2月 07

1月の読書会では牧野紀之「先生を選べ」を読んだ。

この「先生を選べ」を始まりとする牧野の師弟関係論を検討する作業をこの数年行ってきて、もう一度、「先生を選べ」から、今私が考えていることを確認したかったからだ。

■ 目次 ■

真理の中に、人類全体(知的遺産の発展)と自分(個人)を位置づける 
?牧野紀之「先生を選べ」を読み直す―   中井 浩一 

 1.人類全体(知的遺産の発展)と個人(学習と研究)
 2.先生と生徒と真理と
 3.今回考えたこと
(1)お勉強も創造的な行為
(2)正解主義 間違いの排除
(3)「先生」とは誰か
(4)創造的継承と惰性的継承
 
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◇◆ 真理の中に、人類全体(知的遺産の発展)と自分(個人)を位置づける 
?牧野紀之「先生を選べ」を読み直す―   中井 浩一  ◆◇

 人はいかに生きるべきか。それを考え続けているのだが、最近は「真理の契機として生きる」を答えと思い定めている。
それは牧野紀之の「先生を選べ」を始まりとする師弟関係論を吟味している中から思いついたもので、そうした観点は「先生を選べ」の中にすでに出ていることに気づいた。それを確認し、それを深めることを目的として「先生を選べ」の読書会を1月22日に行った。
 以下では「先生を選べ」のテキストが前提となっている。

1.人類全体(知的遺産の発展)と個人(学習と研究)

1章は、大学での学問・研究と、高校までの学習(お勉強)とは何か違うのかが示される。 
縦軸に人間の知的進歩を、横軸に時間を取るグラフを牧野は用意する。200万年前から始まった知的進歩のグラフを書き、そこに読者(大学教養課程の学生)一人一人が生まれてからの知的進歩のグラフを加える。
そこから何がわかるかと言えば、第一に学生までの進歩の速度の方が人類全体のそれよりも早い。第二に学生までの進歩の一歩一歩にはそれに対応する一歩一歩が人類の歴史にもある。もちろん個人の人生の中で200万年間のことを繰り返すのであるからそれは圧縮された方等で繰り返すことになる。そして学生の現段階はまだ人類の進歩のグラフに届いていない。そしていつか彼らの人生のある時点で人類の進歩に追いついたとすると、そこから個人の進歩と人類の進歩とは一致することになる。人類の進歩というのは直接的には人類の最高位に入る人が人類を代表して行なっていることになる。
このグラフから勉強と研究の違いを牧野は説明する。
勉強というのは人類の進歩のグラフ線の下の方での努力。必ず対応する点が人類の進歩の線上にある。勉強はすでに先人によって人類の知的財産となっている真理を知っている人から何らかの形で学んで自分のものにしていく行為である。
 研究は人類の進歩の線と一致している個人の活動。研究とは人類の誰にもまだ知られていない真理を人類で最初に発見して人類の知的財産に加えていく行為である。
こうした違いの一方で、両者はともに創造的行為である点で一致する。
勉強とは、勉強する当人から見れば、まだ知らないことを学んで自分のものにしていく、つまり未知のものを既知のものに変えていくこと。つまり、自分の努力を通して自分の頭または体の中に想像する創造的な行為であり、その点では、研究と変わらない。

以上の牧野の考えを踏まえて、私は次のようなことを考える。
 この牧野の考え方は、全体(人類の知的遺産の発展)の中に自分(個人)を位置づけるというものだ。それによって人は、自分の成長・発展を全体(人類の知的遺産の発展)の中に確認することができる。ここには主体(個人)に対する、絶対的な客観性(人類の知的遺産)からの保障がある。絶対からの自己の相対化が可能である。

2.先生と生徒と真理と

 2章では、学問をする上で重要な2点を説明する。「学問の主体的性格」からは自分の問題意識を大切にすることが強調される。「学問の客観的性格」からは「自分の追求している問題に関する過去の最高の成果を学ぶ」が出てきて、ここから、3章で「先生を選ぶ」が確認される。
 そして4章では、「先生を選んだ」生徒と、選ばれた先生との間に師弟関係が成立する。この関係の牧野の説明で重要な点は、先生と生徒の2項ではなく。真理を3項目として出したことだ。
これによって、先生と生徒の上下関係は、真理によって相対化される。真理の前では、神の前でと同じく、人はみな平等・対等なのだ。そして、生徒は真理に対して、先生と自分を位置づけることができる。これによって絶対の真理の前で、すべてが相対化され、そこに自分や先生などのすべてを位置づけられる。そこで自分自身の成長・発展を客観的に確認できるのだ。もちろんここで先生と生徒の上下関係は否定されるのではない。その意味が明確になるだけだ。
1章と2章から4章は必然的につながっている。1章の人類と個人は、ともに真理を目指し、真理の実現を目的としているということである。それが4章で確認される。1章の2つのグラフは、先生と生徒に対応するもので、その全体は真理を目指して発展しているということである。こうした考えが、私たちが生きる上でどれほど大切かを、今かみしめる。

3.今回考えたこと

以上を確認した上で、今回考えたことを書く。

(1)お勉強も創造的な行為
高校までの学習(お勉強)では、生徒の進歩の一歩一歩にはそれに対応する一歩一歩が人類の歴史にもある。もちろん圧縮された方等で繰り返すことになる(1章)。
これは学校で「教科書」によって学習していることに対応する。それが本来は創造的な行為だという指摘は重い。わたしはここで「想起説」を思い出した。本来の教育・学習は、それが創造的な行為の経験でなければならないのだ。それまでの世界が、1つの学習過程で、新たな世界として生まれ変わるような発見、深い感動をともなった経験。それが実際の教育現場で行われているだろうか。
それがなされていないことを私はよく知っている。それは生徒たちがいつも「正解」にだけ関心を持ち、「正解」だけにしがみつくことによく出ている。彼らは、「間違い」はだめで「正解」だけが正しく、それをどれだけ効率よく最短の時間で得られるかにだけ関心を持つ。それが「教科書」や授業、教育一般に求められているのではないか。
実はそれは先生や大人たち自身がそう生きていることの反映ではないだろうか。

(2)正解主義 間違いの排除
牧野の2つのグラフだが、これを「正解」の点をつなぐものだと誤解している人が多いと思う。「間違い」はそこでは切り捨てられる。こうした考えでは、「間違える」ことを恐れ、「間違え」ないでいるか、いつも不安でたまらなくなる。疑問を持ったり、思い切った挑戦をすることができなくなる。これでは「正解」と「間違い」がどう関係しているかが分からないだろう。本当のことを言えば、「正解」などどこにもないのだ。全ては間違いである。すべては間違いの歴史なのである。間違いだから、その中から次の発展が生まれて来る。それを繰り返してきたにすぎない。間違えることができる人間こそ、前に進むことができる人なのだ。そうした理解が彼らの中にしっかりと育てられなければならない。

(3)「先生」とは誰か
(2)と関係するが、「先生」の理解にも問題が起こる。
「先生」とは「自分の追求している問題に関する過去の最高の成果」であり、その先生を選ぶ(3章)のだが、それは一人の先生、1つの思想を学ぶことではない。もしそうとらえたら、その先生を追い越すことは不可能になるだろう。自分の低さと先生の高さをつなぐものがなくなってしまうからだ。それは間違いの蓄積、間違いの歴史の中から、真理を生み出してきた歴史であり、トップといっても、それまでの間違いを止揚しただけであり、そのトップもまた次には間違いとして止揚される運命なのだ。それを理解し、そのトップまでの間違いの発展を理解しようとすれば、その過程の中に、自分を位置づけることができ、自分の成長・発展の可能性がわかるができるのだ。
 ここで、先生にも2段階あることを言っておこう。
1つは自分の学問・研究の専門分野のトップである。この人は確かにトップなのだから、それまでの成果を止揚している。しかし、その学問の発展過程、人間の成長過程を一般的な形では理解していない人は多い。その人には、適切な指導は難しいだろう。
それに対して、一般的な形で、学問の発展過程、人間の成長過程を理解しているひとはいる。それが哲学者である。その人は、学問や科学の発展を一般的な形で理解し、そこから具体的な学問においても、その現状の意味をとらえることができる。
先生にも、直接的な先生と、間接的な先生がいる。哲学者こそが真の先生だと私は考えている。事実、「先生を選べ」のようなとらえ方は、牧野が哲学者だから可能になっている。学問論について、他の研究者が書いた物と比較すればすぐにわかることである。
この2つのレベルは全く別のものではない。大きな仕事を成し遂げた研究者は、直接的な面だけではなく、かならず間接的に、つまり哲学的に研究の意味や課題の意味、間違いの意味を深く理解しているはずである。逆に、哲学者が具体的な分野の具体的な課題で成果を上げていることも普通である。
また、先生といっても、生きた先生と死んだ先生の2種類がある。前者には直接の指導を求められるが、後者では本や文献などから学ぶことになる。

(4)創造的継承と惰性的継承
さて最後に創造的継承と創造的でない継承、つまり惰性的継承について述べておく。
牧野はこの2つを分けるのだが、私は実際はその区別には意味がないと思う。継承はすべて創造である。創造でない継承は存在しない。創造的でない継承があるなら、それは継承ではないだけだ。あるのは継承か、そうでないかの区別だけだ
遺産をもらうことや、会社をもらうこと。それは惰性的では済まない。そのすべては創造的でなければ自分や周囲を破壊し、金も会社も壊すことになる。大金をもらうことが本人を幸せにする保証はない。場合によっては本人をとことんダメにする。
他方の精神的遺産についてだが、本来は創造的継承でなければならないものが、実際は惰性的継承つまり継承になっていないということは、あまりにもありふれたことである。要するに、惰性的継承など存在しないのだ。

  2023年1月25日

1月 13

1月22日のゼミ読書会のテキストが決まりました。

牧野紀之著「先生を選べ」を読みます。
テキストのない人にはお渡しします。

本気で学問をしたい人はどうやっていったらよいのでしょうか。
学問の本来のあり方、知識の過去の蓄積とどう向き合ったらよいのか。今の大学の師弟関係に疑問や批判のある人は、ぜひ参加してください。

この「先生を選べ」の師弟関係の原則こそ、人類史を踏まえ、ヘーゲルの概念を踏まえたものです。人間は真理、理念を実現してきたのであり、その実現過程が人類の歴史であり、哲学の歴史です。その真理と理想と正義の実現を目指す以上、その運動自体がその真理の実現過程における継承、発展を純化したものでなければならないことになります。それが牧野さん(牧野は中井の先生なので「さん」づけにします)が明らかにした師弟関係論であると私は考えています。

 この「先生を選べ」の原則では、人間に先生を選ぶという強い主体性とその責任を要求します。ここには選び、選ばれた関係から生まれる信頼関係があります。選ばれた先生は強い指導力を発揮して、生徒を成長させることが可能です。もちろんそれには強い責任が求められます。

これは現在の大学制度の根幹の批判であり、それを超えるものです。そのことは牧野さんがこの原則を示した1970年代から今に至るまで変わらないと思います。現行の大学制度内には、この真の師弟関係はありません。そこで教え研究する教授たちは、みながサラリーマンであり、その生き方の限界を持っているからです。

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ゼミの詳細

1月22日日曜 オンラインで午後2時開始です。

参加費は2000円です。

参加希望者は早めに連絡ください。
ただし、参加には条件があります。

12月 15

来年2023年1月以降の中井ゼミの日程が決まりました。

いずれも日曜日で、午後2時開始予定です。
ただし、変更があり得ますから、確認をしてください。

月の前半は、文章ゼミ+「現実と闘う時間」を行い、
月の後半では、読書会+「現実と闘う時間」を行う予定です。

「現実と闘う時間」は、参加者の現状報告と意見交換を行うものです。

参加希望者は今からスケジュールに入れておいてください。また、早めに申し込みをしてください。
遠距離の方や多忙な方のために、ウェブでの参加も可能にしました。申し込み時点でウェブ参加の希望を伝えてください。

ただし、参加には条件があります。

参加費は1回2000円です。

1月
 8日
 22日

2月
 5日
 19日

3月
 5日
 19日

11月 10

11月20日の読書会テキストが決まりました。参加希望者はすぐに連絡をください。

11月20日はヘーゲル『法の哲学』の序文を読みます。

テキストは、中公クラシックス版を使用します。または「世界の名著」の『ヘーゲル』(中央公論社)を用意してください。
岩波文庫版ではありません。
世界の名著版を中古で購入すると安く入手できます。

超有名な序文ですが、
私が考えたいのは、個人や思想が「時代を超える」とはどういうことか、です。

以下を参照してください。

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『法の哲学』の序文で、私が一番心惹かれるのは、プラトンの『国家』についての叙述部分(中公クラシックス『法の哲学 ? 』24ページ)である。

「私は以下の本論考中(§一八五注解)に述べておいたが、空虚な理想のことわざと見なされているプラトンの『国家』ですら、本質的にはギリシア的倫理の本性よりほかのなにものをも把握しなかったのである。だからプラトンは、ギリシア的倫理のなかへ闖入してくるさらに深い原理〔主体的自由の原理〕を意識したとき、この原理はギリシア的倫理に直接的には、あるまだ満たされていない渇望として、したがってただ滅びとしてしか現われえなかったので、彼はまさに渇望からこの滅びにたいする救いをさがし求めざるをえなかった。しかも、いと高きところから来るのでなくてはならなかったその救いを、プラトンはさしあたりただ、あのギリシア的倫理の外面的な特殊な一形式のうちにしか求めることができなかったのである。この形式によってプラトンはあの滅びを圧伏することを考えたのであるが、それによって彼はギリシア的倫理のさらに深い衝動、自由な無限の人格性を、まさしく最も深く傷つけた。
だが彼の理念のきわだった特徴の中心をなす原理が、まさしくその当時、世界の切迫している変革〔キリスト教の成立〕の中心となった軸であるということによって、プラトンは偉大な精神たるの実を示したのである」。

ここはわかりにくい表現である。ヘーゲルは、プラトンを高く評価しているのか、低く評価しているのか。どちらなのか、それがわかりにくい。
私はここを読みながら、時代を超えるとはどういうことか、自分が生きるのが終わりの時代、始まりの時代だった時に、どう生きたらよいのかを考えた。

ヘーゲルの主張をまとめれば次のようになる。
(1)プラトンの『国家』には、リアルな社会認識がなく、プラトンの理想の世界があるだけで、空虚な理屈でしかない。これが一般的な理解だが、ヘーゲルはこうした見解に反対している。
(2)当時のギリシャ世界に、個人主義という欲求、衝動が生まれていた。これが、当時の新たな当為だったのだが、プラトンにはそれがギリシャ世界を破壊するものとしか理解できなかった。
(3)本来は、その欲求の中に、問題の解決があるのだが、その欲求を真に普遍的にとらえたのはイエスであり、キリスト教である。そのはるか以前のプラトンにそれを求めるのは無理である。これが時代の限界。
(4)プラトンは、この欲求と闘おうとしたが、その欲求の内ではなく、その外側にあるギリシャ世界の倫理に頼るしかなかった。ギリシャ世界の内部から生まれた個人主義の要求を、ギリシャ世界の倫理をより根源的に深めることで抑え込もうとしたのだ。しかしこれは普遍性に対して、外的な特殊性で戦おうとするもので、敗北は見えていた。
(5)しかし、プラトンは偉大である。彼がギリシャ世界の倫理を深めた原理が、新たな世界と古代世界との転換点を明らかに示したからだ。

当時のアテネの状況を思い浮かべてみる。若者たちがアテネのためではなく、自分自身のためにだけ生きようとし始めた。これにどう向き合うかが、問われた。多くの市民たちは、これはアテネの危機である、ギリシャ精神の危機であると感じ、若者たちに反対し、可能ならその傾向を抑えようとした。
 プラトンも変らなかっただろう。当時の若者たちに共感はできないし、その個人主義を人類のより深い欲求であり、真実であるとはとらえられなかった。むしろ、それをその根から完全に滅ぼすべく闘った。それが『国家』という著作である。
 しかし、それは単なる外的な反応ではなく、実はプラトン自身の自己反省によってギリシャ精神の原理の反省、それを深めることで対抗しようとしたのだ。若者たちを生んだのは、まさにギリシャ精神だからである。それはどこでどう間違えたのか。その答えを出すべく、ギリシャ精神の全面的な反省をしたのが『国家』である。
これはギリシャ精神の限界を徹底的に明らかにすることになった。限界を深め、それを制限にまで深めたのではないか。そして、それによってプラトンは時代を大きく超えたと言っても良いのではないか。
 ヘーゲルは、この『国家』を残したことで、プラトンが自らの偉大な精神を示したという。なぜか。何をもってそういうのか。
プラトンには、個人主義の意義、それが新たな当為であることを理解することはできなかった。その意味では保守反動である。時代を超える新たな当為を理解できなかったのだから、プラトンは時代を超えられなかった。
しかし、プラトンはそれと闘うために、ギリシャ世界の倫理を徹底的に深めようとした。それはプラトンにとっては、自己反省によって、自分とは何かを徹底的に明らかにしたことになる。それは古い世界の全体を、その原理原則にまで深めてとらえ直そうとした。そしてそれによって逆に、新しい世界とその原理原則を解き明かしているのではないか。それをヘーゲルは最大限に評価しているのだ。私はプラトンは、新たな当為と闘うことで、時代を超えたのだと思う。
 ヘーゲルが「プラトンは偉大な精神たるの実を示したのである」と言う時、実はプラトンにヘーゲル自身を重ねていたのではないだろうか。時代が完成する時、哲学が現れると言うのだが、それはすでに古い世界の終わる時であり、その内部に自分を超える新しい世界が生まれようとしている。そして、その新しい世界によって自分の姿をハッキリと見られるようになる。それが限界が制限になるということの意味である。
自己の内部に自分を超えるものを捉える力。それは自分の限界を知ることだが、それはまた自分の全体を捉え直す力である。限界を制限に高め、次の当為を指し示す。それが彼の『法の哲学』ではないか。自己反省が第一である。
プラトンが『国家』でそうしたように、ヘーゲルは『法の哲学』を書くことで、マルクスの唯物史観を生み、それによって時代を超え、さらにはマルクスをも超えるものを残したのではないか。

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9月 02

8月が終わり、9月になりました。
異常気象が猛威を振るった夏が終わり、秋になって、学習に集中できるようになると良いと思います。
この夏はいかがおすごしでしたか。私はプラトンについて考え続ける夏でした。

今年は読書会で、1月、2月とプラトンの『国家』を読み、5月からヘーゲルの『哲学史講義』で、ソクラテス、プラトン、アリストテレスの部分を読書会で読み、7月にはアリストテレスの『詩学』も読書会で読みました。
その記録をまとめてもらっているので、その確認をして、メルマガに掲載する予定でしたが、それもできませんでした。そこでは、要するに、プラトンが「わからない」、ヘーゲルもプラトンをわかっていない、としか言っていないので、ただそのままを掲載するわけにはいかないと判断しました。。

そのため8月は、プラトン(ソクラテス)についてずっと考えてきました。
プラトンは最初から最後まで「対話篇」という形で自分の哲学を表現したが、それはなぜなのか。なぜ、自らは全く姿を現さないその形で書いたのか。対話篇とは悲劇に近い創作なのだが、他方で詩人をほぼ全否定するのはなぜか。『国家』では個人を抹殺しているように見えるが、ソクラテスの生き方を継承し発展させることとどう関係するのか。
ヘーゲルはこうした問題をどうとらえていたのか。

まず藤沢令夫の『プラトンの哲学』(岩波新書)。これは大いに学ぶものがありました。そしてこの本を一つの道案内として、プラトンのいくつかの対話篇について岩波全集版の解説を読み、全集版で「パイドン」を丁寧に読みました。「パイドン」の訳注をしている松永雄二にも学ぶことが多かった。
解説を読んだのは、プラトンの「パルメニデス」「テアイテトステ」「ソフイスト」「ティマイオス」。
これまでは日本の古代ギリシャの研究者では、田中美知太郎と藤沢令夫しか私は意識していませんでした。しかし、今回、他に松永雄二や加藤信朗、井上忠などがいることを知りました。

ヘーゲルの『哲学史講義』でソクラテスとプラトンは読み直しもしました(まだ最後まで終わりません)。

こうした結果、少しずつ少しずつ、自分の中で明らかになってきたものがあります。これをまずこの秋の読書会の中で、皆さんに説明したいと思います。

例えば、アリストテレスの『詩学』における「カタルシス」や「真似」とは、明らかにプラトンの考えをまっすぐに受けたものです。「カタルシス」は「パイドン」に繰り返し出てきます。「真似」については対話篇のあちこちに。

そうしたわけで、9月25日の読書会では藤沢令夫の『プラトンの哲学』(岩波新書)をテキストにします。

その後、プラトンの対話篇をいくつか読もうと思っています。
『ソクラテスの弁明』『パイドン』『国家』などです(まだテキストの版など未定)。また、再度ヘーゲルの『哲学史講義』です。

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1.9月読書会テキスト

9月25日の読書会のテキストは藤沢令夫の『プラトンの哲学』(岩波新書)です。
まずはテキストを購入して読んでみてください。
?の「2 なぜ『対話篇』なのか」という、そのものズバリの箇所もあります。
?以降は、難しいですから、流し読みで良いと思います。
全体として、プラトンとその哲学について、考えさせられる箇所がたくさんあると思います。

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2 9月以降の中井ゼミの日程は次の通りです。

月の前半は、文章ゼミ+「現実と闘う時間」を行い、
月の後半では、読書会を行う予定です。
いずれも日曜日で、午後2時開始予定です。
オンラインでの実施予定

「現実と闘う時間」は、参加者の現状報告と意見交換を行うものです。

参加希望者は今からスケジュールに入れておいてください。また、早めに申し込みをしてください。
ただし、参加には条件があります。

参加費は1回2000円です。

10月以降の読書会テキストはまだ未定です。決まり次第、このメルマガで連絡します。

9月
 11日
 25日

10月
 9日
 23日

11月
 6日
 20日

12月
 4日
 18日