10月 20

この夏の終わりに「ハンス・コパー展 20世紀陶芸の革新」を、10月に「スペイン・リアリズムの密度 磯江毅展」を観た。ともに心打たれた。前者は、今年一番の収穫だった。

◇◆ 「スペイン・リアリズムの密度 磯江毅展」 ◆◇

10月5日に、平塚で「スペイン・リアリズムの密度 磯江毅展」を観てきた。平塚美術館のHPで磯江の絵を何点か観て、惹きつけられたので観に行った。

すばらしかったし、考えさせられた。彼のことも、スペイン・リアリズムのことも全く知らなかったので、これも今年の収穫の一つだ。お薦めです。

写実、リアリズムという「過去の遺物」を捨て去るのではなく、それを自分の立場として選び、それを発展させ、現代を表現するための武器にまで高めている。

磯江の絵画は、最も現代的な絵画だと思った。静謐な中に深い精神性があり、溢れんばかりの力と才能が、それ以上の力によって、絵画の底の底に押さえ込まれている。

彼の画集『磯江毅|写実考』を購入した。その中で、スペイン人で彼の仲間で親友でもあるマヌエル・フランケロが、スペイン・リアリズムと磯江の「反時代的なあり方、生き方」を語っている。最も時代に深く根差して生きることが、最も反時代的になる矛盾だ。

パリ、ニューヨークなどの芸術の先端的な地域から離れ、フランコの独裁政権下で、スペインでの芸術はその時の流れを止めていた。そこから独自のスペイン・リアリズムが生まれたようだが、磯江はそうした「反時代的芸術と生き方」を意識的に選択し、生き抜いた。そうした人の存在に、私は勇気づけられ励まされるものを感じた。

私の好きな画家の中に、スペインと縁のある人がいることを思い出した。須田國太郎、関合正明だ。

展覧会の詳細は以下を参照されたし。
以下はすべて、http://www.city.hiratsuka.kanagawa.jp/art-muse/2010205.htmより

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スペイン・リアリズムの密度 磯江毅展
2010年9月18日(土)?11月7日(日) 
平塚市美術館
彩鳳堂画廊

●内容
 透徹した描写力をもち、現代リアリズム表現を追究した画家、磯江毅(いそえつよし1954-2007)の作品を、初めて公立美術館にてご紹介します。 
 磯江は大阪に生まれ、1974年、西洋美術を本格的に学ぼうと19才でスペインに渡ります。王立美術学校でデッサンの基礎を学び、プラド美術館に通って、デューラーやフランドル派の画家たちの名画の模写に没頭しました。マドリッドは、1970年頃から新たなリアリズム表現を求める画家の活動の中心地となっており、磯江は自らを「GUSTAVO ISOE」(グスタボ・イソエ)と名乗って、アントニオ・ロペス・ガルシアといった画家たちと交流し、80年代にはその運動を担う一人として活躍していきます。
 存在の実感―リアリティ―をつかんで平面上に写し取るリアリズム表現は、伝統的な西洋美術の根幹をなすものであり、20年以上をスペインに暮らして、それを体得した磯江の作品からは、事物の発するエネルギーやそれを取り巻く空間そのものさえ確固として感じることができます。「リアリズム絵画とは、実体とはフィジカルなものだけど、徹底した描写によってメタフィジカルな世界が見えてくるのを待つ哲学です」という磯江の言葉どおり、個人の情感や主観を排して描写に徹した画面からは、静謐で孤高な精神世界が現出しています。
 1996年からは日本にもアトリエを構えて、自分の学んだリアリズム表現を伝えたいとしていた磯江ですが、2007年に53才の若さで急逝しました。作品の完成に長い時間がかかることもあり、寡作な作家の活動の成果を目にする機会は、これまであまりありませんでした。この展覧会では作品約60点により、磯江が極めたその表現世界を展覧します。

10月 19

この夏の終わりに「ハンス・コパー展 20世紀陶芸の革新」を、10月に「スペイン・リアリズムの密度 磯江毅展」を観た。ともに心打たれた。前者は、今年一番の収穫だった。

◇◆ 「ハンス・コパー展 20世紀陶芸の革新」 ◆◇

「ハンス・コパー展 20世紀陶芸の革新」の最終日9月5日に出かけた。今年一番の収穫だった。

原始時代の人類の造形に迫るような、シンプルで力のあるフォルム。その静けさの中には、圧倒的な力が込められている。その力は真っ直ぐに私の精神を照射し、同時に、深く癒してくれる。そうした陶磁器を実現するには、高い技術力が必要なのだろうが、そうした技巧が見えない。

ハンス・コパーはまったく知らない陶芸家だった。ルーシー・リーの元で修業し、制作上のパートナーとなり、後に独立したらしい。彼を指導したルーシー・リーより、その造形性、精神性において、はるかに上だと思った。

詳しくは、以下のHPの紹介文を参照されたし。
以下の引用はすべて、http://panasonic-denko.co.jp/corp/news/1004/1004-3.htmより

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ハンス・コパー展 20世紀陶芸の革新
Hans Coper Retrospective – Innovation in 20th Century Ceramics
2010年6月26日(土)?9月5日(日)
パナソニック電工 汐留ミュージアム

■ 開催趣旨
 ハンス・コパー(1920-1981)は、20世紀のイギリス陶芸界で活躍した最も独創的な作家の一人として高い評価を受けています。その功績は、日本の民藝運動と交流しながら近代的な生活とのかかわりのなかで陶芸のあり方を考えたバーナード・リーチ(1887-1979)や、ウィーン工房のデザイン教育で培われたモダニズムの精神をもたらしたオーストリア出身のルーシー・リー(1902?1995)と並び、陶芸の近代化の歴史において高く評価されています。
ドイツのザクセン州ケムニッツに生まれたコパーは、そのユダヤの出自のために戦争の不条理に翻弄されながらも芸術の道を志し、1946年、ロンドンで、同じくヨーロッパ大陸からの亡命者であった陶芸家ルーシー・リーの工房にオートクチュール(高級仕立服)のボタン製造の助手の職を得たことから運命が急展開しその後の人生を陶芸に捧げることとなります。コパーの作品は、天性の感覚と知的で構築的な制作プロセスが創り出す、洗練された彫刻的なたたずまいを見せています。ろくろによって成形された形の表面に、注意深く施された複雑な質感が織り成す陰影も、コパー独自のものと言えましょう。「どうやって、の前になぜ」という語り継がれたコパーの言葉からは、妥協のない本質の探求により、陶芸において完全に新しい視覚言語を開拓した創作者の姿が浮かび上がります。
 本展はそうしたコパーの生涯と芸術を日本で初めて紹介する大規模な回顧展です。なかでも、1962年にヨークシャーのスウィントン・コミュニティー・カレッジに設置した空間作品の再現は、今回が初の試みとなります。さらにルーシー・リーとの共同制作で知られる初期のテーブルウエア、1960年前後の工業デザインと建築空間へのアプローチ、古代のキクラデス彫刻に刺激を受けた晩年の「キクラデス・フォーム」のシリーズなど、初期から最晩年に至る創作の全貌を展観します。ルーシー・リーの作品も約20点展示します。

■ 展覧会の構成 

ハンス・コパーは英国で4度、制作の拠点を移しておりその軌跡は大まかに作風の変遷と一致しています。
第1部=ルーシー・リーの工房アルビオン・ミューズで陶芸制作を開始。(1946-1958年)
第2部=戦後の芸術復興の機運のなか、ディグズウエル・アーツ・トラストの支援のもとで制作。建築家や工業デザイン界と協働しながら空間的な作品を制作した「建築時代」。(1959-1963年)
第3部=再びロンドンに戻って制作、多作で次々と新しいかたちが生み出された円熟期。(1963-1967年)。
第4部=フルームに農家を買い取りアトリエとして改装。ついの棲家となります。1975年頃より筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症しつつも、キクラデスシリーズを完成させます。(1967-1981)
第5部=ルーシー・リーの作品およそ20点

■ ハンス・コパーの芸術と生涯 理解のポイント

【 ルーシー・リーとの生涯にわたる交流 】
ギャラリーオーナーのウィリアム・オーリーの紹介で、ルーシー・リーの工房で働くようになったコパーは、リーの手ほどきを受けて陶芸の基礎を急速に習得し、次第にリーの工房で重要な役割を担うようになります。その頃、コパーが協力したリーのテーブルウエアはシンプルでモダンなテイストが好評で、『ハーパーズ・バザー』などにもしばしばとりあげられる人気商品となりました。1950年のバークレイ・ギャラリーでの合同展をきっかけに、コパーは自分の名前で作品発表を始めるようになり、その後は、1964年の東京国立近代美術館での「現代国際陶芸展」や1967年のボイマンス美術館(ロッテルダム)での合同展など、戦後イギリスの新しい陶芸界の担い手として、幾度となく共に展覧会に出品しています。またコパーは優れた教育者でもありましたが、キャンバーウエル・スクールやロイヤル・カレッジ・オブ・アートで教鞭をとるきっかけはリーの紹介でした。一見全く異なるように見える二人の作品ですが、深いところで影響を与え合っています。コパーはリーより18歳年若でしたが、二人は互いの作品の良き理解者であり、生涯にわたって固い友情で結ばれていました。本展では出会いの契機となったボタンも参考出品します。 

【 造形の特徴と制作手法 】
60年代以降のコパーの作品はろくろで挽いた複数の部分を合接してつくる技法を特徴としています。帽子のつば状の円盤が、丸壺や筒状の頂上に乗っているものは、ひも状の粘土をろくろ挽きの本体の上につけられています。コパーは、あらかじめスケッチによる入念な形のスタディを行い、同じ形ごとにシリーズで作りました。そして最上の作品を残して他は全て壊したといいます。こうして「ティッスルフォーム」(あざみ形)、「スペードフォーム」(シャベル形)などの特徴的なかたちのシリーズが生まれました。「キクラデス・フォーム」は晩年の闘病生活のなかで完成されたシリーズで、考え抜かれた究極のフォルムは、太鼓形のベースの上に極めて細い1点で、緊張感をはらみながら屹立しています。

【 コパーとモダニズム 】
コパーの作品は饒舌な装飾に頼らない、無彩色のシンプルな形態の構成美の追求であり、陶芸の伝統よりはむしろ同時代のモダンデザインや近代彫刻の抽象表現と呼応しています。実際、リーに協力した量産食器のデザインに始まり、1960年前後に手がけた企業の依頼による衛生陶器や音響レンガ、外装タイルといった工業デザインの仕事は、バウハウスに憧れたコパーらしく、芸術と一般大衆を橋渡しする近代的な芸術家像が浮かび上がります。さらに、ディグズウエル時代にはスウィントン・コミュニティ・スクールの壁面作品や、コベントリー大聖堂の祭壇に据える大型のロウソク立てといった「建築陶芸」を展開していますが、空間性や身体性を内包するこれらの作品は、鑑賞者の身体感覚に強く訴えかけ、陶芸を総合芸術の域に高めるコパーの理想がうかがわれます。
ハンス・コパー プロフィール

1920年ドイツ生まれ。1939年ナチスに追われイギリスに渡るが、翌年敵国の在留外国人として拘引されカナダに送還される。1941年イギリスに戻り、1943年まで兵役に就く。1946年よりすでに活動していたルーシー・リーのアルビオン・ミューズの工房にて作陶を開始する。1950年から4回にわたってロンドンのバークレー・ギャラリーでリーと共同展を開催。1954年ミラノ・トリエンナーレで金賞受賞。1958年イギリスに帰化し、ロンドン郊外に自身の工房を構え、個展や内外の国際展に出品するほか、1963-72年にロンドンのキャンバーウェル・アート・スクール、1966-75年にはロイヤル・カレッジ・オブ・アートで教鞭を執っている。1967年サマーセット州フルームに移り、1981年同地で没する。
「ハンス・コパー展 20世紀陶芸の革新」の最終日9月5日に出かけた。今年一番の収穫だった。
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以上の引用はすべて、http://panasonic-denko.co.jp/corp/news/1004/1004-3.htmより

5月 03

日本民芸館の「朝鮮陶磁‐柳宗悦没後50年記念展」を観、柳宗悦の『民芸四十年』を読んで考えたことをまとめました

1 柳宗悦の朝鮮陶磁器コレクションと「安宅コレクション」

4月1日(2010年)から日本民芸館で「朝鮮陶磁‐柳宗悦没後50年記念展」を開催している。民芸館の創立者柳宗悦自身が収集した朝鮮陶磁器のベスト約270点を展示している。「当館が誇る朝鮮陶磁器コレクションの至宝展とでもいうべきもの」。

最近、李朝の白磁などに異様に惹かれている私は数ヶ月前から楽しみにしており、いよいよ明日という晩は寝付けなかったぐらい興奮していた。豊かなコレクションで圧倒してくれるだろうと期待したのだ。ところが、実際に観て、私は少しばかり失望したのだった。質量共に、それほどではなかった。陶磁器の口部分などの破損や全体的なシミなども目に付いた。

こう思ったのは「安宅コレクション」と比較したからだ。「安宅コレクション」とは安宅英一(安宅産業)の中国、朝鮮の陶磁のコレクションで、現在は大阪市の東洋陶磁美術館で観ることができる。これは専門家から「第2次大戦後も収集された東洋陶磁のコレクションとしては世界的に見てももっとも質の高いもの」「高麗・朝鮮の陶磁は私的コレクションとして世界第1といっても過言ではない」(林屋晴三)と言われる。私はこのコレクションに親しむようになり、その朝鮮の陶磁器に強く惹きつけられていた。今回の民芸館にやや失望したことで、安宅コレクションの質量がいかに高いかを思い知ったように思う。そこでは1つ1つの作品が完璧な保存状態であり、完成度や質が高い。

2 柳宗悦の『民芸四十年』の生き方

4月に柳宗悦の『民芸四十年』、鶴見俊輔の『柳宗悦』を読んだ。柳宗悦には20年以上も前から関心があり、岩波文庫から彼の著作が刊行されるたびに購入していたが、なかなか読む機会がなかった。自分の中に、そのきっかけを作れないでいた、と言った方が良い。
今回、急に矢も楯もたまらず、『民芸四十年』を読みたくなり、一気に読み終えた。それは、柳の民芸という考え方の根っこに、朝鮮の陶磁器への開眼があることがわかったからだ。柳も最初から「民芸」という観点があったわけではない。朝鮮(李朝)の陶磁器のすばらしさに目覚め、その意味を深めた結果、より普遍的な民衆の芸術、民衆の生み出す美に気づき、それを日本に当てはめた時に見えてきたのが日本の「民芸」「工芸」の姿だった。

しかし、改めて思い出すと、このことは私も前から知っていたことに気づく。私の側の問題だったのだ。最近になって、私の中に、朝鮮(李朝)の陶磁器への熱い思いが生まれていた。それが機縁となって、柳宗悦の軌跡が、私の中にストンと腑に落ちたのだ。ずいぶん長い時間がかかったものだと思う。

柳の偉さ、凄みが、まっすぐに、私の中に入ってきた。柳は単なるコレクターや美学者ではない。彼は朝鮮(李朝)陶磁の美にめざめただけではなく、その陶磁器が美しく立派なものならば、その制作者もまた立派に生きていると見極めていた。それは美の基準の変革にとどまらず、人間・民族への評価を変え、社会や歴史の見方をも変えるほどのものだった。それゆえに、柳は日韓併合の状況下で朝鮮側に立って発言することになる。それは社会的な軋轢を生み、柳はさまざまな勢力から批判や攻撃を受けることになる。そうした中で、柳はひるむことなく自分の道を最後まで歩いていった。最期に待っていたのは念仏宗であり他力道である。結果として残された柳の人生の軌跡のみごとさに、うなってしまう。

3 民芸と民衆と

「朝鮮の友に贈る書」「失われんとする一朝鮮建築のために」など、柳は当時の日本の朝鮮への植民地政策、同化・教化政策に反対したが、当時にあってそうした日本人は少数に限られていた。しかし、それは政治的な発言というよりも、朝鮮の美とそれを生みだした朝鮮文化と民族を守るための、美に生きる者としてのやむにやまれぬ行為だった。

その中で柳は2つのことに気づく(「四十年の回想」より)。1つは、朝鮮人自身が柳たちのコレクションに関心を持たなかったことだ。そこで柳は「朝鮮人に代わって美術館を京城に設置」した。これが柳が作った初めての美術館になる。しかし「朝鮮側からの思いもかけぬ反対に出会った。下賤の民が作った品々で朝鮮の美など語られるのは、誠に以て迷惑だというのである」。

一方、日本人には朝鮮の陶磁のコレクターはいるが、柳の観点とはやはり違う。柳のは民間の雑器が多かった。一番違うのは、彼らは「朝鮮の品々は好きではあるのだが、それを通して朝鮮の心を理解しようとするのではなく、まして朝鮮人のために尽くそうとするのでもなく、ただ自分の蒐集欲や知識欲を満足させているのに過ぎない」点だ。「それで私は義憤を感じて、朝鮮人の味方として立とうと意を決した」。それが「朝鮮の品物から受ける恩義に酬いる所以」だ。ここに、安宅コレクションと日本民芸館のコレクションの決定的な違いがある。

この2点の指摘からは、柳が問題にしていることは、日本と朝鮮の間で朝鮮の側に立つ、という単純な図式ではすまないことがわかる。同じ朝鮮内部でも、「下賤の民」が生んだ「美」に盲目な人々がいるのだ。もちろんそれは日本国内でも同じである。

朝鮮の陶磁の美を発見した柳は、それを生みだした朝鮮の文化と民衆を発見し、民芸を発見した柳は、民芸を制作する民衆の価値をも発見したのだ。

それは柳が誰を友とし、師としたかによく現れている。柳自身は上流階層の出身であり、学習院で学び、白樺派の同人として活躍した。しかし、そこから大きく逸脱した付き合いをしている。柳に朝鮮の陶磁・工芸の美を教えた浅川伯教、巧の兄弟との付き合いだ。

4 浅川伯教、巧兄弟

朝鮮を愛して朝鮮に暮らしていた浅川伯教、巧の兄弟。伯教は小学校の教員(後に李朝陶磁の研究者)、巧は林業試験場の下級役人である。柳はそうした二人を尊敬し、深く信頼していた。
浅川巧は朝鮮語を学び、朝鮮服を着、朝鮮人として生きようとし、朝鮮人を愛し、愛された。41歳で急逝するが、その葬儀には多数の朝鮮人が参列し、彼らがその棺を担いだ。巧は朝鮮人の共同墓地に葬られた。

巧の死後の柳の追悼文は以下だ。「私はわけても彼を人間として尊敬した。私は彼ぐらい道徳的誠実さをもった人を他に知らない」「私は彼の行為からどんなに多くを教わったことか、私は私の友だちの一人に彼を持ったことを名誉に感じる」。巧の遺児である園絵は民芸館と柳を終生支え続けた。

私が気になったのは、浅川兄弟がメソジスト派のキリスト教徒だったことだ。その信仰と彼らの生き方の関係だ。江宮隆之著『白磁の人』(浅川巧の生涯の物語)では、それを強調し、巧と朝鮮人をいたぶっていた日本の軍人が回心し、キリスト教に入信するエピソードを入れている。彼ら兄弟の信仰は柳の念仏宗への帰依に近いものだろうか。(2010・5.2)

12月 09

12月4日
 静嘉堂文庫美術館で「筆墨の美―水墨画展 第2部 山水・人物・花鳥」、松濤美術館で「没後90年 村山槐多(むらやまかいた) ガランスの悦楽」を見た。22歳で夭折した天才だ。

HPによれば、前者は「墨のぼかしやにじみ、筆線の抑揚などを生かして描く水墨画。『墨色を用いて五彩を兼ぬるがごとし』といわれるように、墨の微妙な濃淡のなかにさまざまな色の世界が想起されます。一方、著色画と違って色彩がない、あるいは少ない分、明暗や奥行き、大気や水の表現にすぐれ、とりわけ早朝や夕暮れ、月下や雨中・雪中などの景色を実感ゆたかにあらわします。生動感あふれる筆線の絵、丹念な運筆の跡に画家の思いがこめられた絵など、一枚一枚の水墨画が多様な筆墨によって作られています。
 本展では、このような筆墨の表現効果に着目しながら水墨画の魅力を探っていきます。会期を二つに分け、前期には中国・南宋以来の山水画の系譜と室町時代の水墨画、後期には明時代の山水画や花鳥画、江戸時代の文人画家の作品を中心に展示します。本展を通じ、水墨画を楽しむ新たな視点を見つけていただければ幸いです」とある。
「牧谿 羅漢図 南宋時」も良いが、私は、「鈴木芙蓉 那智大瀑雨景図」と「酒井抱一 波図屏風」を堪能した。

 後者は「 22歳で逝った夭折の天才画家・村山槐多(1896年?1919年)の油彩、水彩、デッサン、詩歌原稿、書簡など約150点を回顧し、早熟で多感な青年であった槐多の、詩と絵画に駆け抜けた生涯とその世界観をあますところなく、紹介します」とHPにある。
 おどろおどろしいのも面白いが、房州旅行の風景を描いた小品が心に染みた。

12月 09

東京国立博物館の「皇室の名宝―日本美の華」の前期と後期をそれぞれ見た。

 前期は伊藤若冲の「動植綵絵三十幅」が見たいので行った。10月23日、金曜の晩だが、混んでいた。
 伊藤の画風は、水墨画風で一筆書きのようなシンプルなものや点描のような風景画、色彩の鮮やかなもの、細密画などと幅広い。
 「動植綵絵三十幅」は色彩の鮮やかな細密画だ。見ていると頭がくらくらしてくる。浪や、雪が鮮やかだ。その細やかさはアウトサイダーアートの一部と同じ質を感じたし、以前はやったサイケデリック風の印象ももった。「ナウイ」のである。

 後期は11月28日に行った。「春日権現験記絵」や「蒙古襲来絵詞」を見たが、これもすごい混み方だった。春日神社に11月の初旬に奈良の正倉院展を見た日によったので、親近感があった。正倉院宝物は、奈良と同じだった。
 教科書で良く知っている「聖徳太子像」など、懐かしい物が多かった。