9月 26

夏の「ヘーゲル哲学」合宿を行いました。
 参加した内から3人の感想を掲載します。
 
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◇◆ 長い長い思春期 K ◆◇

 精神現象学は、人間の成長段階に合わせて、時間的順序に則って
叙述したものであるという。そして、今回の合宿では自己意識、
すなわち自我の目覚めと思春期が範囲であった。だとするならば、
現代においては、思春期とは十代のごく一時期を意味するものではなく、
十代から二十代にかけての二十年間、まさに一世代にも及ぶものではないだろうか。

 自己意識は、人類や絶対的存在を意識し、絶対的否定を経ることで
芽生えるというが、自分の経験を振り返ってみるに、それは、二十歳を過ぎて、
鶏鳴学園に通うようになってからのことであった。夏目漱石を通じて
人間のエゴイズムに圧倒され、途端に、それまでの自分の人生が、
どうしようもなくみすぼらしいものであるように思うこととなった。

 そうして、初めて、人間(自分)が生きることとは何かを問い、
人間(自分)とは何かを問うようになった。無論、それまでも問いかけてはいた。
だが、まともに考えていたとは言えないし、問いかけ方も個々別々の
経験の範疇を出るものではなく、拒絶感もその場限りであったし、
何より普遍性がなかった。やはり、ヘーゲルの言うとおり、
圧倒的存在に触れることは不可欠なのだと思う。しかし、一足飛びに
そこまで到達するものではなく、一定以上の経験を積んだ上でなければ、
何も反応できないのではないかとも思う。

 なお、こうした問いに対し、本腰を入れて考えるようになってから
五年が経過したが、未だにその答えは出ていない。あと二年で
華ある二十代も終わり、三十路を迎えてしまう。だが、その答えの芽は
出ているように感じているし、その手応えもある。行き詰るたびに
圧倒的存在に当たり、都度、打ちのめされ、しかしそこに希望を感じながら
成長していく。これしかないし、それがすべてだと思う。そして、鶏鳴学園という
目的を同じくする仲間たちとの研鑽の場があることを、幸せなことだと思う。

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9月 25

夏の「ヘーゲル哲学」合宿を行いました。
 8月19日から22日(3泊4日)の日程で、山梨県の八ヶ岳山麓に籠もり、
 一日中ヘーゲル哲学の学習に専念しました。
 合宿を始めて3年目ですが、年々充実してきたと思います。

 参加した内から3人の感想を掲載します。
 
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◇◆ 報告することの意味 M ◆◇

 今回の合宿は後半の精神現象学の講読から参加した。
自己意識が今回の範囲だったが、内容は正直それほど興奮するものではなかった。
ヘーゲルに関する知識を得て、お勉強をしたと言う感じで、
自分の身につまされて、背筋がピンと張るという瞬間があまりなかった。
それは自己意識が範囲といってもまだ始めの段階で、自己意識のあり方が、
まだどこか受動的な段階についての記述であったからだと思う。
次の範囲を早く読みたいと感じたのが正直な感想だ。

 各自の報告の時間は印象深かった。うまく言えないが、各自が報告をし、
それについてそれぞれが意見を言う。これまで5年間続けてきたことだが、
このことにどんな意味、効果があるのかと深く考えたことはなかった。
今回初めて、一体何が起こっているのだろうかと考えた。

 一番大事なのは、報告するその人が一番自分にとってその時
切実な事について正直に書くこと。この切実な事というのは、
書いた本人にとってこれでいいのだろうか、これは間違ったことを
書いているのではないか、自分の考えはおかしいのでは、と自分でも
自分の書いたことを認められず、消化出来ないことが多い。

 そして、第二にこのように切実な事について書いた文章を
みんなに読んでもらい、一通りの意見を聞く。その意見が
自分の切実な問題についての意見であろうが、全く見当はずれの意見であろうが、
あまり関係ない。自分は言いたいことを書いた、言った。
この人は一応読んでくれた、聞いてくれた。この時点で、ある程度の目的は
達成されるように思う。

 目的というのは自己理解を押し進めるということだが。
自分の感覚では、最初に自分の報告を話すときは何かおかしなことを
書いたのではないか、実はこんなことを全く自分は考えてないのではないかと
ドキドキしながら、みんなの意見を聞いていき、それが一通り終わると、
自分がそのことを考えているということを自他ともに認められるということで、
落ち着く。

 そして、第三に中井さんの意見を中心にその問題について、
どういうことか、どういうことをしていけばいいのかを考えられ、
一歩ずつ進んでいく。

 今回初めて感じたのが、人に聞いてもらうこと、人に自分の問題を
聞いてもらい、認めてもらうことの重要性である。この段階で初めて
自分でもそのことを自分のものとして認められ、位置付けようと
することが出来る。この段階が無いと自分で文章を書いても、
それを自分で消化できない。

 ヘーゲルの講読でも他人の承認というテーマが出ていたが、
このことの重要性を感じ、またどんなテーマでもまず受け入れてくれる
鶏鳴学園という場は貴重だと感じた。まず受け入れてくれないとその時点で
パニックに陥ると思う。そういうきわどさも今回初めて考えた。

 【中井からのコメント】

 M君が提起したのは大切な問題だと思う。
「どんなテーマでもまず受け入れられる」条件が問われているのだと思うが、
それは何か。第1に「先生」の実力であり、第2に師弟関係、
第3に弟子同士の関係における信頼度。別の視点から言えば、
師弟のすべてが、真理の前に謙虚であることが必要だろう。

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9月 20

 今年も夏の合宿を行いました。
 8月19日から22日(3泊4日)の日程で、山梨県の八ヶ岳山麓に籠もり、
 一日中ヘーゲル哲学の学習に専念しました。
 合宿を始めて3年目ですが、年々充実してきたと思います。

 今回のメニューは、ヘーゲル『大論理学』(寺沢恒信訳、以文社)の
 「判断論」(「必然性の判断」のみ原書)、『精神現象学』
 (牧野紀之訳注、未知谷)の「自己意識論」を読みました。
 晩は「文章ゼミ」と、各自の報告会もおこないました。

 私以外に8人の方が参加しました。大学生4人、社会人4人です。
 「なぜ合宿をするのか」という私の文章と
参加した内から3人の感想を掲載します。
 ヘーゲル哲学について私が学んだことは、別にまとめます。

 ちなみに、来年は8月18日から21日(3泊4日)を予定しています。
 
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◇◆ なぜ合宿をするのか 中井浩一 ◆◇

 参加者から、「なぜ合宿をするのか」という問いが出された。
「参加者ではなく、主催者(中井)にとっての意味は何か」という問いかけだった。

 「私自身がヘーゲル哲学を学ぶため」。それが回答。

 「それなら、一人でやれば良いのではないか」。

 それがダメなんです。どうしても、私の話しを
聞いてくれる人が必要なんですね。それも真剣に全身で
受け止めてくれる人に向かって話すことが必要だ。
それでこそ、私の学習が前進できる。そういう人を確保することが、
5年前から始めた「師弟契約」で可能になった。「先生を選べ」の原則で選び、
選ばれた関係が、これを保障する。こうした条件下では、
「教えること」は「学ぶこと」そのものになる。

 ゼミの参加者の中には、興味本位な人や、一時的な参加者や、
緊急避難的な人もいてよい。しかし、そうした人を受け入れても
「壊れない」ためには、しっかりした基礎が必要で、
それはきちんとした師弟関係だと思う。

 これが、「中井にとって師弟関係の必要な意味とは何か」への回答になる。

 「しかし、それは普段からゼミでやっていることで、
 なぜわざわざ『合宿』をしなければならないのか」。

 「効果」が違うんですね。この3泊4日で朝から晩まで
ヘーゲルを読むことで、自分を追い込む。そのことで、普段より集中し、
一つ上のレベルの気づきや発見をすることができる。

 ヘーゲルの『精神現象学』の「自己意識論」で、人間の相互「承認」の
重要さが言われていたが、私にとっては、このメンバーたちにこそ
「承認」してもらいたいのだ。この人たちにこそ、ヘーゲルの
「凄み」を見せつけたい。見せつけられる自分でありたい。

 そのようにして、3年間自分を追い込んでやってきた。
実際に、この3年間の自分の成長を実感できる。
ヘーゲル哲学の理解は確実に深まっている。
他方、師弟契約をしている人も、ゼミの参加者も、
それぞれのペースで成長してきたと思う。
この5年間は間違いではなかった。

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9月 17

『コミュニティビジネス入門』から学ぶ 
 (5)社会資本、地域資源は誰のものか 「所有」と「主体」の問題
 (6)本書の意義と限界
 
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(5)社会資本、地域資源は誰のものか ?「所有」と「主体」の問題?

 さて、「地域」が、外部者も含めたものであるのならば、
社会資本、地域資源は誰のものか。ここに、「所有」「主体」の
問題が浮き上がってくる。

 この「所有」「主体」の問題のところで、本書では捉え方が曖昧になる。
一般にも、この点が曖昧なので、問題提起しておきたい。
一般に「コミュニティビジネス」を論ずる人は、その主体を個々の事業主、
つまりNPOや企業、団体として理解、その内部での「所有」の問題を論ずる。
しかし、その団体も含めて、その事業に関係するすべての関係者が
「主体」なのではないか。
これが本当の、地域資本、社会資本という考え方ではないか。

 例えば、ワインツーリズムは誰のものなのか? 
企画運営者の笹本さんたち(3次)だけのものではない。
ワインツーリズムの関係者のすべてのものだろう。
もちろん中心は2次産業のワイナリーだが、「かつぬま朝市会」や地域の
散策組織(「勝沼フットパス」)も加わっている(以上は3次、一部は4次)。
ワインツーリズム参加者はそのワイナリー周辺地域を散策するが、
そこに1次産業のぶどう農家が大きく関わってくる。
ワイナリーにぶどうを提供しているのは、彼ら(の一部)なのだ。

 長く1次の農家と2次のワイナリーには対立があった。
地域の人々から見て、外部の笹本さんたちが偉そうにしていることも
面白くないだろう。そこに都会からワイン好きが集まってきて、
地域の自然や文化財をも楽しむ。

 これらがすべてを所有者、主体として考えるべきではないか。
ここには、多様な利害関係者がいるし、対立の側面は常にある。
一般に、「コミュニティビジネス」の一事業やイベントには、
多様なステイクホルダー、複数のセクターが関わるので、
そこには必ず利害対立が起こり、矛盾がある。だからこそ、
それを解決するための民主主義が、情報公開が問題になるのだ。

 ワインツーリズムでは、実行委員会が一応立ちあげられている。
委員長は笹本さんで、副委員長に大木さんや朝市会の主催者、
ワイナリーや地元農家からは委員が出ている。
地元甲州市の行政マンも委員だ。しかし、議論は低調で、
笹本さんたちにお任せの状態が続いた。関係者間には利害対立があって、
収入アップになるワイナリーと、ボランテアを「強いられた」と感ずる
地元農家との間には、感情的な対立がある。補助金獲得を巡り、
行政や地元、笹本さんたちとの間にも対立がある。
しかしそうした対立が表面化していないので、うやむやになっている。
ワイナリーや個々の利害関係者に、どんな金の流れがあったのか?
それは、現段階ではオープンになっていない。
これが「ガバナンス」の問題であり、「所有」の問題なのだ。

(6)本書の意義と限界

 今示したのは、この社会資本のモデル、理念から見えてくる
論点のほんの一部だが、その有効性がわかるだろう。

 これでワインツーリズの総括ができる。他の似たような
活動をしているコミュニティビジネス(ソーシャルビジネス入)の分類、
位置づけ、評価の観点や課題の整理と、その解決のための政策づくりが可能になる。

 本書では、この社会資本というモデルを提示したことが
最大の貢献だと思うが、ヨーロッパモデルの考え方や情報、
日本でのたくさんの事例が紹介されているのも、参考にはなる。
ヨーロッパの社会的企業。福祉国家から福祉社会への転換。
EUの「社会的排除」との闘いなど。

 コミュニティビジネスを評価する人にも2派がいる、という指摘は重要だ。
一方は「社会的排除との闘い」(社会民主主義)の側面を見る。
他方は「安上がりサービス」(新自由主義)の側面を見る。
この2つは必ずしも正反対の立場ではないが、
どちらを中心とするかで対立をはらんでいるのだ。
これは『良い社会の公共サービスを考える』でも指摘されたことだが、
表面的にはともかく、問題が起きるたびに、どちらの立場なのかが
問われるだろう。そのことを自覚しているだけでも、対応は変わる。

 本書の意義を挙げてきたが、もちろん問題もある。
「用語集」を付けて、今の諸問題を整理し、方向を明確にしている点で、
教科書として成功していると思うが、その内容には疑問も多々ある。

 すでに社会資本の「所有」「主体」のとらえかたに疑問を出したが、
他では、就労形態で、「ワーカーズコレクティブ」と「生協」の違いが
分からない。結局は大きさ、規模の違いなのではないか。
生協は大きくなりすぎて、小ささが必要なのではないか。
所有と意思決定と労働の間で、小ささの持つ意味が問われているのでは。

 「社会的企業」とか「社会起業家」の「社会」も曖昧だ。
「正しい」とか「正義の」といったニュアンスだが、それでは
「社会的」でない「企業」や「起業家」が存在することになるし、
それを認めることになるが、それで良いのか。本来は、
企業や起業は社会的な物なのだから、こうした「社会」という冠が
不要になることが最終ゴールなのだ。「社会的企業」という言葉がなくなること。

 つまり、本書の「用語集」では、一般に言われていることを
まとめているだけで、著者たちの自説や掘り下げがないのだ。
もっとも、そもそもまだ概念が曖昧で混乱している段階だ。
私たちで自前の「用語集」を作り直すような覚悟が
必要だということだ。用語、概念は単なる知識ではなく、
課題を深く、広く考えていくための基本的な武器なのだから。

 こうした基本概念に対する理解の程度が運動のレベルを決めてしまう。
概念には、人類の問題意識と英知が集約されている。
 

 本書には問題を深めるよりも、きれいごとで済ませている箇所も多い。

 例えば、コミュニティビジネスの意義を強調するために、
行政と民間企業の限界を以下のように強調する。
地域、家庭の崩壊により、行政サービスが拡大したが、
それも今では財政破綻したし、もともとが一律サービスしかできず、
特定の地域ニーズには対応できない。一方の民間企業は
多様なサービスを提供できるが、ニーズがあり利益があがる限りのことだ。
こうした狭間で、利益が上がりにくい多様なサービスを提供できるのが、
コミュニティビジネスだと言うのだ。そのためには、民間以上の力で
「経営的イノベーション」の能力が必要になる。しかし、
それほど困難で高い能力を持つ人が、本当にコミュニティビジネスに
関わるだろうか。彼らの年収は約200万だと言う。
ここには根本的な無理がないか。

 この点で、コミュニティビジネスと生協との連携などを提案しているのは
現実的だ。理解ある企業との提携が一番現実的だろう。

 しかし、そうした際にも、結局は、また「所有」の問題にぶつかるだろう。
これがやはり肝なのではないか。だから、本書では多様な
コミュニティビジネスを紹介しているが、一番知りたいのは、
その所有の問題や、内部対立をどう解決しているかなのだ。
もちろん、内部民主主義と公開の原則の重要さは言われている。
しかし、そうした建て前ではなく、実際のコミュニティビジネス内部での
深刻な対立の問題は出さなければ、説得力はない。

 現在のコミュニティビジネスにはたくさんの問題がある。
なぜ横の連携が取れないのか。なぜ小さくしかまとめることができないのか。
それぞれの小さな組織で、お山の大将でいたいからではないのか。
単なる補助金荒らしではないのか。

 そうした内部の深刻な問題には触れていない。
しかし、それは求める方が間違っている。自分たちで行うべきだろう。

 私たちの議論の中から、次のような意見も出た。
「社会的排除」と言うと、いわゆる「社会的弱者」を念頭に思い浮かべやすいが、
そうでない場合もある。ワインツーリズムでの「社会的排除」とは、
「大量生産・大量消費のマーケットや受身の社会生活に満足できない層」を意味する。
彼らは山梨では、プライドが保てない。出て行って(排除されて)しまう。
 こうした視点も大切にしたい。

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9月 16

『コミュニティビジネス入門』から学ぶ 
 (1)「コミュニティビジネス」と「地域の自立」
 (2)「社会資本」というモデル
 (3)「社会資本」「地域資源」とは何か ?産業構造の組み換えや統合?
 (4)「地域」とは何か。 ?地域外部の人間の必要性?

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(1)「コミュニティビジネス」と「地域の自立」

 『コミュニティビジネス入門 地域市民の社会的事業』
 (風見正三・山口浩平 学芸出版社)。

 これは現在世間でも注目され始めている、「コミュニティビジネス」
「ソーシャルビジネス」の入門書だ。大学などの教科書としても
使用できるように作られている。事例が豊富で、一応の理論化もあり、
用語集もついているので、考えるキッカケには相応しいと考えた。
著者たちに純粋な研究者はいない。みなが現場の人間か、
現場経験者から研究者に転じた人ばかりだ。

 笹本さんたちは、山梨でワイン農家や醸造家などの活性化のために、
「ワインツーリズム」を企画し、成功した。その意味を、その本質を考え、
こうした方法や考え方を、山梨県全体に、さらには日本全体にも
広げていくことが、今後の課題だ。
それが「地域再生」「地域の自立」を進めると考えるからだ。
そのためには、まずワインツーリズムの意味、意義を
しっかり考えておかなければならない。そのための課題や論点を
はっきりさせるために、このテキストを読んだ。ここから、
今後の政策立案に向けた取り組み方、公開学習会の進め方も見えてくるだろう。

(2)「社会資本」というモデル

 結論からいえば、このテキストを選んだのは正解だった。
ここには地域再生のための1つのモデルが、
極めて有効なモデルが示されていたからだ。

 そのモデルは「社会資本」という考えを中心とする3点からなる。

 【1】地域の社会的資本(地域資源)を、
 【2】その所有者である地域自身が主体となり、
 【3】それによって、地域資源が「持続可能」なように経営(管理運営)すること。

 これは社会資本が循環するモデルで、わかりやすく明確な
イメージが持てる理念だと思う。地域重視については、
「地産地消」「スローフード」「マルシュ」「第6次産業」などと
さまざまなことが言われる。しかし、そうしたもろもろは
すべて副次的なもので、核心にあるのはこの3点だと思う。
そして、他は大切なものでも、この全体の中に位置づけられるべきだろう。

 このモデルによって、ワインツーリズムやコミュニティビジネスの
課題を整理し、その全体像や分類などをすることができるのではないか。

 しかし、このモデルは、方向性は明確だが、問題への
回答そのものではないだろう。あくまでも論点を明確にするしかけである。
まだまだ曖昧な点が多く、矛盾もあるように思う。
ただし、それは本書の問題と言うよりも、まだこれらの概念が
生まれたばかりで、混沌としている段階だからしかたない面もあるだろう。

 したがって、このモデルの曖昧さを、自分たちの実践で
はっきりとさせていくべきなのだ。
以下は、本書をヒントにした私見であることを断わっておく。

(3)「社会資本」「地域資源」とは何か ?産業構造の組み換えや統合?

 「社会資本」「地域資源」とは何か。
その地域の自然と社会のすべて、物質面と精神面のすべてが含まれる。
このように本書では言われる。
その中心は産業そのものと、人間の社会関係であると思う。

 地域資源を改めて見直していくことは、産業構造の組み換えや
統合をもたらし、人間関係を作りかえる可能性がある。

 従来の「産業」構造は、1次 → 2次 → 3次 → 4次(情報産業)と
発展してきたが、それは常に前の時代の産業を否定することでの発展であった。
例えば、高度成長期に2次産業と、それを支える3次産業(サービス業)が
急速に伸び、家電製品が家庭に氾濫するようになった。
しかし、それは各地の農村から労働力をひきはがして
過疎化を進めることで成立している。このような否定の仕方もあるし、
他方で共存共栄の止揚のありかたも、本来は可能なはずだ。
しかし、従来は単なる否定が多かった。したがって、産業間の利害関係も
人間相互の対立も根深いものがある。工業化における
資本家と労働者の対立も大きかった。今は、2次、3次産業の
実物経済を否定するような形のマネー資本主義(貨幣そのものを商品とする、
4次の究極の姿)へと進んでいる。
実物経済はマネー資本主義の道具になり下がった。

 実物経済を否定した今の社会は、発展のどん詰まり、
否定の行きついた果てだ。これから先の発展とは何なのだろうか。
これを止揚するとはどういうことなのだろうか。

 それは、今や手段にすぎなくなった、1次に始まった実物経済を、
単なる否定ではなく、価値ある止揚へとするようなあり方だろう。
それまでの各段階が、4次の中で、契機としてそれぞれが有効に機能しているか。

 つまり、再度、1次、2次や3次産業の実物経済、その再編統合によって、
全体を発展させる以外にはないはずだ。それを考える役割が
4次(思考)や3次のサービス業にある。
これが産業構造の組み換えや統合をもたらし、人間関係を作りかえるのだ。

 例えばワインでは、2次のワイナリーは1次の農業(ブドウ農家)と
相互依存しているが、対立関係もある。1次産業はすべてのベースだが、
従来の固定した関係性をそのままにしていて、地域の再生は不可能だ。

 そこでワインツーリズムの登場だ。都会の消費者が、
ワイナリーをまわってワインを楽しみながら、そのワイナリー周辺地域を
散策する。そこに展開されるのは1次産業のぶどう農園であり、
さらには歴史的文化的な観光資源や、地域の産物の店が出店されている。

 つまり、これを企画運営した、笹本さんたちソフトツーリズム(株)や
従来からあった「朝市会」(以上が3次)を中心に、2次のワイナリーが参加し、
さらに1次の農園を取り入れ、そこに地域の自然や歴史財をも取り入れていく。
このことで、従来の産業間の関係や、人間関係が変わってくる。
これが「地域コミュニティの再構築」だと思う。

 この「地域コミュニティの再構築」はもちろん重要だが、
これを本書は次のように説明する。

 これまでは、行政(公)、企業(民)、市民(市民中心のNPO)の
3分類が普通で、相互に対立するか無関心であることが多かった。
しかし、そのすべてがここでは資源に含まれる。
そこに従来の公私を越える、「新たな公共」
(=行政ではなく多様なステイクホルダー)を見ようとする。
複数のセクターが関わるので、それは「協働型社会」になる。
行政主導ではないし、補助金依存でもない。

 しかし、こうした説明では、肝心な産業構造の変化を見られず、
従来の産業間の対立や協同の具体的変化も見えてこない。

(4)「地域」とは何か。 ?地域外部の人間の必要性?

 さて、私のように考えるとき、「地域」とは何か。
それは地図上の地域、その住民だけをさすような閉じた意味の
「地域」ではない。本書でも地域コミュニティとテーマコミュニティ、
地域内と地域外の連携の必要性を強調する。
外部の人間の積極的な関わりこそが必要だからだ。

 本来は、地域資源こそ、その地域の「誇り」であるべきだ。
笹本さんが、自らの地域再生のための運動名を「KOFU Pride」と
名付けたことには、正しい方向性があったことがわかる。

 しかし、その地域の住民が、その資源の資源である価値に
気付いていない場合が多い。例えば、山梨の人間は、
実はワインをあまり飲まない。山梨のフランス料理店、
イタリア料理店においてあるワインは、山梨産ではないことが多い。
ここに「地方」の問題があり、中央指向や「他者本位」の問題がある。
地域資源を評価できるのは、むしろ、東京に出た後に
Uターンした人間であることが多い。

 だから、地域をその地域内の人たちに限定してはならないのだ。
地域を開き、地域外との連携が必要なのだ。ワインツーリズムの場合も、
企画運営にあったのは、そうした人たちだ。会代表の笹本さんも
副代表の大木貴之さん(甲府市内の小カフェーのオーナー)も
山梨出身だがUターン組だし、ワインツーリズムを行った勝沼の住民でもない。
ワイナリーの土屋幸三さん(機山洋酒工業社長)も、家業の跡取り息子だったが、
阪大で学び、企業や国の研究所で働いた上で実家の家業を継いだ。
ワイナリーだが、場所は塩山であり、勝沼のワイナリーにとっては外部者である。

 それにしても、地域の人々自身の地域資源への関心の弱さには、
地方の屈折した思いがある。長く、地方は中央の文化を輸入してきた。
それが劣等感にもなっている。しかし、これからの時代は、
旧来の「中央の高い文化を、文化的に低い地方にもたらす」方向ではダメだろう。
その逆に、地方から中央に新たな価値を発信するものであるべきだろう。
そうでなければ、地域のプライドにはならないだろう。

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