11月 28

対等な関係における意見交換、相互批判の原則 その4

夏の合宿以降、ゼミ生相互の信頼感が急速に深まってきたようだ。一部にではあるが、活発な意見交換、相互批判が行われるようになった。

しかしそうした中で問題も出てきた。批判の言葉に傷ついたり、感情的になったりすることが起こってきたのだ。このことは当然予測されたことだ。一つ上のレベルへ高まろうとする限り不可避のことでもある。

師弟関係は上下関係だが、ゼミ生間は対等な関係だ。そこにはこれまでとは別の原則が必要になるのだ。

この10月に、その原則について話し合いをした。私は一般的な原則と感情的になることについての対策の2つを中心に提案をした。そのレジュメをここに3回にわけて発表する。

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◇◆ 仲間内でのアドバイスや批判をどう考えるか 中井浩一 ◆◇

          2010年10月23日

三 各論
(1)牧野紀之の「討論の5原則」 → 牧野は構造的に問題を把握できていない

1.認識
個人の認識と集団的認識 →1と5
ここでは「認識のルール」がそのまま集団のルールになる
討論を集団的認識の問題としてとらえたのは、大きな意義がある

  2.自立
他人への依存と自立の問題 それが3と4
   「人の尻馬に乗る」はこの問題。夏目が「他者本意」で問題にしたのはこれ

  3.感情的
「感情的になるな」というルールが2。ただし、これではあまりに不十分

(2)メディア、媒体の問題
1.メールやメーリスは、事務連絡や情報提供にふさわしい
2.意見の表明も良いが、意見対立、こみいった議論には向かない
3.そうしたものは、手紙にするか、直接に会って意見交換するのが良い

(3)レッテル貼り、先入観
方法一般の問題
内在的に克服するしかない

(4)夏目漱石の個人主義(参考に)
1.党派主義の親分・子分関係。みなが一体であるが、自立できない。
2.個人主義の師弟関係と同志関係。
みなは孤独でバラバラ。しかし自立し、深い信頼関係がある。

11月 27

対等な関係における意見交換、相互批判の原則 その3

夏の合宿以降、ゼミ生相互の信頼感が急速に深まってきたようだ。一部にではあるが、活発な意見交換、相互批判が行われるようになった。

しかしそうした中で問題も出てきた。批判の言葉に傷ついたり、感情的になったりすることが起こってきたのだ。このことは当然予測されたことだ。一つ上のレベルへ高まろうとする限り不可避のことでもある。

師弟関係は上下関係だが、ゼミ生間は対等な関係だ。そこにはこれまでとは別の原則が必要になるのだ。

この10月に、その原則について話し合いをした。私は一般的な原則と感情的になることについての対策の2つを中心に提案をした。そのレジュメをここに3回にわけて発表する。

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◇◆ 仲間内でのアドバイスや批判をどう考えるか 中井浩一 ◆◇

          2010年10月23日
二 感情的になることについて
(1)感情の根元性
1.感情や実感こそが、現実を直接に反映する、根源的なもの
  2.それを否定したり、抑圧するのは間違い
3.しかし、感情は、生なままの、あいまいで混沌とした形で現れやすい。
例外的に、純粋な感情が吹き上げることはあるが、それはあくまでも例外

(2)感情の何が問題か
  1.感情全体が問題なのではなく、怒りや憎しみ、恐怖などの、マイナスな感情が主に問題で、相手を攻撃しようとすることになりやすい。
2.しかし、プラスの感情(愛など)でも、相手への依怙贔屓などの問題も起こる。
  3.それが問題なのは、
内容上の公正、公平さが損なわれやすいから
形式上の人格への配慮ができなくなりやすいから

(3)解決は思考による
1.普通は、感情内で、解決するのはムズカシイ。
2.普通は、感情問題を解決できるのは思考でしかない
しかし、その解決とは何か

(4)思考による解決とは何か
1.事前に感情をコントロールしたり、感情を抑圧することではない。(できないから)
2.感情に「含まれる」意味を明らかにすることしかできない。
「含み」を徹底的に明らかにすることによって、結果的に自然に感情をコントロールできるようになっていく
3.しかし、この作業は、無意識な部分を意識化することになり、深刻な問題を明らかにすることにもなる。深刻な内的な葛藤をも引き起こす。
自分に向き合う辛さがある。
したがって、それをどこまで進めるかは、最終的には本人次第である。
本人の主体性を尊重するしかないし、踏み込む範囲や迫り方には慎重でありたい。
4.以上をわきまえながら、「含み」について話し合い、相互に理解し合い、尊重し合い、前に進みたい。
  5.今後、感情的なことが起こった場合、それを指摘し、その理由(「含み」)を考えるようにする

※感情の「含み」を明らかにしていく中で、感情にも「浅い」ものと「深い」ものの違いがあること、問題があるものとないもの、「含み」の自覚を進めるものとそうでないもの、などの区別が見えてくるだろう。感情内にも矛盾があり、それが「含み」をつくり、その意味を明らかにしているのだ。

11月 26

対等な関係における意見交換、相互批判の原則 その2

夏の合宿以降、ゼミ生相互の信頼感が急速に深まってきたようだ。一部にではあるが、活発な意見交換、相互批判が行われるようになった。

しかしそうした中で問題も出てきた。批判の言葉に傷ついたり、感情的になったりすることが起こってきたのだ。このことは当然予測されたことだ。一つ上のレベルへ高まろうとする限り不可避のことでもある。

師弟関係は上下関係だが、ゼミ生間は対等な関係だ。そこにはこれまでとは別の原則が必要になるのだ。

この10月に、その原則について話し合いをした。私は一般的な原則と感情的になることについての対策の2つを中心に提案をした。そのレジュメをここに3回にわけて発表する。

なお、いつものことだが、私の考えは牧野紀之氏の考えを前提としている。今回も、一原理論の(1)「能力の不平等と、人格の平等の矛盾」の定式や、(3)「人間の相互理解」の基本は牧野氏から借りている。

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◇◆ 仲間内でのアドバイスや批判をどう考えるか 中井浩一 ◆◇

          2010年10月23日
一 原理論
(1)「能力の不平等と、人格の平等の矛盾」(牧野紀之より)をどう考えるか
1.この矛盾は、民主主義社会の一般的な問題。
みなが能力を高めあって、みなが高い能力で生きることが解決
それがムズカシイ
2.師弟関係は、能力の上下関係を確認し、それを認め、能力を高めることを目的とした関係だから、人格の問題が基本的には解決されている
3.私のゼミの横の関係では、前提があるから、一般社会よりは、少し簡単
同じ目標(真っ当な生き方、考え方をしたい。自分の可能性を最大限に発揮したい)のもとに、同じ先生を選んでいる。
そこから生まれる信頼関係がある。

(2)何が問題なのか。→ (1)の原則の自覚のなさと認識能力の低さ
  1.内容の問題。認識能力の低さゆえに内容に間違いがおこる
   相手の発展段階の理解と、自分自身の発展段階の理解を踏まえたものにならないと的確な内容を言えない。
言う、言わない、の判断ができない。(言わないという判断もありうる)
→ これには「自己理解と他者理解の統一」を倫理として出している
しかしそれだけではなく、認識能力の低さの問題こそが大きい
  →しかし、能力は、使わないと高まらない。失敗は覚悟すべき
2.形式の問題。(1)の原則の自覚のなさゆえに相手の人格の尊重を軽視する
言うにしても言い方が問題になる。相手の人格を尊重しなければならない
無礼も、慇懃無礼もある。
 →しかし、萎縮して何も言えなくなるのは避けたい。失敗は覚悟すべき
  
(3)注釈 人間の相互理解(牧野紀之より)
1.相互にすべてを理解し合うことは不可能だし、その必要もない →誤解は不可避
 ※「不可能」というと消極的だが、ここにはもっと積極的な意味がある。
  それは人間の尊厳性の根拠ではないか。例えば夫婦でも踏み込んではいけない領域があるし、秘密はあっていいし、あるべきではないか。
2.それを自覚した上で、誤解の確認と解決への道筋があればよい

(4)対策
1.多くの人は、最初は自分のことで精一杯で、他者のことまで考える余裕がない。
自分を第一にしながら、言える範囲で他者について発言すれば十分
  2.余裕が出てきた段階では、仲間内での意見交換は積極的に行われるのが望ましい。しかし、相手のことが最初はよくわからないから、
内容も形式も問題が多い発言になる。
   失敗を重ね、反省を重ね、少しずつ相互理解を深め、能力を高めていく以外にない
    → 言うべきか否かで迷うぐらいなら、言った方がよい
3.言い方や相手への配慮は必要だが、それにあまりにエネルギーをさくのは不毛。
「わざと」でなければ、結果的に傷つけることは不可避であり、しかたがない。
それを許し合い、認め合って、前に進みたい。
  4.問題が起こったと気づいた人は、それを指摘し、みなで話し合う
こじれそうで、自分では解決できなそうなら早めに中井に相談する
  

11月 24

対等な関係における意見交換、相互批判の原則 その1

夏の合宿以降、ゼミ生相互の信頼感が急速に深まってきたようだ。一部にではあるが、活発な意見交換、相互批判が行われるようになった。
これまでは、私とゼミ生1人1人との個別的な関係が中心で、ゼミ生相互の関係は表面的なものに留まっていた。

それがこの秋から変わった。その原因としては、ゼミ生の多くが、真摯な反省に基づいた自己理解の文章や報告を出すようになったことがあげられよう。
その真摯な姿勢、頑張っている姿は、仲間たちに深い共感を呼びおこし、自分も頑張ろうと思うようになってきた。
この様子は9月20日から10月1日までにブログに掲載した「夏の『ヘーゲル哲学』合宿」からもうかがえるでしょう。

ゼミ生相互の意見交換、相互批判が行われるようになったのは、とても喜ばしいことだ。
これは、私たちのゼミが、これまでの蓄積を踏まえて、今、さらに一つ上の段階に高まろうとしていることを意味する。

しかしそうした中で問題も出てきた。批判の言葉に傷ついたり、感情的になったりすることが起こってきたのだ。このことは当然予測されたことだ。一つ上のレベルへ高まろうとする限り不可避のことでもある。

師弟関係は上下関係だが、ゼミ生間は対等な関係だ。そこにはこれまでとは別の原則が必要になるのだ。

この10月に、その原則について話し合いをした。私は一般的な原則と感情的になることについての対策の2つを中心に提案をした。そのレジュメをここに3回にわけて発表する。
この問題は、一般社会でも友人や恋人、夫婦などの対等な関係で問題になることだ。民主主義社会全般の原則でもある。参考にしていただけると思う。

9月 17

『コミュニティビジネス入門』から学ぶ 
 (5)社会資本、地域資源は誰のものか 「所有」と「主体」の問題
 (6)本書の意義と限界
 
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(5)社会資本、地域資源は誰のものか ?「所有」と「主体」の問題?

 さて、「地域」が、外部者も含めたものであるのならば、
社会資本、地域資源は誰のものか。ここに、「所有」「主体」の
問題が浮き上がってくる。

 この「所有」「主体」の問題のところで、本書では捉え方が曖昧になる。
一般にも、この点が曖昧なので、問題提起しておきたい。
一般に「コミュニティビジネス」を論ずる人は、その主体を個々の事業主、
つまりNPOや企業、団体として理解、その内部での「所有」の問題を論ずる。
しかし、その団体も含めて、その事業に関係するすべての関係者が
「主体」なのではないか。
これが本当の、地域資本、社会資本という考え方ではないか。

 例えば、ワインツーリズムは誰のものなのか? 
企画運営者の笹本さんたち(3次)だけのものではない。
ワインツーリズムの関係者のすべてのものだろう。
もちろん中心は2次産業のワイナリーだが、「かつぬま朝市会」や地域の
散策組織(「勝沼フットパス」)も加わっている(以上は3次、一部は4次)。
ワインツーリズム参加者はそのワイナリー周辺地域を散策するが、
そこに1次産業のぶどう農家が大きく関わってくる。
ワイナリーにぶどうを提供しているのは、彼ら(の一部)なのだ。

 長く1次の農家と2次のワイナリーには対立があった。
地域の人々から見て、外部の笹本さんたちが偉そうにしていることも
面白くないだろう。そこに都会からワイン好きが集まってきて、
地域の自然や文化財をも楽しむ。

 これらがすべてを所有者、主体として考えるべきではないか。
ここには、多様な利害関係者がいるし、対立の側面は常にある。
一般に、「コミュニティビジネス」の一事業やイベントには、
多様なステイクホルダー、複数のセクターが関わるので、
そこには必ず利害対立が起こり、矛盾がある。だからこそ、
それを解決するための民主主義が、情報公開が問題になるのだ。

 ワインツーリズムでは、実行委員会が一応立ちあげられている。
委員長は笹本さんで、副委員長に大木さんや朝市会の主催者、
ワイナリーや地元農家からは委員が出ている。
地元甲州市の行政マンも委員だ。しかし、議論は低調で、
笹本さんたちにお任せの状態が続いた。関係者間には利害対立があって、
収入アップになるワイナリーと、ボランテアを「強いられた」と感ずる
地元農家との間には、感情的な対立がある。補助金獲得を巡り、
行政や地元、笹本さんたちとの間にも対立がある。
しかしそうした対立が表面化していないので、うやむやになっている。
ワイナリーや個々の利害関係者に、どんな金の流れがあったのか?
それは、現段階ではオープンになっていない。
これが「ガバナンス」の問題であり、「所有」の問題なのだ。

(6)本書の意義と限界

 今示したのは、この社会資本のモデル、理念から見えてくる
論点のほんの一部だが、その有効性がわかるだろう。

 これでワインツーリズの総括ができる。他の似たような
活動をしているコミュニティビジネス(ソーシャルビジネス入)の分類、
位置づけ、評価の観点や課題の整理と、その解決のための政策づくりが可能になる。

 本書では、この社会資本というモデルを提示したことが
最大の貢献だと思うが、ヨーロッパモデルの考え方や情報、
日本でのたくさんの事例が紹介されているのも、参考にはなる。
ヨーロッパの社会的企業。福祉国家から福祉社会への転換。
EUの「社会的排除」との闘いなど。

 コミュニティビジネスを評価する人にも2派がいる、という指摘は重要だ。
一方は「社会的排除との闘い」(社会民主主義)の側面を見る。
他方は「安上がりサービス」(新自由主義)の側面を見る。
この2つは必ずしも正反対の立場ではないが、
どちらを中心とするかで対立をはらんでいるのだ。
これは『良い社会の公共サービスを考える』でも指摘されたことだが、
表面的にはともかく、問題が起きるたびに、どちらの立場なのかが
問われるだろう。そのことを自覚しているだけでも、対応は変わる。

 本書の意義を挙げてきたが、もちろん問題もある。
「用語集」を付けて、今の諸問題を整理し、方向を明確にしている点で、
教科書として成功していると思うが、その内容には疑問も多々ある。

 すでに社会資本の「所有」「主体」のとらえかたに疑問を出したが、
他では、就労形態で、「ワーカーズコレクティブ」と「生協」の違いが
分からない。結局は大きさ、規模の違いなのではないか。
生協は大きくなりすぎて、小ささが必要なのではないか。
所有と意思決定と労働の間で、小ささの持つ意味が問われているのでは。

 「社会的企業」とか「社会起業家」の「社会」も曖昧だ。
「正しい」とか「正義の」といったニュアンスだが、それでは
「社会的」でない「企業」や「起業家」が存在することになるし、
それを認めることになるが、それで良いのか。本来は、
企業や起業は社会的な物なのだから、こうした「社会」という冠が
不要になることが最終ゴールなのだ。「社会的企業」という言葉がなくなること。

 つまり、本書の「用語集」では、一般に言われていることを
まとめているだけで、著者たちの自説や掘り下げがないのだ。
もっとも、そもそもまだ概念が曖昧で混乱している段階だ。
私たちで自前の「用語集」を作り直すような覚悟が
必要だということだ。用語、概念は単なる知識ではなく、
課題を深く、広く考えていくための基本的な武器なのだから。

 こうした基本概念に対する理解の程度が運動のレベルを決めてしまう。
概念には、人類の問題意識と英知が集約されている。
 

 本書には問題を深めるよりも、きれいごとで済ませている箇所も多い。

 例えば、コミュニティビジネスの意義を強調するために、
行政と民間企業の限界を以下のように強調する。
地域、家庭の崩壊により、行政サービスが拡大したが、
それも今では財政破綻したし、もともとが一律サービスしかできず、
特定の地域ニーズには対応できない。一方の民間企業は
多様なサービスを提供できるが、ニーズがあり利益があがる限りのことだ。
こうした狭間で、利益が上がりにくい多様なサービスを提供できるのが、
コミュニティビジネスだと言うのだ。そのためには、民間以上の力で
「経営的イノベーション」の能力が必要になる。しかし、
それほど困難で高い能力を持つ人が、本当にコミュニティビジネスに
関わるだろうか。彼らの年収は約200万だと言う。
ここには根本的な無理がないか。

 この点で、コミュニティビジネスと生協との連携などを提案しているのは
現実的だ。理解ある企業との提携が一番現実的だろう。

 しかし、そうした際にも、結局は、また「所有」の問題にぶつかるだろう。
これがやはり肝なのではないか。だから、本書では多様な
コミュニティビジネスを紹介しているが、一番知りたいのは、
その所有の問題や、内部対立をどう解決しているかなのだ。
もちろん、内部民主主義と公開の原則の重要さは言われている。
しかし、そうした建て前ではなく、実際のコミュニティビジネス内部での
深刻な対立の問題は出さなければ、説得力はない。

 現在のコミュニティビジネスにはたくさんの問題がある。
なぜ横の連携が取れないのか。なぜ小さくしかまとめることができないのか。
それぞれの小さな組織で、お山の大将でいたいからではないのか。
単なる補助金荒らしではないのか。

 そうした内部の深刻な問題には触れていない。
しかし、それは求める方が間違っている。自分たちで行うべきだろう。

 私たちの議論の中から、次のような意見も出た。
「社会的排除」と言うと、いわゆる「社会的弱者」を念頭に思い浮かべやすいが、
そうでない場合もある。ワインツーリズムでの「社会的排除」とは、
「大量生産・大量消費のマーケットや受身の社会生活に満足できない層」を意味する。
彼らは山梨では、プライドが保てない。出て行って(排除されて)しまう。
 こうした視点も大切にしたい。

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