1月 08

◇◆ 2010年のゼミの飛躍を振り返る 中井浩一 ◆◇  

2010年は「飛躍の年」だった。そういうとやや大げさだ。より正確に言えば、飛躍のための小さな「芽」が出た1年だったと思う。それでも、そうした「芽」が見えたのは大きい。この5年ほどで初めてのことだった。私自身にとっても、大学生・社会人のゼミにとっても。

 ゼミのメンバーが充実し、一人一人の成長が顕著にあらわれた。私との師弟契約者は4人から8人に増えた。それだけではない。その内2人はこれまでの大学生や20代の社会人ではなく、「アラフォー」の年代だ。このことは決定的に重要だった。
 師弟契約者以外にも、自分の「生き方」までを視野に入れて学ぼうとするゼミ生が加わり、定期メンバーが全体で12人ほどになった。年齢の幅も20代から一気に50代までに広がった。みな真剣に自分の課題と向き合おうとしており、それは他のメンバーにも大きな刺激となり、相乗効果を生んでいる。夏の合宿はこれまでになく盛り上がった。特に「報告の時間」の話し合いが深まり、集団的な思考が始まった。9月からはそれが一段と深まり、仲間同士での批判や意見交換が行われるようになった。そこからルール作りも始まった。

 この理由、原因を考えると、やはり私自身の成長が根底にある。会のレベルは、そのトップの力量が決める。その意味で、これまでは私の力量不足が明らかだった。
 実は2009年の暮れに、「マルクスを超えた」と自覚した。「ヘーゲルは観念論だ」というマルクスのヘーゲル批判の間違いがくっきりと見えたからだ。「偉そうなことを言う」と驚き呆れられるかも知れないが、まあ聞いてください。この問題は実は20年以上に渡って考え続けてきた問題だった。「ヘーゲルは観念論だ」という批判には、最初からおかしいと感じた。「みな」がそう言い、だれもそれに疑問を出さない。しかし、「おかしい」「わからない」。
 「おかしい」とは思うものの、どこがどうおかしいのかが言葉にできない。いろいろ考え、言ってはみるのだが、どうもストンと胸に落ちていかない。それが、わかった。どこが、どう間違っているのか。なぜそうした間違いが起きたのか。正しくは、どう考えたらよいのか。それがくっきりと見えたのだ。その時、「マルクスを超えた」と思った。これについては、「ヘーゲル哲学は本当に『観念論』だろうか」に書いた。

 そして、それと関係するのだろうが、昨年は他の人がどこで止まっているのかが、よく見えるようになった。「発展の論理」の前で止まっている。ほとんどの人がそうだ。したがって、発展の立場か否かが、決定的に重要なのだと、改めてわかった。
 このことは大きかった。自分に自信が持てるようになった。そして、自分の責任を強く感じた。私がやらなければ、この立場からの発言は存在しなくなる。そのために、昨年は「立場」という言葉と、私が「発展の立場」だということを強調した。
 そして、それとともに、自分が何者かがはっきりとした。私とは何か。「哲学者」だと思う。この世界の理念を代表する人という意味だ。

 偉そうなことを言ってきたが、以上のことはすべて、可能性としての話だ。それはまだ「芽」が出ただけだ。これを全面的に展開し、できるだけ多くの分野でその具体化をしなければならない。それができなければ、それはただの芽で終わってしまう。
 そこで、昨年は、政治、言語学の分野から手を出すことにした。具体的には、山梨県在住の笹本貴之さんが、いよいよ選挙に出馬することを決めたので、彼と師弟契約を結び、彼を支援しながら政治の本質論を展開しようと決めた。また、鶏鳴学園の同僚である松永奏吾さんが言語学の博士論文で行き詰まっていたので、これを指導することを申し出た。2人はいずれも38歳、39歳で、学生の頃に指導したことがある方々だ。当時はそれなりに一生懸命だったが、今思えば、それは「おままごと」にすぎなかったと思う。「今度こそできる」という自信と覚悟を持って、私は2人の指導を始め、政治と言語学に取りかかった。その途中経過については、このブログでも発表してきた。

 会の盛り上がりのもう一つの理由は、この笹本さんと松永さんと間で師弟契約を結んだことにあると思う。
 師弟契約についてはこれまでも何度か述べてきたが、次の3つの内容を含む。?自分の問題意識により、?その問題解決のための「先生」を選び、?その「先生」の指導の元に、問題を解決する。
 私は、この「先生を選ぶ」レベルに、今では2段階あると考えるようになっている。20代では「自分探し、自分作り」「テーマ探し、テーマ作り」の段階であり、本当の意味で「先生を選べ」は求められない。選択のために必要なテーマ自体がまだない段階なのだから。この段階の「先生」とは、人生で偶然に出会う数いる「先輩」の一人でしかないだろう。
 一方、すでにしっかりしたテーマが自覚されている人だけが、そのテーマに基づいて、他と比較して最高の「先生」を選ぶことができる。この段階では「先生」とは本来ただ一人しかいないし、その「立場」(生き方)がはっきりと問題になってくる。この段階は、いまでは、多くの人にとって20代では無理で、30代でようやく可能になるのではないか。
 この2段階に分けた内の、本来の「立場」が問われる人との師弟契約が、昨年に初めて成立した。この影響は、非常に大きかったと思う。それは具体的なモデルを提示することになったからだ。

 「テーマ探し、テーマ作り」の段階では、すでに守谷航君をその成功事例としてあげることができる。また、すでにゼミの20代のメンバーは、守谷くんを一つの目標として努力している。

 しかし、その先の真の意味での「先生を選べ」の具体例がこれまでは存在しなかった。それが昨年は、笹本さんと松永さんによって、実現した。「反面教師」の面も含めて、「10年後の私」の姿を見ることは、メンバーにとって重要だ。

 夏の合宿の盛り上がりには、松永さんの参加の影響が大きかったと思う。また9月に行った笹本さんの『サンドタウン』の読書会も大きな刺激になった。『サンドタウン』は笹本さんの20代前半のアメリカ留学の記録で、彼の原点だった。その時と、今の笹本さんを比較検討することができた。守谷くんからの批判と問題提起があり、それは私たちの「報告の時間」の意味をも掘り下げるものになった。
 それ以降、メンバー間での批判や意見交換が積極的に行われるようになった。

 以上が、昨年の「飛躍のための小さな『芽』」の説明だ。

 今年はこの芽をさらに大きく育てなければならない。昨年に引き続き、政治と言語学の分野での学習を続けるが、それだけではまだまだ不十分だ。このゼミに参会していただく方々には、私の指導によって、それぞれの分野でその未来を切り開く人間になってもらわなければならない。それによって、私の哲学を具体化し、小さな芽を大きな樹に育てるためだ。

1月 05

迎春

民主党政権発足から1年がすぎ、国民は「政権交代」という自らの選択の結末を、しっかりと目に焼き付けることになりました。
「ひどい」1年だった、とも言えますが、私は「必要な1年」だったと思います。他人に自分の身を託しておきながら、あれこれ批判する。それがこれまででした。「権力のチェック」などと、自らが権力ではないかのような傍観者ぶりのマスコミだけではありません。国民の多くもまた、そうしてきたのです。
他人に期待しては裏切られる。それでもこりずに、また、別の他人に期待しては裏切られる。しかし、そうした流儀は、「甘ったれ坊や」のものであり、それでは何も先には進みません。
そうした自覚が生まれて来るならば、これは必要なステップだったと思います。もはや、幻想はなくなりました。しかし、自民党時代に戻ることはできません。結局、自分の足で立つしかありません。そのためには自学自習しかないでしょうが、適切な指導者と研鑽の場が必要です。
 今年こそ、私たちのゼミで、自分や周囲を見つめ直してみませんか。

 1月から3月までの学習会の案内を掲載しました。

ゼミへの参加希望者は、前もって以下に申し込みください。
 読書会の参加費は1回3000円です。
 なお、初めての参加者には、事前に「自己紹介文」を書いていただいています。

 1. 簡単な履歴(年齢、大学・学部、仕事など)
 2. 何を学びたいのか
 3. どのようにこの学習会を知ったのか、なぜこの学習会で学びたいのか
 

 などを書いて、以下にお送り下さい。
 E-mail:sogo-m@mx5.nisiq.net

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◇◆ 2011年の1月から3月の、文章ゼミと読書会の日程 ◆◇

 いずれも土曜日で、原則は午後5時開始です

 1月15日 文ゼミ
   22日 読書会

 2月12日 文ゼミ
   26日 読書会

 3月12日 文ゼミ
   26日 読書会

 読書会テキストですが、1月?3月はアリストテレスを読もうと思っていますが、「形而上学」にするか「分析論」(推理論)にするか迷っています。それらを読んでいるところなので、読み終えてから、決めます。
 正式に決まり次第、また連絡します

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◇◆ 毎週月曜日のヘーゲル原書講読と関口存男著『定冠詞論』の読書会 ◆◇

 1月17日から開始します

(1)ヘーゲル原書講読

 毎週月曜日午後5時から行います。
 『小論理学』の概念論の「概念そのもの」を読みます。160?165節
 その後は『大論理学』「主観性」の「概念」を読むことを考えています。

(2)日本語文献を読む時間

 毎週月曜日午後7時から行います。
 昨年の『不定冠詞論』に続いて、関口存男氏の『定冠詞論』を読みます。今年中に『無冠詞論』まで読み終えたいと思います。テキストはコピーしてお渡しします。

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12月 28

4月から言語学の学習会を始めました。その報告と成果の一部をまとめました。
1.言語学の連続学習会 
2.日本語研究の問題点 
と掲載してきましたが

3.関口人間学の成立とハイデガー哲学
は、以下の順で4回で掲載します。

(1)関口の問題意識と「先生」
(2)関口の自己本位の由来
(3)ダイナミックな思考法 (すべては運動と矛盾からなる)
(4)ヘーゲルとハイデガー (世界と人間の意識と言語世界)

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◇◆ 関口人間学の成立とハイデガー哲学 ◆◇  

(4)ヘーゲルとハイデガー (世界と人間の意識と言語世界)

 関口にとって、人間の意識こそが中心であり、世界は意識に反映された限りで問題にするにすぎない。これが現象学の立場だから当然だが、ここで世界が人間の意識を規定するのか、人間の意識が世界を規定するのかが改めて問われるだろう。それには判断中止し、世界は意識に反映された限りで問題にするのが現象学の立場だ。
 ここにこそ、関口と、ヘーゲル、マルクスの対立がある。もちろん、言語表現を直接の対象にしている研究者にとっては、それで十分だということはできる。それどころか、関口は言語に反映された限りで世界に迫り、そこらのヘーゲル、マルクスの研究者以上に、果敢に世界の本質に迫っている。

 しかし、だからといって、両者の違いが大きいことも明らかだ。関口は言語世界の運動と現実世界のそれとの関係を語らない。例えば、名詞論の始まりで、関口はヘラクレイトスの「万物は流転し止まることなし」を受け、「これはまた少し違った意味で『言語』という現象にも通用する」(183ページ)と述べる。しかし「少し違った意味」とは何かが、説明されることはない。

 なぜ名詞に無限のニュアンスが生まれ、無限の「含み」が生まれるかと言えば、根本的には世界そのものが矛盾し、それゆえに運動しているからだろう。その世界の矛盾と運動を、言語では静止したもの「として」もとらえなければならず、その矛盾が言語や名詞の無限のニュアンスや「含み」を生みだしているのだろう。しかし、世界の運動は、他方では人間を生み、人間の意識の世界をも生みだしている。その人間の自己意識の世界もまた、それ自体矛盾し運動している。その世界をも言語表現は静止した形で表現するしかできない。したがって「含み」が生まれるのは二重の意味で必然なのだ。関口の「含み」の理解は、このレベルにまで深めて理解すべきだろう。

 ヘーゲルやマルクスならこう言うだろう。「人間の意識の矛盾や運動は、世界の運動の結果生まれた物であり、それが世界を反映することは最初から決まっており、その反映の仕方も、対象と同じく、矛盾と運動によるしかない」。こうした理解の上で、関口が「含み」を研究したらどうなっていただろうかと、想像しないわけにはいかない。その「含み」は人間を解き明かすだけではなく、この全自然の「含み」をも明らかにしただろう。それはそのままに全自然史の展開になり、ヘーゲル哲学に近い物になっていたのではないか。そうした夢想を引き起こすほどに、それほどに関口のすごさは圧倒的なのだ。しかし、一方で、それはどこまでもハイデガーの立場に身を寄せてもいる。これもまた、この世界の矛盾の一つでしかないのだろう。

12月 27

4月から言語学の学習会を始めました。その報告と成果の一部をまとめました。
1.言語学の連続学習会 
2.日本語研究の問題点 
と掲載してきましたが

3.関口人間学の成立とハイデガー哲学
は、以下の順で4回で掲載します。

(1)関口の問題意識と「先生」
(2)関口の自己本位の由来
(3)ダイナミックな思考法 (すべては運動と矛盾からなる)
(4)ヘーゲルとハイデガー (世界と人間の意識と言語世界)

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◇◆ 関口人間学の成立とハイデガー哲学 ◆◇  

(3)ダイナミックな思考法 (すべては運動と矛盾からなる)

 さて、こうして生まれた関口のドイツ語学は、どのようなものになっただろうか。
 まずそれは、人間の本質を明らかにする「人間学」となった。
 関口のように語感と「含み」を中心にすることは、それを生み出した人間の意識そのものを問うことになり、それは「人間そのもの」を問うことにほかならない。

 そして、それは同時に、ヘーゲル張りの「発展」的な把握、概念的な把握になっている。なぜなら、「含み」を明らかにすることは、潜在的な思いを顕在化することに他ならず、それ自体が発展の論理に他ならないからなのだ。それは冠詞論全体の構成、展開法から、個々の用語の細部の説明にいたるまで、貫徹されている。

 感動的なのは彼の名詞論だ。『不定冠詞論』182?186ページにある「名詞論」は圧巻だった。

 関口は言語表現の流動性に着目する。すると、およそすべての品詞が流動し、流動の達意を表現する。その中に「ただ一つ流動しないものが言語の中にある。流れに押されて動きはするが、それ自体は流動せず、万象流転の言語現象に抗するかのごとく、固く結んで解けず、凝として凍って流れず」。それが名詞だという。「本来は流動的であり融通的であるはずの達意をも、流動をとどめ融通をさえぎって凍結せしめる、これが名詞の機能である」。
 では、なぜに名詞が必要なのか。「全体の円滑なる流動は、部分の非円滑なる凍結のおかげ」だからだ。「人間社会とその生存の努力は、滔々と流れ流れて停止するところを知らざる万象流転と新陳代謝そのものであるとはいえ、その流転、その代謝は、局部的停止、部分的凝固、一時的凍結なしには円滑に代謝流転できないのである」。これが言語の世界に名詞という反流動的な意味形態が必要になった理由として、関口が挙げる理由なのである。もちろんここには自家撞着(矛盾)がある。その結果、「名詞性に多少の段階」があるのだ。
 関口は名詞と他の品詞を比較し、名詞こそが優勢であり、「名詞が本当にことばであって、名詞以外は何だかことばらしくない」というのが「感触の実状」であることを示す。
 しかし、真実はその反対であり、「ことばというものは流動と融通と融解と無常とを以て根底とする」ものだと、言う。では、どうしてこうした逆転が起こるのか。
 「流動そのものである言語は、しきりに何かはっきりとした姿を取った拠点、しがみつくことのできるような不動の何物かを求めてやまないからこそ名詞を重要視する」のだ。
 ここには「無理」があり、矛盾がある。そのために「名詞の名詞性に無限の段階が生じ、無限のニュアンスが生ずる」。そして、その名詞性を示す「目印」こそが、「冠詞」なのだ。そこには定冠詞、不定冠詞、無冠詞の3種があるが、最も注目すべきなのが不定冠詞だという。
 つまり、名詞は、運動するものを固定化するという矛盾そのものだ。そこで、名詞は実際にはさまざまなニュアンス(「含み」)を持つ。そのニュアンスを直接表に現すのが冠詞なのだ。これが関口の冠詞(特に不定冠詞)の説明なのである。

 だから、関口は『不定冠詞論』で不定冠詞の含みを4段階に示し、その第2の「不定性」では「或る」の5種類として、その微妙な含み(ニュアンス)の違いを展開している。
 このように関口は言語世界に矛盾とそれゆえの運動を見ており、それをとらえるために、全力を傾注している。それがヘーゲルやマルクスの弁証法のようなダイナミックな思考を生みだしている。

 また名詞論で、関口は名詞が世界を「つかむ」(ここからbegreifen「概念的把握」をヘーゲルは引き出す)ために生まれたことに着目するが、この「つかむ」の説明のために、彼は労働論を展開する。そして労働(つかむ)から思考への発展を展開してみせる(327ページ)。これは労働から思考が生まれたという、ヘーゲルやマルクスの思想と同じ内容であり、関口がそれらを読んでいないだろうことを思うと、そのすごさに圧倒される。

 言語世界が矛盾であり、絶え間ない運動であることを関口はよく理解しており、その矛盾が運動を生み出すこともよく理解している。だから、彼の言語学は、この矛盾を矛盾のままにとらえることになるのだ。
 矛盾と運動が関口の対象なのだから、彼自身もまた誰よりも激しく運動する。彼はつねに内部に矛盾を抱え、自分と他者との間で激しく往還運動をする。それは日本語と西欧語の間でもそうだし、意味形態論と形式文法の間でもそうだ。

 以上からわかるように、関口はヘーゲルの「発展の立場」に極めて近いところにある。しかし、そこにある大きな違いに目をつぶることはできない。

12月 26

4月から言語学の学習会を始めました。その報告と成果の一部をまとめました。

1.言語学の連続学習会 
2.日本語研究の問題点 
と掲載してきましたが

3.関口人間学の成立とハイデガー哲学
は、以下の順で4回で掲載します。

(1)関口の問題意識と「先生」
(2)関口の自己本位の由来
(3)ダイナミックな思考法 (すべては運動と矛盾からなる)
(4)ヘーゲルとハイデガー (世界と人間の意識と言語世界)

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◇◆ 関口人間学の成立とハイデガー哲学 ◆◇  

(2)関口の自己本位の由来

 関口に西欧コンプレックスがないのは、西欧の一般的な学問の中に自分のような「問い」が存在しないことを明確に知っていたからだし、西欧の内部には、低レベルの一般の言語学と、それと対峙するハイデガー哲学との激しい対立があることを知っていたからだ。
 つまり、西欧といっても一括りにはできず、内部に対立があり、一般的レベルはくだらない物でしかないことを知っていた。西欧にはすぐれた物もあるが、酷い物もある。それは日本の一般の学者と関口との対立と何ら変わらない。そして関口のようにハイデガー哲学に連なる人間が、なぜ西欧一般にコンプレックスを持つ必要があるのだろうか。

 関口にないのは西欧コンプレックスだけではない。当時の多くのインテリが抱えていた「大衆へのコンプレックス」もまるでない。それどころか、彼は言語学者などをはなからバカにし、ひたすら大衆に向けて語っていたことを忘れてはならない。関口は三修社という出版社を起こし、ドイツ語の雑誌の編集と執筆をほぼひとりで行っていた。彼の論考は学会ではなくそこで発表されている。これも、彼の「語感」主義、「含み」第1主義からの必然的な結果だろう。
 語感とは決して関口個人のものであるはずはなく(そうならそれは客観的に取り扱えない)、日本語を使用しているすべての人々の中に無意識ではあるが確かに存在し、それは連綿と続く歴史の中で日本民族の中に蓄積されてきたものだ。その語感を第1にする関口は、民衆と直接につながっている。そのことを関口はもちろんよくわかっており、そのために、関口には根底に日本民族への深い信頼がある。
 もちろん同じ事がドイツ語にも言えるから、彼にはドイツ民族への深い信頼がある。こうした前提があるために、関口はドイツ語を日本語で相対化し、日本語をドイツ語で相対化する。両者の関係が全く対等であるのは当たり前なのだ。

 関口にとって、直接の「先生」はハイデガーだが、より深く捉えれば、先生とは日本とドイツの民衆であり、それは人間そのものである。しかし、「語感」「含み」に現れているその民族の真実は、民衆には自覚はできない。それを意識的にとらえ言語化するのは知識人のしごとである。そこでドイツ語にあっては、人類の哲学史上のトップ(と関口は考えていた)ハイデガーが、直接には彼の「先生」となったのだ。彼にはもう一人の「先生」がいる。詩人ゲーテだが、それは西欧語では詩こそがその言語の精華であり、ドイツ詩人の最高峰であるゲーテが、彼にとって生涯の師になったのは当然だ。以上が関口の「自己本位」と「自立」の秘密である。