12月 03

11月28日に東京都美術館で「冷泉家 王朝の和歌守(うたもり)展」を見た。
藤原定家の肖像画が面白かった。プライドの高い、繊細で偏屈で狷介で嫌な奴だったろうな、と思っていたが、その通りの顔だった。
日本の古典を再編集したことや、歌の家を作ろうとした(家元制度の創始者)こと。それが気になる。
 冷泉家の現在の当主が、外婿として冷泉家の当主になったものの当惑し、文化の保存の役割に徹すると腹が据わるまでに時間が必要だったことを書いていた。こうした「家制度」について考え込む。

定家の「明月記」が展示されていて、読みたくなった。幸い、作家の堀田善衛が『定家明月記私抄』 (ちくま学芸文庫 正続) を出している。早速読んでみた。

アマゾンには「紅旗征戎吾ガ事ニ非ズ―源平争闘し、群盗放火横行し、天変地異また頻発した、平安末期から鎌倉初期の大動乱の世に、妖艶な「夢の浮橋」を架けた藤原定家。彼の五十六年にわたる、難解にして厖大な漢文日記『明月記』をしなやかに読み解き、美の使徒定家を、乱世に生きる二流貴族としての苦渋に満ちた実生活者像と重ねてとらえつつ、この転換期の時代の異様な風貌を浮彫りにする名著」と紹介されている。

定家が「プライドの高い、繊細で偏屈で狷介で嫌な奴」だったことが確認されたが、かなりタフであることに驚いた。
 彼は官吏としての出世になりふりかまわず、60歳になっても猟官運動に精を出す。男女関係は錯綜し、定家にも30人近い子どもがいる。それは当時にあってはごく普通のことだった。そして彼は10代から70代までに詳細な日記を書き続ける。これは決して普通ではない。

 俗の俗にあった定家にも感心したが、この本の著者にも感心した。政治と文化の実相、西洋と日本の幅広い領域を視野に入れた堀田善衛の冷徹な目が行き届いている。
 宮廷文化が没落していく中で、サブカルチャーが従来のカルチャーを圧倒していく。和歌を、そして自らを守るために家元制を構想するしかなかったこと。当時の宮中、後鳥羽院の人々、京都の治安の悪さ、鎌倉幕府との関係、官吏としての日常。
 定家のため息、つぶやき、うめきまでが伝わるような本だ。

 

12月 01

11月8日に、京都国立博物館の「日蓮と法華の名宝―華ひらく京都町衆文化―」を見た。

この企画展については、5月1日のブログで触れた。
そのブログでは「展覧会には2種類ある」として、「新しい視点、観点の提示をし、その視点からの展示をする」あり方を推奨した。

そこで、その期待する例として出したのだ。
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 京都国立博物館は、今年秋にも魅力的な展示を行う。「日蓮と法華の名宝―華ひらく京都町衆文化―」であり、「文応元年(1260)、39歳の日蓮は、度重なる災厄と国家の危機を憂えて、『立正安国論』を著し、鎌倉幕府前執権の北條時頼に献じました。それから750年目にあたる今年、それを記念し、『立正安国論』を軸に、京都十六本山を中心とした諸寺伝来の宝物の数々を、一堂に展観します」(博物館のHPより)とある。
 これはいわゆる「琳派」展だろう。江戸時代の本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ)、俵屋宗達に始まり、尾形光琳、尾形乾山らが確立し、その後もすぐれた継承者を多数生んだ「琳派」の流れの展示である。

 しかし、それがなぜ「日蓮と法華の名宝」なのか。光悦たちの多くが法華宗徒だったからだ。光悦は、京都の洛北鷹ヶ峯に芸術村(光悦村)を築いたことで有名だが、その住人の本阿弥一族や町衆、職人などは皆、法華宗徒だった。光悦の死後、光悦の屋敷は日蓮宗の寺(光悦寺)となっている。
 これには当然わけがある。浄土を死後の世界に求めず、現世に実現しようとする在り方、現世と人間の欲望を肯定する教えが、彼らの拠り所になっていたのだろう。
 その宗教と芸術との関係から「琳派」を見直すことで、これまでと違う側面が見えてくるかも知れない。
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その結果はどうだったか。
期待はずれだった。
そもそも、江戸時代の「琳派」の展示はほんの一部だった。何か「新たな発見」がそこにあったわけでもない。
本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ)、俵屋宗達、尾形光琳、尾形乾山らの展示は、それぞれ数点しかなく、新たに知った物は光悦の自筆の立正安国論しかなかった。「琳派」に新たな光が当てられたわけではない。

もちろん、新たに知ったことはある。以下は、今回の企画のHPからの引用。
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 本展はこれを記念し、『立正安国論』を軸に、鎌倉新仏教の一翼を担った日蓮の足跡をたどり、その門下の活躍、特に孫弟子にあたる日像の京都布教以降、公家文化と並ぶ町衆文化の形成に果たした日蓮諸宗の大きな役割を紹介します。
 日像は三度の京都追放にもめげず、帝都布教の悲願を達成し、大覚大僧正妙実(だいかくだいそうじょうみょうじつ)という優れた後継者を得て、その基盤が確立しました。やがて、法華信仰は室町時代を通じて町衆を中心に広がり、京都は「題目の巷(ちまた)」と称されるまでになりました。
 反面、勢いが強まったことで、旧仏教界の中心であった比叡山と関係が悪化します。天文五年(1536)、ついにその対立は天文法華の乱として火を噴き、京都撤退の憂き目をみましたが、ほどなく帰京が許されてから、再び勢いを回復します。
 その後、天正七年(1579)の織田信長による安土宗論での浄土宗への敗北、文禄四年(1595)の豊臣秀吉の方広寺大仏殿千僧供養に際して日蓮諸宗への出仕の強要による宗内の動揺など、政治と宗教という難しい問題にも遭遇しました。ちなみに、当館の敷地には、まさにその方広寺の遺構の一部が含まれており、史跡に指定されています。
 このような曲折を経つつも、今日なお、その伝統は京都十六本山を中心に受け継がれており、それを支えたのが町衆だったのです。
 この町衆が京都近世文化の形成に大きな役割を果たしたことは知られていますが、名だたる近世の芸術家たちが法華の信者だったことは意外と知られていません。たとえば、狩野元信、長谷川等伯、本阿弥光悦、俵屋宗達、尾形光琳、尾形乾山、彼らがみな法華信徒であったと聞くと「エッ!?」と驚く方も多いのではないでしょうか。つまり、狩野派、長谷川派、琳派といった画派は、この法華を媒介にした京都町衆の濃密な人間関係から形成されたともいえるのです。
  本展では、法華信仰の遺品はもとより、これら近世日本美術の名家の優品も展示することで、日蓮諸宗と京都町衆文化の奥深さを再確認するものです。こうした趣旨の展覧会はあまり例がありませんでしたので、十六本山を中心に事前調査を行い、多くの新発見に結びつきました。中には重要文化財級の作品もあり、数多くの初公開作品もみどころと考えています。多くの方のご来場をお待ちしています。

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 以上の中で、日像のことと、彼の京都布教以降、日蓮宗が京都の町衆文化の形成に大きな役割をはたしたこと。
狩野元信、長谷川等伯も法華信徒であったこと。今回の企画のための調査で長谷川等伯や彼の一派の作品が発見されたこと。
 ということは、安土桃山時代には、京都の主要な芸術家は日蓮宗だったと言うことになる。そしてそれが、当時の政治との関わりで大きな混乱があったらしい。
 そうしたことは、学んだ。

 しかし、そうした知識以上のものは、そこにはなかった。展示企画した側に、それ以上のものがなかったのだと思う。

 期待が裏切られること。それは良くあることだし、しかたがない。

10月 17

10月15日(木) 松濤美術館の「生誕120年 野島康三(のじまやすぞう) 肖像の核心展」に行った。

HPには以下のようにある。
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日本の近代を代表する写真家 野島康三(1889年?1964年)。
慶応義塾在学中に写真に興味を抱いた野島は、東京写真研究会などで作品の発表を始め、頭角をあらわします。
日本写真会の同人として活躍し(1926年から)、国画会写真部の創設に参加する(1939年)など日本近代写真のなかに大きな足跡を残しました。芸術のパトロンでもあった野島の全貌を写真作品約150点と文化人たちの書簡や記録写真など豊富な資料とあわせて紹介します。
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日本における、写真の「近代」がわかる展覧会だった。
野島はパトロンとして、白樺派や画家たちを支えたようで、その交流が手紙類からうかがわれた。
岸田劉生、梅原龍三郎、柳宗悦、武者小路など。

岸田の絵と、野島の写真との響き合いについては、以前神奈川県立美術館葉山で、両者を並べて展示することで強調していたのを思い出した。

松濤美術館には、野島の写真や手紙類などの遺品が、遺族によって寄贈されている。
学芸員に野島の研究者がいるからのようだ。
野島の写真は、京都の近代美術館と松濤美術館が守っていることを知った。

5月 03

 3月5日に神奈川県立近代美術館(鎌倉別館)で関合正明展を観てきた。2回目となるが、しばらくは観られないと思い、ゆっくり丁寧に観た。09年1月27日のブログでは関合の絵の良さについて述べたが、その弱さにも触れておく。

 関合には孤独に徹する強さがあるが、まだ甘さが残っている。画面の形や構成を突き詰め切れていないところに、それを感ずる。
 彼は形を壊さない。現象の形や事実に寄りかかっている。例えば、彼は風景の中に人間を入れて描く。しかし、私には、なぜその人間の形や外見が、そこに必要なのかがわからない。
 風景や情景に人間を入れるかどうか。入れるなら、なぜ入れるのか。どう入れるのか。入れないなら、なぜ入れないのか。
 こうしたことを突き詰めていないように思われる。佐伯祐三なら人間を入れない。池大雅では人間と自然が一体になっている。

 こうした問題を突き詰めていない徹底性の弱さが、彼の絵を今ひとつ突き抜けた地平に進めなかったのだと思った。

5月 01

 日本の美術展を観ていると、たいがいは不満でたまらなくなる。企画力の貧困、問題意識の弱さ、それにつくづく情けなくなる。そこで、時々優れた企画に出会うことができると本当に嬉しい。それについて書いた。

◇◆ 展覧会には2種類ある ◆◇

 3月5日に神奈川県立近代美術館 葉山で「アジアとヨーロッパの肖像」を見た。国際巡回展で、神奈川県立歴史博物館と県立近代美術館 葉山で同時開催となった。美術館のHPでは「特色ある活動を展開してきた両館が、初めて全面的に連携を組む新しい試み」と謳っている。「この展覧会では、アジアとヨーロッパの出会いを背景に、広い意味での肖像、すなわち人物表現を伴う絵画・彫刻・工芸・写真などに表現された自己と他者の姿の歴史的な展開を、5 つの章で紹介します」とある。

 私は、後進国であるアジア諸国が、西洋画を受容する過程が展示され、その比較もできることが面白かった。日本の画家たちを、他のアジア諸国の西洋画受容との比較で見ると、違うように見えてくるのが面白い。もちろん、西洋側の東洋絵画の受容もある。

 展覧会には2種類があると思う。

(1)新しい視点、観点の提示をし、その視点からの展示をする。したがって、内容的には従来とすべて同じでも、そこに新たな発見がある。
 
(2)新しい視点、観点はない。既成の枠内で行っている。典型的なのは「ルーブル展」とか「ピカソ展」「ゴッホ展」「ゴーギャン展」とかである。これは現地(外国)に行かなければ見られないものが、日本に居ながらにして見ることができる。しかしそれだけのことだ。

 もちろん、(1)(2)それぞれの範疇においても、それぞれの企画においてレベルの差がある。しかし、大きく言って、(1)を私は(2)の上に置く。
 (2)は昔ならいざ知らず、今の時代には大きな価値はない。また、これは既存の価値観に依存するだけに、そこそこの成功は確約される、安全策だ。しかし、安易で情けないものだ。企画力が不要だし、学芸員の問題意識も不要である。金のあるなしだけが問題だ。

 こうして二つを区別すると、日本ではほとんどが(2)であり、(1)は非常に少ないことがわかる。

 展示があれば、私はいつもこの2種のいずれであるかを考える。単なる個人展でも、無名の新人の発掘や新たなグループ展などは(1)になる。絵画ではないが、以前見た中村真一郎の企画による「堀辰雄展」などは、全く独自な中村の視点で編集されていて、目を見張らされた。

 日本の美術館で言うと、神奈川県立近代美術館はよく(1)の企画をしてくれる。戦後初めての近代美術館であり、学芸員が良く教育されているのだと思う。

 東京の渋谷区立松濤美術館も、そうした企画が多い。これは所蔵作品が少なく、企画力だけで勝負するしかないという状況が大きいと思う。その結果、学芸員は頑張らざるをえない。

 東京国立博物館の最近の企画には、しばしば(1)が入る。所蔵品に恵まれ、なおかつ、企画力に優れていれば、鬼に金棒だ。

 京都国立博物館もしばしば(1)の企画を行う。春の「妙心寺展」はすばらしかった。妙心寺は禅宗(臨済宗)の中で京都五山などの官制に組みすることのなかった一門だ。その権力に距離を取った寺が芸術を守ってきた。また初代から代々のトップの肖像画や弟子への認可証などが並べられ、師弟関係がとぎれることなく続いてきたことがわかる。「師弟関係」について関心を持っている私にとっての、一つの規範がここにある。良い点も悪い点も含めてだ。

 今回、腑に落ちたことがある。妙心寺派が運営する花園大学では、禅の独自の研究が行われてきた。京大人文研出身の入矢義高と妙心寺の柳田聖山によって、臨済録などの古典の読み直しが行われてきた。従来の読み方への徹底的な批判だ。口語、俗語を正確に読むことで、権威づけられてきた古典から虚飾をはぎ、剛直で直截な表現を浮かび上がらせた。もってまわった高遠な思想は消え失せ、師弟の緊迫した息づかいが生き生きと甦った。正統派からは、異端として扱われたその試みが、なぜ花園大学で可能だったのか。長年の疑問の答えがわかったように思う。もちろん妙心寺一門の問題点もあるが、それには今は触れないでおく。

 京都国立博物館は、今年秋にも魅力的な展示を行う。「日蓮と法華の名宝―華ひらく京都町衆文化―」であり、「文応元年(1260)、39歳の日蓮は、度重なる災厄と国家の危機を憂えて、『立正安国論』を著し、鎌倉幕府前執権の北條時頼に献じました。それから750年目にあたる今年、それを記念し、『立正安国論』を軸に、京都十六本山を中心とした諸寺伝来の宝物の数々を、一堂に展観します」(博物館のHPより)とある。
 これはいわゆる「琳派」展だろう。江戸時代の本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ)、俵屋宗達に始まり、尾形光琳、尾形乾山らが確立し、その後もすぐれた継承者を多数生んだ「琳派」の流れの展示である。

 しかし、それがなぜ「日蓮と法華の名宝」なのか。光悦たちの多くが法華宗徒だったからだ。光悦は、京都の洛北鷹ヶ峯に芸術村(光悦村)を築いたことで有名だが、その住人の本阿弥一族や町衆、職人などは皆、法華宗徒だった。光悦の死後、光悦の屋敷は日蓮宗の寺(光悦寺)となっている。
 これには当然わけがある。浄土を死後の世界に求めず、現世に実現しようとする在り方、現世と人間の欲望を肯定する教えが、彼らの拠り所になっていたのだろう。
 その宗教と芸術との関係から「琳派」を見直すことで、これまでと違う側面が見えてくるかも知れない。