12月 08

東北の取材

12月5日、6日は仙台の東北大学、7日は福島大学の取材をしてきました。

いよいよ原稿の締め切りが近づきました。

『中央公論』の来年の2月号に掲載予定です。

東北の被災地の国立大学の動きをまとめ、法人化との関係を考えます。

11月 16

大修館書店のPR誌『国語教室』秋号が刊行された。
今回は「聞き書き」特集だ。

私は立花隆氏へのインタビューをし、塩野米松氏と対談をした。
他にも、私の関わっている表現指導の研究会の関係者が執筆陣に並んだ。

高校の国語科の先生方には無料で配られるので
是非、読んでみていただきたい。

全国で、これをきっかけに
聞き書きが行われることを
期待している。

高校と無関係の方も
大修館に問い合わせれば
入手できるはずです。
一応定価は320円

7月 26

この夏、全国の3箇所で、小論文に関する講演をします。

第一学習社主催の小論文に関する講演会です。

新しい学習指導要領がもたらす大きな変化と可能性の話から初めて、小論文に関する一般的な考え方について話をします。
その上で、具体例として、昨年の指導例をお話しします。聞き書きから、その一般化による小論文指導の例です。

以下の日程です。

■7月27日(水) 横浜駅「かながわ県民センター」
第一部講演 13:00?14:30

■8月2日(火)静岡コンベンションアーツセンター・グランシップ(最寄駅は東静岡駅 徒歩5分)
第一部講演 13:30?14:30 
第二部座談会 14:50?16:30

■9月2日(金)札幌市教育文化会館(最寄駅 札幌駅)
第一部講演 13:30?14:30 
第二部座談会 14:50?16:30

参加希望者は以下に問い合わせをしてください。

第一学習社 教育部
小論文事業部
〒113-0023
東京都文京区向丘2-28-12
TEL 03-5803-2134 FAX03-5803-2137

5月 15

「子どもは親の所有物ではない。社会からの預かりものだ」

今回掲載したのは2008年に某雑誌に依頼された原稿ですが、家庭と学校の関係を人類の立場から原理的に検討しています。

モンスターペアレントや学校の校則や閉鎖性の問題について、いまだに解決の方向が見えない今、改めて、読んでいただきたいと思い、掲載します。

この考え方は、「原理的」であること、「人類」という視点、「発展の立場」から見ている点で、参考にしていただけると思います。

1. 時代の転換点
 学校に対して、理不尽な要求をする保護者が増えているらしい。その際の親の態度にも大きな問題があるようです。この問題については、小野田正利・大阪大教授が『悲鳴をあげる学校』で取り上げ問題提起をしてきました。その後この問題について様々な論者が論じるようになっています。
 しかしその議論はまだまだ混乱していて、問題の本質に十分には迫れていないように思います。ここらで問題を整理し、確認すべき原則や運営上のルールなどをはっきりさせる必要があるでしょう。
そもそも、こうした問題が起こり、その議論が錯綜するのは、今が時代の転換点にあるからです。そのために、学校も家庭も地域も、行政も政治も、この社会全体が目標を見失い、漂流しているのではないでしょうか。

2. 家庭が壊れている
 学校への理不尽なクレームや要求をする保護者が増えている背景には、明らかに家庭の変質、親子関係の変質があります。
 「子どもの親殺し」「親の子ども殺し」が盛んに報道されるようになりました。「子どもの親殺し」で私が一番不思議なのは、そんなに追いつめられているのに、なぜ家出をしないのか、ということです。本当にどうして彼らは家を捨て、親を捨てないのでしょうか。おそらく、子どもにはそうした発想すらないのだと思います。それほどに親子の一体化が進行している。そう私は考えています。
 一方の「親の子ども殺し」もそうです。児童虐待や育児放棄(ネグレクト)でも、親が子どもと一体化しているように思えてなりません。この対策として「赤ちゃんポスト」は有効だと思います。「殺す」前に、「他人(社会)に預ける」選択肢があることを示すことになったからです。子どもとの一体の世界から逃げる方法を、親にはっきりと示せたからです。
 昔から「わが子」という言い方がありました。親にとって子どもは自分の所有物のように感じられるようです。そこに他者が入ることのない一体の関係です。これは無償の愛ともなるのですが、自他の区別がなく、子どもが別人格であることを理解しないことにもなります。現代はこうした親子の一体化、共依存関係が進行しているために、子どもの親離れ、親の子離れが極めて困難になっています。
 他方で、この数年でビジネスマンの父親をターゲットにした子育て情報雑誌が多数出版されるようになりました。経済紙誌の「お受験キッズ誌」です。私立中高一貫校の受験に成功した子どもの家庭を紹介し、受験情報を提供するものです。
 これは児童虐待とは反対のあり方に思われます。しかし、親子一体の強化という意味では同じ事態が進んでいるのではないでしょうか。これまでの母子一体化に父親までが加わったのです。母子一体化を壊す役割は、他者(社会)を代表する父親が担っていました。その父親までが家庭の一体化に加担してしまうと、そこには他者がいなくなってしまいます。親離れ、子離れが極めて困難になっているのです。
 保護者から学校への無理難題が急増している背景に、こうした家庭の変質があることは明らかでしょう。

3. 学校の変質
 家庭の変質の一方で、学校を取り巻く状況もすっかり変わってしまいました。それは、時代が大きく変わったということです。高度経済成長の社会は終わり、低成長下で先の読めない社会になったのです。
 高度成長期の社会は単純でした。戦争に負け、皆が一様に貧しい中から始まり、皆が一生懸命に働きました。社会の目標は「豊かになる」ことで、それに向けて、上から下まで、皆が横並びで生活していたのです。こうした時代には、社会全体の価値観は単一で、そこでは教育の目標も明確でした。学校は社会的な価値観の体現者であり、地域のリーダーでした。
 しかし、そうした時代は終わりました。今はもう「豊かさ」は達成し、それゆえに社会の単一の目標はなくなりました。もはや皆が一律に横並びで生きることはできません。価値は多様化し、各自が自分の生き方を模索するしかないのです。
 学校には以前のような権威はありません。昔は学校は地域のリーダーで、保護者たちはみな従ってくれました。今は、学校と保護者は対等です。
 そうした中で、親たちからの学校への要求が問題になってくるわけです。価値が多様化した中で、学校と保護者が話し合う新たな原則、ルールが問われているのです。
 このことを確認するためにも、今の議論の不十分な点を挙げておきましょう。先ず第一に、保護者から学校へのクレームや苦情が増えていること自体を問題にする人がいますが、それは間違いだと思います。むしろ、それは大いに歓迎すべきことです。苦情が「理不尽」であろうがなかろうがです。多数の異論の表明があることは正しいことなのです。以前の主従関係よりも、はるかに高い段階になったのですから。問題は、その対応方法が確立していないことだけだと思います。
 第二に議論が保護者から学校への苦情の話に限定されていることを、指摘したいと思います。学校から家庭への懸念や苦情の処理の仕方と合わせて考えるべきでしょう。学校のチェックだけではなく、家庭のチェックも必要です。なぜなら、今の家庭は多くの問題を抱えているからです。特に、親子の一体性は大きな問題で、外にチェック機能が必要だと思います。それが学校や塾などに求められます。

4. 子どもの教育権は親にあるのか、学校にあるのか
 親と学校の関係を検討するために、原理的なことから考えましょう。この問題を突き詰めて考えると、ついには次の問題にぶつかります。子どもの教育権は親にあるのか、学校にあるのか。
 先ず、教育を家庭教育と学校教育とに分けて考えましょう。家庭教育とは主に小学校までに家庭によって行われるもので、しつけや生活態度、学ぶ姿勢など、すべての教育の基礎になるものです。この責任主体は親(親権者)です。
 学校教育とは、家庭教育の上に、社会に出ていくための基礎教育(読み・書き・そろばん、基礎知識)を行うもので、その責任主体は学校です。この学校は行政上は、教育委員会や文科省(国家)にもつながります。
 さてここで、この教育主体を、より根源的にとらえて社会、究極的には人類とまで突き詰めて考えておきたいと思います。子どもの教育権は人類にあるということです。一方の学習の主体も、直接的には子どもたちですが、これも究極的には子どもの学習権は人類にあると考えたいと思います。
 教育主体は人類である、とまで突き詰めて考えておかないと問題がおこります。もし家庭教育でその主体を親とするだけなら、一部のダメ親を肯定することになりかねません。学校教育の主体を学校や教員とするだけだと、一部の管理教育や、「自由」の名の下の手抜き教育を是認するだけになります。教育全般の主体を教育委員会や国(文科省)とするだけだと、文科省の言いなりの地方教育行政や、かつての排外的軍国主義教育の是認になりかねません。
 つまり、親も学校も、地域や国家も、人類から人類の使命を実現する一助としての教育を委ねられていると自覚し、繰り返しその使命を反省しつつ活動すべきなのです。
 私たち人間は、この社会を発展させるために生まれてきたのです。人類の使命に貢献できるように学習し、大人になってからは教育をする権利と義務も担っています。
 子どもは親の所有物ではありません。子どもは次の時代の社会の働き手であり、社会(人類)からの預かりものです。したがって、別人格として尊重し、大切にしなければならないのです。

5. 話し合いの原則
 以上を踏まえた上で、価値が多様化した中で、学校と保護者が話し合う原則を考えましょう。ここで大切なのは、一方で多様な価値観と思想の自由を認め合いながらも、その一方で社会の規律、ルールをしっかりと守り合うことです。この両者を混同せず、区別した上で守ることが重要になっています。
 保護者が学校に疑問を持ったらどうしたらいいのでしょうか。
 ?学校教育の主体は学校です。したがって、親は子どもを学校に預けた以上は、学校の裁量権の範囲内のことについては、学校の最終決定に従わなければなりません。
 ?ただし、最終決定までには、学校と保護者は十分な話し合いをする必要があります。
 同時に、家庭教育についても考えておきましょう。学校が家庭教育に疑問を持ったときはどうしたらいいでしょうか。
 ?家庭教育の主体は両親(親権者)ですから、学校は、両親の裁量権の範囲内のことについては、両親の最終決定に従わなければならなりません。
 ?ただし、学校と保護者は十分な話し合いをする必要があります。
 ここで「学校の裁量権」とは、学校教育における、憲法や教育基本法などの法律違反以外、学校が掲げている教育理念や教育方針などへの違反以外のすべてです。「親の裁量権」も、家庭教育における、憲法や法律違反以外のすべてのことになります。憲法や法律違反に関しては、本来は話し合いの領域ではなく、警察に任せるのが正しいと思います。
 さて、こうした原則から見て、今の現状はどうなっているでしょうか。学校教育について考えれば、今は?の面がほとんど理解されていません。しかしこれが守られなければ学校教育は成立しません。ただ混乱するだけです。この点は保護者にもよく理解してもらわなければなりません。そうした一方で「学校と保護者の十分な話し合い」が保障されなければなりません。しかし「十分な話し合い」を行えば、家庭教育が問われることもあるでしょう。問題があったときに、悪いのは学校だけとは限らないからです。家庭の責任が問われることも多いはずです。保護者の方々は、学校に向けた刃はそのまま自分に返ってくることを自覚しておくべきです。
 ところで、学校教育の問題では、「保護者は学校の最終決定に従わなければならない」と言いました。なぜでしょうか。
 学校が最終的な決定権を持つのは、学校や教師が「正しい」からではありません。それは簡単には決められないので、学校教育の権限を持つ側に委ねておくという意味です。価値の多様化が前提とされる社会では、どちらが「正しいか」はもはや議論で決めることは無理だからです。
 ただしその時に考える基準として、学校や保護者の都合ではなく、当の子ども本人にとって一番良いことは何かを考えて欲しいと思います。そしてその際にも、人類の使命にまで立ち返って考えてみてほしいのです。
 子どもとは何なのか。子どもは親のものなのか。子どもは誰のものなのか。子どもを教育するとはどういうことなのか。家庭教育とは何か。学校教育とは何か。教師と子どもはどういう関係であるべきか。親子はどういう関係であるべきか。
 こうした本質的な問題の正解があるわけではありません。しかし、繰り返し意見交換をしていくべきです。閉じた学校を開き、閉じた家庭を開くためです。相互に、自らの使命を繰り返し反省するためです。
 
6. クレームの「窓口」を設け、議論をオープンにする
 最後に、すぐにできる、現実的な対策を提言します。学校には、苦情を受け付ける専用「窓口」を設けたらよいと思います。窓口の担当を置いて、学校が責任を持って対応すべきです。決して、当事者の教員個人にまかせっきりにしてはなりません。校長以下、学校全体で対応する覚悟を持つことです。
 そして、そこで行われている議論は、個人情報に配慮しながら、できる限りオープンにすることです。どんな苦情があり、どう回答し、どう解決したかを公開するのです。「通信」などで保護者たちにフィードバックし、保護者全体での議論を作っていくのです。場合によってはホームページ上に公開するといいと思います。
 閉じた場で議論するのではなく、できる限り、オープンにしなければなりません。変な議論は密室故に起こるのですから。
 私たちは、価値が多様化して、一切の権威が失われた社会に生きています。その中で、相互に考えを深め合い、子どもを見守っていける仕組みを構築することが求められているのです。

 (拙稿をまとめる上で、思想家の堺利彦氏と牧野紀之氏の論考を参考にさせていただきました。記して感謝します。)

4月 16

『サンデー毎日』の今週号(4月24日号)で、大学入試問題のミスに関する記事が出ている。
私も取材を受けて、1時間近く話したが、話した100の内、1しか使われず、それもどうでも良い部分だった。

私は大学入試が、日本社会の高度経済成長期、建前の「平等」と現実の「格差」の矛盾を隠す安全弁の役割を果たしてきたこと。
それが、今も、惰性的に続いていること。
それを述べたのだが、
それは
この記事が問題にしていることを、根本問題の矮小化だということになる。

関心のある方は、拙著『大学入試の戦後史』(中公新書ラクレ)をお読みください。

を根底から記じの