、『本質論』、『精神現象学』の「序言」。
マルクスの「ヘーゲル国法論批判」
許万元『ヘーゲルの現実性と概念的把握の論理』
についてです。
メルマガやブログで公開します。

こうした時間を定期的にとって、成果をまとめていく必要を強く感じました。

(2)村上隆「芸術起業論」を読みました。
痛快な本でした。
日本の現状批判と、世界で生き残るための戦略について、
単純かつ明快な主張で、気持ちが良かった。
本気で生きている人に触れた快感だと思います。
これほどシンプルな形になるまで、どれほど大変だったのかを考えました。

2月 05

 この本は昨年(2008年)夏に刊行されたが、非常に売れているようだ。近くの図書館で予約してみたが、多くの希望者がいて順番が回ってこない。

 なぜ、それほど多くの読者に支持されているのか。面白いからだろう。読者サービスに徹している。面白く読める工夫に満ちている。「アドレナリン分泌」が促されるように書かれている。これは本書に限られず、佐野の本はすべてそうで、それゆえにほとんどが文庫化されている。

 「読者サービス」とは具体的にどういうことか。1つは、二重の物語を提供することだ。まず、テーマに関して、取材した人物たちが語る物語がある。これはルポなのだから当然だ。しかし佐野は、他に取材過程自体をもう一つの物語に仕立て上げている。つまり、佐野が取材をどう進め、どういった障害があり、その渦中で何を感じた(特に「アドレナリン分泌」の瞬間が強調される)のか。それがこと細かく書かれる。取材現場に読者を招待するわけだ。

 また、テーマの描き方だが、歴史や政治状況などの一般的な説明はほとんどない。あくまでも人物たちの人生を描くことで、大状況を語ろうとする。今回も、政治、経済、文化、芸能までの広い範囲の中から、トップエリートたち、政治家、運動家から、娼婦やヤクザまで、魅力的な人物たちをずらっと並べて、彼らの人生を、その彩なす織物のような人生模様を描くことに徹している。

 さらに、その人生の描き方だが、人間の相関図の中で、その人間を浮き彫りにする。その人の人脈を丹念にたどり、人、物、金の流れを追うのだ。ヤクザと政治家、左翼と右翼といった、思わぬ人との関わりを描くことで、その本質や問題を描く。これは一般にも有効な方法だが、地縁、血縁の強い沖縄だから一層有効だったことだろう。

 以上に述べた方法は、佐野が最も得意とするもので、彼はいつも人脈さがしから取材を始め、それらの人間を捜し出してインタビューする。そして、彼は、こうした過程で取材相手に激しく感情移入し、時には憑依するかのような迫り方をする。
 

 以上で、佐野の方法とその人気の秘密は明らかだろう。その方法は、本書でも「面白く読ませる」点では成功している。沖縄の全体像が浮かび上がり、戦前から戦後の沖縄の諸問題が立体的に見えてくる。天皇の関わり、基地の借地権、奄美への差別、ヤクザや政治家の動き、芸能プロダクションなど、知らなかったことばかりだった。

 しかし、ここには何がないかも明らかだ。あくまでも個人に光を当てているので、組織や運動、歴史や社会構造を理解することはできない。また、人間は地縁、血縁関係から描かれ、その思想は無視、軽視されている。正直に言って、本書は私には退屈だった。私の「アドレナリン分泌」は促進されなかった。

 いくつか、問題にしたいことがある。
 第1に、人物を、その人脈を描くことで示す方法の是非だ。それは、どこまで有効なのか。

 人の本質は、他者との関わりに現れ、その関係の総体が、その人に他ならない。それは真実である。したがって、その人脈をさぐる手法が有効なことは明らかだ。

 私も、最近、ある人を考えるときに、その出身地、出身校などの「出自」で、その人の根っこの部分がわかると思うようになってきた。しかし、それが淋しく、残念にも思う。それは、地縁と血縁(両親や親族)といった偶然のもので、人間の根底が決まってしまうことを意味するからだ。出身地は地縁そのものだし、出身校も地縁と血縁(両親の考え)で決まる。沖縄は島国で、こうした地縁と血縁が強いということなので、一層、こうした偶然の要素で決まってしまうだろう。

 しかし、それで良いのだろうか。私は、地縁と血縁に対しては、思想縁を対置したい。本人が自覚的に選択したものでない条件に対して、それを克服する可能性をさがしたいのだ。それを考えれば、調査はその人の思想縁に関係するような、先生、盟友、同志を、他の関係より重視するだろう。その思想が、地縁、血縁といかに闘ったかが中心になるだろう。

 しかし、こうした方向性は、本書にはない。そこには関心が向けられていないからだ。それが私にとって、本書が退屈な一番の理由だろう。

 本書で示された観点で面白かったことの一つは、「沖縄の芸能」を代表する人物として、多くの芸能関係者が瀬長亀次郎の演説を挙げていたことだ。瀬長は日本共産党に入党し治安維持法違反で3年の懲役刑を受け、戦後は沖縄人民党の結党に参加し、書記長になる。その後は那覇市長、日本共産党中央委員長、1970年からは7期連続で国会議員を務める。そうした人間が「芸能人」として評価されるのは、沖縄以外では考えられないだろう。

 この瀬長は本書でも取り上げられているので、さぞ面白い事実で埋め尽くされているだろうと期待する。しかし、それは完全に裏切られる。全体で650ページ、ヤクザ関係だけで150ページもある本で、瀬長の出てくる章は30ページ、しかもその内の瀬長に直接関わる叙述は10ページもない。思想の闘いはほとんど描かれず、獄中で家族宛に書いた手紙が届かなかった事実が書かれるだけだ。ここに、本書の駄目さが集約されている。私は政治向きのことだけを言っているのではない。それは省略しても、芸能としての彼の「語り」については詳しく展開してこそ、本書らしさがでたはずだろう。それがない。

 第2に、「大文字の沖縄」批判を取り上げたい。佐野は、大江健三郎や筑紫哲也らの書いた沖縄を贖罪意識で書かれた「大文字の沖縄」だと言う。それは沖縄を聖化し現実をとらえない。それは結果的に沖縄を愚弄することになるし、「それでどうしたの」といった感想を持つ。そう言うのだ。

 そして、それに対置しているのが、佐野自身のルポで、それが「小文字の沖縄」だという。しかし、その実態はすでに述べたものであって、私は「それでどうしたの」といった感想を持つ。

 「小文字の沖縄」とは、概念的な「大文字の沖縄」に現象的な把握が対置されているのだろうが、両者は本来は敵対するものではなく、相互補完的なものだろう。問題は、どちらが重要かではなく、それが概念的でも、現象的な把握でもよいから、そのレベルであり、それが対極の理解にどれだけ貢献できるかだけだろう。

 その時に、書き手の動機に焦点を当てることは不毛だと思う。佐野のように「好奇心」からでも大江のように「贖罪意識」からでも、動機はどうでもいいと私は思う。誰もが、自分の問題意識から始めるし、その得意な方法で対象を捉えようとする。そこには問題はないだろう。問題は、結果であり、どこまで対象の本質に迫れたかだけではないか。それには動機以外にも検証すべきさまざまな要素がある。問題意識の強さもあるし、その人の歴史や政治、経済の知識、活動力や取材力、何よりも認識能力に大きく依存する。その結果を問題にするときには、これら全体とその関係を問うべきだろう。

 小林よしのりは大江の動機を「自分だけは善良な日本人だ」と宣言したいと推測している(と、佐野は書く)ようだが、大江の全体像を示した上で言っているのだろうか。佐野は、自分の「小文字の沖縄」を持ち上げるが、私にはそれほど本質に迫れているように見えない。それは佐野の認識能力が低いからだと思う。

 例えば、佐野は、日本の高度経済成長を、戦時中の満州国の建設との関連でとらえ、「失われた満州を国内に取り戻す壮大な実験」だったと言うのだ。しかし、それは倒錯した議論だろう。

 一次産業から二次産業への転換、工業化の発展に必要だった条件(地縁、血縁から解放された自由な資本と労働力、大地主制からの農地解放など)が、戦前に国内にはなかった。それは戦後の占領軍統治下で実現し、それゆえに高度成長が可能になった。暴力で中国から奪った満州と、自由を求めて満州に飛び出した人々は、こうした条件を満たしていた。そこで高度成長の先取りのようなことが行われていたということだろう。もっとも、戦後になって「満州」はほとんど無視されてきたから、それに光を当てるのは必要だ。しかし、それを必要以上に持ち上げるのはおかしいと思う。

? なお、本書で、沖縄での創価学会(公明党)の力を指摘しているのはなるほどと思った。創価学会は高度経済成長下の農村出身の工業労働者が、地縁血縁から切り離されたことを代償するためのものだからだ。