2010年から、私のゼミで関口存男の冠詞論と取り組んできた。不定冠詞論から始めて、定冠詞論をこの4月に読み終えた。
この世界一の言語学から学んだことをまとめておく。
1.名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ― 中井浩一
2.判断の「ある」と存在の「ある」との関係 中井浩一
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名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―
中井浩一
目次
1.関口存男の冠詞論と闘う
2.定冠詞論のむずかしさ
3.冠詞論とは名詞論である
4.名詞論としての定冠詞論
5.名詞が抱え込んだ矛盾
6.附置規定の主述関係
7.言い換えにおける名詞の分裂
8.名詞の発展の3段階 →本日5月13日
9.名詞こそが運動している
10.関口の生き方
8.名詞の発展の3段階
関口は、「第1篇 指示力なき指示詞としての定冠詞」では、直接、間接に、名詞が何かで規定される場合を検討してきた。それに対して、「第2篇 通念の定冠詞」では、規定されることなく、名詞が単独で現れる姿を検討し、分類する。
この第1篇と第2編がどう関係し、第2編での名詞の分類、特に関口が強調する「通念」と「概念」の区別が何を意味しているのかがわかりにくかった。
私の結論を先に出す。関口は、「第1篇 指示力なき指示詞としての定冠詞」で名詞が何かで規定される場合に、そこに主述関係を見ようとした。それは結局は名詞が個別(特殊)〔主語〕と普遍〔述語〕へと分裂する運動であることを示し、その分裂と止揚の運動が、ヘーゲル論理学でいうところの「普遍→特殊→個別」へと発展することをとらえようとしているのだと思う。名詞の発展、そこには3つの発展段階がある。そして、第3段階自体にもまた「普遍→特殊→個別」への発展の段階がある。この第3段階を展望しようとするのが「第2篇 通念の定冠詞」なのではないか。
関口の定冠詞論だけではなく、不定冠詞論の主張も含めて、私は名詞の大きな3段階の発展過程を次のように考える。もちろん、ヘーゲルの論理学を下敷きにしている。
(1)最初は未分化 分裂以前
言葉は、「あれ」「これ」「それ」といった、ある対象の指示から始まる。
この指示機能は、実際に「指さす」かわりに言葉を発したもので、言語のもっとも原始的機能である。
そして、次の段階で、その対象を「あの○○」「この○○」として意識することが始まる。世界の一部を凍結させて○○としてつかまえることであり、この○○が、最も原始的な名詞である。
関口のいう「素朴通念」または広義の通念とは、この段階とも考えられるのではないか。
この段階は定冠詞(というよりもただの指示語)をつける。
指示語から冠詞が生まれたのは歴史的にも事実らしい。
この段階は、対象に分裂がなく、認識主体と対象世界との分裂もまだない。すべてが一体になったままの段階である。
(2)分裂の世界
ここでは世界が分裂し、名詞が分裂する。判断文がそれをわかりやすく示している。
1.Die Blume ist rot.
2.Die Blume ist klein.
3.Die Blume ist schön.
4.Die Blume ist eine Rose.
1.この花は赤い。
2.この花はきれいだ。
3.この花は小さい。
4.この花はバラだ。
判断とは、「この花」自身が、自らをなんであるかを示し、個別〔主語〕と普遍〔述語〕に分裂したものだ。「花」に内在化していた諸性質が、外に現れたものが述語部の「赤い」、「きれいだ」、「小さい」、「バラだ」等なのである。
この段階では名詞(この花)は、主語と述語に分裂し、個別と普遍へ分裂する。(ヘーゲルの論理学の判断論から)
関口はこの段階を「不定冠詞の世界」ととらえる。述語のeine Roseに現れるのが不定冠詞であることが、それを代表する。(判断における主語の定冠詞については第3段階で説明される)
ここで、対象はただの「存在」(主語)と「質」(述語)に分裂し、「質」の含みがきいてくる。
この世界は分裂の段階だから「特殊」の世界である。また、対象が分裂するだけではなく、対象と認識主体の分裂もあり、認識主体内部にも自己内2分がおこる。
これが動物から切れた人間の独自の世界の始まりであり、それは現実から遊離した「空想」の世界や、仮構の世界を作り出す力を持った。
(3)分裂を止揚した世界
前の(2)の段階を止揚した段階である。
名詞は主述関係の分裂を止揚して、分裂を内部に含み持って統合された名詞として現れる。特殊と普遍の分裂を内部に止揚し、含み持っている。これが、私たちの前に存在しているほとんどすべての名詞の姿である。だからそれは自由に分裂し、統合を繰り返すことができる。(それを証明して見せたのが、「第1篇 指示力なき指示詞としての定冠詞」ではないか。「規定する」ことは、判断の形式で分裂と結合を意識された2つがあって成立するのだ)
この段階が、名詞の発展の最終段階で、ヘーゲル的に言えば「個別」の段階と言える。これが、関口の言う「一致確認」の世界であり、定冠詞がつく。
これは(2)で生まれた「質」の含みを、止揚した形で内に持つ。(2)が空想の世界だったのに対して、論理的、合理的世界とされる。
以上の(1)から(3)の3つの発展段階は、ヘーゲルの普遍、特殊、個別に対応する。注意したいのは、この大きな3つの発展過程は(1)→(2)→(3)の順に限定されないということだ。(2)と(3)の世界は相互転化し、それによって言葉の世界は無限に豊かになってきたのだろう。(2)で質の含みが豊かに生まれ、それを止揚して概念化された言葉が生まれるが、その概念化した言葉から、この段階をさらに止揚して質の強調、感情評価が生まれてくる場合もある。これは(2)の不定冠詞の世界に戻っているだろう。
そして、この第3段階である(3)で、新たに生まれてきた名詞にも、やはり「普遍→特殊→個別」への3つの発展段階があるのではないか。
分裂を止揚しただけの第1の状態(普遍)が、関口の言う「素朴通念」(広義の通念)で、それが概念化された第2の段階(特殊)が「素朴全称」「全称概念」「純粋概念」「類型概念」「偏在概念」、それがさらに止揚されたのが最後の「個別」の段階で、それを関口は「通念」(狭義の通念で「通り言葉」や「俚俗通念」「特殊通念」)と呼んでいるのではないか。
この第2の概念化された段階で、西洋語特有の、その名詞が全称か否か、冠詞が定冠詞か不定冠詞か無冠詞か、といった名詞の分類や、アリストテレスの判断論の分類の問題が出てくる。「固有名詞」もここに現れるのだろう。
以上が、私が理解した名詞の発展過程だが、関口自身の説明とは直接は何の関係もないほどに違って見えるだろう。しかし、関口の「第2篇 通念の定冠詞」の叙述の中に、ヒントになる個所はたくさん散りばめられているのである。
関口はDer Doktor hat es mir verboten.(医者がそれを禁じた)を例に挙げ、次のように説明する。「定冠詞は,歴史的に云って,すべて『指示詞』であって,その指示力が衰えて形式的になったのが最初の出立点である」。「『医者』という通念は,実は,『此の医者』(der Arzt)という形式が,『此の医者なるもの』或いは『いったい比の医者というやつ』(全称概念の定冠詞)という意味に転化したのち,その次に『此の』とか『なるもの』に相当するderの指示力と概念性が衰えて,遂には元のArztだけの場合と全然同じに考えられはじめたものにちがいない。換言するならば,der Arzt(此の医者)という指示冠詞がder Arzt(医者というもの)という普遍概念化冠詞となり,次いでder Arzt(医者)という通念の定冠詞に変ったのである」(406ページ)。
以上から、関口も、指示冠詞(此の医者)→元のArzt→普遍概念化された名詞(『此の医者なるもの』或いは『いったい比の医者というやつ』)→通念(『医者』)という過程を考えていることがわかるだろう。
一方で、関口は通念を、狭義の通念と広義の通念に分けている。
「狭義の通念というのは,本篇の後半で問題になる『通りことば』『俚俗通念』『特殊通念』その他で,云わば『如何にも通念ということばに相応しい通念』である。広義の通念というは,通念という名称には一見大して相応しく思われないにかかわらず,よく考えて見るというと,けっきょく言葉の意味というものはすべて其の出立点は通念であって,いわゆる概念といったようなものの出来上る一歩手前に『通念』というものがなければならない筈だということが首肯されるに至った場合に浮かび上って来る,非常に根本的な意味の通念である」(404ページ)。
「たとえ何語においても,一つの語の意味するところは,結局のところは,すべて,まず通念であって,その次にやっと概念となるにすぎない」(405ページ)。これが広義の通念であり、関口の言う「素朴通念」のことだろう。つまり「元のArzt」である。
「素朴通念は最も通念一般の本質に近い形態である。うっかりすると『通念一般』と同一視されてしまうおそれがある」(570ページ)
「達意限目の主局に立つ通念は,主局という語局そのものの重要性のために,単なる素朴通念であることは不可能で,必ず全称概念か,類型単数か,遍在通念か,通り言葉か,俚俗通念か,或いはその他の特殊通念性を帯びるのが自然であるが,傍局に立った通念は,語局が軽いため通念としての素朴性の上に何等かの特殊な概念的色彩が附け加わることは事実上不可能である」(571ページ)。
「既に何度も引合いに出したDer Doktor hat es mir verboten.のDer Doktorは素朴通念である。特殊通念,俚俗通念であるかも知ないが,まず第一には素朴通念と考えるのが妥当である」(570ページ)。
この素朴通念の「医者」と、特殊通念,俚俗通念となった「医者」の違いについては、関口から十分な説明はないようだ。しかし、事態に即して考えれば、素朴通念の「医者」(元のArzt)が発展して特殊通念,俚俗通念になったのだと思う。
この狭義と広義の通念の区別を考慮して、名詞の発展の全体像を示せば以下になる。指示冠詞(此の医者)→広義の通念(素朴通念、元のArzt、つまりただアレとしての『医者』)→普遍概念化された名詞(『此の医者なるもの』或いは『いったい比の医者というやつ』)→狭義の通念(通り言葉か俚俗通念としての『医者』)。