週刊『東洋経済』誌(8/14-21合併号)の哲学入門特集で、「社会人・大学生の学習会」の様子が紹介されました。
大修館書店のPR誌『国語教室』11月号が刊行されました。
私が参加した座談会の様子が、「新学習指導要領と国語科の『責任』」というタイトルで掲載されました。
すでに9月21日のブログで報告したように、新しい学習指導要領を入り口にして、これまでの国語教育、学校教育の問題点、その改革の可能性を論じ合ったものです。
他の出席者は以下の3人の教員です。
・藤森裕治氏(信州大学)
・釜田啓市氏(清真学園)
・臼田悦子氏(長野県野沢南高等学校)
9月22日のブログに書いたように、
今回の学習指導要領には画期的な点があります。
第1に、言語活動(思考、判断、表現)を教育活動の中核とし、すべての教科で指導すべき、とした点です。
第2に、その教育活動の中心に国語科が位置づけられたことです。
第3に、リアルな現実、生徒の体験が重視されたことです。
これは、これまでの学校教育、国語科教育の大きな課題の克服をうながすものです。
機会があれば、『国語教室』11月号をお読みください。
9月18日に、大修館書店のPR誌『国語教室』の座談会に参加しました。
新しい学習指導要領を入り口にして、これまでの国語教育、学校教育の問題点、その改革の可能性を論じ合いました。
他の出席者は以下の3人の教員です。
・藤森裕治氏(信州大学)
・釜田啓市氏(清真学園)
・臼田悦子氏(長野県野沢南高等学校)
『国語教室』は高校の国語教科書の販売促進のためのPR誌で、座談会は90号、本年11月に発行予定です。
座談会には高校現場から二人の参加者がありました。これまでの国語教育批判、学校教育批判において、私だけが浮いてしまうことを心配していました。しかしお二人(特に釜田氏)とは、基本的に考えが一致していました。心強く思いました。
月刊『高校教育』9月号に拙稿が掲載された。
これは
「連載:大学・学校・教育委員会のパートナーシップ ―スクールリーダー・フォーラムの挑戦―」のラスト、3回目に当たる。
大阪ではすでに8年あまり、大学・学校・教育委員会の連携を行っている。大学側とは大阪教育大であり、大脇康弘氏が中心に、活動している。この連載はそのスクールリーダー・フォーラム8回目の総括のためのものだ。
連載は
第1回 スクールリーダー・フォーラムの理念と軌跡
大脇康弘(大阪教育大学)、2009年7月号
第2回 経営革新プロジェクト推進校の実践をつなぐ
水本徳明(筑波大学)、2009年8月号
第3回 が私である。私のタイトルは「『生徒が3年間でどれだけ伸びたか』を競い合え」
以下が拙稿である。
? すべての高校生の『伸びしろ』を大きくする
「学校教育の目的は、すべての高校生の『伸びしろ』を大きくすることだ」。参加校の皆さんが口をそろえてそう発言した。私は、このことに一番感動した。一般に「改革」に成功した学校は「偏差値」があがり、「良い生徒」が集まる。しかし、その分は必ず、どこかの高校が下がることになる。私立ならばいざ知らず、公立校がそれでは意味がない。大阪ではこの矛盾の答えを出した。「入学した生徒が3年間でどれだけ伸びたか」で競い合うと。
今年2月に大阪で開催された「第8回スクールリーダー・フォーラム」。私はゲストとして参加した。このフォーラム、並びにその背景については、拙著『大学「法人化」以降』(中公新書ラクレ)の五章にまとめた。参照していただければ幸いだ。しかし今回、外部からではなく、実際にフォーラムに参加してみて、その面白さが予想を超えていることを知った。
そもそもの発端は大阪教育大で大脇康弘氏を中心として生まれた研究会にある。大脇氏らは、大学と教育委員会との意見交換(ときに事業の共同参画)や研究者や教委スタッフ共同の学校訪問・支援といった双方向的協働関係を模索したかった。学校現場を中心とした連携だ。それが実現して8年目、ここまでにすでに多様な活動が展開されてきた。
フォーラムはその活動の一つであり、他の活動と密接に関係しながら、その結節点を作ってきた。今回も、「府立高等学校経営革新プロジェクト事業」(以下、経営革新プロジェクトと略)の3年間にわたる成果を総括するのが目的だったのだと思う。
? 「個性」と達成目標とは何か
「経営革新プロジェクト」は、府教委が主催する事業で、府立高校のいわゆる中堅校21校が参加し、3年間にわたる経営実践に取り組んだ。府教委では〇三年から北野高校、天王寺高校などのいわゆる「進学校」の教育内容の改革に取り組んでいたが、次には中堅校の特色作りに着手したかったのだ。
今、教育界では「個性化」「多様化」「特色化」が大流行だ。しかし、それが大きな混乱をももたらしている。これらの言葉の本当の意味が理解されていないどころか、問題をごまかすために使用されたりする。例えば「高校生の多様化」「カリキュラムの多様化」とは、高校生の「低学力化」とそれへの対応のことだったりする。
「個性」の理解の浅薄さは、普通科高校、特にその中堅校で暴露される。進学校や教育困難校なら看板を出しやすいが、中堅校になるとお手上げだ。その課題に取り組んで大きな成果をあげたのが、この「経営革新プロジェクト」だ。
ここでは「特色作り」といっても、それぞれの学校の具体的な課題を明らかにし、その解決に取り組んできた。眼前の高校生たちの抱えた課題、それに全校で取り組むこと。学校の個性とはその結果生まれるものでしかない。
しかし、中堅校は多様だ。伝統校も新設校もある。学習以前の生活態度の改善に集中しなければならない学校がある一方で、生活面から学習面へと指導の重点をシフトしなければならない学校もある。部活参加の割合を高めなければならない学校も、部活のエネルギーを学習にまわさせることに頭を悩ませている学校もある。そうした多様性の実態を知ることから、中堅校の全体像が見えてくる。その中での自校の位置、次の発展段階への見通しなども得られる。自校だけでなく、全体を視野に入れる中で、自己相対化が進む。
その時に、各学校の課題が違うことも明確になってくる。画一的な目標や、達成度の競争は無意味だ。そうなると、教育成果をどう考えるかが大きな問題として浮かび上がってくる。改革の「成功」の基準はどこに置くのか。求められる成果とは何か。
「改革」で、学校内の生活指導や学習指導を改善するのは当然だし、学外への広報活動で努力するのも当然だが、その成果は「入り口」の入学試験の倍率や、「出口」の大学進学実績などで計られることになりやすい。そして成功した学校は「偏差値」があがり、「良い成績の生徒」が集まり、そこが浮上する。しかし、その分を、必ずどこかの高校が下がることになる。それでは意味がない。
「成功」の基準は、あくまでも、「入ってきた生徒が3年間でどれだけ伸びたか」にある。ここに基準を置けば、すべての学校で可能であり、どこが上がった下がったという基準とは別に、絶対的な基準を用意することができる。
また、「伸びしろ」を真剣に考えることで、各学校の目標・課題や、その成果の評価の考え方が変化するだろう。ある学校の校長は、「初めて浪人する卒業生が出た」という事実を成果としてあげた。その高校の大学進学者は少数で、入れる大学に進学していた。今は大学は「全入」だから、選びさえしなければどこかの大学には入れる。その結果、浪人は出なかったのだ。そうした中で浪人生が出現したのは、「どうしても入りたい大学」を意識する卒業生が出てきたことだ。これは大きな教育の成果なのだ。
中堅校での教育目標とは何かの話も出た。「自分で食っていける」こと、そしてできれば、「他人を食わしていける」こと。こうした目標をはっきりさせて指導すべきだとの意見だ。
? オープンな雰囲気と緊張感
研究会は、実態に即して具体的に検討しなければ意味がない。しかしそれが難しいのが実状だ。しかし、このフォーラムではそれができている。各学校の内情を隠すことなく、本音レベルでの報告がなされ、また討議も率直な意見交換が行われる。オープンな雰囲気がそれを可能にするのだろう。しかし、オープンではあるが、緊張感は維持されている。
フォーラムのような場では、教育委員会と学校現場と大学の研究者の3者の連携のあり方が問われるだろう。そもそも、今はまだ、学校現場の改革のために3者が協力し合うこと自体が難しい。教育委員会と学校、管理職と教員とは敵対関係に近いことも多い。そうした中で、こうした連携が行われているだけでも大したことだ。しかし、大阪の試みはそこにとどまらない。
ここにあるのは単なる外的な協力関係ではなく、内に批判の芽を持っている。他者への批判は、そのまま自分に跳ね返ってくる。教育委員会は現場を批判するだけではなく、現場の支援ができているかどうかが問われる。現場からだけではなく、大学の教員からの批判にも応えなければならない。学校も、支援を得られる一方で、外部からの批判にさらされ、課題などの内部事情はオープンにされる。大学の教員にとっては、自分の研究のための現場の調査やデータ収集ができるのはメリットだが、その学問のレベルは厳しく問われる。現場で有効な理論を提示できるかどうか。こうした緊張関係の中から、和気藹々とした雰囲気が生まれている。それがとても尊いことだと思う。
? 「書き言葉」と「話し言葉」と
ここは現場主義ではあるが、実感にとどまることは許されない。気づきや疑問を言葉にして、深めていくことが求められる。その一つが「書き言葉」と「話し言葉」の一体の運用だ。毎回のフォーラムでは実践報告書が配布され、そこには大学の教員だけなく、各学校の管理職やスクールリーダーたち、教委のスタッフによる報告が並ぶ。それまでの討議は一旦は文章にまとまり、フォーラム当日はそれに基づいて議論が闘わされ、それはまた文章化されていく。多忙な中で文章にまとめるのは大変だが、この点では妥協がない。
このシステムは、単なる現場主義に堕することを避け、理論的にも実践的にも蓄積を重視する立場で、これが8年間の連携を支えてきているように思う。
この方法は大脇氏の発案だと推測するが、彼は雑誌媒体の利用によって、さらにこの「書き言葉」と「話し言葉」の円環運動を促し続ける。本誌『月刊 高校教育』や『月刊 悠』誌などには、フォーラム関係者の報告文がたびたび掲載される。
それはフォーラム関係者のモチベーションのためでもあり、成果を学校現場の方々に還元するためでもあるし、研究成果の蓄積のためでもあるだろう。
このように、外部や媒体をどん欲に取り組んでいくことで、フォーラムのマンネリ化は防止される。毎回、フォーラムには新たなゲストが登場する。今回は私も引っぱり出されたわけだが、フォーラム参加だけではなく、今執筆しているこの原稿もその一環なのだ。こうした大脇氏のプロデュース力が、大きな役割を話しているのだろう。
? 現実的理想主義のすごみ
最後になるが、大阪という地域の特殊性を忘れてはならないだろう。大阪の府立高校では、以前から緊密な連携が生まれていた。校長たちの自主学習会も長い歴史を持つし、何十年も前から「教務研究会」が組織され、教務主任たちが横の連携を深めてきた歴史がある。みなで大阪の教育全体を支えようという意識が徹底されているのだ。その背景には、もちろん、大阪の厳しい状況がある。
大阪の少年非行は全国ワーストワン。不登校や、学力低下、教育格差の拡大にも悩んでいる地域だ。そうした厳しさに向き合うために、もともと自主的な形で横の連携が作られていた。府教育委員会も並々ならぬ覚悟で取り組んでいる。
フォーラムのある参加者が「大阪は商人の街。われわれも『上手くいってなんぼ』でやってますんや」と言っていた。商人の街大阪の、現実的理想主義のすごみをまざまざと見た気がする。