昨年12月29日には、ゼミ生と1年の振り返りをしましたが、
そこで話したことをまとめました。
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人が行動することは、自分が何者かを明らかにする
— 「概念の生成史」と「概念の展開史」 —
「意識(人)が行動しなければならないのは、自分の潜在的な姿を
意識の対象にするためでしかない。意識は自分の行動の結果としての現実から
自分の潜在的な姿を知るのである。したがって個人が行為を通して
現実にもたらされるまでは、個人は自分の何たるかを知ることはできないのである」
(『精神現象学』第5章理性論、第3節「絶対的に実在的だと自覚している個人」。
牧野紀之訳、未知谷版574ページより)。
これはヘーゲルの発展観そのものの表現だと思う。そしてヘーゲルの発展観を
理解するには、「概念の生成史」と「概念の展開史」の関係を考えねばならない。
ヘーゲルは、そのものが何なのか(その本質、すなわちその生成史)は、
そのものの生成後の自己展開で明らかになると言う。つまり、その展開史で
その生成史の意味が明らかになるのだ(『精神現象学』の序論にある。
鶏鳴会通信107号を参照されたし)。これは「類」の進化において言われるが、
それはそのまま類の中の個別における成長過程でも言えることだ
(これが『精神現象学』の大きな枠組み)。
私たち人間は、いつもそれまでの人生を背負って生きている。
ある年齢に達して、今、新たなことに挑戦するときに、
過去がそれに大きな影響を与えていることは明らかだ。
その過去は当然意識されており、その振り返りの上で、
未来への決断・選択が行われると考えられている。
過去は記憶されており、自分史として把握できる。
しかし、そうだろうか。記憶から消された過去も多い。
否、大切な過去ほど、意識の奥深くにしまい込まれているのではないのか。
ゼミ生に、以下のようなことが起こった
ある人Aは、私との師弟契約をすることを真剣に考え始めていた。
そのきっかけとしては、それまでの生き方の反省がある。
他人任せで、世間の基準を無自覚に自分の基準としてきたこと。
そして、私と師弟契約をする決断をする際に、忘れていた記憶が
呼び戻されてきた。
それは、その人には以前にも先生というべき人がいたことだった。
本人はすっかり忘れていたが、整体の指導者を事実上の師としていた。
その師のまわりには弟子の集団があって、その中の一員だった。
そして、その師との辛い別れがあった。その師に、あることから
厳しい叱責を受け、不本意ながらも関係は終わった。
その師弟関係が失われたことは大きなショックであり、とても辛いことだった。
当時、その師は、悩みの相談相手であり、いつも親身にこたえてくれた。
その人は、人生の行き先を照らしてくれる大きな燈明だった。
そうしたことがすっかり思い出されてきた。
それらの記憶は大切なことだったはずだが、すっかり忘れていたのだった。
そして、その記憶が浮かび上がってきたときには、それはただ辛く
受け止めがたい記憶ではなくなっていた。その師や弟子集団の問題が
おぼろげに見えていたのだ。そうした相対化の視点は、
私を師とすることで与えられたのではないだろうか。
そして、そうした視点がない限り、その記憶は、
心の奥深くにしまい込まれたままだっただろう。
また、別の人Bには、それまで仕事上の先輩で信頼し尊敬している人がいた。
その人の考え方、仕事の進め方などを、必死で学んできた。
そして、確実にその成果も出て、仕事上でも順調に進んだ。
しかし、次第に、その先輩の不十分な点にも気づくようになり、
生き方や考え方に大きな欠落があることにも気づくようになっていた。
しかし、そうした不満や疑問を口にすることはなかった。
私は、そうした関係は、その大切な先輩に対して誠実な態度とは
言えないのではないか、と注意をした。そこから、改めて、その先輩を
きちんと批判することを決意するようになる。その時に、
すっかり忘れていた親友とのことが思い出されてきたのだ。
大学生の時にその親友とは同じクラブを運営する立場として、
互いに批判しあい、支え合っていた。最初は相手が上だった、
しかし、いつしか相手との関係が逆転し、就職後は、相手を
見下すようになっていた。それでも「親友」としての
いつわりの関係は続けてきていた。
そのことが急に思い出されてくる。そして、そのいつわりの関係を
清算しないではいられない、強い思いがこみ上げてくる。
こうしたことを見ていると、ヘーゲルの言っていたことの意味が
わかるように思うのだ。
「行動」「行為」とは、それまでの生き方に一線を画するだけの
ものでなければならない。
そうした決断の際に、その時点では潜在的だった自分の正体が
はっきりと現れてくる。自分とはもちろん過去の人生によって
作り上げられてきたものだから、現れてきた潜在的本質にも、
それに対応する過去があるのだ。
Bさんについて、ゼミでは「なぜ精算する必要があるのか」
「親友ではなかったとか、いつわりの関係だったとか、
わざわざ言う必要はないのではないか」といった意見も出た。
しかし、そうした過去を清算しないと、私たちは前には
進めないのではないだろうか。過去が私たちをとらえ、
前に進めなくしているのではないか。
精算とは、その親友を切り捨てたり、過去の自分を切り捨てる
ということではないと思う。その失われていた過去を呼び戻し、
その意味づけを変えることなのではないだろうか。
私たちは過去を切り捨てることはできない。
すべてを背負って生きるしかない。
できることは、その個々の経験の全体における位置づけをかえ、
より高いレベルで生き直すための、一歩を進めることだけだろう。
そうした過去の清算ができない限り、それまでの延長線上の生き方、
同レベルの生き方しかできず、発展は不可能なのだろう。
逆に言えば、それまでのレベルを乗り越えて生きていく中で、
過去の一つ一つの経験の意味が、より深いレベルで明らかになる。
一歩前に進むたびに、1つ上のレベルで経験の意味を捉え返し続ける。
それを繰り返していくことで、過去の全体が構造化され、
その意味が透明なすがたとして現れてくる。
これがヘーゲルの「展開史でその生成史が明らかになる」の
意味なのではないか。
これを世間で言われていることを比較してみよう。
世間でも「過去を反省せよ」とか「過去の振り返りをせよ」とか言われる。
それによって、今の選択についてどうしたら良いかわかるし、
未来の方向付けもできる、と言うのだ。
ここにないのは、「生成史」とは別の「展開史」という考えであり、
この両者を統一的にとらえる観点なのだ。だから「反省しなさい」や
「過去の総括文」には無意味なことも多い。
むしろ、嘘を書かせるだけなので、有害なことの方が圧倒的に多いのだ。
また、過去に執着して前に進めない人が多数存在していることを
どう考えるか。実際には、過去にこだわり、生い立ちにこだわっている人で、
前に進めないでいる人が多い。「過去の反省」は、
こうした人に対しては無力なのではないか。
人が前に進むときにだけ、意識の奥底に隠してきた過去の記憶が
浮かび上がってくる。前に進むことなく、過去をとらえようとしても
無理なのではないか。
「大切なことほど意識の奥底に隠されている」と言えば、
すぐに「精神分析」を思い出す人もいるだろう。
そこでは様々な手法によって記憶を探り出し、新たな視点から
過去の人生の全体を捉え直そうとする。しかし、この「新たな視点」は誰が、
どのように与えるのだろうか。そうした曖昧さや危険性に反対する立場からは、
他の手法がさまざまに提案されている。
しかし、いずれにしても、大切なのは「生成史」と「展開史」の
両方の視点であり、この両者を統一的にとらえる観点なのだと思う。
そして、人が先に進むためには、これらについての認識の深まりが必要である。
そしてそのためには認識能力の高まりが必要であり、その能力を高める過程と
その保障が必要になるだろう。その回答が「先生を選べ」であることは、
すでに繰り返し述べてきた。