9月 27

◇◆ 10月、11月の読書会 ◆◇

(1)10月の読書会
 テキストは、斎藤学『アダルト・チルドレンと家族』(学陽書房)です。

 現代の家庭における大きな課題は、子供にとって親からの自立が難しくなっていることです。
 これは親から見れば、子離れが難しいことを意味します。つまり、親子(特に母親と息子)の一体化があまりにも強く根深いために、親にとっても、子供にとっても自立が難しくなっているわけです。
 このテキストでは、それを「親子の共依存関係」として捉えようとしています。さまざまな事例から、親子関係、夫婦関係、兄弟姉妹などの家族関係を考えます。ご自身の家庭、親子関係を考え直すためのヒントに満ちた本だと思います。

 ?日時 10月24日(土曜日)
  午後2時から4時まで
 ?場所 鶏鳴学園

(2)11月の読書会
 テキストは、斎藤環『社会的ひきこもり』(PHP新書)です。

 この本は、今や「ひきこもり」問題の古典的な位置にあります。
 「ひきこもり」、不登校、ニートの問題は、もはや特殊な人だけの闘題ではありませ ん。現在、小中で「不登校」の子供たちは10万人を超え、ニートが100万人を超えると言われています。そして、大学生になってから、また就職してから「ひきこもり」になる人も多くなっているのです。この問題は、結局は、親からの自立の問題なのです。

 ?日時 11月21日(土曜日)
  午後2時から4時まで
 ?場所 鶏鳴学園

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◇◆ 10月以降の文章ゼミと読書会の日程 ◆◇

いずれも土曜日。
文章ゼミは午後7時より。
読書会は午後2時より。※読書会の時間が変更になりました。

午後5時からは参加者の近況報告や問題意識を報告し合う「現実と闘う時間」があります。
 参加費は3000円です。

参加希望者は、文ゼミは2週間前(継続参加者は1週間前)、読書会は1週間前までに連絡ください。

10月10日文ゼミ

10月24日読書会

11月14日文ゼミ

11月21日読書会

12月12日文ゼミ

12月19日読書会

9月 18

 夏休みはいかがでしたか。前半は不順な天気が続きましたね。
 ヘーゲル学習会の合宿中も、ずっと雨が降り(「こんなことは初めてだ」と地元の人も言っていました)、せっかくの八ヶ岳ですが、高原の清澄な空気を堪能できませんでした。

 さて、政権交代も実現し、いよいよ社会が大きな変化を迎えることになります。
 私たちも、社会と自分自身の課題ときちんと向き合い、次のステップへと進む準備をしておきたいものです。

 9月以降のゼミの日程をお知らせします。
 6月の読書会に初めて参加された社会人(女性)の方の感想を掲載しました。
 社会人の方は参考にしてください。
 ゼミでお会いしましょう。

◇◆ 1.9月以降のゼミの日程 ◆◇

(1)文章ゼミと読書会

 いずれも土曜日。文ゼミは午後7時より。読書会は午後2時からそれぞれ2時間ほどです。
 午後5時からは参加者の近況報告や問題意識を報告し合う「現実と闘う時間」があります。
 参加費は3000円です。

 9月19日:文ゼミ

 10月10日:文ゼミ
 10月24日:読書会

 11月14日:文ゼミ
 11月21日:読書会

 12月12日:文ゼミ
 12月19日:読書会

 年末には忘年会を予定しています。

(2)ヘーゲルゼミ

 10月に開講予定。
 毎週月曜日、約2ヶ月間行う予定です。
 午後5時からは原書講読。午後7時から翻訳でヘーゲルを読みます。
 参加費は1回3000円です。一方だけの参加は2000円です。

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◇◆ 2.大学時代以来の新鮮な経験(6月の読書会参加者の感想) ◆◇

 同じ本をみんなで読み、その経験を共有していく、という機会は大学時代以来でしたので、とても新鮮で、楽しかったです。

 今回お会いした二〇代の皆さんと普段の生活上ではふれあうこともあまりないため、自分では忘れていた社会に出始めたころの手探りな感じを思い出しました。
 でも、皆さん、若い頃に中井先生のような師に出会えたということは幸せなことですね!

 仕事が立て込むと何ヶ月も休みが無くなってしまうような生活ですが、また機会がありましたら参加させていただきたいと思います。早速メルマガにも申し込ませていただきました。

 どうもありがとうございました。

8月 27

8月6日から9日まで、3泊4日のヘーゲル学習会の合宿が行われた。参加者は私以外に6人(4日間を通しては3人)。男4人、女2人。学生4人、社会人2人だった。昨年と同じ人数だが、今どき、ヘーゲルを読むために、これだけの人間が集まってくれることは、ありがたいことだ。

昨年についで今年が2回目。4日間、とにかくヘーゲルを読み続ける。これだけ集中して朝から晩までヘーゲルを読んでいると、ヘーゲルが乗り移ったような状態になる瞬間がある。その時には、ヘーゲルが憑依して、ヘーゲルが語っているような気になる。
それは、私が私自身を追い込んだ結果でもある。私にとっては、この参加メンバーたちが本当に大切であり、彼らにヘーゲルの凄みを見せつけたいと切に願っている。

最初の2日間は『精神現象学』の原書講読で、「序言」から中ほどの10ぺージほどを読んだ。存在と思考の一致、存在の運動と認識の運動の統一について述べている範囲で、当然それを考えるのが目的だった。
この問題については、牧野紀之氏が「悟性的認識論と理性的認識論」で、わかりやすく説明している。だが、ヘーゲル自身がどう説明しているのか、それを直接読んで、そこから考えてみたかった。そして、その点で大きな収穫があった。

つまり、存在は、自から運動し、「存在」「質」といった規定を生む。それは、自分の持つ多様な性質から、こうした規定を抽象することを意味し、それは存在が認識をしていることに他ならない。(これらの例はすべて存在論のもの。牧野氏の例は、主に本質論からと言える)
つまり、ここでは抽象化、比較による規定の抽出をものが行っており、それは存在が認識をしていることに他ならない。つまり認識、思考とは、人間だけがするものではなく、最初から存在するすべてのものが、行っている。ただし、自己意識がないので、その意味が自覚できないが、人間はそれが自覚できることだけが他との違いなのだ。これには驚き、深く感動した。
(以上は、ズールカンプ社版全集第3巻の53ページ)

しかし、ヘーゲルの執拗なシェリング批判。罵詈雑言のオンパレードが続く箇所には辟易した。執念深い粘着質の在り方は、大物に不可欠の要素だが、ヘーゲルのそれは、ここでも群を抜いている。

後半2日は『精神現象学』の翻訳(牧野紀之訳、未知谷)で、第1部「意識」論(第1章から第3章)を読んだ。
4章の「自己意識」をどう導出するか。それを対象意識である「意識」論から、出している。そこが一番の関心だった。その意味は何か。そこから何を学べるのか。

3章は面白かったが、1章、特に2章の意味がよく理解できなかった。1章は存在論、2章と3章が本質論だと思うのだが、またその哲学史上の意味は一応わかるのだが、その個人の成長上の意味がよくわからなかったのだ。
3章では、現象と本質、現象と法則、説明で、対象・現象の外化と内化の無限の運動を出し、それを認識できるのは、認識する意識もまた、同じ無限の運動をしているからだと持ってくる。すると対象世界の無限は、無限であることで、意識にとっての自己に他ならず、それを認識する意識とは、自己を意識することに他ならない。そこで成立している存在と認識の一致、それが「自己意識」だ。

だから、それは、単に自己についての意識なのではない。無限として捉えられた対象世界を自己としてとらえた意識が「自己意識」で、対象意識を止揚して自己内に持っている。それが「自我」だ、ということになる。
ただし、ここに成立した自己意識自身には、まだその意味が自覚されていない。それが自覚される過程を通して、次の理性が成立する。

以上は、自我の中に、なぜ全世界が含まれているのかを考える際に、大きな意味を持つと思う。ただし、わからなかったのは、自己意識が含む「全世界」に、他者、他の意識のすべても含まれることが明示されていない点だ。「意識」論での対象に、他者の意識も含まれているのだろうか(自分の意識は常に問われている)。これは、2章の物と性質で、対象に人(他者)が含まれているのかどうか、それが不明なことと結びつく。

3日目の晩には参加者の近況報告、提出した文章の検討も行った。近況報告では、各自の今の課題、今後の取り組みなどを話し合った。
ゼミ参加から1年余りの大学生は、家族問題に悩んでいることがわかった。今、若者が自立するには、家族について、親子関係の在り方について、きちんと考えることが不可欠であることがよくわかる。秋から、この問題を考える機会を与える予定だ。

この合宿でヘーゲル哲学について考えたことは、秋以降に再検討の上、詳しく報告する。

7月 13

◇◆ ヘーゲル哲学の学習会の合宿の概要 ◆◇

8月上旬にヘーゲルの学習会の合宿を行います。興味・関心のある方は連絡ください。詳細をお知らせします。

なお、参加希望者で初めての方には、事前に「自己紹介文」を書いていただいています。
 詳細は問い合わせください。
  E-mail: sogo-m@mx5.nisiq.net

(1)日程と場所
山梨県の八ヶ岳で、8月6日から9日までの3泊4日で行います。

(2)内容は
8月6日、7日はヘーゲル『精神現象学』の序言の原書講読
8月8日、9日はヘーゲル『精神現象学』(牧野紀之訳 未知谷)の第1部「意識」論を読みます。

(3)前半だけ、後半だけの参加も可能です。

(4)関心のある方は連絡ください。詳細を連絡します。なお、初めての参加の方には、簡単な自己紹介文を書いていただいています。

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◇◆ ヘーゲル哲学の学習会 ◆◇

 夏合宿後は、10月に開講。毎週月曜日、約2ヶ月間行う予定です。

午後5時からは原書講読。午後7時から翻訳でヘーゲルを読みます。

 参加費は1回3000円です。
 いずれかだけの参加も可能です。

1)5時より ヘーゲルの原書講読 『精神現象学』序文
 ズーアカンプ版全集の第3巻と牧野紀之訳『精神現象学』(未知谷)を手がかりにします。
 毎回 2ページほどを予習してください。

 ドイツ語の全くの初心者にもできるように、サブゼミなどを用意しています。
 是非この機会に始めてみましょう。

2)7時より 翻訳でヘーゲルの『精神現象学』(未知谷 牧野紀之訳)を読んでいます。

6月 18

ゼミのヘーゲル学習会の成果。

?から?を、この順でブログで発表する。今回は?

?ヘーゲル『法の哲学』へのノート 
?ヘーゲルの国家論 
?マルクスの「ヘーゲル国家論批判」へのノート 
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◇◆ マルクスの「ヘーゲル国家論批判」へのノート  ◆◇

昨年2008年8月にはヘーゲル学習会の合宿でヘーゲル『法の哲学』の国家論を読んだ。さらに秋にかけて、マルクスの「ヘーゲル国法論批判」と「ヘーゲル法哲学批判序説」を読んでみた。そこで考えたことをまとめておく。テキストは「ヘーゲル国法論批判」は『マルクス・エンゲルス全集第1巻(大月書店)』、「ヘーゲル法哲学批判序説」は岩波文庫『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』を使用した。ページ数はこれらのテキストのもの。

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○マルクスの学ぶ姿勢
(1)「先生を追い越す」ために「先生から徹底的に学ぶ」姿勢がある
「徹底的に学ぶ」ことは、徹底的に「真似」をすることだ。

?「科学的社会主義」
マルクスは、当時のドイツに入ってきたフランス直輸入の共産主義について「この共産主義はそれ自体、その対立物である私有制度の影響を受けた一現象、人道的原理の特異な一現象にすぎません」と言う(岩波文庫『ユダヤ人問題によせて ヘーゲル法哲学批判序説』の訳者解説から 165ページ)
これは次のように言っていることになる。「この共産主義は私有制度に反対するだけで、私有制度を理解した上で、それを止揚する立場として自らを構築したのではない。したがって、それは反対する私有制度に依存している低い思想でしかなく、自立していない。一方的に否定するだけで、その根拠は抽象的人道的原理があるだけだ」。
マルクスの言いたいことは、ヘーゲルの論理展開と一致する。この批判が「空想的社会主義」と概念化され、その代案としての自らの立場に「科学的社会主義」が対置された。それはヘーゲル主義と言って良いと牧野紀之は言うが、その通りなのだ。

?「疎外」論もヘーゲルから。
「疎外」論もヘーゲルからの継承発展。ただ、フォイエルバッハを媒介にして、ヘーゲルから間接的に導入したと言えるかもしれない。即自的や対自的「an sich][feur sich]もそう

?フォイエルバッハも、ヘーゲルから「徹底的に学ぶ」ことをしている。
彼の神の存在の否定(唯物論)、つまり「神は人間の本質を外に投影したものでしかない」ことを導き出す論理が、「ある存在が何であるかは、ただその対象からのみ認識され、ある存在が必然的に関係する対象は、その明示された本質に他ならない」。つまり、ある対象の本質は、それが必然的に関係する対象に現れるのだが、そのヘーゲルの論理を応用したものだった。

(2)マルクスには性急で強引に否定する面がある。青二才の部分
 「論理的汎神論的神秘主義」(236ページ)の説明など
 これは青年期特有の、功を焦り、自立をあせり、唯物史観の確立へのあせりが大きな要因だと思う。しかし、これは大志を抱く青年につきものの欠点であり、批判しても仕方ない。マルクスは後に反省し、また周囲がヘーゲルの優れた点をあまりにも理解していないことにも気づき、ヘーゲルを持ち上げるようになる。

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○マルクスのヘーゲル国家論批判
核心は2点

(1)思想家としての自立のために、唯物史観を完成することが緊急の課題だった

?ヘーゲル哲学を観念論として激しく批判する
ヘーゲルは「観念論」だとの、マルクスのヘーゲル批判(「論理的汎神論的神秘主義」236ページ)は、結局、唯物史観での上部と下部のどちらを規定的と考えるかの相違なのだろう。
マルクスは経済と政治の対立を述べている。経済的解放と政治的解放との違い。
「政治的国家」と「市民社会」、「市民身分」と「政治的身分」の矛盾としてマルクスが指摘しているのは、すべてこの問題ではないか。

?ヘーゲルは唯物史観の観点でも、観念論的とは決めつけられないと思う。
第1部で所有権を人格の平等の根拠としていること。
第3部の市民社会論で、ヘーゲルは経済問題を取り上げ、格差の拡大(窮乏化論)、市場拡大の至上命題、植民地政策と国家との一体化などを述べていた。
こうした点を、マルクスはどこまで理解していたのだろう。

?市民社会論で、ヘーゲルは経済問題を取り上げ、格差の拡大(窮乏化論)、市場拡大の至上命題、植民地政策と国家との一体化などを述べていた。
それを受けて、国家論では、植民地政策と国家との一体化の運動について詳しく論述されると、私は期待していたが、それはない。ヘーゲルの国家論は政治組織論で、経済問題はごっそりと落ちている。制度論(形式論)で、内容の話がない。
この点の批判としてならば、マルクスの批判は妥当。

?§274へのマルクスの批判(251ページ)にもマルクスの曲解がある。
エンゲルスは、マルクスとは反対に、ヘーゲルの真意を、当時のドイツ民族の程度(民度)が、君主制しか可能にしなかった、と理解している。私も同じ。
エンゲルスは「フォイエルバッハ論」で、ヘーゲルの有名な「現実的なものは理性的であり、理性的なものはすべて現実的である」という言葉を説明して、「現実的=必然性」の意味だと述べ、「必然的なものは結局のところ、理性的でもあることが明らかになる」という意味だと説明する。  
そして、次のように述べる。
「これを当時のプロイセン国家にあてはめると、ヘーゲルの命題の意味するところは、だから、ただこういうことにすぎない。すなわち、この国家が合理的であり、理性にかなっているのは、それが必然的であるかぎりにおいてである。もしこの国家がそれにもかかわらずわれわれに悪いものに思われ、しかもそれが悪いにもかかわらず存在しつづけるならば、政府の悪さは、臣民たちがそれに照応して悪いという事実で正当化され説明される。その当時のプロイセン人たちは、自分たちにふさわしい政府をもっていたのである」。
(エンゲルスの「フォイエルバッハ論」より)

 ?唯物史観の立場からヘーゲルを批判したければ、彼の「観念論」を批判するのではなく、当時のプロイセンの経済状態から、プロイセンの君主制を説明するべきだったはずだ。それをマルクスは行っていない。

 ?ヘーゲル哲学を根底から批判するとしても、唯物史観の観点からに限定しておけば良かった。「観念論」として斥けたことは、どれほど大きな災いをもたらしたか知れない。ヘーゲルを読まない人間を増やしたからだ。

(2)国家論
「政治的国家」と「市民社会」の矛盾(263?267ページ)が核心的
「政治的国家は亡くなる」(264下)。政治的国家(の彼岸の定在)は国民自身の疎外の肯定態に他ならない(265下)。

この点については牧野が次のように述べている。「マルクスは、国家は最初共同体の純粋な行政として(現在の自治体の住民サービスみたいなものとして)共同生活を円滑にするための道具として発生したが、階級社会に入ってそれは階級支配の道具に変質した、ととらえるからです。こうとらえる時には、宗教や国家を原始社会で発生した時の姿に求めて、階級社会での姿をその疎外態とみるか、階級社会での姿を本質とするかで考えが分かれます。レーニンの国家暴力説は後者に立つものです。(「唯物弁証法問答」より。『ヘーゲルと共に』180ページ)
ここで階級社会での国家は、国家のそもそもの本質の現れか、その疎外態か、という問題提起はまさに急所だ。これはやはり疎外態と考えるのが正しかったのだと思う。ソ連の失敗の原因としてレーニンの理解が間違っていたことが大きいだろう。
ただし、国家の始元をどこに取るかが重要で、この点では牧野にも理解が不十分な点がある。ヘーゲルも、したがってマルクスも、ここでは近代国家を前提としている。したがって、その国民(市民)とは地縁・血縁、共同体から切り離された人々であり、その人々の人格の抽象的平等と、市場を求めて拡大し続ける資本主義社会が前提なのだ。牧野が言うような原始社会で発生した時の姿、「共同体の純粋な行政」が前提ではない。こうした共同体が崩壊した後に、それを補うために成立したのが近代国家だろう。
問題は、原始社会で発生した国家の疎外ではなく、共同体崩壊後に生まれた近代国家、近代社会の本質とその概念であり、その疎外態かどうかなのだ。 

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○ヘーゲルとマルクスの違いは、時代の進展の違いが最大の理由
ヘーゲルが知っていたのは近代社会の生成史まで、マルクスも展開史の初期でしかなかったと言えるのではないか。

     ヘーゲル マルクス
目的  ?立憲君主制の確立 ?立憲君主制の批判=打倒=革命前夜
ドイツの独立、自立の達成
プロイセン政府の擁護

                     ?ヘーゲルの観念論批判
                       =唯物史観の模索
                     ※この目的がすべてに優先した

時代背景 フランス革命後
    立憲君主制が進歩的だった 立憲君主制が反動化
             ※マルクスはこの意味を唯物史観から明らかにすべきだった

     産業改革前        産業改革後=工業化
農村国家

土地の所有権は不自由 私的所有権が前提
土地は特殊な私有財産 土地所有も自由
市民社会内の自由競争=格差の拡大

     大土地所有者が基盤 市民階級(ブルジョア)が台頭してきた
     農村国家 プロレタリアートも存在

     身分社会 階級社会へ

     国家と市民社会の分裂 国家と市民社会の分裂
その解決は、官僚制と議会 官僚制と、身分議会では無理
 土地所有階級が媒介 市民社会の混乱を国家が抑制する
                     完全な普通選挙の実施
                     市民社会内部での階級対立の解決

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○しかし、マルクスの問題提起で、近代の矛盾がよりはっきりと捉えられた側面がある
それは人格の平等ゆえの階級社会の成立、格差の拡大という矛盾だ。形式的(人格の)平等と内容的(能力の)平等との矛盾だ。

(1)人格という抽象的平等と、実質的な能力の平等、個性化の実現には決定的な矛盾がある。
 地縁、血縁は、その内部では均一でも、全体としては多層的で複合的で多様。
その地縁、血縁が壊れたことと、抽象的人格や所有権での平等とは同じこと。それは人間の均一化であり、画一化である。その上に成立したのが近代国家。
地縁、血縁社会には抽象的な所有権はない。身分が固定していた中世との違い。
人格という抽象的平等と、実質的な能力の平等、個性化の実現には決定的な矛盾がある。

(2)国内部の均一化が国家成立、国内統一ということ
 日本の明治維新で言えば、徳川幕府は諸藩の連合体の代表で、国家は存在しなかった。
  横の関係が中心で、絶対的な抽象的な一般的な上下関係ではない
 国内の多層的で複合的で多様な統治が壊れ、均一化し、中央集権化する。
 「教育」が、国家の観念を植え付けるための先兵になる
 天皇制だけが、血縁関係を残した部分

(3)国内統一と国外への対抗・侵略とは一体
?先進国では国内の対立を使用するために植民化
それを協力に押し進めるために国家が必要
  ?後進国では国家の目的は、外の他国から守るため。植民地化される危機。
また、内部の統一体を作るため
教育と殖産を振興し、産業改革で工業化を達成するため

(4)マルクスは国家と市民社会、公私の対立を強調している。ヘーゲルの予定調和の考え方への批判。これは絶対的に矛盾し、対立する、と言う。
  マルクスにあっては、これは階級社会を意味した。その克服を考えたのがマルクス。
  しかし、さらに根底には(1)の矛盾があるのだ。

(5)愛国心を言う人
国はムラではない。その正反対のもの。地縁、血縁が壊れ、抽象的人格や所有権での平等、つまり人間の均一化の上に成立したのが近代国家。
近代以前には公私の区別はなかった(266ページ)。それは一体だったから。
私が私になり、公が公になったのは、同時である。
愛国心や公共心の確立・再建を言う人は、公を求めているのではない。公私の分裂前の一体の時代への回帰を求めているのだ。
  公を確立するには、私を確立するしかない。現代の日本では、私が私にならず、小さなムラに留まっている。依然として個人はいない。

(6)市民社会と国家の分裂、対立
 官僚機構や国の諸制度は、本来の目的から離れて自己運動してしまう
 高度経済成長下で生まれ、拡大し続けた制度を変えられない
 ここから「小さな政府」「官から民」が出てくる必然性がある。