1月 13

 ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」

 一昨年(2009年)の夏の合宿では、ヘーゲル『精神現象学』の
第1部「対象意識」を、昨年(2010年)の夏には第2部「自己意識」を読んだ。

今回、「自己意識」論を読んで考えたことをまとめた。
使用したのは、牧野紀之の訳注(未知谷)と金子武蔵の訳注(岩波版全集)である。
ページ数は牧野紀之の訳注(未知谷)から。

 ■ 全体の目次 ■
 一.ヘーゲル『精神現象学』の第2部「自己意識」論の課題

 二.形式の課題の(1)(2)(3)の答え
 1)ヘーゲルは「逆算」して書いている
 2)対象意識と自己意識の順番と関係
 
 以上(→その1)

 3)自己意識論をなぜ、欲求や生命から始めたのか
 4)人間の羞恥心と狼少年

 以上(→その2)

 三.主と奴
 (1)冒頭
 (2)承認
 (3)主と奴

 → 以上(その3)

  
 四.自己意識の自由
 (1)主と奴と「ストア主義と懐疑論」
 (2)ストア主義も懐疑論もともに抽象的で一面的
 (3)不幸な意識  
 (4)不幸な意識の展開
 (5)どうしてここから理性が出るか、精神が出るのか。主体性の確立。

 → 以上(その4)

 五.竹田青嗣(たけだ せいじ)をどう考えるか
 (1)「精神現象学」派と「論理学」派
 (2)竹田による「自己意識論」の解釈
 (3)竹田の限界

 → 以上(その5)

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ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」その2

 二.形式の課題の(1)(2)(3)の答え

 3)自己意識論をなぜ、欲求や生命から始めたのか

 自己意識は類の自覚から生まれた。
 それをヘーゲルは自己意識論の冒頭で説明している。

 この冒頭は、欲望、食欲から始まり、その対象として生命を出している。
ここは、わかりにくい個所なので、議論があるところである。
ヘーゲルはここで何をしようとしているのか。

 これは、人間(自己意識)の成立を、発生史的にたどったのではないか。
意識一般から自己意識が生まれる過程とは、動物から人間が進化してきた
過程に他ならない。しかし、それがなぜこのような欲望、
食欲から生命という展開になるのだろうか。

 ヘーゲルは2つのことをここで明らかにしようとしている。
一つは、類の自覚と自己意識とは一体のものであり、類の自覚から
自己意識が生まれたということ。しかし、ヘーゲルはその類を
対象意識の対象として、導出しようとする。つまり、その類の導出を欲望、
食欲から始めようとしているのだ。ヘーゲルはここで自己意識の持つ
欲望の根源性を示したかったのだ。それを後に展開するための伏線として、
また後に思考を出すための伏線としてである。
これがヘーゲルが示そうとした2つ目である。

 欲望、食欲とは、自己意識と対象意識の分裂以前の意識の
一番原始的な形態であり、すべての動物にある。食欲を満たすとは、
他者を食べて(止揚して)自己のもの(契機)とすることだ。
そこにはすでに、他者の存在の自覚、他者の否定=自己確認、
自己形成の論理がある。他者は否定されるべきなのだ。

 この動物一般から人間を導出する方法が、ヘーゲルの独自のものだ。
意識の話が、急に意識の対象の話に転換する。食欲という対象意識から、
対象の側に話を転じ、動物と生物一般の客観世界における食物連鎖の世界を
ヘーゲルは、たどろうとする。そして食物連鎖の世界でのトップとして
人間が位置づけられる事を示す。対象としての生物発展の運動から
人間の発生を説明するのだ。そこから類の自覚を出すためだ。

 ヘーゲルは人間の雑食性、他の生物を食べる事実を
示すことによって、食物連鎖のトップに人間が立つことを
示しているのではないか。地球から生物発展の全過程が、
この食物連鎖の背景にあり、食物連鎖の中に類の発展がある。
そのトップとして人類がある。

 こうして食物連鎖の中に類が現れ、その頂点に存在する人類において、
その類の自覚が可能になる。ここで、類も対象として、対象意識から
現れてくるのだ。これが対象意識から自己意識が生まれることを意味する。

 しかし、どうして類の自覚が自己意識とつながるのか。類の自覚とは、
その類の一人として自分を意識することだから、類の一人として
自分を意識することは、他の人をも自分と同じ人類の一人として
見ることであり、自分と同じ人類の一員が無数に存在することになる。
自己意識には自己意識が、同じ権利で向かい合っているのだ。

 逆に言えば、自分と並ぶ無数の他者を意識するのが、自己意識でもある。
これが「対象意識→無限の止揚→自己意識」という論理の意味なのではないか。
対象意識から類の自覚=自己意識が生まれたが、自己意識論ではここから、
類の意識のうちで、生命の運動(主と奴以下の展開)が展開されることになる。
しかし、それは直接的には、欲望・食欲の延長であり、自己への
「承認」欲求として現れてくる。
これが人間としての根源的な要求であることになる。

 他方で、対象意識の方は次の理性で、ふたたび新たな対象を
ともなって現れてくるが、それは「思考」としてである。
この思考も、自己意識ですでに生まれていたのだ。自己意識が生まれるとき、
意識内では個別と普遍の分裂が起こっている。それが「思考」の発生である。
思考は他のすべてを止揚して、観念的な契機として、自己内に
取り込むことができるのだが、それは食欲で、食べることが
他者を食べて(止揚して)自己のもの(契機)としたことに対応する。
つまり、自己意識=思考は、欲望、食欲の発展した形態であり、
欲望の論理を持っている。
この思考そのものの働きは、理性の段階で対象とされる。

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 4)人間の羞恥心と狼少年

 さて今は、類と自己意識の問題であり、その考察がこの「自己意識」論である。

 サルトルは『存在と無』で、この自己意識の例として、
人間の羞恥心を出している。ここに注目しているのはさすがだと思う。
私も高校生や大学生相手に「自己相対化」を説明する際に、
いつも羞恥心を例にしてきた。

 羞恥心には、確かに自分と他者の一体の構造がある。例えば、
駅で電車に間に合うように走り寄って、目の前でドアが閉まったとき、
目の前で私を見ている車内の人々に、笑われているように感じて恥ずかしい。
しかし、実際に笑われているというよりも、そう感じて恥ずかしく
思っているのではないか。こっけいな自分をこっけいと感じる自分が自己内にいる。
それゆえに、強い羞恥を感じる。

 ここには見られる自分と見る自分の分裂があり、その分裂によって
「自己相対化」が起こっている。これが、意識の内的二分であり、
自己意識の特色だ。他者に見られて恥ずかしいのは、自己内の
内的二分によって、自己が自己に見られているからだ。
自己内の「見ている」自己が「他者」の代表なのだ。この内的二分がないと、
他者は原理的には自己内に存在しない。このように自己と他者は結びついている。
そして、こうした他者と自己との一体化の関係から、人間だけに、
羞恥心といった感情が生まれてくる。

 つまり、自己意識、意識の内的二分、人間の感情。
これらは人間が人間社会の中で育てられないと、
獲得できない能力である。それを考えるには、
狼少年の例がわかりやすい。

 動物は、ほっといても大人に育つ。イヌはイヌになり、
猫は猫になる。しかし人間はそうではない。

 人間には人間になる可能性はあるが、人間になれない場合もある。
オオカミに育てられるとオオカミになってしまうことがその証拠だ。
人間でないというのは、言葉が話せないといった高級なレベルだけではない。
もっと根源的な喜怒哀楽などの感情が育たないことであり、
羞恥心が無いということだ。

 人間の自己意識、意識の内的二分、そこから発生した羞恥心や感情。
これは人間社会の中で育てられないと、獲得できない能力なのである。

 では、こうした意識や、羞恥心などの人間特有の感情は、
どのようにして育まれるのだろうか。実際に、その育つ過程の中で、
自己と他者が結びついた関係から生まれるのだ。だから、人間は
他の人間(母親や父親など)との緊密な関わりの中で、学習していく
過程が必要なのだ。それがないと、内的二分は起こらず、人間になれない。
これが「承認」の欲求とつながる。

 この自己意識論では、こうした根源的な人間の本質を
明らかにしているのではないか。

 以上で、形式的な(1)から(3)の3つの課題の私の回答を終える。
残りの(4)と内容上の課題については、以下に、
テキストの展開にしたがって、レジュメの形で示す。

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1月 12

 ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」

 一昨年(2009年)の夏の合宿では、ヘーゲル『精神現象学』の
第1部「対象意識」を、昨年(2010年)の夏には第2部「自己意識」を読んだ。

今回、「自己意識」論を読んで考えたことをまとめた。
使用したのは、牧野紀之の訳注(未知谷)と金子武蔵の訳注(岩波版全集)である。
ページ数は牧野紀之の訳注(未知谷)から。

 ■ 全体の目次 ■
 一.ヘーゲル『精神現象学』の第2部「自己意識」論の課題

 二.形式の課題の(1)(2)(3)の答え
 1)ヘーゲルは「逆算」して書いている
 2)対象意識と自己意識の順番と関係
 
 以上(→その1)

 3)自己意識論をなぜ、欲求や生命から始めたのか
 4)人間の羞恥心と狼少年

 以上(→その2)

 三.主と奴
 (1)冒頭
 (2)承認
 (3)主と奴

 → 以上(その3)
  
 四.自己意識の自由
 (1)主と奴と「ストア主義と懐疑論」
 (2)ストア主義も懐疑論もともに抽象的で一面的
 (3)不幸な意識  
 (4)不幸な意識の展開
 (5)どうしてここから理性が出るか、精神が出るのか。主体性の確立。

 → 以上(その4)

 五.竹田青嗣(たけだ せいじ)をどう考えるか
 (1)「精神現象学」派と「論理学」派
 (2)竹田による「自己意識論」の解釈
 (3)竹田の限界

 → 以上(その5)

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ヘーゲル『精神現象学』「自己意識」その1

 一.ヘーゲル『精神現象学』の第2部「自己意識」論の課題

 まず、「自己意識」論を読む上での大きな問題を確認しておくと、
形式面では次の4点(特に最初の3点)があげられる。

(1)対象意識から自己意識が生まれるとはどういうことか
(2)対象意識と自己意識の統一から理性が生まれるとはどういうことか
(3)自己意識をなぜ、欲求や生命から始めたのか
(4)第3節の第1段落の主人と召使のレベル、第2段落と第3段落、
   さらに第4段落の展開の意味。それが実際に意味するものは何か

 内容面では以下のような論点があると思う。

(1)類の意識とはどのように生まれるか  
(2)労働、仕事は、どういう意味があるのか。
(3)他人に承認してほしいという欲望をどう考えるか
(4)第3節の第1段落「生命をかけた闘争」をどう理解するか?その経験は?
(5)第3節の第1段落、第2段落と第3段落、第4段落に対応する経験を出してみよう
(6)神とか絶対者をどう考えるか、どう考えてきたか 
(7)キリスト教から教団の話が出てくる
(8)「先生を選べ」と、教団の話はどう関係するか

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 二.形式の課題の(1)(2)(3)の答え

 1)ヘーゲルは「逆算」して書いている

 形式上の(1)(2)が大きな問題だろうが、今回読んでみて、
ヘーゲルは「逆算」して書いているし、そう読むべきではないのか、
と強く思った。

 第1部「対象意識」と第2部「自己意識」論は、第3部の5章「理性」と
6章「精神」を前提として、その伏線、準備として考える必要があるのではないか。

 ヘーゲルの精神現象学では、人間の社会を展開したのが第3部の6章「精神」であり、
その前提である、個人としての人間を扱っているのが第3部の5章「理性」である。
この「個人」の理性の実体から、分析的に抽象化された2側面が
第1部「対象意識」と第2部「自己意識」論なのではないか。

 第3部の5章「理性」から、主体的人間と客観的世界の対立が現れてくる
(第1節が「認識」、第2節が「実践」)。その第3部の前の第1部
「対象意識」と第2部「自己意識」論は、その「理性」の前提として、
「対象意識」と「自己意識」が必要だから、前に置かれているのではないか。

 逆に言えば、第1部「対象意識」と第2部「自己意識」論は、5章「理性」の中で
より具体的に再度取り上げられていて、それらを止揚した6章「精神」で
さらに上の具体的なレベルで現れてくるのではないか。
つまり、第1部「対象意識」と第2部「自己意識」論だけで考えても、
抽象的でよくわからないのではないか。

 例えば、第2部「自己意識」論では「類」や「自己意識」が
でてくるのだが、自己意識論では、それが事実として存在することの
中にある論理を示している。つまり実体の段階であり、「理性」段階からが、
それを自覚する主体性の段階なのではないか。

 ヘーゲルの主体性は、自己意識では潜在的で、顕在化するのは理性、
精神の段階なのであろう。

 参加者から「自己意識論」は受動的で面白くないとの意見があった。
特に「不幸な意識」が抽象的だと思う。主体性は「理性」以降の
段階だからしかたがない面があるのではないか。

 こうしたことは金子も言っている(岩波版全集第4巻。662、663ページ)が、
本当にわかっているかどうかは別だ。2009年の夏に読んだ「対象意識」では、
感性的確信や知覚の章が、私にはよくわからなかった。
それも当然だったのではないかと思う。牧野紀之はそれをどこまで意識していたのか。
マルクスやサルトル、ハイデガーはどうだったのかが気になった。

 そこでマルクスの『経済学・哲学草稿』とサルトルの『存在と無』の
関連箇所を読んでみた。マルクスはさすがに読めていると思った。
サルトルは立体的な読み方はできていないと思った。

 2)対象意識と自己意識の順番と関係

 では、対象意識と自己意識の順番と関係はどうなのか。

 動物一般には意識があるだけで、対象意識と自己意識の分裂はない。
人間も最初は同じである。人間が他の動物からわかれたのは、自己意識が生まれ、
それによって、意識内部に対象意識と自己意識の分裂が生まれたことだ。

 人間の発生過程でも、人間個人のそれでも、最初は分裂以前の意識から始まり、
それが自己意識発生後、つまり自我のめざめ以降の意識の分裂とその止揚が
繰り返されている状態がおこっている。これが大人の人間の常態である。

 ヘーゲルは「対象意識」として、分裂以前の意識の状態(感性)と、
分裂後の自己意識と区別された意識(知覚と悟性)を扱っている。
一方「自己意識」は、もちろん自我のめざめ以降の自己意識を扱っている。

 それが、どうして精神現象学の「対象意識→無限の止揚→自己意識」といった
展開になるのか。自己意識とは、それ自体で存在できず、対象意識に媒介され、
それを止揚して自己内に含みもつ過程で生まれてくる。それは対象の
「無限の止揚」に他ならない。自己意識とは対象や他者を止揚した意識であり、
自己内に他者を含むのだ。しかし、この論理は正しいが、それは
歴史的な順番として悟性から自己意識が生まれたことを意味しない。

1月 11

読書会の日程の変更

 1月の読書会の日程を、29日(土曜)に変更します。
 3月の読書会の日程を、21日(月曜・祝日)に変更します。
 2月は変わりません。

 つまり、以下になります。

 1月15日 文ゼミ
   29日 読書会

 2月12日 文ゼミ
   26日 読書会

 3月12日 文ゼミ
   21日 読書会

 なお、読書会テキストですが、1月?3月はアリストテレス哲学の
神髄、「形而上学」(岩波文庫・上下)に挑戦しようと思います。
その視野の広さ、その思考の圧倒的な高さ。ヘーゲルが惚れ込んだ
アリストテレスの凄みを直接に味わってみましょう。
テキストはアリストテレス著「形而上学」(岩波文庫上下)

 以下の順に読みます。

(1)1月29日 12巻[35ページ](岩波文庫・下巻)
       1巻[50ページ](岩波文庫・上巻)

 全体を見渡すのには、12巻がベストです。これはアリストテレス自身による
全体の要約と言ってよいでしょう。ヘーゲルも『哲学史』で、ここを使用しています。

 そして、導入的な意味で、1巻も読みましょう。アリストテレスが
自らの師プラトンを全面的に批判しています。
この批判のすごさからも学ぶことが多いと思います。

(2)2月26日 3巻[約30ページ]、7,8巻[約100ページ](岩波文庫・上巻)
       9巻[約30ページ](岩波文庫・下巻)

 この「形而上学」は3巻で問題提起し、その前半に答える形で、
3,4,6巻、後半に答える形で7,8,9巻があるようです。
補足が10,13,14巻。

 この7,8,9巻が、「形而上学」の核心部分だと思います。
変化、発展の論理と、個別に内在する本質とを結びつけて展開します。
すごいです。

(3)3月21日 4,6巻[約50ページ](岩波文庫・上巻)
       10,13,14巻[約120ページ](岩波文庫・下巻)

 3巻の問題提起の答えの内で、7,8,9巻以外の部分を読みます。

 なお、波多野精一の『西洋哲学史要』(牧野再話、未知谷版)で
アリストテレスの箇所(74?87ページ)を読んでおくとわかりやすいでしょう。
アリストテレスの核心だと思う点は、メルマガ179号で書きました。
是非、読んだ上で、アリストテレスにアタックしてみてください。

1月 10

昨年12月の読書会では、波多野精一の『西洋哲学史要』(牧野再話、未知谷版)を読んだ。昨年読んだヘーゲルの範囲で出てきた思想家の概略を確認しておきたかったのだ。ヘーゲルの論理学の「判断論」「推理論」、『精神現象学』の「自己意識論」に出てきた以下の思想家たちだ。

古代では
  アリストテレス 第1編 第6章(74?87ページ)
  ストア派、懐疑派 第2編 第1章(90?102ページ)
中世では
  アンセルムス 第2編 第1章(133?136ページ)
近世では
  デカルト 第1編 第3章(165?174ページ)
  スピノザ 第1編 第4章(175?184ページ)

読みながら、また読書会の意見交換ではっきりした点をまとめておく。

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◇◆ ヘーゲルとアリストテレス 中井浩一 ◆◇
 
(1)アリストテレスは古代哲学の完成者

 「アリストテレスは古代哲学の完成者」だというのを、改めて確認した。そして、アリストテレス哲学を近代のレベルで再興し、それによって近代の哲学を完成させたのがヘーゲルなのだと思った。

 アリストテレスは本当に凄い。彼の哲学は、内容的には、ほとんどヘーゲル哲学と同じだ。そのことには、ただただ驚くしかない。二千年以上も前のアリストテレスにも、そして二百年前のヘーゲルにも。
 ヘーゲルは、他のすべての哲学者には厳格で、高く評価しても必ず限界を指摘するのだが、アリストテレスだけは手放しの誉めようで、それはとても意外だった。しかし、これだけ2人が同じだと、それも当然だと思えた。ヘーゲルにとって、自説(「発展の哲学」)を作り上げる上で参考になるのは、アリストテレス哲学以外には存在しなかったのだろう。

 アリストテレスのすごさとは何か。

 ?個別と普遍(本質)の問題と、?変化・発展の問題と、?全世界の構造、神から物質までの階層、順番の問題。この3つの最も根源的な問題を3つともにとりあげていることもすごいのだが、それらを1つに結びつけていることが、その圧倒的な高さだ。
 この?は誰もが問題にする。この?に対するアリストテレスの答えは並の答えで、すごいのは、この?と?とを結びつけて論じたことだ。?と?を、同じ事態の2つの側面としてとらえた。その結果、?を説明することができたのだ。
ヘーゲルは、何よりも、ここから学んでいると思った。

(2)「近代」とは何か アリストテレスにはなくて、ヘーゲルにあるもの
 ヘーゲルは、このアリストテレスを、近代のレベルで再興し、それによって近代哲学を完成させた、とまとめることができるのだろう。

 では、その「近代のレベル」とは何か。アリストテレスにはなくて、ヘーゲルにあるものとは何か。
 自我、自己意識の存在、意識の内的二分である。この自我の自覚を持つことで、人間は「人格」を持ち、「人格」を持つ点での平等、人間はみな平等であることになった。デカルトのコギトが自我の宣言だ。

 アリストテレスには対象意識はあった。対象世界、その全体とその構造や最上位に君臨する神を、とらえていた。対象世界の中には、自然も精神(魂)も人間社会も含まれていた。人間社会では、法律も制度も道徳も国家体制もとらえていた。無いのは、自己意識(意識の内的二分)だけだ。
 しかし、読書会では質問が出た。アリストテレスほどの凄い人が、なぜこの立場に立てなかったのだろうか。
 当時の世界が奴隷制社会だったからだと思う。イヌと人間の違いを一般的に考えるには、同じ人間の中で、人間と奴隷(イヌと同じ)に絶対的に分かれる社会では、ムズカシイ。
アリストテレスほどの人でもそうなのだろうか。諾。人間は、時代の子であり、その時代的な制約から抜け出ることはできない。

 「自我」「自己意識」の思想は、ローマ帝国における帝国と市民の成立、キリスト教における神の前の人間の平等によって、その可能性が生まれた。

 もちろん、それは可能性だから、それを表明する思想家の登場を待つしかない。それを行ったのがデカルトだ。ヘーゲルは、デカルトのコギトを、自我、自己意識の存在、意識の内的二分の宣言としてとらえている。

(3)近代のダイナミズム
 しかし、読書会ではここで質問が出た。デカルトのコギトは、東洋の悟り、「仏とは汝だ」と何が違うのか。
 まず、東洋の自己とは、自分についての意識ではあるが、それは意識の内的二分をとらえていない。むしろ分裂を否定し、自分と世界との一体性をとらえようとしている。そのために、そこには分裂を克服するための運動が出てこない。この運動のあるなしが、決定的な違いだと思う。
 デカルトは、自己意識から始め、そこから神の存在証明、世界(対象世界)の存在証明へと進み、その上で安心して世界の研究に打ち込んだ。したがって、デカルトの対象世界の研究は、常に自己意識に支えられている。自己意識とは、対象意識と自己意識の分裂のことであり、これをつなぐために、デカルトは神を持ち出したとも言える。
 こうしたダイナミックな円環運動がデカルトの思想の核心にあり、東洋にはない点だろう。
ヘーゲルは、中世のスコラ哲学による神の存在証明を「主観的」とし、デカルトやスピノザのそれを「客観的」としている。その根拠は、こうした運動にあるのだろう。

 なお、以上のことを考えることができるほどに、各思想家の思想をシンプルにまとめている点が、波多野精一著『西洋哲学史要』のすばらしさである。

1月 09

ゼミ生3人の、2010年のヘーゲルゼミの振り返りです
 
(1)苦しいけど幸せ A
(2)生活の中の哲学 B
(3)自分の中にあるものを言葉にすること C

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(1)苦しいけど幸せ  A

 今年の六月から、ヘーゲルの読書会に参加し始めた。ほぼ毎週一回月曜日に、『小論理学』の判断論と推理論を十一月末までかけて読み、途中八月には山梨での合宿にも参加して、そこで四日間、『大論理学』の判断論と、『精神現象学』の自己意識論を読んだ。
 参加するにあたっての自分の「目的」は、一言でいえば、今の自分の思考法(=生き方)の限界を超えること、であった。その背景には、大学院での博士論文が書けずにいること、があった。今の自分のやり方では前に進めない、否、進んでも意味がない、という意識が強くあった。四十歳を目前にして、このままでは次の段階に進めない、という意識である。
参加して何よりも感じたことは、中井さんの能力の高さだった。特に、判断論の中の、仮言判断の不確かな位置付けに対する中井さんの自説には、情熱というか執念というか、これを分かるまでは自分を許さない、という徹底的な考察の姿勢が現れていた。実際、その週の範囲であったところに、何度も何度も後から戻って来ては、中井さんは前回よりも上のレベルからの考察を展開しようとしていた。また、ドイツ語のたった一つの冠詞から考察すると同時に、ヘーゲル論理学全体の中での位置付けを理解するべく、何度も目次を参照したりもした。さらに、驚くべきことは、それを、我々参加者にも分かる言葉で説明するのである。
正直なところ、私はヘーゲル自体には未だ圧倒されてはいないが、中井さんには本当に圧倒される。当初の参加目的である、自分のダメなやり方を超える、ためには、第一に、「圧倒」されるしかない。苦しいが幸せである。無論、圧倒されているだけではダメなので、現在、『小論理学』下巻を、今年三度目の通読をしているところである。

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(2)生活の中の哲学  B

 ヘーゲルを読み始めたのは2008年第一回目の夏合宿の時からだ。最初は訳がわからなかった。今年から毎週月曜日にヘーゲルを原書でも読むようになってから、以前と比較すると少しずつ理解できるようになってきた。理解できるようになったというより、自分の日々の行動を無意識にヘーゲルの言葉で整理するようになった。一番衝撃を受けた点はヘーゲルの判断論だ。よく中井さんはホワイトボードに、最初は一つの円だがそれが発展し、矛盾が生じ二つの円に分かれ、しかしその後また一つの円に戻る図を書く。
 私は今まで自分の育ってきた環境や親の価値観を否定してきた。ヘーゲルの図での二つに分裂し矛盾が生じている状況が続いていた。しかしちょうどこの図の説明がなされる2,3日前に自分の育ってきた環境を受け入れることからしか、厳密に言うと肯定的理解からしか物事は始まらないのではないかと思える経験をしていた。そのような見解を述べた文章も書き終えていた。まさしく分裂していた状況が、再び元の一つの円に戻る作業を身をもって体験していたからこそ、ヘーゲルおよび中井さんの説明に衝撃を受けた。自分の経験したことを文章で述べ、自分なりの分析をした内容がヘーゲルはさらに数段上のレベルで整理していたことに衝撃を受けた。なぜ数段上だとわかるかというと、無駄なく単純な用語で普遍的に述べているからだ。ヘーゲルは具体例を一切出さずに、普遍的にあてはまることだと分かりそれのみを述べている凄さである。日常生活に落とし込めている凄さである。日常生活を送っていれば気が付く格段特別ではないことを改めて自覚化、可視化させ、言葉として記していることの凄さをここ最近実感できるようになった。

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(3)自分の中にあるものを言葉にすること  C

ゼミに参加することが恥ずかしい気持ちが私にはある。参加者の多くが20代でこれから自分を作って行こうと格闘している人たちだが、私は今年39歳になった。けれど仕事の立場はアルバイトで中途半端であり、自分の家族を持たないことも恥ずかしいと思う。重ねてきたものがないからだ。けれど何もないまま生き続けることが怖くてゼミに参加しようと思った。ぽつぽつ参加する状態を経て昨年末から定期的にゼミに参加するようになったものの、最初はどうしたらよいか途方にくれていた。
文章ゼミで、思いつくことを言葉にすることから始めた。自分の思うことを言葉にして批評してもらう中で、こんなことを言ってはいけない、という気持ちがほぐれるという経験を重ねた。例えば「話したあとの気持ち」という文章を出したときのこと。それは知人と食事をした時に自分が感じたものを言葉にした文章だった。私はゼミに出すにはふさわしくない下らない内容だと思っていたので、ゼミでその心配な気持ちを話した。それに対して参加者のひとりが「下らなくない」と言ってくれた。安心した。安心すると、次の言葉が自分の中から出てきた。
自分の書くものは何を伝えたいのかがはっきりしない文章だと思う。年齢が40近いのに簡単な文章しか書けないことに落ち込むことも多い。けれど今の自分にはそのような文章しか書けないのだから、書けるものを出していこうという気持ちになった。ゼミではどんなに短い文章でも取り上げてくれて意見を聞けるのが有り難い。自分がつまらないことだと思いながら、けれどその存在を無視しきれない気持ちを形にした言葉に居場所を与えてもらえる。その作業をくり返す中で、自分が落ち着いてきたように思う。この1年書いてきたものを振り返ると、最初は何を書いたらよいのかわからなかったのが、いつのまにか両親のことを書くようになっていた。書くことを続ける中で、亡くなった両親が今も自分の中に大きな位置を占めていることに気づかされた。
夏の合宿は関心があったが、集団生活はしばらくぶりで参加をためらった。ためらっている気持ちを先生に伝えると、参加してみて調子が悪くなったら帰るなど自由にしていいと返事をもらった。それで気持ちが楽になり、途中から参加した。
他人と生活した2泊3日では、緊張したり、話が上手にできなかったりした。誰も自分を責めていない状況にも関わらず、責められる気持ちから逃れられなかった。合宿を終えてから、どうしてなのかという思いを言葉にすると、「自分で自分を責めている」と言われた。その時に、身体で感じる苦しさが自分で作り出しているものだと知った。
読書会はたいがい課題の本を読み終えられないまま参加していた。他の人の報告や文章も読み切れないことが多い。ヘーゲルも他の読書会も内容はほぼわからず、できない自分を感じ続けている。けれど自分が少しでも前に進めていたらと思う。