10月 28

高山寺明恵上人の「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」

2014年10月16日に、京都博物館で「国宝鳥獣戯画と高山寺」展を見た。
高山寺の明恵上人を改めて強く意識した。
鳥獣戯画が高山寺に残された背景に、明恵が存在していることを意識したからだ。

明恵については以前から気になっていた。
河合隼雄が『明恵 夢を生きる』を出していて、
青年期から晩年まで膨大な夢日記を残していることを知っていたからだ。

今回の展示で、
明恵が傍らに置いていたイヌやシカの彫刻も愛くるしかったし、
聖フランチェスコのような「樹上座禅図」(明恵が自然の中で、リスや鳥たちに囲まれて座禅をしている)も面白かったし、
「仏眼仏母像」(明恵が身近に 置いた持仏像で、亡くなった母と仏が重なっている)も鮮烈だった。

展示の中で気になったのは、
明恵が周囲に置いていた画僧と協力して華厳宗の新羅の2人の坊主を主人公にした2つの絵巻(国宝です)を作っていたことだ。
なぜ、中国の偉い僧でなく、新羅の僧なのか。

帰ってから
白洲正子の『明恵上人』
河合隼雄の『明恵 夢を生きる』
上田三四二『この世 この生』の「顕夢明恵」
を読んだ。
いずれも面白かった。

新羅の2僧は、明恵の自己内の2つの自己なのだとわかった。

今回、初めて華厳宗に触れた。
華厳宗についてはまだ不明だが、
「あるべきようわ」を問う明恵には、強く共振するものがある。

「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」は明恵の座右の銘であり、「栂尾明恵上人遺訓」には以下のようにある。
 「人は阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)の七文字を持(たも)つべきなり。僧は僧のあるべきよう、俗は俗のあるべきようなり。
乃至(ないし)帝王は帝王のあるべきよう、臣下は臣下のあるべきようなり。このあるべきようを背くゆえに一切悪しきなり」。

 河合隼雄は『明恵 夢を生きる」で次のように説明する。
「『あるべきようわ』は、日本人好みの『あるがままに』というのでもなく、また『あるべきように』でもない。
時により事により、その時その場において『あるべきようは何か』と問いかけ、その答えを生きようとする」。

「あるがママ」でも「あるように」でもない。
他方で、「あるべきように」でもなく、「あるべきようわ(何か)」である。
「ある」=存在を問うことが生き方(当為)を決める点が真っ当だと思う。
「ある」といっても、ただの現象レベルが問題になるのではない。
存在の本質に迫ろうというのだ。そのためには、現実や自分や他者に働き掛けつづけなければならない。
「あるべきようワ」という表現には、「あるべきよう」を自他と現実社会に問いづけ、
存在=現実=理念の形成を促し、その中に参加し、没入しようとする、明恵の姿勢がはっきりと示されている。

存在と現実と理念が1つであること、
夢(無意識)と現実(意識)が1つであること。
明恵はそれをよく理解し、それを生きたようだ。
つまり理念を生きたと言えるだろう。
私はヘーゲルを思っていたが、
その点になると、
河合はバカな二元論者になってしまうと思った。

明恵は栄西などの宗教者だけではなく、西行とも親しかったようで
すごい歌がある。

あかあかやあかあかあかやあかあかや
あかあかあかやあかあかや月

これはまさに
言葉が生まれるところから
生れていると思う。

7月 30

いつものように今年も夏の合宿を行います。

以下のような内容です。

参加希望者は連絡をください。詳細をお伝えします。ただし参加には条件があります。

? 日程
8月21日(木)から24日(日)の日程で、山梨県の八ヶ岳の麓の清里で、合宿を行います。
一部だけの参加も可能です。

? 学習メニュー 

(1)8月21日、22日は
ヘーゲルの原書購読です。目的論(大論理学)を読みます

(2)23日、24日は
ヘーゲルの『法の哲学』第1部、第2部、第3部(中公クラシックス版。私は『世界の名著』版で読みます)を読みます。
「序文」「緒論」はすでに7月の読書会で読みました。

(3)8月22日、23日の晩にはそれぞれ「現実と闘う時間」(各自の報告と討議)を行います。

5月 08

毎週月曜日のゼミを、しばらくお休みにしていましたが、5月12日から再開します。

参加希望者は早めに(1週間前まで、ただし全く初めての参加者は2週間前まで)連絡ください。
ただし、参加には条件があります。

参加費は1回3000円です。

午後5時からは関口存男著『定冠詞』を読みます。
冒頭から読んでいきます。すでに昨年に読み終えていますが、
今年の1月に『無冠詞』を読み終えて、新たな観点を持てたので、
再度、『定冠詞』を読み直します。

午後7時からはヘーゲルの大論理学・目的論の後半(ズールカンプ社版全集第6巻、445ページから)
を読みます。毎回2、3ページほどを読みます。

5月12日の後は、
19日は実施、
26日はお休みしますが、
6月2日、9日、16日と続けます。

10月 18

今年の夏の集中ゼミでは、マルクスの『資本論』の第1篇「商品と貨幣」と
 第2編「貨幣の資本への転化」を読みました。

 第1篇「商品と貨幣」は一番難解とされています。
 この30年近く、何度も読んできた部分を、今、どのレベルまでマルクスの真意に迫り、
 それをヘーゲルの論理学の視点から批判できるかが、勝負だと思って読みました。

 マルクスのやろうとしていることがわかるようになってきたと、感じました。

 驚いたのは、第1篇「商品と貨幣」では、
 商品交換から貨幣が生成した必然性の証明を目指しているのに対して、
 第2篇「貨幣の資本への転化」では、
 貨幣から資本が生成した必然性の展開になっていないことです。
 ここでは単に、「貨幣による商品の等価交換」と
 「貨幣の増殖という資本形成の過程」の矛盾を示して、
 その矛盾を説明するものでしかないのです。

 このために、本当に第1篇「商品と貨幣」での
 商品交換から貨幣が生成した必然性の証明が必要だったでしょうか。

 その他、今回考えたことをまとめました。

■ 目次 ■

1.マルクスの『資本論』の第1篇「商品と貨幣」、第2編「貨幣の資本への転化」の内在的論理展開
(1)第1篇
(2)第1篇内部の1章から3章の展開の意味
(3)第1篇内部の1章の「判断」と3章の「推理」との関係
(4)第1篇第1章内部
(5)第1篇第1章第4節と第2章
(6)第1篇第1章の本来の展開(代案)
(7)第1篇第1章の第3節
(8)第2篇

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1.マルクスの『資本論』の第1篇「商品と貨幣」、第2篇「貨幣の資本への転化」の内在的論理展開

(1)第1篇
 【1】目的は貨幣の生成の必然性の証明
  そのために、まず商品交換の矛盾を指摘し、その矛盾から貨幣が生成するまでを展開する。
 【2】この第1篇は、ヘーゲル論理学そのもの。
  マルクスのヘーゲル批判の激しさと、ここでのヘーゲル論理学への追従ぶりの激しさとのギャップ。
 【3】この第1篇で、商品の使用価値と交換価値への分裂、労働の二重化の説明をするが、
  それが剰余価値を発見するための前提だった。それが4章で明らかになる。

(2)第1篇内部の1章から3章の展開の意味
  1章は商品交換から貨幣が生成する必然性の論理的証明
  2章は、その貨幣の立場からの生成過程の歴史的振り返り
  3章は、貨幣自身の論理的展開

  これはヘーゲルの論理学における3構成法の踏襲
  【1】生成の必然性の展開 〔生成史〕
  【2】その成果の立場からの振り返り
  【3】その成果自身の展開 〔展開史〕

(3)第1篇内部の1章の「判断」と3章の「推理」との関係
 【1】第1篇は第1章の商品交換(物々交換)から始めている。
  この資本論はブルジョア社会を前提としている。
  そうであれば、ブルジョア社会では物々交換は例外であるからおかしい。
  実際のブルジョア社会での商品交換は実際には貨幣を媒介している。

 【2】しかし、そもそも貨幣の生成過程の説明をしたいのだから、
  貨幣による媒介の段階から始められない。
  そこで貨幣による媒介が外在化せず、まだ内的で潜在的だった段階の物々交換から
  始めるしかなかった。

 【3】この物々交換の場合から始める点だけは、歴史的始まりでもある。
  これは商品交換(物々交換)が歴史的始まりだが、同時に論理的始まりでもあるから。

 【4】第1篇内部の1章「判断」と3章「推理」の関係
  これを概念論でとらえれば、3章は3項からなる推理で、
  1章は2項からなる判断である。
  そして、判断の矛盾が顕在化したのが推理であるという
  ヘーゲル論理学と同じ展開である。推理は判断の止揚なのだ。
  だから判断の2項から始めるしかなかった。

 【5】しかし、マルクスの説明はそうなっていない。
  マルクスは、判断から推理へと言う論理展開を意識できなかったのかもしれない。
  または読者にそうした理解を前提できなかったのか?
  マルクスが理解できなかったとして、それでも事実上、
  ヘーゲルの概念論の展開を行えたことは、マルクスがいかに深く、
  ヘーゲルの方法と能力を身につけていたかを示す。

(4)第1篇第1章内部
  第1節、第2節は、教科書的に、
  商品とその商品を生む労働の内部矛盾(議論の前提)と労働価値節の説明。
  それをまるで定義のような「断定」の形で置く。(「断定は科学の敵」牧野紀之)
  この唐突さはマルクスの本意ではなかったろう。
  読者にとっての「わかりやすさ」のために、こういう展開にしたのではないか。

  第1節、第2節を前提にして、商品の内部矛盾から貨幣を導出するのが第3節。
  ここで、この1節から3節までは、論理的証明。
  それに対して4節は何か。歴史的説明のようだ。

(5)第1篇第1章第4節と第2章
  ともに歴史的過程の確認、それを反映する経済学史の確認である。
  マルクスは、自分の論理的説明に、これらを対置している。

  違いは、4節は、商品内の価値=労働時間(労働価値説)の、
  歴史的展開(事実)と、経済学(事実の理論的反映)の発展の振り返り。
  (つまり第2節への注釈)
  2章は、商品交換→貨幣→金貨の歴史的過程と、
  貨幣の生成の必然性を問わないブルジョア経済学への批判
  (つまり第3節への注釈)

(6)第1篇第1章の本来の展開(代案)
  冒頭に、「問題提起」として、第1章第4節と第2章の内容を置く。
  つまり、商品交換→貨幣→金貨の歴史的過程と、
  商品内の価値=労働時間の歴史的展開。

  次に、それをとらえる経済学の発展の振り返りをして、

  最後に、アダムスミス以来のブルジョア経済学の意義と限界をまとめる。
  その限界を克服するには、論理的説明が必要で、
  それを行ったのがマルクス自身の経済学だとする。
  以上が冒頭の「問題提起」。

  この答えとして、第1篇の第1章の第1節から第3節までを出す。
  そうすれば、第1節、第2節の唐突さもなくなる。
  このように、歴史と経済学史からの問題提起と、
  その答え(論理的展開)とすれば、自然な展開になる。

(7)第1篇第1章の第3節
 【1】論理的説明だが、内在的と言うよりも、機械的(悟性的)な説明になっている
  ・AからBが部分と全体の関係
  ・BからCが「反転」という説明
  ・CからDが「置き変え」

 【2】本来はAとBの交換に内在する矛盾が、顕在化し自己展開したと書くべき
  この分裂、矛盾を全面展開したのが、今のブルジョア社会と、説明するべき

 【3】交換(判断)そのものは本質論なのだが、その内部でのマルクスの説明は、
  存在論のカテゴリーがほとんど。
  質と量、悪無限からの止揚(独立存在)で説明している。

(8)第2篇
 【1】「貨幣から資本への転化」というタイトルだが、
  貨幣から資本の生成の必然性の証明にはなっていない。

  商品と貨幣の等価交換という仮象の中に、本質(秘密=剰余価値)を
  見出したという書き方。つまり推理小説のような面白さ。

  商品交換における使用価値と価値との対立から、
  論理的に「新たに使用価値そのものを生み出すような使用価値である商品」を
  さがすことになり、それが「労働」という商品だった、という展開。
  W-WからW-G-Wを出し、次のG-W-Gとの矛盾を示した。

 【2】なぜ、資本の生成の必然性を展開しなかったのか。
  当時は、それが無理だったからか。
  しかし、それなら、貨幣の生成の必然性を示すことにどれだけの意味があったのか。
  
 【3】マルクスの思考は、概念論よりは、本質論の範囲で動くことが多いように思える。
  用語では存在論のものが多い。そこに問題がある。
  しかし、ヘーゲルの用語を振り回す誰よりも、
  ヘーゲルの考え方を実行しているのもマルクスだ。
  貨幣の生成の必然性、資本主義社会の没落の必然性を書いたことがそれだ。

 【4】唯物史観と剰余価値の発見
  マルクスは剰余価値の発見を、自分の経済学史における最大の功績と考えていた。
  マルクスは、自らがプロレタリアートの立場に立っていることを、
  自分が剰余価値を発見できたことで確認できたと考えていただろう。
  ブルジョア経済学では無理だったと考えていた。

  しかし、剰余価値の創造には、プロレタリアートだけではなく、
  ブルジョアも多大の貢献をしている。それをまったく無視するのはおかしい。

 【5】剰余価値の発見には、第1篇の商品の使用価値と交換価値への分裂、
  労働の二重化が前提だった。それが4章で明らかになる。

9月 02

猛暑、集中豪雨の異常気象の8月も終わり、やっと秋になりましたね。

みなさんはいかがお過ごしですか。

この夏休みの成果はどうでしたか。

私の方は、8月に2日間の集中ゼミを開催し、マルクス『資本論』(第1巻第1篇と第2編)を読みました。
これからの研究のための前提を確認し、その足場を作ることはできたと思います。
詳しいことは、また報告します。

今回のメルマガで社、秋の学習会のスケジュールと読書会テキストをお知らせします。

参加希望者は早めに連絡ください。参加には条件があります。

(1)毎週月曜日のゼミ
9月16日より開始

 ?日本語文献の読書会
  関口『無冠詞論』
 ?ドイツ語原書講読
  マルクスの「労働過程論」(『資本論』第1巻第3編第5章)を読み
  その後ヘーゲルの「目的論」(『小論理学』)

(2)毎月のゼミの日程とテキスト

9月14日 文章ゼミ+現実と闘う時間
9月28日 読書会(マルクス『資本論』第1巻第1篇+岩井克人)
10月12日 文章ゼミ+現実と闘う時間
10月26日 読書会(高島善哉著『アダム・スミス』岩波新書 青版 674)
11月9日 文章ゼミ+現実と闘う時間
11月23日 読書会(アダム・スミス『国富論』? 中公文庫)
12月7日 文章ゼミ+現実と闘う時間
12月21日 読書会(アダム・スミス『国富論』?、? 中公文庫)
12月某日 今年1年の振り返りと忘年会

(3)9月の読書会について
8月の集中ゼミではマルクス『資本論』(第1巻第1篇と第2編)を読みました。

9月の読書会は、この補講の意味があります。しかし、これだけ単独での参加も可能です。しかし、これだけ単独での参加も可能です。

? 参加者には全員にレポートを求めます
1つテーマや「問い」を立て、それについて報告すること
大きなテーマや「問い」である必要はない
気になったこと、気付いたことを、少し調べたり考えて、報告すればよい

? 岩井克人のマルクス批判のテキストを考える時間を取ります。

(4)10月から12月の読書会とテキストについて
 古典派経済学の創始者アダム・スミスの『国富論』を読みます。
 スミスはマルクス『資本論』の前提の労働価値説の創始者でもあります。

 新たに経済学が生まれてきた時代背景を知り、その時代の経済問題と雄々しく闘ったスミスの戦いぶりを、読んで考えてみたいと思います。

高島善哉著『アダム・スミス』岩波新書(青版 674)は古いですが、アマゾンで 「中古品」として簡単に購入できます。

アダム・スミスの『国富論』は、岩波文庫版ではなく、中公文庫版で読みます。
訳文の点と共同研究が背景にある点で、そうします。

以上