今西錦司の『生物の世界』から学ぶ (その3) 中井 浩一
■ 目次 ■
第2節 『生物の世界』から学ぶ
4.「支配階級」の交代
5.人類の誕生
6.相対主義への転落
7.仲間や師弟関係の問題
なお本稿での『生物の世界』からの引用は「 」で示し、
講談社文庫判のページ数を示した。
そこで強調したい個所には〈 〉をつけ、
中井が補った箇所は、〔 〕で示した。
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第2節 『生物の世界』から学ぶ
4.「支配階級」の交代
さて、地球規模にまで生物の社会が拡大し、その世界が
一応完結した段階を見たならば、そこには支配と被支配の
複雑な構造ができあがっている。そしてすべての頂点に君臨する
生物が存在する。しかし、そこにも交代がある。
「1つの全体社会は、その発展の頂点に達したならば、
それはおそかれ早かれ自己解体を起し、その崩壊によって
今度は新たに別な特徴を持った全体社会が発展しはじめる」
(135ページ)。
この「発展の頂点における自己解体」といった考え方は
ヘーゲルやマルクスを思わせる。今西が使用する用語には、
経済学やマルクス主義の用語が多い。「分業」「階級」などの用語が
中心的な解明の箇所で使われる。生物の進化の過程、その
トップの交代も「支配階級」の交代として説明される。
例えば、恐竜の滅亡後の哺乳類の台頭について、
今西は次のように問いを立てる。
「この一躍時代の寵児となった哺乳類、このような偉大な
創造性を発揮した哺乳類というものは、そもそもどこから
現われてきたのであったか。爬虫類の時代には彼らは
どんな社会の隅に潜んでいたのであるか。そして
どうして他の動物ではなくて彼らが爬虫類を継ぐべき
支配階級となり得たのであるか」(140ページ)。
今西の回答はこうだ。
「哺乳類の時代を建設して行った哺乳類の先祖というものは、
どこから出て来たものでもない、実は爬虫類の時代に
すでにその爬虫類の社会自身のうちに〈胚胎されていた〉
ものと考えざるを得ないのである。つまり爬虫類の社会が
変革を経て哺乳類の社会へ変ったと見るから、そこに
〈断絶されたものがある〉ようにも思えるが、この変革を
通して爬虫類が哺乳類に変態したと見れば、それは
〈つづいている〉のである」(142ページ)。
この「胚胎」という用語や「発展の頂点における自己解体」と
いった語句が、いかにもヘーゲル的な内在的な発展観を想起させる。
生物の主体性を重んじる今西は、恐竜滅亡にも環境の側の問題よりも、
生物の側の理由を根本とする。それが「断続」と「継続」の
関係の説明にもなる。
「〔恐竜滅亡の〕原因はむしろ生物の側にあり、その全体社会の
自己完結性に内在していたものと見なさなければならない」。
この「自己完結性」に、今西は「生物の社会の平衡」や
「全体社会としての全体性」の根拠を見ようとする。
5.人類の誕生
次いで哺乳類の台頭から人類の支配が説明される。
「中生代以後の歴史は要するに支配階級としての脊椎動物共同体の
興亡史でもあり、またその発達史でもある。人間は哺乳類共同体の
中から起り、哺乳類に代って一応は生物の社会の支配階級を占めた
ものであるといえる。それから後の歴史が正しく人間の歴史であろう」
(146ページ)。
そして「人間の次に世界を支配するものは何だろうか」と
問いを立て、次のように答える。
「恐らく人間の支配はまだまだつづくことだろうが、人間の発展にも
限度があると考えられてよいと思う。しかし心配しなくても今の人間に
代って立つべきものは ─もはや人間と呼ばれるべきもので
ないかも知れぬが─ 今の人間の中に〈胚胎〉されていなければならぬ。
〈今の人間の中から〉つくり出されねばならぬ。それが進化史の
教えるところである」(147ページ)。
先にも出てきた「胚胎」という用語が繰り返されているが、
ここに今西とヘーゲルの非常に近い関係がある。しかし
人間が登場する時点で、その違いも決定的になってくる。
今西は人間の次を今の人間に内在化されているとしか言えない。
進化の過程の最終ゴール、終局を示さない。生物進化の原因を、
「主体性」や「分業」の原理や「階級支配」の交代で説明しながら、
それによって究極的には何が達成できるのかを示せない。
端的に言って、人間とそれ以前の生物の違いが明示されず、
人間が生まれたことの意味を示せないのだ。
今西は生物の「自己完結性」を強調する。それは
「任意に他の階級と抗争を起し、他の階級を打ち敗かして
これに代ることのできぬ限定的な保守的な社会」(137ページ)
である。だから、恐竜の死滅の説明にしても
「もっとも可能性の少ないのは、次いで勃興するべき哺乳類との
生存競争の結果、爬虫類が知能的に破れたと考える説」だとし、
「生物の社会における階級としての同位複合社会は、
お互いの間を断絶によって結ばれた関係」だと説明する。
それほどに生物の「自己完結性」は強固なものなのだが、
その中で人間だけが外部に対しても、その内部でも
「任意に他の階級と抗争を起し、他の階級を打ち敗かして
これに代ること」ができるのだ。人間の特異性、異常性は
空前絶後である。
しかし、今西は人間と他の生物との違いの本質を示せない。
ヘーゲルはその違いを、自己意識の有無に見る。
自己意識とは自我であり、内的2分による思考を持つことになり、
それは自己内の葛藤、社会内部の闘争を必然にした。
これが他の生物との決定的な違いである。
また、人間が生まれたことの意味を、ヘーゲルならこう言うだろう。
「自然の真理が人間だ。この地球は自らの真実を実現するために、
その真実を認識し実践する可能性を持った人間を生んだのだ。
人間が生まれたのは必然だった。私たち人間の使命は
『地球の真理の実現』にある」。
地球の進化、発展は、次のような過程を経てきた。
地球(物)→生命。生命内でも、単細胞→植物→動物。
動物内では、魚類→両生類→爬虫類→哺乳類。
哺乳類内では、サル→霊長類→人間といった過程である。
この過程の中に、個々の偶然的な要素があったとしても、
基本的には人間が生まれるまでの過程は必然的な過程だった。
進化の過程は、最終的には人間を生むことで第1段階を終了する。
次の過程は、人間によるこの過程の意味の認識と、
その意味を実現する過程に移る。
人間が生まれたことは、第1段階のゴールであり、
それまでの進化の個々の過程とは決定的に違う。
霊長類から人間の発生は、一歩の違いだが、絶対的な違いである。
6.相対主義への転落
こうしたことが今西にはわからない。それは今西や彼の弟子たちが、
霊長類の研究から人間社会を解明しようとしたことによく現れている。
今西たちは、チンパンジーなどの霊長類の社会から人間社会を考える。
また狩猟採集社会や遊牧民たちの社会の研究から現代人の社会構造を考える。
それは原理的に不可能だ。そのことがわからない。
マルクスが「人間の解剖はサルの解剖のための鍵である」と
述べたことは有名だが、今西たちは
「サルの解剖は人間の解剖のための鍵である」と言うのだ。
それはどこまで正しいのか。
一般に言って、発達した動物や社会は、未発展の段階の
動物や社会を考えるための大きな手がかりになる。
未発達の段階にあっては、その様々な要素のうちの
どれが将来につながる芽なのかは分からない。
しかし、発展した段階を知ってから過去を振り返るならば、
未発達の段階のどの要素が将来につながるものだったのかが明らかになる。
では、その逆はどうか。
ヒントにはなっても、解明にはつながらないだろう。
未来は過去の単純な延長上には存在しないからだ。
社会の発展は過去のそのままの延長ではなく、
必ず「否定」(今西の「断絶」)がつきもので、
しかもこの否定にこそ新たな展開、つまり真の発展の芽がある。
しかも「否定」(「断絶」)されうる点はたくさんあり、
そのどれが発展へとつながるものかは過去の時点だけでは
予測が難しい。
発展を考えるには、それが発展の芽かどうかを判断する客観的な
基準が必要である。しかし、今西はそれに明確には答えられない。
それは今西の発展観には曖昧な点があり、不徹底であることを意味する。
ヘーゲルの発展観は、「移行(違い=否定)の運動が、
本質に反省する運動になっているときに、それを発展という」
というものだ。
「本質」への深化が実現しているかどうかが決め手になる。
では本質とは何か。地球の真理とは何か。
それが研究されねばならない。
一元論も絶対的なものなら究極目的(地球の真理)を示さねばならない。
そうでないと、相対的な目的しか示せず、相対主義に転落する。
それは本来の一元論ではない。
今西は、相対主義に落ち込んでいるのではないか。
今西の考えでは「生物の多様性」「生態系の安定性(平衡性)」
「多種類の生物がこの地球上に繁栄する」といった曖昧な基準が
ゴールになりかねない。それは現代のエコロジー運動、
環境保護運動などに共通する弱点ではないか。
では、今西のダーウィンの進化論批判をどう評価するべきか。
「ダーウィンの進化論」を本書で取り上げている限りのものと
するならば、それへの反論としては、これで十分に有効だと思う。
それは機械論に対する目的論の優位性ということだ。
今西の優れた点は、地球の一元的な発展の立場に立ち、
それを基礎に置く目的論に立っていることだ。そこから見た時に、
機械論的な説明の欠陥は明確に見えてくる。
しかし今西にはダーウィンの進化論(自然淘汰説)の正しい面が
見えていないように思う。それはこの世界内や生物の世界内部の
対立や矛盾こそを進化を促す中心的な要因としてとらえている点であろう。
7.仲間や師弟関係の問題
以上の今西の理解の不十分さは、その学問内容だけではなく、
研究集団のありかたの問題を論理的にとらえられないことにも出ている。
研究組織論や師弟関係論がないということだ。
人間社会に絶対的な矛盾と闘争があることを自覚すれば、
それはチームや師弟関係の中にも当然現れることになる。
そこにも下剋上の問題がある。弟子は師を追い抜くことで自立するが、
この過程で様々な葛藤が起こる。
世間でよくおこっている研究不正もここに根を持つ。
弟子の業績を奪うような教授の問題も、その逆もある。
その問題が今西にも起こっている。
例えば、梅棹忠夫の業績を今西が自分の物として
発表したことがあったようだ(梅棹自身がその不満を
述べていたが、今その出典が見つからない)。
なお、『生物の世界』(講談社文庫)で上山春平が執筆した
解説についても一言。
上山は京大人文研で今西の同僚で共同研究の仲間だったらしい
(第3節の「2.桑原武夫の功績」で触れる)。
しかし『生物の世界』での解説は、今西との正面からの対決を避け、
自分の専門の哲学的認識論の枠内でのみ発言している。
『生物の世界』の中で、認識論や世界観が描かれている
1章についてだけ詳しく解説して、その核心である4章(生物の世界の構造)、
5章(生物の進化)については賛否を言わず、当たり障りない範囲の
触れ方しかしていない。
これは今西の「棲み分け」理論の応用とも言えよう。
哲学にはコメントするが、生物学にはコメントしないという
棲み分けをしているからだ。
これは、上山が今西の賛美者としての役割に徹したともとれるが、
その批判者としての役割を放棄したことを意味する。
文庫の「解説」は初心者にわかりやすく説明する場で、
思想的対決をする場ではないと弁明するかもしれないが、
それは「逃げ」でしかない。
上山は、今西が西欧の物まねではない「自前の理論」を
作ったことを評価し、それを学んでほしいと解説で説教している。
それならば、今西の受け売りをするのではなく、今西を
きちんと批判することで、自らその範を示すべきだった。
それでこそ、本物の解説になっただろう。
こうした姿勢は、今西生前の全集の上山による解説
(5巻、10巻)でも同じだ。
それは自立した研究者のすることではないだろう。
しかし、こうした上山を批判せず、自らの取り巻きの一人として
置いておくのが、今西のやり方なのだ。
(今西死後の全集増補版の12巻の上山の解説には、
今西への厳しい言葉もあるが、「死後」であることに注意)