貧しい時代の生徒文集を、飽食の時代の若者が読み解く シリーズ13回の8回目
吉木政人君の卒論と、その振り返り、私のコメントを掲載する。
卒論は『山びこ学校』。
『山びこ学校』は、戦後間もない時期に、山間の貧しい集落で、中学生たちが家の労働で中学にも通えない中で、仲間を助け合い、村落社会の矛盾とも正面から向き合い闘った生活文集である。それを指導したのは、大学を卒業したばかりの若い教員、無着成恭。これは戦後教育を代表する仕事であり、その最高峰の1つである。
当時の貧窮した生活、学校にも通えず家の労働を手伝う中学生たち。困窮は病気を生み、親を病気で失う生徒も多く、村中をいつも死の影がおおう。しかし、その中で理想と家族愛が燃え上がる。その文章群の圧倒的な迫力。
それを、「豊かな時代」「飽食の時代」しか体験していない吉木君がどう読み、自分や今の時代を考えたか。
「文章の迫力とは何か、『山びこ学校』から考える」 吉木政人 全11回の8回目
■ 目次 ■
第2章 江口江一「母の死とその後」
第3節 問いから答えへ
分かることと、分からないことの区別
家計の計算
事実に対する姿勢
第4節 次の課題へ
一風変わった決意表明
江口の働く目的
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第3節 問いから答えへ
分かることと、分からないことの区別
江口は母の死や直面していた貧しさに対する問いがあり、またその死によって自らが家の責任者という立場に立ち、これからの生活に対する問いも同時に抱くようになった。それではそれらの答えはそれぞれ何だったのだろうか。どれだけ考えを進めることができたのだろうか。
江口は「あんなに働いても、なぜ、暮しがらくにならなかったのだろう」という母親についての問いに対して、「貧乏なのは、お母さんの働きがなかったのではなくて、畑三段歩というところに原因があるのでないか」(31) という答えがある。ここでは貧しさの責任を母の働きと、その働く条件という2つに分けて考えることが出来ている。そしてその条件の方に原因があるとした。
次に、自分の将来の生活は楽になるのかという問い(21)(23)(24)に対しては、「これで精一杯の生活をしていったとしても、三千五百円の借金をどうするか。いや、そんなことよりも扶助料をかんじょうにいれないで生活が立ってゆくかどうかというところに考えがくると、さっぱりわからなくなってしまうのです」(29)、「だから『金をためて不自由なしの家にする』などということは、はっきりまちがっていることがわかるのです」(30)、「だから今日のひるま、先生に書いてやったようなことは、ただのゆめで、ほんとは、どんなに働いても、お母さんと同じように苦しんで死んでゆかねばならないのでないか、貧乏からぬけだすことができないのでないか、などと思われてきてならなくなるのです」(32)が答えとなっている。
これらの答えについて比べてみると、明確な答えが出ているものと、あいまいなものがある。例えば、(30)についてはかなり明確な答えとなっているが、(31)と(32)はそれに比べるとあいまいだ。さらにいうと、(29)についてはどう考えたらいいのだろうか。これも一応答えとしていいと思う。「わからない」ということが分かるようになっているからである。
ここからは特に(29)と(30)の答えを詳しく考える。まず、(30)は明確だ。明確に分かったと結論づけている。逆に、(29)では「さっぱりわからなくなってしまう」と分からないままの疑問となっている。実は(29)は3つの内容に分かれていて、(30)と合わせると4つの課題に分けることができる。第一に、精一杯の生活をするということ。第二に、借金をなくすということ。第三は、扶助料なしに生活していくこと。第四は、金をためて不自由なしの家にするということ。この4つに分けられる。これは、生活水準の程度で順序づけられていて、1つ目のように、生きていくギリギリのレベルから、4つ目のような経済的に余裕のあるレベルに並べられている。
家計を計算することで、1つ目のレベルは達成できるかもしれないことが分かり、4つ目のようなことは「ハッキリまちがっている」ことが分かったのだ。そして、2つ目、3つ目の水準に達成できるのか、それともできないかは分からないでいる。2つ目、3つ目が分からないことが悪いことなのだろうか。別の見方をすれば、分かることと、分からないことの区別がハッキリしたとも言えるのではないか。それはそれで前進したと言えるのではないか。
他にも、(31)では貧しさの責任が母親の働きにないことが分かり、母親の働いていた条件に無理があったのではないかという問いが立っている。この作文における答えとは、何かを分かることだけでなく、分からないことが何かを明確にすることでもあるのだ。
家計の計算
それではなぜ川合は答えを出すことができたのだろうか。母が直面した貧しさの理由の答えを一応出せた。また、自分のこれからの課題を4つに順序立てて区別し、分かることと、分からないことを明らかにできたのはなぜだろうか。問いから答えを求める過程で何が起きているだろうか。
そこで江口は「4 考えていること」において、家計の計算をしている。その計算内容は大きく2つにわけることができる。1つには、母が五人家族を支えていた頃の家計。もう1つは、これから江口江一と祖母が2人になった場合の家計の予測計算だ。ここではあくまでも概算で計算している。それはデータがなかったからだ。会計簿があれば、どう考えればいいか分かるはず、と江口はデータを欲しがっているが(27)、本来のデータの目的が、将来を決定するための材料であることが確認できる。データを必要とするのは、これからどうするのかを考えたい人なのだ。しかし、データがなく、概算だったとはいえ、江口は出来る範囲で最大限詳しく計算していると思う。そこでは多くの具体的な数字が並び、読んでいる方からすると少ししつこく感じるくらいだが、江口にとってはこれでも足りないくらいだったろう。
母親の生前である昭和23年の収支では、米代だけで支出は22500円かかるのだ。またすでに借金もいくらかあったようだ。それに対して、主な収入としては村からの扶助料が13000円、それに10000円前後の葉煙草の収入が加わるだけなのだ。実際には米代以外にも出費はかさむはずだ。にもかかわらず母は借金を何とか7000円で食いとめたのだ。
家の責任者としてどうしたらよいのか何も分からない不安があった江口にとって(14)、とりあえず、収入がいくらどれだけあるのか、支出がどのくらいかかるのかといったことが、まず必要な情報だったのだろう。そこで母親の時代の家計の計算をしたのは、自分のためでもあった。まだ江口には現状を考えるための経験がなかったのだ。母親が生きていた頃の家計を参考にせざるを得なかったともいえる。母親は同じ立場の先達でもあり、そのデータ、過去に学んだのだ。そういう意味では、江口にとって、母親は自分のことを考えるための材料であった。しかし実際には同時に母の偉大さを再確認していて(28)、母自体への理解が進んでいることもわかる。
これからの生活の家計も江口は計算した。江口は兄弟と離れ離れになり、祖母と2人で生活していくわけだが、支出としては、米代だけで1ヶ月に930円、税金が230円、その他加えて2500円か2600円は必要になる予測をした。米代と税金しか支出がハッキリわからないのは、江口にデータがないからである。支出に対して、収入は扶助料が月に1700円、葉煙草の収入が800円となる。収支はちょうどギリギリのラインだ。
この答えを受けて、江口が教師の無着に出した6つの計画は否定されることになる(32)。6つの計画のうち、特に4項目目の「それから、金をためて、不自由なものはなんでも買える家にしたい。不自由なしの家にしたい」という計画は、ハッキリと否定されるのだった(30)。6つの計画には現実離れしていたところがあったのだろう。ここで言いたいのは、厳しい貧しさの中にあった江口でさえ、一度はそういう現実離れした計画を出してしまったということである。この事実は、人がいかに現状を把握することが難しいかを物語っていると思う。そこで家計の計算が果たしている役割は小さくないだろう。また、やはり無着成恭が江口にとりあえず計画を出させたということも重要だったのではないだろうか。やや現実離れしたものであってもとりあえず計画を出したことで、江口はその反省をし、実際の家計を計算し、自分の現状を理解することができたのではないだろうか。
事実に対する姿勢
母への理解という点では、印象的なのが死ぬ間際の笑顔についての深まりが起きている点だ。江口は母の死ぬ間際の笑顔が今までと違うような気がしていて、「あたまにこびりついている」というくらい強く印象に残っていた。そして、今までの笑顔は「泣くかわりに笑ったのだ」と思うようになったのだった。ここでは作文に明確な問いが立っているわけではないが、漠然とした問いが江口の中にはあり、一応の答えを出していると言えるのではないか。このことをどう考えたらいいのだろうか。江口は家計の計算を行い、貧しさの理由の答えを一応出したわけだが、そのことと母の笑顔に対する理解の深まりはどういう関係にあるのか。
それは母に対する理解が、貧しさに対する理解とつながっているということだと思う。家計を計算した答えがそのまま母親の笑顔に対する答えにはならないが、それらは別々に起こるような変化ではないのではないか。
また、家計を計算したことも含めて私がこの作文に読みとるのは事実に対する切実な姿勢だ。
次に触れるのは、「2 母の死」において、母親が入院してから、その死に至るまでの説明をしている部分だ。その部分で「日付」を連続して書いていることに私は注目した。「お母さんが死ぬ前の日、十一月十一日」(31)「忘れもしない十一月十三日」(32)「昭和二十三年の三月」(33)「まる一年と六カ月たった今年の九月」(34)「十月」(35)「十一月二日」(36)「十一月八日」(37)「十一月十三日」(38)「十五日」(39)と、江口は逐一、日付を文章に提示するのだ。母親の死をどう理解するのかというのが、江口の問いとしてあると思う。その母親の死に至るまでのことを書くときに、徹底的に日付を抑えていったわけだ。これは、まず事実何があったかを整理しようとしたのではないだろうか。何とか確かな事実に食らいつこうとしている江口を読みとることができると思う。
それから「1 僕の家」においては、自分の置かれている状況を端的に説明している。状況とは、自分の家が貧乏であること、母親が亡くなったこと、兄弟と離れ離れになること、祖母と二人暮らしになることだ。そういった事実を、「1 僕の家」において江口は1つずつ抑えている。
江口はこの文章を通じて、ずっと自分の状況や母が死ぬまでのことなどの事実を抑えるということを徹底して行っている。家計計算などもその表れだが、根本には事実への切実な欲求があり、なんとか食らいつこうとする姿勢を読みとることができる。事実への切実な欲求が強いことは、問いが強いということを意味するだろう。問いの強さがあり、事実への切実な欲求の結果として、母への理解の深まりや自分の状況の明確化をすることができたのだろう。しかし、逆にいえば母や江口自身が置かれた状況がその問いの強さを生んだとも言える。
第4節 次の課題へ
一風変わった決意表明
江口は分かることと分からないことを区別し、課題をより明確にすることができた。答えを出すことが、同時に次の問いを明確にすることなのである。
そのことに関係して、この作文が一風変わった決意表明で終わっていることに注目したい。それは決意表明が問いになっていることだ。1つには、「お母さんのように貧乏のために苦しんで生きていかなければならないのはなぜか、お母さんのように働いてもなぜゼニがたまらなかったのか、しんけんに勉強することを約束したいと思っています。」という問いがある。この問いについては作文において家計の計算などをして一応の答えを出したのだが、それだけでは江口の中の問いがまだまだ終わらないことを示している。ここでは、「勉強」という言葉を使っているが、貧しさの問題が家計の計算だけでは解決できないこと、そこに学問が必要なことに江口が気付いているようにも思える。
もう1つ、江口は「私が田を買えば、売った人が、僕のお母さんのような不幸な目にあわなければならないのじゃないか、という考え方がまちがっているかどうかも勉強したいと思います。」とも書いている。やはりこの問いも江口はずっと気にしているようである。
決意表明において、結論めいたことを言わず、問いで終わっているとはどういうことだろうか。それは江口の問いがこの作文を書いただけではとうてい終われないだけの問いの強さを持っているということだろう。江口の問いはここで安易に終わらせられるようなものではなく、これからも考え続けていくことなのだ。この「母の死とその後」という作文は、江口の問いに対する答えを考える1つの過程に過ぎないということだ。過程に過ぎないが、江口が現状を正しく把握し、課題を明確にする大事な1つの過程だ。
江口の働く目的
江口の明らかにした課題は、何を目標に働くかについての課題であると思う。江口江一にとって、働く目的は何といっても経済的な理由だった。何と言っても生きるために収入が必要だった。江口が一生懸命働いて、ようやく生きていくギリギリの生活ができるそうなことが家計を計算した上で分かった。本当に生きて行くことだけであれば、何とかなりそうではあった。しかし、江口には村からの扶助料なしで生活していきたいという希望があった。そのことが課題(問い)として残されたのだった。
江口は無着に提出した目標の中で、「羊みたいに他人様から食わせてもらう人間でなく、みんなと同じように生活できる人間になりたい」と書いている。江口からすれば、扶助料をもらって生活している自分は人間ではなく羊なのだ。江口が働く理由として金銭面があるが、その内まず生きるための最低限の収入が挙げられるが、その上で扶助料なしで生活していくこと、つまり経済的自立ということを求めていたのだ。
なぜ江口が経済的自立を求めたかと言えば、そこには母親の影響がある。江口の母親は村から扶助料をもらって生活していることを恥じていた。そもそも、収入が足りないにもかかわらず初めは扶助料をもらおうとしなかったのだ。ようやく扶助料をもらうようになっても、子どもには「おらえの((わたしの))(わたしの)うちはほかのうちとちがうんだからな。」と教えた。病気にかかった時に扶助料をもらっている人の医療費が無料だと知らずに治療が遅れてしまったのも、江口の母の中には周囲に経済的に依存するという発想がなかったからではないだろうか。
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