貧しい時代の生徒文集を、飽食の時代の若者が読み解く シリーズ13回の3回目
吉木政人君の卒論と、その振り返り、私のコメントを掲載する。
卒論は『山びこ学校』。
『山びこ学校』は、戦後間もない時期に、山間の貧しい集落で、中学生たちが家の労働で中学にも通えない中で、仲間を助け合い、村落社会の矛盾とも正面から向き合い闘った生活文集である。それを指導したのは、大学を卒業したばかりの若い教員、無着成恭。これは戦後教育を代表する仕事であり、その最高峰の1つである。
当時の貧窮した生活、学校にも通えず家の労働を手伝う中学生たち。困窮は病気を生み、親を病気で失う生徒も多く、村中をいつも死の影がおおう。しかし、その中で理想と家族愛が燃え上がる。その文章群の圧倒的な迫力。
それを、「豊かな時代」「飽食の時代」しか体験していない吉木君がどう読み、自分や今の時代を考えたか。
「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人 全11回の3回目
■ 目次 ■
第1章 川合末男「父は何を心配して死んで行ったか」
第2節 問いについて
なぜこの問いが生まれたのか
父親の死
父親の理解しにくい行動
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第2節 問いについて
なぜこの問いが生まれたのか
川合の問いは明確だ。それは(1)の部分、つまりこの作文のタイトルにある通りで、「父は何を心配して死んで行ったか」ということだ。タイトルにこれだけ明確な問いが立っていることは、「父は何を心配して死んで行ったか」が、川合の一番考えたかったこと、そして実際に考えたこと、と言えるだろう。それは「父は何を心配して死んで行ったか」という問いに対して、末っ子である川合末男自身の将来の仕事を一番心配して死んでいったという答えを、(11)、(14)、(18)、(20)、(21)、(23)、(27)、(29)で繰り返し繰り返し書いていることからも明らかではないだろうか。
また、そのことは何度も何度も答えを繰り返さないと気が済まない程に川合の「父は何を心配して死んで行ったか」という問いが強烈であったことも示している。そもそも、中学生が文章の量としてここまで書けるだろうか。この作文は約6000字ある。中学生でなくても簡単に書ける量ではないだろう。文量にも川合の問いの強さが表れていると思う。しかも、この作文は川合の父の死後1ヶ月で書かれている。普通、父の死後1ヶ月で中学生がこれだけの文章を書けるだろうか。父の死の直後にわざわざ文章を書かせるものが川合にはあったはずだ。
なぜそこまで強い問いを川合は持っていたのだろうか。
川合が「父は何を心配して死んで行ったか」という問いを明確に意識するようになったのは、父親はお前をとても心配して死んでいったそうだという教師の一言がきっかけとしてあったようだ(10)。その教師とは恐らく川合の担任だった無着成恭のことだろう。教師無着のたった一言の働きかけによって、父親の心配ということについての意識が明確になり、ハッキリと言葉で表現できるまでに至った。それだけ無着の役割は大きい。たった一言の働きかけであるからといって、無着の果たした役割が小さいということはできない。たった一言の働きかけではあるが、そこには前提となる無着の素晴らしさがいくつも内包されている。
教師のたった一言で、自分の問題意識が明確になるのは一体どういうことだろうか。もちろんそれは無着の一言に対して、川合の中に響くものがあったということがまず言える。そうでなければ、たった一言からここまでの文章に発展しただろうか。逆にいえば、川合に響くことを言える無着のすごさがそこにはある。それは無着の川合に対する理解の深さだ。川合にとって、父をどう理解するかという問いが大きいこと知っていたのではないか。また、亡くなった父親の心配に対する共感もあったことだろう。それは親から子への心配に対する理解であり、またその心配の内容にも共感できるものがあったのだろう。
それから、無着は他人伝いではあるが、話すことのできない川合の父の思いを受け止め、それをその息子に伝えたわけだが、それは寝たきりの人間を1人の父親として扱ったということも意味する。そういう姿勢も川合にとっては響くところがあったのだろう。
教師無着の生徒川合に対するたった一言の働きかけが問いを明確にさせた。それは川合の中に響くものがあったということであり、すでに川合の中に強いものがあったことが前提にある。しかしそれを引き出すのに1つの役割を果たしたのは無着だ。
それでは無着によって、引き出されたもの、つまり川合の中にもともとあった問いはどこから生まれてきたのだろうか。なぜ強く問いを持つことが出来たのだろうか。
父親の死
1つには、何と言っても、父親の死という大きな事実にあるだろう。この作文にある通り、1950年の9月に川合の父親は亡くなっている。その1ヶ月後、10月に「父は何を心配して死んで行ったか」を川合は書いた。中学生の川合にとって、親の死よりも大きな喪失があるだろうか。また、病気で寝たきりだった父親の介護をするのは川合末男の仕事、役割であった(2)。川合にとって父親の死は、そういう役割がなくなることも意味していた。
しかし、それにしてもなぜ川合は父親が死んでから、より父親について考えるようになったのか。父親が生きている間にそれはできなかったのだろうか。分かりやすくいえば、父親の生前に「父は何を心配しているか」という作文を川合末男が書くことはできなかったのだろうか。
私には、なぜ父親の死後になって、父親の行動、想いを理解できるようになったのか、逆になぜ父親の生前にそれができなかったのかはハッキリと言えることがない。しかし、事実として父親の死によって、父親のことを想い、父親への理解が進んだことは確かだ。父親の死は川合にとって、父への理解を深める契機の1つであった。
しかし、それも川合がもともと問いを持っていたからこそ契機となりえたのではないだろうか。川合が父親に対する問いを持っていなければ、父の死が父への理解を一気に深める契機とはなりえなかったはずだ。その点、やはり川合はもともと強い問いを持っていたのではないか。
父親の理解しにくい行動
そこで注目したのは、父親の奇妙というか理解しにくいような行動がいくつか書かれている点である。例えば、「急にあばれ出し、目玉をひっくりかえし、身体がふるえてくる時があった。それが終わると、まわらない口で「ヤロ」「ヤロ」と云いながら、あっちを向いたりこっちを向いたりして私を探すのだった。私を見付けると、安心したように、じーっと私を見つめるのだった」という行動だ(12)。父親の行動は、奇妙というか理解しにくい行動だったからこそ、川合はずっと覚えていたのであろう。他にも、兄や姉が家に帰ってくると布団をかぶって泣く父親などが挙げられている(4)。父親の生前はどう理解すればいいのか分からずにいた行動は、川合にとっては問いそのものだったろう。
しかし、川合は父親の想い、父親の心配を意識しづらい状況ではあったとも言える。それは父親が「中風」で寝たきりでしゃべることもできなかったので、コミュニケーションを取るのが相当難しい状態にあったからだ。まず父親が自分のことを心配していたかどうか、ということが息子の川合には分かりづらかっただろう。しかし、中風ゆえに理解しにくい奇妙な行動もあり、それはある意味分かりやすい形で表れる分かりづらさでもあった。その分、言葉にならなくても川合の中では漠然とした問いが育っていたのではないだろうか。それが父親の死や、無着の働きかけによって明確に言葉にできるようになったのだろう。
親をどう理解するかということは病気であろうとなかろうと、子にとっては大きな課題だと思う。しかし、川合の場合、父親が病気ゆえに理解しにくい行動があり、かなり分かりやすい形で親の問題が迫っていて、またその父の死もあり、問いを特に強く意識できたのではないだろうか。
父親の病気や理解しにくい行動のため、川合の中に父をどう理解するかという問いがあり、そこに父親の死があり、さらに教師無着の働きかけがあり、その上で川合が問いを言葉にするまでに至ったということを述べてきた。しかし、それらをさらに辿って考えてみると、そもそも父親の理解しにくい行動は息子への心配・不安から出たということが言える。そして、心配・不安があるということは、そういう気持ちを抱かせるだけの事実があるということだ。そこにこそ、川合が強い問いを持ち、文章を書くまでに至った根本の要因があるのではないか。父親が息子の将来を一番心配して死んで行ったというのは、あくまでも川合末男の意見ではある。もしかしたら、それは勝手な思い込みであって、間違いかもしれない。しかし、川合末男にとって、父親に心配があったということに納得できるものがあったことは間違いない。ということは、少なくとも川合が父親の心配を納得できるだけの事実自体はやはりあったと考えられる。
では父親の心配のもととなる事実とは何だったのだろうか。もしくは川合が父親の心配を納得できるだけの事実とは何だったのだろうか。まとめると、川合の問いの根本にある事実とは一体何だったのか。
そのことを考えるために、遠回りのようだが、一旦川合の問いではなく、その答え、ならびに答えの根拠に注目したい。実はどうやって答えを出したかというところに、川合の問いの必然性が表れていると思うからだ。「父が何を心配して死んで行ったか」という問いの答えを川合が考えることと、川合の父親に心配を抱かせた事実が何であったかを筆者(私)が考えることは、同じことではないだろうか。
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