6月 16

貧しい時代の生徒文集を、飽食の時代の若者が読み解く シリーズ13回の3回目 

吉木政人君の卒論と、その振り返り、私のコメントを掲載する。

卒論は『山びこ学校』。

『山びこ学校』は、戦後間もない時期に、山間の貧しい集落で、中学生たちが家の労働で中学にも通えない中で、仲間を助け合い、村落社会の矛盾とも正面から向き合い闘った生活文集である。それを指導したのは、大学を卒業したばかりの若い教員、無着成恭。これは戦後教育を代表する仕事であり、その最高峰の1つである。

当時の貧窮した生活、学校にも通えず家の労働を手伝う中学生たち。困窮は病気を生み、親を病気で失う生徒も多く、村中をいつも死の影がおおう。しかし、その中で理想と家族愛が燃え上がる。その文章群の圧倒的な迫力。

それを、「豊かな時代」「飽食の時代」しか体験していない吉木君がどう読み、自分や今の時代を考えたか。

「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人 全11回の3回目

■ 目次 ■

第1章 川合末男「父は何を心配して死んで行ったか」
第2節 問いについて
なぜこの問いが生まれたのか
 父親の死
 父親の理解しにくい行動

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第2節 問いについて

なぜこの問いが生まれたのか

 川合の問いは明確だ。それは(1)の部分、つまりこの作文のタイトルにある通りで、「父は何を心配して死んで行ったか」ということだ。タイトルにこれだけ明確な問いが立っていることは、「父は何を心配して死んで行ったか」が、川合の一番考えたかったこと、そして実際に考えたこと、と言えるだろう。それは「父は何を心配して死んで行ったか」という問いに対して、末っ子である川合末男自身の将来の仕事を一番心配して死んでいったという答えを、(11)、(14)、(18)、(20)、(21)、(23)、(27)、(29)で繰り返し繰り返し書いていることからも明らかではないだろうか。
また、そのことは何度も何度も答えを繰り返さないと気が済まない程に川合の「父は何を心配して死んで行ったか」という問いが強烈であったことも示している。そもそも、中学生が文章の量としてここまで書けるだろうか。この作文は約6000字ある。中学生でなくても簡単に書ける量ではないだろう。文量にも川合の問いの強さが表れていると思う。しかも、この作文は川合の父の死後1ヶ月で書かれている。普通、父の死後1ヶ月で中学生がこれだけの文章を書けるだろうか。父の死の直後にわざわざ文章を書かせるものが川合にはあったはずだ。
なぜそこまで強い問いを川合は持っていたのだろうか。
川合が「父は何を心配して死んで行ったか」という問いを明確に意識するようになったのは、父親はお前をとても心配して死んでいったそうだという教師の一言がきっかけとしてあったようだ(10)。その教師とは恐らく川合の担任だった無着成恭のことだろう。教師無着のたった一言の働きかけによって、父親の心配ということについての意識が明確になり、ハッキリと言葉で表現できるまでに至った。それだけ無着の役割は大きい。たった一言の働きかけであるからといって、無着の果たした役割が小さいということはできない。たった一言の働きかけではあるが、そこには前提となる無着の素晴らしさがいくつも内包されている。
教師のたった一言で、自分の問題意識が明確になるのは一体どういうことだろうか。もちろんそれは無着の一言に対して、川合の中に響くものがあったということがまず言える。そうでなければ、たった一言からここまでの文章に発展しただろうか。逆にいえば、川合に響くことを言える無着のすごさがそこにはある。それは無着の川合に対する理解の深さだ。川合にとって、父をどう理解するかという問いが大きいこと知っていたのではないか。また、亡くなった父親の心配に対する共感もあったことだろう。それは親から子への心配に対する理解であり、またその心配の内容にも共感できるものがあったのだろう。
 それから、無着は他人伝いではあるが、話すことのできない川合の父の思いを受け止め、それをその息子に伝えたわけだが、それは寝たきりの人間を1人の父親として扱ったということも意味する。そういう姿勢も川合にとっては響くところがあったのだろう。
教師無着の生徒川合に対するたった一言の働きかけが問いを明確にさせた。それは川合の中に響くものがあったということであり、すでに川合の中に強いものがあったことが前提にある。しかしそれを引き出すのに1つの役割を果たしたのは無着だ。
それでは無着によって、引き出されたもの、つまり川合の中にもともとあった問いはどこから生まれてきたのだろうか。なぜ強く問いを持つことが出来たのだろうか。
 

父親の死

1つには、何と言っても、父親の死という大きな事実にあるだろう。この作文にある通り、1950年の9月に川合の父親は亡くなっている。その1ヶ月後、10月に「父は何を心配して死んで行ったか」を川合は書いた。中学生の川合にとって、親の死よりも大きな喪失があるだろうか。また、病気で寝たきりだった父親の介護をするのは川合末男の仕事、役割であった(2)。川合にとって父親の死は、そういう役割がなくなることも意味していた。
しかし、それにしてもなぜ川合は父親が死んでから、より父親について考えるようになったのか。父親が生きている間にそれはできなかったのだろうか。分かりやすくいえば、父親の生前に「父は何を心配しているか」という作文を川合末男が書くことはできなかったのだろうか。
私には、なぜ父親の死後になって、父親の行動、想いを理解できるようになったのか、逆になぜ父親の生前にそれができなかったのかはハッキリと言えることがない。しかし、事実として父親の死によって、父親のことを想い、父親への理解が進んだことは確かだ。父親の死は川合にとって、父への理解を深める契機の1つであった。
しかし、それも川合がもともと問いを持っていたからこそ契機となりえたのではないだろうか。川合が父親に対する問いを持っていなければ、父の死が父への理解を一気に深める契機とはなりえなかったはずだ。その点、やはり川合はもともと強い問いを持っていたのではないか。

父親の理解しにくい行動

そこで注目したのは、父親の奇妙というか理解しにくいような行動がいくつか書かれている点である。例えば、「急にあばれ出し、目玉をひっくりかえし、身体がふるえてくる時があった。それが終わると、まわらない口で「ヤロ」「ヤロ」と云いながら、あっちを向いたりこっちを向いたりして私を探すのだった。私を見付けると、安心したように、じーっと私を見つめるのだった」という行動だ(12)。父親の行動は、奇妙というか理解しにくい行動だったからこそ、川合はずっと覚えていたのであろう。他にも、兄や姉が家に帰ってくると布団をかぶって泣く父親などが挙げられている(4)。父親の生前はどう理解すればいいのか分からずにいた行動は、川合にとっては問いそのものだったろう。
しかし、川合は父親の想い、父親の心配を意識しづらい状況ではあったとも言える。それは父親が「中風」で寝たきりでしゃべることもできなかったので、コミュニケーションを取るのが相当難しい状態にあったからだ。まず父親が自分のことを心配していたかどうか、ということが息子の川合には分かりづらかっただろう。しかし、中風ゆえに理解しにくい奇妙な行動もあり、それはある意味分かりやすい形で表れる分かりづらさでもあった。その分、言葉にならなくても川合の中では漠然とした問いが育っていたのではないだろうか。それが父親の死や、無着の働きかけによって明確に言葉にできるようになったのだろう。
親をどう理解するかということは病気であろうとなかろうと、子にとっては大きな課題だと思う。しかし、川合の場合、父親が病気ゆえに理解しにくい行動があり、かなり分かりやすい形で親の問題が迫っていて、またその父の死もあり、問いを特に強く意識できたのではないだろうか。
父親の病気や理解しにくい行動のため、川合の中に父をどう理解するかという問いがあり、そこに父親の死があり、さらに教師無着の働きかけがあり、その上で川合が問いを言葉にするまでに至ったということを述べてきた。しかし、それらをさらに辿って考えてみると、そもそも父親の理解しにくい行動は息子への心配・不安から出たということが言える。そして、心配・不安があるということは、そういう気持ちを抱かせるだけの事実があるということだ。そこにこそ、川合が強い問いを持ち、文章を書くまでに至った根本の要因があるのではないか。父親が息子の将来を一番心配して死んで行ったというのは、あくまでも川合末男の意見ではある。もしかしたら、それは勝手な思い込みであって、間違いかもしれない。しかし、川合末男にとって、父親に心配があったということに納得できるものがあったことは間違いない。ということは、少なくとも川合が父親の心配を納得できるだけの事実自体はやはりあったと考えられる。
では父親の心配のもととなる事実とは何だったのだろうか。もしくは川合が父親の心配を納得できるだけの事実とは何だったのだろうか。まとめると、川合の問いの根本にある事実とは一体何だったのか。
そのことを考えるために、遠回りのようだが、一旦川合の問いではなく、その答え、ならびに答えの根拠に注目したい。実はどうやって答えを出したかというところに、川合の問いの必然性が表れていると思うからだ。「父が何を心配して死んで行ったか」という問いの答えを川合が考えることと、川合の父親に心配を抱かせた事実が何であったかを筆者(私)が考えることは、同じことではないだろうか。

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6月 15

貧しい時代の生徒文集を、飽食の時代の若者が読み解く シリーズ13回の2回目 

吉木政人君の卒論と、その振り返り、私のコメントを掲載する。

卒論は『山びこ学校』。

『山びこ学校』は、戦後間もない時期に、山間の貧しい集落で、中学生たちが家の労働で中学にも通えない中で、仲間を助け合い、村落社会の矛盾とも正面から向き合い闘った生活文集である。それを指導したのは、大学を卒業したばかりの若い教員、無着成恭。これは戦後教育を代表する仕事であり、その最高峰の1つである。

当時の貧窮した生活、学校にも通えず家の労働を手伝う中学生たち。困窮は病気を生み、親を病気で失う生徒も多く、村中をいつも死の影がおおう。しかし、その中で理想と家族愛が燃え上がる。その文章群の圧倒的な迫力。

それを、「豊かな時代」「飽食の時代」しか体験していない吉木君がどう読み、自分や今の時代を考えたか。

「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人 全11回の2回目

■ 目次 ■

第1章 川合末男「父は何を心配して死んで行ったか」
第1節 「父は何を心配して死んで行ったか」
一 父の死
 二 父の病気
 三 父の心配
 四 兄弟たちと家
 五 私の考え

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第1章 川合末男「父は何を心配して死んで行ったか」

第1節 「父は何を心配して死んで行ったか」

 第1章では、川合末男の書いた「父は何を心配して死んで行ったか」を扱う。川合末男は農家の生まれで、九人兄弟の末っ子(五男)だ。この文章は1950年の10月に書かれた文章で、川合が中学3年の時期にあたる。また、川合の父親が亡くなったのが同年の9月であり、その死から1ヶ月後に書かれた文章でもある。
 ここから実際の文章を引用する。省略部分には「(中略)」と筆者が記しておいた。ただし省略は少なくし、引用を長めにとっている。自分の意見に都合のいい表現だけを切り取ることを防ぎ、できるだけ実際の文章に即して考えるのが目的だ。この論文を読まれる方にとっても、生徒作文の全体を読まれた方が分かりやすいだろう。ちなみに、筆者が注目した部分には下線と括弧付きの数字を書き加えている(注:メルマガでは下線を【 】で代用)。後でその数字に対応させて、文章を解説することとする。また、ルビに関しては岩波文庫版の『山びこ学校』をそのまま書き写している。

【父は何を心配して死んで行ったか(1)】
川合(かわい)末男(すえお)
一 父の死
 一九五〇年九月十四日、私の父は死んだ。
 一六日は、西部班子供協議会の運動会であった。私はそのときの応援団の副団長に選ばれていたので、毎日放課後は練習でおそくなった。
 父が死んだ日も「今日と明日きりだなあ。」などと考えて家を出たのだった。まさか、今日父が死ぬなどということは夢にも考えられなかったのである。
(中略)
 私はありったけの声をはりあげて歌って行った。そして、そのまま家の中に一歩はいったら、親類の人がみんな集まっているのだ。私はどきっとして歌をやめた。
 いろりを囲み、和雄君のお父さんが主になって、「電報を誰が打ちに行く。」とか、「ござは。」とか云って何かきめていた。私は、かばんをおろして、お父さんの方へ行ったら、白いてぬぐいをかぶり北枕で寝ていた。そのときはじめて「ああ、死んだんだなはあ。」と思ったのだった。

二 父の病気
 しかし、手ぬぐいを取ってみると、寝ていたときと同じなので、どうしても、これが死んだ人の顔だなどと思われなかった。
 お父さんは、昭和二十二年の一〇月から中風でずうっとねていたのだ。【自分の用も足すことが出来なくて、お父さんの用を足してくれるのは私の仕事だった(2)】。
 ある時、顔をあつい手ぬぐいでふいてやったとき、「おお」と云ってただ笑ったことがある。それが、いちばんよろこんだお父さんの表情だった。【まるっきり口がきけなくて、なにをいうにも、長い細い手を出して、もぐもぐ云いながら動かすだけだった(3)】。
 【遠くに働きに出ている兄さんや姉さんたちが、たまさか来ると、ふとんをかぶって泣くのだった(4)】。
 そういう父を見るたびに、私は、【中風という病気はいやな病気だなあと思う(5)】のだった。そして、【私だけは、こんな病気になりたくない(6)】と思うのだった。しかし、【私の家は中風まきという血統で、必ずなるんだそうだ(7)】。そういうことをお母さんが云っていたことがある。だが、今では、【はたして、まきというものがほんとうなものかどうか(8)】。また、【兄さんや姉さんが来たとき泣くのは、中風という病気だけが泣かせるのではなくて、もっと別なところに原因があったのでなかったか(9)】などとも思っている。

三 父の心配
 【何故、そう思うようになったかと云えば、先生が、「文男君のおかちゃんから聞いたんだが。」と云って、「お前のおっつぁんは、お前のことをずいぶん心配して死んで行ったんだということでないか。」と話してくれたからだ(10)】。ここからが、学級のみんなから考えてもらい討論してもらわなければならない問題が出てくるのだが、はっきり云えば、【私の父は、私の将来のことを心配して死んで行ったということなのだ(11)】。
 子供のことを心配しない親などないと云えばそれまでだが、口もきけない、手足の自由さえもきかない私の父の場合は特別であろう。たとえば、先生から「お前のお父さんは……。」と云われたとき、はっと気がついたのであったが、父をあつかっているとき((看病しているとき))(看病している時)、【急にあばれ出し、目玉をひっくりかえし、身体がふるえてくる時があった。それが終わると、まわらない口で「ヤロ」「ヤロ」と云いながら、あっちを向いたりこっちを向いたりして私を探すのだった。私を見付けると、安心したように、じーっと私を見つめるのだった(12)】。
 そのことを、【今考えて見ると、色々な心配ごとがたまってきたときそういうことがおこったのではなかったかと考えられるのだ(13)】。そして、その心配のうち、私のことに関係した心配、つまり、【私が将来どんな職業について、どんな生活を立てるかということについての心配が、いちばん大きかったのにちがいないと思うことが出来るのだ(14)】。

四 兄弟たちと家
 【そのことをもっとよくわかってもらうために、どうしても、私の家のことをもうすこしかかなければいけない(15)】。
 まず【私の家が生活を立てていくための財産としては、水田はもち米を作る位と、畑は五段歩だけなのだ(16)】。【それにへばりついて生活してきたのは、父と母と、多慶夫兄さんに秋子ねえさんに鶴代ねえさんに私とで六人であった。こんどお父さんが死んでしまったから五人になってしまったけれども。それで、そのうち家に残ることが出来るのは多慶夫兄さんと、お母さんの二人だけになるわけである(17)】。【そうなれば、お父さんは、何を一番心配であったかと云えば、私の就職のことであったにちがいない(18)】と、はっきり思いあたるのである。【二人の、まだかたづかない姉のことをどう思っていたかと云えば、「女は嫁に行くのだから心配はない。女はお嫁にさえ行けばよいのだ。」と考えていたにちがいない(19)】。どうしてかと云えば、今でも、お母さんや親類の人たちがみんなそう考えているからである。
 もちろん、こういう考え方が正しいかどうかということは、私たちの組で問題になり、農村の二男三男が職業に就けなくて困ってくると、嫁ももらうことが出来なくなって、それだけ「嫁に行きさえすればよい。」と考えていた女の中に嫁に行けない人が出て来るから、ほんとうは、女の問題であるんだ。だからこういう考え方は間違いだ、というふうになったのであるが、お父さんやお母さんたち、大人の人たちは、どうもこういう考えにならないらしい。
 それで、私のお父さんもそういう考えにちがいなかったと思うのだ。そうだとすれば、【やっぱりお父さんとしては、九人兄弟のうち末子の私のことがいちばん心配であったにちがいない(20)】。どういう風に心配し、どんなことを考えていたのかは、誰も知らないけれども、【中学三年で、学校も卒業しなくて、もちろんどんな職業に就くかということもわからなくて死んで行かなければならないのだったから、心配なことであったにちがいない(21)】。とくに今は、【職業に就くのが、なかなかなんぎだということを知っていたお父さんの心配(22)】は、つまりは、【私のことだけが心配だったと思われてくるのだ(23)】。
 【何故兄さんや姉さんのことをそんなに心配しなくともよかったと云えば、みんな一丁前になって働いていたからだ(24)】。
 【一番大きい兄さんは、もう四十才にもなり宮内(みやうち)に家を持って暮らしているし、二番目の兄さんは、上の山にむこに行ったし、三番目の兄さんは川崎で家を持っている。また姉たちは姉たちで、一番大きい姉さんは、一度お嫁に行ったんだがなんのわけかもどってきて、今は、仙台にお嫁に行ってしあわせに暮している。二番目の姉も、一度須刈田におよめに行ったのだが、これももどってきて今仙台の駅前で働いている(25)】。ここでまた考えるんだが、私の家の女衆は二人とも一度お嫁に行ってもどってきたのだ。何故だろうと不思議に思っている。
 だが、【とにかく、男三人に女二人はこのようにしてかたづいていることだけはほんとうだ。
では、家に残った兄弟はどうかというと、男二人に女二人のうち、二人の女は、お嫁に行くか心配ないとして、多慶夫兄さんと私が問題だ。
ところが、多慶夫兄さんは、どうしても、家のあととりにならなければいけないのだ(26)】。どうしてかと云えば、小学校一年生のとき、蝉とりをして高い木に登ったとき、高いところからほろきおちて、頭が二十七糎(センチ)(センチ)ぐらい割れたんだそうだ。そのため、すこしぼうっとしているところがあるから、職業に就かせるなどということは無理なのである。その上、百姓仕事が大好きで、黙々としてうんと働くので、親類の人がみんな集ったときも多慶夫兄さんに家のあとをつがせることにきまったのである。
 これは、あとで先生から聞いた話だけれど、多慶夫兄さんにあととりさせるという問題も、そう簡単にきまったのでなかったんだそうだ。つまり、大きい兄さんたちが家の財産をいくらかずつでも分けるように話を出したため、問題がこんがらかってきて困ったのだったそうだ。そのとき、和男君のお父さんや、庄兵衛さんが、「こんなちっぽけな百姓の財産を兄弟九人がわけて、どうしろというのだ。まだ一丁前にもならない末男や、またさきのみじかい、おっかあたちのことを考えてみろ。」と云って頑張ったので、財産をこまかにわけないで、多慶夫兄さんがあととりになることにきまったんだそうだ。
 そういうことがあったということは私も知らなかったのであるが、若しも、そういうことが私の家に出てくるということがわかっておれば、お父さんの心配は、私のことよりもその方が心配だったにちがいない。
 しかし、やっぱり、【まだ一丁前にならない私のことは、心配して死んで行ったと思うのだ(27)】。どうしてかと云えば、【みんな一丁前になっているので、財産を分けてもらっても生活出来るのだ。私だけが出来ないのだ(28)】。そう考えて来ると、【お父さんは、最後のところ、やっぱり私の将来のことを心配して死んで行ったのだ(29)】。
 
五 私の考え
口もきけない、手足の自由もろくにきかない父が、私のことを心配して死んで行ったと考えるのは実際いやだ。その上、どういうことを、どういうふうに心配して死んで行ったのかということが、はっきりわからないからなおさら苦しくなってくる。
 男は、独立して家をおこさなければならないということは、よくいわれているから私はそのつもりでいるけれども、ほんとうは、私が実際兄さんたちのようになって、家をおこしてからお父さんを死なせたかったと考えられてきてならない。私が家から出て、働きだしたのを見せれば、お父さんは今よりももっと安心して死んで行けただろうと思う。
 しかし、もう死んでしまったのだからしかたがない。【今生きているお母さんだけでも、安心させなければならないのだ(30)】。お母さんを安心させることは、死んだお父さんを安心させることと同じだと考える。
 ところで、安心させるためにはどうするかということだ。【それはよい職業に就くことだと思う(31)】。【お父さんが心配したのも、将来なにさせるかということだったと思う(32)】。
 そう考えてくると私は心配になってくるのだ。私としては、自動車の運転手になりたいと思うのだが、今なかなかなれないそうだ。戦争で、自動車の運転を覚えてきた人でさえ、なかなか運転手になることが出来ないという話など学級であるくらいだから。戦争から帰ってきた太郎さんの善助さんなのも、二十三才にもなるのに、なにになったらよいかわからなくて、この間予備隊に受けたというくらいだ。しかし、【予備隊というのはよい職業だろうか(33)】。私は社会科でならったことが不思議になってくるのだ。たとえば、【社会科の2の「家庭と社会生活」で習ったことは今でも覚えている。教科書の二十五頁(34)】に、
 「あなたがたも、学校を卒業すれば職業に就くにちがいない。」と書いてある。それはきまっている。どうしてかというと、「あなたがたはじめ、家庭の人々は今はお父さんやにいさんの職業の収入によって生活している。そこで、職業は人の生活を支えるもとであるということができる。」というように、【自分の生活をして行くため(35)】である。その次は、「どの職業も、その仕事が社会生活に必要なものだからこの世の中で営まれている。」というように、世の中の一人として生きて行く限り【「個人や家族の生活を支えるだけのために職業に就くことが必要なのではない。それは世の中の要求するものを作るために必要なのである(36)」。」からである。
 そしてまた、【三年生でならった文化遺産という本の四十八頁(37)】には、
 「あなたがたは今は職業を選ぶ自由を持っている。そして【自分の才能と欲求にしたがって(38)】、【いちばん世の中と自分のためになる職業につくことがよいとされている(39)】。」と書かれている。
 それなのに、どうだろうか。【予備隊というのは、私たちがほんとうに必要とする仕事をする職業なのだろうか(40)】。また、【行く人も、ほんとうに好きで行くのであろうか。うそである。みんな職業がないからしかたなしに行くのである(41)】。
 私はそう考えてくると、なにがなんだかわからなくなってくるのだ。
 社会科では、私たちは職業を選ぶ権利を持っていると教えられた。ところが実際は、そんな権利は今の世の中ではなんの役にもたたないのだ。若しも社会科の本が正しくて、私たちは実際に、安心して職業を選び、職業に就くことができる世の中であれば文句はないのだ。そうすれば、何も今々死にそうな親父にまでも心配かける必要はなかったのではないか。
 私は、今まで考えてきて、ひとりでにそうなってしまった。つまり、私たちは、世の中のお父さんやお母さんから安心してもらうためには、どうしても、社会科の本にあるように職業を自由にえらべるような世の中、職業に就くことが出来ない人が一人もないような世の中、そんな世の中にすることだというふうに考えてきた。日本国中の学校を今々卒業して職業に就かなければならない人はみんな立ち上って、団結して、一人も職業に就くことが出来ない人がいないような世の中に、一日でも早くすることが一番正しいのではないだろうか。
 そして、そのような世の中にするためにはどうしたらよいかということを、学級のみんなで、いや日本国中の子供たちがみんな手をとり合って考えなければならないときなのでないだろうか。
 私の父のように、子供のことで心配しているお父さんがあったら、お母さんがあったら、一人一人で考えないで、みんな一緒に考えるようになればよいのでないか。
 私は、そういう世の中が来るように頑張って、そうして一日も早くそういう世の中にすることが、死んだ父をいちばん安心させることではないか。また、生きている日本国中のお父さん、お母さんを安心させることではないか、というふうに考えてきている。
(一九五〇・一〇・二三、職業科の勉強として)
            (無着成恭編『山びこ学校』岩波文庫、1995年、256-267頁)

 以上で引用を終わる。繰り返しになるが、下線(注:メルマガでは【 】)と括弧付きの数字は私が書き加えたものである。

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6月 14

貧しい時代の生徒文集を、飽食の時代の若者が読み解く シリーズ13回の1回目 

吉木政人君は、この春に立教大学(教育学専攻)を卒業した。8年かかっている。彼は、5年前に私のゼミに通い、卒論で『山びこ学校』に取り組んでいた。その時は挫折し、ゼミからも消えた。

それが昨年の春に復帰した。こうした「復活」劇は、ゼミの歴史上初めてのケースとなった。彼にはこの4年間に、それなりの事があり、それなりの覚悟ができていたように思う。そして卒論にまた取り組むことになった。しかし、順調には進まなかった。

結局、12月の締め切りに何とか間に合ったものの、本人も納得できない内容だった。
今年2月3月の就職活動がきっかけとなって、書き直しをすることになった。その書き直したものと、それを振り返った文(「ありのままを認めるということ」)と、全体への私のコメントを掲載する。

吉木君のように、ゼミを1回やめてから「復活」したような人の経験こそ、読者にとって参考になるのではないだろうか。

なお、今回、卒論の一部ではなくすべてを掲載した。この長大な分量の3分の1ほどは、『山びこ学校』の3つの生徒作品からの引用である。それを省略することはできたのだが、このメルマガで『山びこ学校』を初めて読む方もいることを考えて、あえて全文を掲載した。

『山びこ学校』は、戦後間もない時期に、山間の貧しい集落で、中学生たちが家の労働で中学にも通えない中で、仲間を助け合い、村落社会の矛盾とも正面から向き合い闘った生活文集である。それを指導したのは、大学を卒業したばかりの若い教員、無着成恭。これは戦後教育を代表する仕事であり、その最高峰の1つである。戦後教育を語るなら、まずは『山びこ学校』を読まなければならない。

当時の貧窮した生活、学校にも通えず家の労働を手伝う中学生たち。困窮は病気を生み、親を病気で失う生徒も多く、村中をいつも死の影がおおう。しかし、その中で理想と家族愛が燃え上がる。その文章群の圧倒的な迫力。
「豊かな時代」「飽食の時代」しか体験していない、このメルマガの若い読者たちには、一度でもそれを体感してほしいと思う。『山びこ学校』は岩波文庫に収録されている。

■ 全体の目次 ■

・卒業論文「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人
 →1回?11回
・ありのままを認めるということ 吉木政人
 →12回
・父親と向き合う 中井浩一
 →13回

■ 卒業論文の目次 ■

「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人
序章 →1回
第1章 川合末男「父は何を心配して死んで行ったか」
 第1節 「父は何を心配して死んで行ったか」 →2回
 第2節 問いについて →3回
 第3節 問いから答えへ
 第4節 答えを出した結果どうだったのか →4回
第2章 江口江一「母の死とその後」
 第1節 「母の死とその後」 →5回、6回
第2節 2つの問い →7回
 第3節 問いから答えへ
 第4節 次の課題へ →8回
第3章 佐藤藤三郎「ぼくはこう考える」
 第1節 「ぼくはこう考える」 →9回
 第2節 佐藤の作文の分かりにくさ
 第3節 佐藤の素晴らしさ →10回
終章  →11回

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◇◆ 「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人 ◆◇

序章

『山びこ学校』は戦後間もなくの山形県山元中学校で行われた文章表現指導から生まれた詩・作文集だ。『山びこ学校』は1951年3月に出版されている。
私は『山びこ学校』の作文に力強さ、迫力のようなものを感じる。なぜ彼らはそのような文章を書けたのだろうか。『山びこ学校』の実際の生徒作品を詳しく分析することで少しでもその答えに近付ければよいと思う。
以下、『山びこ学校』に関する簡単な背景説明をしておく。
山形県南村山郡山元村という当時非常に貧しかった山村で中学生の指導にあたったのは、無着成恭という新任教員である。無着は1927年生まれで、同じ山形県南村山郡内の出身だ。ちなみに当時、山形県の南村山郡にあった山元村は、1957年には上山市に編入されている。また、山元中学校は生徒減少のため2009年春から廃校となっている。
無着は戦前からの生活綴方に学び、自身がその実践を戦後の中学校で行った。山形新聞の論説委員で、戦前には教員として旧制小学校で生活綴方による教育を行っていた須藤克三からは特に多くを学んだようだ。
『山びこ学校』に収められている文章を書いたのは1935年度生まれの生徒だ。無着と8つしか歳は変わらない。彼らは1948年4月に中学校に入学し、1951年3月に卒業している。その学年の全ての生徒の文章が『山びこ学校』には収められている。新任である無着にとって、彼らは教員として初めて受け持つ生徒だった。無着はその学年の生徒を入学から卒業まで3年間担任した。新任として赴任した当時、山元中学校には1年から3年まで126名の生徒がいたのだが、教員が校長を含めて7名だったために、無着は担任クラスの国語、社会、数学、理科、体育、英語、さらに3年生の国語まで担当したという(佐野眞一『遠い「山びこ」』新潮文庫、2005年、19頁を参考)。
ちなみに、『山びこ学校』は1951年3月に初め青銅社から、後に百合出版、角川文庫から出版されている。しかし、いずれも絶版となっていて、1995年から現在にあっては岩波文庫で発行されている。この論文では岩波文庫版を参照した。それから、『山びこ学校』という本は実は、「きかんしゃ」という学級文集をもとに作られていることを述べておく。『山びこ学校』に収められている生徒の文章は、そのほとんどが無着学級で作られていた「きかんしゃ」という文集(全16号)の中から選ばれた一部に過ぎないのだ。「きかんしゃ」は、あくまでも学級文集であって公に出版されたものではないのだが、山形県立図書館に複写版が保存されているので、現在でも読むことが出来る。この論文の中で「きかんしゃ」を参考にした箇所があるので先に述べておいた。
この論文では生徒作品を全部で3つ扱う。
第1章では、川合末男の「父は何を心配して死んでいったか」。川合末男は病気だった父が亡くなり、その父のことを考えている文章だ。
第2章では、江口江一の「母の死とその後」。江口江一の家は山元村でも最も貧しい。こちらも母が亡くなって、貧しさと母の死という2つの問題をしっかりと見つめようとしている文章だ。
第3章では、佐藤藤三郎の「ぼくはこう考える」。佐藤藤三郎は学級の代表的な人物で級長も務めていた。農村の問題についての意見文を書いている。
彼らは同じ中学校の生徒だが、それぞれ置かれている状況は異なる。まず、川合と江口は親が亡くなり、その直後に作文を書いている。
また、川合は農村の次男以下の問題、つまり家の財産を継ぐことができずに別の仕事を選ばなくてはいけないという状況にいる。
江口は親の死によって、中学2年生にして家の責任者となるのだった。江口の家は山元村でも最も貧しい家の1つで、自分でどうやって生計を立てていくかが彼のテーマだった。
 佐藤は、農家の跡取りとして育てられた。しかし、一方では級長を努めるほど優秀で、勉強をしたいという意思を持っている。
 彼ら3人の作文を分析するにあたって、注目したのは問いとその答えを求める運動にある。彼らの問いは何だったのか、何のために作文を書いたのか。どのような答えを、どうやって得て、その結果どうだったのか、作文を書いたことにどういう意味があったのか。そういったことを注意して分析した。

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5月 10

全国の実践家との交流をしましょう  
高校作文教育研究会6月例会

今年度は、全国の実践家との交流をはかりたいと思っております。

表現指導には、実にさまざまな取り組み方があります。また、高校には多様な学校があり、多様な生徒たちが学んでいます。そうした多様な実態と、その中から生まれている多様な実践、多様な生徒作品。それらと向き合いながら、表現の可能性を広く、深く、考えてみたいと思います。

6月は、東大附属の「卒業研究」と、「総合学習」で小児救急医療問題を追究した高校生の事例を取り上げます。2つの実践は、ともに高校生に強い問題意識を作り上げるための果敢な挑戦だと思います。こうした試みが全国に広がっていくことを願いながら、そのすぐれた点はもちろんのこと、その課題についても学び合いたいと思います。
いずれも、具体的な生徒作品に即して、検討していきます。

高校作文教育研究会は、昨年まで2年間ほど「聞き書き」をテーマとして研究してきました。その中で、いくつかの課題や問題点が浮かび上がってきました。それが最大の成果だったと言えるでしょう。連載を完走した古宇田さんが、その課題を報告します。みなさんとともに、考えていきたいと思います。

どうぞ、みなさん、おいでください。

なお、参加希望者は、前もって以下に申し込みください。
  E-mail:sogo-m@mx5.nisiq.net

1 期 日    2011年6月26日(日)10:00?16:30

2 会 場   鶏鳴学園御茶ノ水校
         東京都文京区湯島1?9?14  プチモンド御茶ノ水301号
         ? 03(3818)7405 JR御茶ノ水駅下車徒歩4分
       ※鶏鳴学園の地図はhttp://www.keimei-kokugo.net/をご覧ください

3 報告の内容

(1)高校生の卒業研究の指導過程と論文の実際
          東京 東京大学教育学部附属中等教育学校  鈴木 一史

 東京大学附属中等教育学校では卒業必修単位として「卒業研究」を課している。4年生(高1)の冬にテーマ決定をし、6年生(高3)の夏に提出する。進路や受験勉強との葛藤の中で、大部の論文を作成する。この2年近くにわたって取り組む卒業研究のカリキュラムと指導過程の実際の流れを確認し、出された成果としての「論文」を検討したい。月に一度ある教員の「指導時間」は、主に論文の作成過程の確認、参考文献等の情報、論文全体の論理構成の助言である。数値を扱う生徒もいれば、文献調査のみで終える生徒もいる。また、生徒の多くはフィールドワークを通して情報を集めて書きあげる。生徒への助言がどのように奏功しているのか、失敗しているのかを具体的な生徒の作文から検討し、カリキュラムと具体事例との関係性についても議論していきたい。

(2)「総合学習を通した高校生のアイデンティティ形成」
                        北海道教育大学  高橋 亜希子

 高校における総合学習は、学力低下論や進学に向けた学校間競争などから不活発な状況が続いています。しかし、総合学習において、テーマ設定のために自分を問い取材を通じ学校外の人に出会うことは、生徒の自己形成に大きく寄与します。
 今回の発表では、総合学習における学校外の人々との関わりに焦点を当て、学習過程の一高校生の継続的な面接資料と記した文章から、出会った人の言葉、印象、そこで得た体験が生徒の在り方を変容させていく過程を分析します
 生徒は1年半にわたる小児救急医療問題の追究を通し、命の意味を考え、周囲の人々との関係を変えていきます。高校生における学習と自己形成のかかわりや、高校生にとっての“生きた学び”についてみなさまの意見を頂けると幸いです。よろしくお願い致します。

(3)聞き書きの構成と文体についての試論
           茨城 古宇田栄子

「聞き書きの魅力と指導法」の連載は終わりましたが、まだ、研究結果の報告会が終わっていないので、なんだか宙ぶらりんな気分です。やはり、研究結果はきちんと整理・分析し、新たな課題を把握しておくべきだと強く感じています。その中で、いちばん気になるのが、聞き書きの構成と文体です。中井さんが新たな発想、視点でいろいろ提案してくれましたが、その結果についての検討が不十分です。今回のレポートでは、私なりにそれを整理してみたいと思います。今、思いつくことをランダムに書いてみます。

?理科社会における聞き書きの文体と国語における聞き書きの文体は分けて考えるべきかどうか。
?テープ起こしにはどのような意味があるか。
?国語科の聞き書きにおいて文献調査等事前調査をどうとらえるか。
?聞き出せなかったところは想像して書く、についてどう考えるか。
?ひとり語りの文体と書き手(聞き手)の感想、思索をどうとらえるか。
?聞き書きの文体としては、伝聞体、Q&A型の文体、ひとり語り、ルポルタージュ風の文体等が考えられるが、それぞれどんな違いがあるのだろうか。
?問題意識の深化と文体は関係があるのかどうか。
?子どもの論理的思考と描写とはどのような関係があるのか。ほか。
他者の経験を自己の生活や生き方に引き寄せて考えられるようにするためにはどのような指導が必要なのだろうか。また、その際のリアリティをどう保障したらいいのだろうか。

どこまで整理できるか、自信はありませんが、一緒に考えていただければ幸いです。

4 参加費   1,500円(会員無料)

2月 07

村山 士郎 先生 特別講演会
?「聞き書きの魅力と指導法」連載終了記念? 
高校作文教育研究会3月例会

村山 士郎 先生 特別講演

演 題  事実をとらえることの豊かさとおもしろさ 
      ― 生活綴方実践から大学教育実践まで ―

メッセージ
 貴研究会で京都の八ヶ峰中学の実践に注目し、そこから「聞き書き」の今日的可能性を引き出そうとしていること興味深い視点だと思っています。80年代に私が注目した時には、学校ぐるみの平和教育としては注目されていましたが、私がもっとも大切だと思っていた表現の発達論的視点からの着目は希薄であったと記憶しています。
 生活綴方実践や私の仕事である大学教育実践において、今日、「事実をとらえること」の多面的な試みが不可欠になっています。言い換えると子どもや学生を「事実に向きあわせること」が学習主体に育てていくということです。ここに学びの原点があると思っています。その方法の一つに「聞き書き」が位置付くのかと思っています。
 私の教育学研究では、この間、「事件のなかの子どもたち」をテーマにして論文や本を書いてきましたが、その研究方法の前提には「事実と向きあう」、「事実を聞き取っていく」ことを大切にしてきました。しかし、八ヶ峰中学の生徒のようには表現出来ないもどかしさを抱えてきました。
 学習会では、上のようなことを、まとまりなく話してみたいと思っています。

村山士郎先生のプロフィール
1944年 山形県に生まれる
1977年 東京大学大学院教育学研究科博士課程修了
現在    教育学博士、大東文化大学教授
      日本作文の会常任委員会副委員長
主な著書  『生活綴方実践論』(青木書店、1985年)
      『平和を語る学校』(編著、労働旬報社、1986年)
      『子どもの攻撃性にひそむメッセージ』(柏書房、1999年)
      『なぜ「よい子」が暴発するか』(大月書店、2000年)
      『事件に走った少女たち』(新日本新書、2005年)
      『現代の子どもと生活綴方実践』(新読書社、2007年) ほか多数

高校作文教育研究会は、1998年2月に会を設立して以来、13年になります。この機会に、私たちの実践と研究をまとめようということになり、最も自信があった聞き書きについて取り上げることになりました。聞き書きは、高校生にとって、学ぶものがほんとうにたくさんあると実感していたからです。

そこで2年間ほど、研究会のテーマを「聞き書き」として、私たちの例会に全国の中学、高校、大学のすぐれた実践家17人をお招きし、聞き書きの可能性、授業で実践する際の具体的手だて、その課題などを検討してきました。
その成果は、「聞き書きの魅力と指導法」と題して『月刊国語教育』(東京法令出版 2009年7月号?)に連載してきました。約2年間、21回続いたこの連載も、2011年3月号をもって終了します。

この連載終了を記念して、村山士郎先生の特別講演会を開催します。

私たちの共同研究の成果をふまえて、さらに深めるための特別学習会です。参加者には連載の全コピー集を配布します。どうぞ、ふるってご参加ください。

1 期 日    2011年3月13日(日)13:00?16:30

2 会 場   鶏鳴学園御茶ノ水校
         東京都文京区湯島1?9?14  プチモンド御茶ノ水301号
         ? 03(3818)7405 JR御茶ノ水駅下車徒歩4分
       ※鶏鳴学園の地図はhttp://www.keimei-kokugo.net/をご覧ください
3 内容

(1) 特別講演 村山士郎先生 

(2)  報告

共同研究を終えて                                茨城 古宇田栄子

約2年間、共同研究の成果を、「聞き書きの魅力と指導法」と題して、『月刊国語教育』に連載してきました。連載を始めてすぐに、題名を「聞き書きの魅力と指導法」ではなく「聞き書きの魅力と可能性」とすべきであったと気付きました。それほど聞き書きの世界は、未知と可能性に満ちていました。共同研究では17人の実践とその生徒作品を検討しました。今回は、連載の終了を記念して、共同研究の概要、論点、そこで出会った実践家たちの珠玉の言葉等を紹介したいと思います。

 参加費   1,000円(会員無料)