11月 19

大修館書店のPR誌『国語教室 104号』(2016年秋号)が刊行されました。

その「展望 これからの国語教育」の連載の一環として私も執筆しました。

「すべての教科の言語活動を総合する」です。

5月 22

『「聞き書き」の力』(大修館書店)の序章「なぜ今、『聞き書き』なのか」 その4

■ 目次 ■

『「聞き書き」の力』
序章 なぜ今、「聞き書き」なのか  中井浩一

第1節 「聞き書き」とは何か
第2節 教育手法としての聞き書き 
 以上 19日

第3節 若者たちの課題とその解決策
第4節 新学習指導要領が私たちに問いかける問題
 以上 20日

第5節 「国語科」とは何か 
 以上 21日

第6節 PISA型学力
第7節 「温故知新」 教育改革と「聞き書き」
 以上 22日

========================================

第6節 PISA型学力

PISA型の学力が問題になっている。また「問題解決型の教育」が言われるようになってからかなりの年数が経過した。これらに簡単に触れておく。

PISA型学力は、従来の詰め込み式への対論としては意味がある。「答え」を暗記させるのに対して、「答え」を考えさせ文章としてまとめることは、はるかに高い能力である。しかし、それはまだまだ低いものであることもわきまえておかなければならない。その低さとは、「問い」を出すのは依然として教師や大人であるということだ。

自立していく上で重要なのは、自分の問題意識、自分のテーマを作ることだ。その際の「問い」は自分が出すもので、他人から与えられるようなものではない。自分自身の「問い」だからこそ、本気でその「答え」を出す気になれるのだ。大切なことは「答え」を出すことではなく、自ら「問い」を出すことなのである。
「答え」を求めると、教師の用意した「答え」があることを暗示することになり、それを見つけさせるだけの指導になりやすい。むしろ、容易には「答え」がないような「問い」を投げかけるべきなのだ。それがディベートなどで優れた教師がやっていることだ。
そもそも現実の社会問題は、どれをとっても複雑に入り組んでおり、簡単に解答が見つけられるようなものではない。その複雑な込み入った状況の中で、答えが容易には出せないことに耐えて、ねばりづよく考え続けること。そのタフさこそ、教育すべきなのだ。

「問題解決型の教育」でも同じである。大人の場合とは違い、高校生にとって重要なことは「解決」ではない。解決すべき「問題」に気付き、その問題を定式化する(疑問文の形にして問題を明確にする)ところに核心がある。

そして、問題意識を作る上で、ねばりづよく現実に立ち向かっていくタフさを養成する上で、聞き書きがいかに有効かを本書は述べたいのだ。多くの高校生の問題は「答え」を出せないことではない。その答えが通り一遍のキレイごとであり、安易な決意表明になりやすいことだ。それを突き崩すことからすべては始まる。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

第7節 「温故知新」  教育改革と「聞き書き」

2014年12月に文部科学省の中央教育審議会が新たな答申「新しい時代にふさわしい高大接続の実現に向けた高等学校教育、大学教育、大学入学者選抜の一体的改革について」を発表した。これをめぐって高校現場が大騒ぎになっている。2020年度から大学入試ががらっと変わる。それと一体の形で高校現場の教育にも大きな変革が求められている。

答申は目標として次のような能力の獲得を掲げる。「十分な知識と技能を身に付け、十分な思考力・判断力・表現力を磨き、主体性を持って多様な人々と協働する」。これが「学力の三要素」と称されるナカミだ。
より具体的には、課題の発見と解決に向けた主体的・協働的な学習・指導方法である「アクティブ・ラーニング」の充実を図ることとしている。

これだけなら、従来の繰り返しでしかないと思うが、今回の違いは、その達成のために大学入試改革を断行することが明記されたことだ。これが現場に大きなインパクトを与えている。
これまでも高校段階の教育改革はさんざん提言されてきた。しかし大学入試がネックとなって改革が進まない。今回はその大学入試改革と一体の形で進んでいる。「本気だ!」と現場に伝わっているのだ。
2020年度から現在の大学入試センター試験が廃止され、「大学入学希望者学力評価テスト(仮称)」と「高等学校基礎学力テスト(仮称)」が導入される。
 また、各大学が個別に行う入学者選抜(個別選抜)でも、各大学がそれぞれの入学者受け入れ方針=アドミッション・ポリシーを策定することを義務づけ、それにしたがった選抜を求めた。

これら全体の改革を通して、答申が目標として掲げる「学力の三要素」の獲得が求められた。

しかし、これによって現場の先生方がまたまた混乱している。「学力の三要素」とは何か。「アクティブ・ラーニング」とは何か。これまでの教育、現行の学習指導要領が求める学力や指導法と何が違うのか。

「温故知新」。大切なことは表面的な言葉の違いにごまかされることなく、変わることのない教育の本質と、時代の変化の両面をしっかりと見極めることだ。

今回の答申で、従来の方向と大きな変化は何もない。求められていることはこれまでの延長上のことでしかない。本来の教育の目標を、さまざまに流行の言葉で言い換えているだけだ。
私はこの序章の四節以下で現行の学習指導要領の掲げる目標の意義とその目標達成のための課題を説明した。そのまさに延長上に、この答申がある。今回の答申の内容は、実は二〇年前の学力低下論争の際に議論されていたことであり、その際に議論されていた回答の遅すぎる実現なのである。そしてそれはさらには、「ゆとり教育」が課題にしていたことの、一周遅れの繰り返しでしかない。

だから、いつものように、私たちは教育の本質、教育の根本に、いま一度立ち返って考える必要がある。眼前の生徒や学生の課題こそ、私たちが解決しなければならない課題なのだ。彼らの抱える課題をどう解決できるか。それにどういう考えと方法で立ち向かえば良いのか。
本書全体がその回答になっていると思う。「学力の三要素」や「アクティブ・ラーニング」という言葉に振り回されるぐらいバカげたことはない。いつも変わらない本当の教育があり、その実行が求められているだけだ。
そして、本書の立場からは、今回の答申も、現行の学習指導要領がそうであるように、大いに追い風である。これを生かして、本来の教育活動に邁進していただきたいと思う。

5月 21

『「聞き書き」の力』(大修館書店)の序章「なぜ今、『聞き書き』なのか」 その3

■ 目次 ■

『「聞き書き」の力』
序章 なぜ今、「聞き書き」なのか  中井浩一

第1節 「聞き書き」とは何か
第2節 教育手法としての聞き書き 
 以上 19日

第3節 若者たちの課題とその解決策
第4節 新学習指導要領が私たちに問いかける問題
 以上 20日

第5節 「国語科」とは何か 
 以上 21日

第6節 PISA型学力
第7節 「温故知新」? 教育改革と「聞き書き」
 以上 22日

========================================

序章 なぜ今、「聞き書き」なのか

第5節 「国語科」とは何か 

私自身は長らく、高校生を対象とする国語専門塾で国語を指導してきた。そして世間で行われている国語教育への疑問を感じ、それに変わる教育方法を模索してきた。そうした私には、今回の学習指導要領は深く頷けるものがある。

私の国語科への疑問とは、それが事実上心情重視の「文学」教育や、「結論」を注入するような「道徳」的な教育に堕していて、本来の使命を果たしていないのではないかということだ。
本来は、1人1人の高校生が自分のテーマや問題意識をつくり、そのテーマの答えを追求していく生き方を支援するのが国語科だと思う。1人、1人が自分の思想を持って生きることを準備するのだ。つまり「自立」した人間になるための手立てと能力。そのためには自発的に「問い」を出し、その「答え」を出すための過程と「答え」の出し方を指導するべきだ。
ところが、現在の国語教育では、それができていないどころか、その反対のことが行われているのではないか。「答え」が教師から押し付けられ、生徒自らが「問い」を立てることが軽視されていないか(「道徳主義」)。感性・感情(共同体の空気を読む=集団と一体)を学習させられ、論理=思考(集団との一体感を壊すことも恐れず、異論をぶつけ合い、本質理解を深める)が指導されていないのではないか(心情主義)。そこで学ぶ一般的な知識が、自分自身や現実社会と十分には関係づけられていないのではないか。内容を教えこもうとして、形式(「型」の重視)の指導が弱すぎるのではないか。

以上国語科の問題として述べたが、実はこうした問題は他教科でも同じであり、そうした矛盾が国語科の特殊性故に、国語科に集約して現れるのだと思う。もちろん、国語科と他教科との違いも大きいのだが、実はほとんど同じ欠陥がそこにある。

それにしても、どうしてこうなってしまっているのか。そもそも国語科とは何を教育する教科なのか。
国語科の目標とは「ことばの学習」だとされる。「ことば」や「文章」を学習し、言語活動の能力を身につける教科だとされる。したがって文法や語彙や漢字、文章の構文、構成や文体を学習し、あらゆるジャンルの文章や韻文の読解や、表現を学習する。
ここまではほとんどの人が一致できる点だろう。しかしこうした理解では不十分だったから、変なことが起きているのだ。それは、国語科と他教科との関係の曖昧さである。

表    対象        認識・表現の方法
国語科 人間の内面や心情   感性的に主観的にとらえ、感性に訴える表現をする
他教科 現実や事実      客観的に合理的、論理的に考え、論理的に書く

多くの人は、国語科と他教科との関係を表のように考えているのではないか。他教科は現実を事実に即して合理的、論理的に考えるもので、国語科は人間の内面や心情を、感性的にとらえるものである。だから国語科は現実や事実の表現でも、読者の心に訴えるような文学的な表現をめざす。ここにあるのは、事実と心情との分裂、論理と感性との分裂である。本当にそうした理解でよいのだろうか。

「国語科はすべての教科の基礎である」。これもまた多くの人が一致できる命題だろう。すべては「ことば」や「文章」からなっているのだから、その学習がすべての基礎になってくる。しかし、この理解で終わりなのだ。本来は、それは始まりでしかない。国語科はそこから始まるが、さらに各教科での成果を踏まえて、全教科の総合をすることをゴールとするべきではないか。
各教科では、それぞれの分野における基本的知識や考え方を学ぶ。しかしそれだけではバラバラの知識に終わりかねない。それらを総合するのが国語科ではないか。各教科で学んだことを材料として、高校生1人1人の問題意識やテーマを作る、そのための方法と能力を学ぶのが国語科だろう。

私のようにとらえないと、国語科を他教科と横並びで考えることになり、他教科と張り合うことになる。そして、国語科は「ことば」や「文章」という、すべての教科の基本ではあるが「形式」的な学習である。それに対して、他教科はすべて立派な内容を持っている。「内容」上のすべての分野が他教科に占められているから、国語科に内容上で残されるものは何かが問題になる。その結果、他教科の内容を事実や客観性ととらえ、それに対して主観的な「心情」と「文学教育」を国語科の特殊領域としたのではないか。それが現在の哀れな国語科の姿なのではないか。

本来の国語科は、これまで分裂して考えられてきた事実と心情、論理と感性、主観と客観、自己と他者とを総合してまとめ上げることを役割とすべきである。国語科が読解や表現を担当するということは、すべての教科の前提となる能力を担うという意味であると同時に、それらを総合して、一人の自立した人間を作るところまでが使命である。それは最初から最後まで総合的なものであるべきなのだ(第3章で高校3年間のカリキュラムを提案する際に、この問題を具体的に詳述する)。
先に問題提起したレポートの書き方でも、これまでの理科や社会科と国語科の分裂といった状況を超えて、レポートのあり方の全体像を示すのが、本来の国語科の使命である(これは第5章で取り上げる)。

最後に一言。国語科の教師の中には「では感性や心情、文学の教育はどこにいくのか」と心配する方々がいるだろう。それに答えておく。そうした「せまい意味」での文学や心情的な教育は、「芸術」という選択科目として位置付けるのが妥当ではないか。音楽や美術と同じである。誤解のないように断わっておくが、私は文学教育を軽視しているのではない。それが重要であることは論をまたない。ただし、それは「必修科目」ではないといっているだけだ。「文学教育」が「道徳」教育になり下がっているのは大問題だが、その解決は「正しい文学教育」を担当する方々に任せたい。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

5月 20

『「聞き書き」の力』(大修館書店)の序章「なぜ今、『聞き書き』なのか」 その2

■ 目次 ■

『「聞き書き」の力』
序章 なぜ今、「聞き書き」なのか  中井浩一

第1節 「聞き書き」とは何か
第2節 教育手法としての聞き書き 
 以上 19日

第3節 若者たちの課題とその解決策
第4節 新学習指導要領が私たちに問いかける問題
 以上 20日

第5節 「国語科」とは何か 
 以上 21日

第6節 PISA型学力
第7節 「温故知新」? 教育改革と「聞き書き」
 以上 22日

========================================

序章 なぜ今、「聞き書き」なのか

第3節 若者たちの課題とその解決策

今の高校生に広く見られる問題とは、将来像がなく、進路・進学意識があいまいなことだろう。それは人生の目標や方針がないことを意味する。それはまた、親からの精神的な「自立」が進んでいないことを意味する。「自分」が確立されていないのだ。それゆえに彼らは自信がなく、他人に評価されていないと不安になる。
それは、彼らの人間関係のありかたによく出ている。現代の高校生はメル友などは多くいても、その内面はきわめて孤独である。友人、親や教師たちとの関係は表面的で、激しい対立や深い相互理解の経験は少ない。

こうした原因としては、?「豊かな社会」が実現し、社会自体が目標を見失っていること。?体験の貧弱さ、現実社会の問題の見えにくさ、親子の一体化などが挙げられよう。
そこで、根本的な対策が問われるのだが、高校生一人一人が問題意識を持ち、自分固有の「問い」、テーマを育てることが対策の核心ではないだろうか。それが大学で学ぶことや社会で働くことを方向付けていく。高校時代だけでそれを確立することは不可能だが、将来大きな大木に育つための「芽」だけは作りたい。そしてこうして生まれた問題意識やテーマこそがその人の「自分」であり、「個性」なのだと私は考える。
これを、私は「自分づくり」と呼びたい。今、世間では「自分探し」なる言葉がはやっているが、「自分」は「探し」て見つかるようなものではあるまい。
  
では、そのためにはどうしたらよいのか。?個人的な体験を掘り起こし、個人的な体験の意味を考えさせること。?現実社会(自然も)の問題にぶつからせ、その問題の本質を考えさせること。?その社会的問題と、自分の生き方を関係させて考えさせること。
以前は?だけでも自分のテーマを見いだすことができたが、現在はそれは難しい。だから現実や社会の現場に連れ出し、そこで現実と格闘している人々と「出会う」経験をさせることが必須になっている。自分には問題意識がなくても、相手の問題意識を受け止めることで、自分の問題意識を作っていくことができる。また、他者と「出会う」ことで、自分自身やこれまでの人間関係のあり方を見直すことにもなっていく。他者を理解することと自分を理解することは相互関係だからだ。ここに聞き書きが果たす大きな役割がありそうだと、読者の方々も理解していただけるだろう。

こうした背景を考えるとき、今回の学習指導要領の大きな変化の意味が理解されるだろう。それは、もちろん現在の教育課題の大きさ、深刻さ、緊迫度に対応するものだろう。そして、こうした課題に取り組んでいる方々にとって、今回の学習指導要領は「追い風」であることがわかるだろう。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

第4節 新学習指導要領が私たちに問いかける問題

新たな学習指導要領には画期的な点がある。?全教科での言語活動を求め、?その中心に国語科を位置付け、?高校生の体験、現場調査(フィールドワーク)を重視したことだ。
その中心的活動の一つとして「関係者にインタビューしたりして調べた内容を整理」(これが「聞き書き」である)することが強調され、社会科や理科、保健体育などのすべての教科でそうした活動が求められた。またその中心的役割を国語科が担うことが求められ、新しい国語科の教科書では聞き書き・インタビューが教材として取り上げられている。

これを正面から受け止めるならば、その衝撃力は、前回「総合学習」が入った以上のものになるはずだ。なぜなら、この本当の意味は?全教科に、体験学習や現場調査(フィールドワーク)の指導を求め、?全教科に、教科学習と現場学習の統一的指導が求められ、?全教科が同じ課題を共有することで従来の教科の壁を壊した横の連携を求め、?「国語科」がそれを指導することを求めることで、国語科とは何か、他教科と何が違うのかを初めて真っ正面から問題にした、ことだからだ。
これらは高校生の進路・進学意識を高めるためのキャリア教育とも連動できる。そのためには学校全体での取り組みが必要になり、従来の縦の壁を壊すことを促す。
これは、現状を何とか変えて、より良い教育を実行しようとしている管理職や一般の先生方には、大きなチャンスであろう。

しかし、同時にまた、課題も大きい。「関係者にインタビューしたりして調べた内容を整理」することの意味や可能性は、的確にかつ深く理解されなければならない。また、インタビューの内容をまとめる書き方は、その可能性を実現できるようなものでなければならない。そうでなければ、それは高校生の考え方、生き方に深く働きかけることはできないだろう。そして、それは結局は「遊び」になってしまい、大きな学習効果をもたらさないだろう。「総合学習」の導入時と同じだ。

たとえば、レポートの書き方1つ取っても、問題があるのではないか。
従来からすでに一部の教師たちによって、体験学習や現場調査(フィールドワーク)は行われ、すぐれたレポートは書かれてきたし、国語科の一部の教師たちによって聞き書きも指導されてきた。しかし、それらはバラバラに、相互に無関係に行われてきたのではないか。理科や社会のレポートと国語科の表現とはどう関係しているのか、関係すべきなのか。これに明確に答えられる人がいるのだろうか。
ある国語科の先生は祖父母の戦争体験の聞き書きを、叙事詩の形式で書かせた。「調査結果をレポートすることが目的ならば、調査の方法や、調査内容の客観性・資料的価値といったことが重要になる。それでは社会科になってしまう。ところが、詩という文学の形式ならば、その人がこう語ったということがあればいい、事実でなくとも思いが表現されていればいい。さらに、生徒の主観的な思いを書き込むことも許される」。つまり、事実や客観性重視が社会科、「思い」や生徒の主体性重視が国語科だ、というのだ。読者のみなさんはどう考えるだろうか。 

私は、こうした棲み分け、分業制は間違いであると考えている。従来の理科や社会科の指導してきたレポートには不十分な点があり、国語科の聞き書きは文学的傾向に大きな偏りを持つ。両者は総合されるべきだし、そうした指導こそが求められるのだ。しかしそうした全体を見渡した指導はどの教科に可能で、誰ができるのだろうか。
「国語科が中心的な役割を果たす」というが、そうしたことが現在の国語科の教師たちに可能とは思えない。今は、それを学校全体で担っていくしかないだろう。それができる人はどの教科であろうが関係なく、それに取り組み、それを学校全体で支援していくことが必要だ。

本書ではいくつかの核心的な論点を取り上げて、その具体的な解決策を提示したいと思う。まずは小手調べから。
そもそも国語科とは何を教育する教科なのか。他教科とは何が違うのか。次節では私見を率直に述べることにする。世間の常識とはかなりちがうので反発される方もいると思う。しかし、1つの問題提起と受け止めていただき、読者の皆様には、ぜひご自身の「答え」を出していただきたい。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

5月 19

『「聞き書き」の力』(大修館書店)のナカミを知っていただくために、本書の序章「なぜ今、『聞き書き』なのか」を掲載します。

■ 目次 ■

『「聞き書き」の力』
序章 なぜ今、「聞き書き」なのか  中井浩一

第1節 「聞き書き」とは何か
第2節 教育手法としての聞き書き 
 以上 19日

第3節 若者たちの課題とその解決策
第4節 新学習指導要領が私たちに問いかける問題
 以上 20日

第5節 「国語科」とは何か 
 以上 21日

第6節 PISA型学力
第7節 「温故知新」 教育改革と「聞き書き」
 以上 22日

========================================

序章 なぜ今、「聞き書き」なのか

第1節 「聞き書き」とは何か

今ではオーラルヒストリーという言葉が広く世間に流布したようだが、以前は「聞き書き」と呼ばれていた。ではそもそも聞き書きとは何なのか。

それは別段、特別なものではない。人に取材、インタビューをし、その内容を文章にまとめたものでしかない。日々の新聞や雑誌の記事はほとんどがこの範疇に入るだろう。

その中でも、本人の語り口を生かしながら「ひとり語り」の文体で書かれたものの中には、自伝として有名なものが多い。
ロック界のスーパースター・矢沢永吉の『成りあがり』(角川文庫)は若き日の糸井重里が長時間のインタビューをまとめたものだ。矢沢の熱くシャウトとする語りは、彼のロックやブルースそのものだ。『マルカムX自伝』は、アメリカの黒人解放運動史に残る古典的作品になっている。後に『ルーツ』の著者として有名になる作家アレックス・ヘイリーが無名時代に編集したもの。同じ問題意識を共通する語り手と書き手のハートが熱くシンクロして、深い感動を与える読み物になっていると言えよう。これらは聞き書きが感動的な文学作品にまで昇華している例だろう。

近年では政治学者の御厨貴が、政治家への聞き書きを「現代史のための口述記録」と位置づけ、「オーラル・ヒストリー」という言葉を流行らせた。彼がまとめたものに『宮澤喜一回顧録』『武村正義回顧録』(岩波書店)などがある。
著名な人物の人生記録は、ただにその人物の自分史であるだけではなく、時代の証言であり、音楽業界や、黒人社会やその社会的解放運動の歴史的記録、政治や経済の裏面史などの記録としても重要だ。

しかし聞き書きの対象は必ずしも著名人である必要はない。もう少し一般的に生活者、労働者を対象とした聞き書きも広く存在している。柳田国男や宮本常一などの民俗学では「名もなき庶民」「村の古老」などの語りの文章が、基礎資料として多数編集されてきた。その中には、柳田の『遠野物語』、宮本の『忘れられた日本人』(特に「土佐源氏」や「梶田富五郎翁」)など、文学作品として高い評価を得ているものも多い。作家・塩野米松は、「一人語り」の文体を駆使して仕事をしてきた。『木のいのち木のこころ―天・地・人』は宮大工の棟梁・西岡常一の仕事の聞き書きだ。宮大工の西岡は著名だが、もっと「名もなき庶民」への聞き書きを多数、塩野は世に送り出している。

しかしこの「一人語り」の文体は聞き書きの1つの手法でしかないし、そもそも聞き書きという手法は文学作品を生みだすためにだけあるのではない。もっと一般に、事実やデータを記録するために、学術研究では広く使用されている。民俗学、民族学、文化人類学のフールドワークではもちろん、歴史学の「庶民の歴史」の編纂などでも基本的手法となっている。

そして冒頭に述べたように、この手法は、およそ取材をする場合のすべてで行われている基本中の基本でしかない。ジャーナリストにとって、取材・インタビューは必須の前提だ。本多勝一はこの手法をもっぱらたよりとして『中国の旅』を刊行し、大きな社会的問題提起をしたし、立花隆の『宇宙からの生還』は、宇宙飛行士たちが宇宙で体験した不思議な経験の詳細な口述筆記でしかない。そこには宇宙での経験だけでなく、その後の人生(宗教的伝道者になった人もいる)と絡めて、科学と宗教や人生の深遠な関係が感動的に語られている。
しかし、本来、この手法では、書き手、記録者は、そうした専門家に限定されることはない。普通の人による、普通の人の聞き書きも多数編集され刊行されてきた。戦後の戦争体験の聞き書き集、地域の生活史、会社の社史など、も多数出版されている。

以上で、読者には聞き書きが何かを理解していただけただろう。社会的に大きな影響を与えたものもあり、すぐれた文学作品とされているものも多い。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

第2節 教育手法としての聞き書き

さて、これからが本番だ。私たちが本書で問題にしたいのは、聞き書き一般ではない。この聞き書きを、あくまでも、教育手法として取り上げたいのである。教育と言っても、学術界やジャーナリズムの世界で行っている専門家養成のためではない。ここでは、義務教育課程や高校や大学で行われるべき教育として、すべての人が人生を生きるための基礎的能力の養成としての聞き書きを問題にしているのである。

実は、この教育手法としての聞き書きにも、すでに長い歴史がある。民俗学者の宮本常一は小学校教師の時代にそうした試みをしている。戦前から生活綴り方運動の小学校教師たちも実践してきた。戦後は、父母の戦争体験の聞き書き、父母の仕事の聞き書きなどが広く全国の教育現場で行われてきた。近年では、立花隆が東大の教養学部の学生を指導した、70人近くの様々な分野のトップランナーたちへの聞き書き集『二十歳のころ』(新潮文庫)が有名だ。作家の塩野が高校生の「聞き書き甲子園」を組織して10年以上になる。高校生が森や海・川の名人を訪ねて「聞き書き」をして文集にまとめるものだ。

そして今、その聞き書きがまた注目をあびている。現代の若者たちについては、ニートやフリーターの急増、他者や社会問題への無関心、コミュニケーション能力の低さなどのさまざまな問題点が指摘されている。そうした彼らに、現実社会や仕事の話題を通して、大人たちの生き方に向き合わせ、自分の生き方を見つめる方法として脚光をあびているのだ。
新しい学習指導要領でも、この手法が大きく取り上げられている。事実、この方法で、子どもたちの学習の目的が明確になり、進路・進学の意識が高まり成績も大きく伸びた例が多数報告されている。また、この聞き書きは大学受験の志望理由書や小論文対策としても威力を発揮している。

なお本書では、特に高校生を対象として、この聞き書きの指導法を検討する。もちろん、本書の方法は、そのまま中学生や大学生にも使っていただけるし、小学生や一般社会にも応用していただけると思う。
しかし、だからといって、一般論を述べても仕方がない。私がよく知っている高校生に一応限定することで、諸課題を具体的に述べてみたい。それには高校生特有の問題も含むが、そこには聞き書きに本質的な問題が出ていると考えている。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――