8月 25

週刊『東洋経済』誌(8/14-21合併号)の哲学入門特集で、「社会人・大学生の学習会」の様子が紹介されました。

8月 09

「暴力的平和学習」への代案

私たちの表現指導の研究会は、毎夏全国大会を行っている。自力で行う力はないので、日本作文の会の全国大会に便乗し、その分科会として行っている。

今年は日本作文の会の全国大会【第59回 全国作文教育研究大会(2010年滋賀大会)】が8月5日(木)から7日(土)。その分科会6日、7日に、我々は以下のような報告と討議を行った。会場は近江兄弟社学園。

■発表1 夜間定時制に学ぶ生徒達の詩
―寄りそって十四年―              遠藤 芳男(埼玉)
 貧困や格差、いじめや不登校そして外国籍の子ら。夜間定時制には今日の教育が直面する諸課題がごった煮のように集中している。定時制教師にできる事、それは生徒の成長を願い、生徒一人一人に寄りそう事。「ほんとうの思い」を詩に書いてもらってきたどこにでもいた国語教師の報告。

■発表2 社会参加と書く行為                  草野十四朗(長崎)
 高校生が学校の枠を越えた社会参加に取り組み、社会につながる回路を持ったとき、彼らにとっての表現という行為はどのような意味を持つのか。
 本報告では、平和活動に取り組む高校生たちの文章や口頭表現を取り上げながら、彼らがその活動を通じて、現実認識・他者とのコミュニケーションの取り方・考え方などを、どう形成し、表現したかについて、考察したい。

■発表3 三年後、再びの学習旅行作文指導             宮尾美徳(東京)
 三年前におこなった学習旅行の作文指導に関しては、いろいろな方々から数々の指摘、助言を受けた。今年、再び同じ旅行を引率するに臨んで、それらを活かした作文指導を試みた。はたして三年前よりどれだけ前進したか、生徒作品を紹介し、再びご批判を仰ぎたい。
                                              
私は草野氏(長崎・活水高校)の報告の司会をした。長崎は平和学習の盛んなところだし、活水高校はその中核となっている学校である。しかし、氏は、従来の平和学習への「暴力的平和学習」との批判があることを述べ、それを真摯に受け止めて、その代案を模索している。「暴力的平和学習」とは、その解決策を示すことなく悲惨な事実ばかりを突きつけることで、子どもたちを追いつめ、かえって「戦争賛美」者を生みだしてしまうような学習を言うとの説明だった。

それへの代案の具体的内容とは、生徒の学校外での自主的な社会活動の奨励と、学内での新たな平和学習のカリキュラムの作成だった。高校生が、そうした活動を踏まえて書いた、「不戦の誓い」や志望理由書などが紹介され、その内容や表現、その背景の平和学習の意義について話し合った。

パターン化されたアピール文を打破したものが生まれていた。自分たちの実感にそくした言葉、主体的な取り組みから生まれた言葉が、力強さを感じさせた。

志望理由書は、イスラエルとパレスチナの高校生たちとの交流会で「核が必要だ」と主張され、「核廃絶」「戦争反対」の疑うことのない大前提を、初めて大きく揺さぶられる。また難民キャンプを訪れて、今緊急に必要なのは「平和」への活動ではなく、難民救済のための活動ではないか、と疑う。こうして自分の立ち位置を大きく揺さぶられ、そこから、彼女の新たな問いが生まれていく。

こうした文章を見ていると、ここに平和学習の前進が確かに感じられた。

「暴力的平和学習」とは、その解決策を示すことなく悲惨な事実ばかりを突きつけることで、子どもたちを追いつめ、かえって「戦争賛美」者を生みだしてしまうような学習を言うとの説明だった。

「暴力的平和学習」については、これをより一般的にとらえ返せば、教育一般に言えることではないかと、私は思った。つまり、生徒の主体性や内発性を無視し、教師の側の答えを押しつけるような教育である。その危険性は教育活動に常に、ついてまわる。私たちにできることは、そのことを自覚しながら、生徒の主体性を尊重するための具体的な手だてを作ることだ。自分自身の考えや信念は、それを隠すのではなく、積極的に自説、私見として、その根拠と共に、明示するべきだと思う。しかし、私見を「真理」として「正義」として押しつけてはならないと思う。
 
なお、草野氏は今、活水高校で新たな図書館の理念を実現する活動に取り組んでいる。その新構想の理念の一つで、具体的な設計を担当するのが平湯文夫氏だが、彼がその理念を実現した一つが会場になった近江兄弟社学園だった。それは偶然だが、この機会だから、草野氏とその様子を見学に行った。丁度、できあがった図書館の引っ越し作業中で、平湯文夫氏が立ち会われていて、お話を伺うことができた。
 

8月 09

「自分作り」のための小論文

8月2日、東京で、小論文指導の講演をした。
第一学習社の小論文事業部主催で、東京を中心に関東圏の高校の先生方、約160人ほどが参加された。
タイトルは「「自分作り」のための小論文」。マニュアル化した、ナカミのないものではなく、少しでも、彼らの力になるような指導をしようという趣旨だ。
1時間の講演後、20人ほどの方々と座談会があり、そこではそれぞれの置かれた学校の現状や、悩みなどが率直に出され、意見交換することができた。

講演会で配ったレジュメを以下に掲載しておく。私見の概要はお分かりいただけるだろう。

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☆ 根本問題 「生きる力」を育てるための小論文指導とは何か

テキスト   テキスト テキスト
    マニュアル
問題意識 意見   意見
(問題意識への答え)       意見

? 新学習指導要領
 (1)大きな前進
   1.全教科での言語活動、2.その中心が国語科、3.体験、現場の重視
 (2)現在の教育の課題、国語科の課題
   1.文学と道徳教育
   2.知識が現実と無関係
   3.論理=思考(対立)ではなく、感性・感情(共同体の空気を読む=集団と一体)
 (3)学校全体の教育の構築
   1.学校の課題(生徒一人一人が、本当に必要としている力は何か)
   2.全教科の連携、3年間のスケジュール、

? 今の高校生の課題は何か。
 (1)根本の問題
   1.将来像がなく、親からの自立が進んでいないこと
   2.「自分」に自信がなく、他人に評価されないと不安
 (2)その理由
   1.「豊かな社会」が実現し、社会自体が目標を見失っている
   2.体験の貧弱さ、現実社会の問題の見えにくさ、親子の一体化。
   3.自己決定=自己責任が求められる厳しい社会になったが、
                       それに相応しい教育が行われていない
 (3)対策
   1.教育目標は「自分作り」 「自分探し」ではなく「自分作り」
    「自分」が弱い、または「自分」がないのだから、それを作るしかない
    「自分」とは、自分の問題関心、「問い」、テーマのことである。
   2.方法 どう教育するのか
    個人的な体験を掘り起こす一方で、現実社会(自然も)の問題にぶつからせる
    個人的な体験の意味、現実社会(自然も)の問題の意味を考えさせる
    その問題と、自分の生き方を関係させて、考えさせる
    「自己理解」と「対象理解」の相互関係 対象理解は自己理解のため

? 国語科と他の全教科の関係

  内容=知識 → 国語科以外の全教科
  形式=思考・論理のトレーニング=能力 → 国語科

? 読解指導がすべての前提  
 (1)読解=論理トレーニング
 (2)「文を書くとはどういうことか」を学ぶ
   1.テーマと結論、2.それにもとづく構成、3.文体の選択的使用

? 表現指導
 (1)目的
   目的は、高校生が自分のテーマ、問いを作ること
   「答え」を出すことよりも、「問い」を立てることが重要
   「仮説」は最初は不要。「問い」が立てられればOK

 (2)表現指導の3要素
   1.自分史、経験の作文 描写。小説のような表現
     5W1H、気持ちや感情、思いや考えも書く
     自己相対化、客観的な表現を学ぶ
   2.調査し、取材する文   説明文、意見文 → 「レポート」
    客観的な事実(事件)、統計、図表も
    文献の要約
    フィールドワークと取材 →「聞き書き」
   3.総合する  レポート、意見文 → 論文や小説
      ※???のすべてで、最初は事実レベルの把握、表現から始まる。
       次第に、事実の「意味」の叙述を加えていく。
      
 (3)表現指導の系統案
   1年 自分(生活経験)→ 仕事、家族史(戦争体験) → レポート
   2年 自分史 → 関心のある社会問題、自然科学 → 論文
   3年 自分(進路、進学) → 進路、進学に関係する社会問題、自然科学
                        → 志望理由書、小論文など
 (4)文体の教育
   1.描写    ※この発展形が物語や小説
   2.説明文 →意見文   ※この発展形が小論文・論文

? 教師の課題
 (1)課題
   1.表現のどこに課題を見いだし、次の指導につなげるか
    対象への認識、自己への認識の深まりをどう理解するか
    それには、論理的な理解と指導が不可欠
   2.「きれいごと」をどう排除し、「問い」を立てるか

 (2)教師の自己研修が不可欠
    実際の生徒作品をたくさん読み合いながら、先行者から学ぶしかない
     ※学校内部、国語科内部での学習会や外部の研修(鶏鳴学園や作文研究会)

【参考文献  中井浩一著『日本語論理トレーニング』(講談社現代新書)、『脱マニュアル小論文』(大修館書店) 】

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7月 28

週刊「教育資料」2010年7月26日号で以下を書きました。

進む親子の一体化/鶏鳴学園代表 中井浩一/

裏テーマ(親からの自立)
毎年梅雨のこの季節になると、私の塾では受験生の親たちの保護者会を開催する。テーマはもちろん「進路・進学」の問題である。
 今、学校や大学では「キャリア教育」が盛んになっている。進路・進学指導に力が入れられ、職場訪問や職業人への取材なども行われるようになってきた。しかし、この問題には実は、「裏テーマ」があると思う。その隠されたテーマとは「親からの自立」である。現代は、親の過干渉、子どもの依存がますます深刻になっている。弊塾でも、高三生にもなって、遅刻や欠席の連絡を母親がしてくるケースが多い。これをどう考えたらよいのだろうか。

親子の一体化
現代は離婚率が増え、格差も広がり、エリート社会に所属はしても「うつ病」で引きこもっている父親など、複雑な事情を抱えた家庭が増えている。しかし「親子の一体化」は、一部の家庭ではなく、すべての家庭に広がっている問題だと思う。
 例えば、急増するモンスターペアレンツの背景には、明らかにこの問題があるように思う。盛んに報道されている「子どもの親殺し」「親の子ども殺し(児童虐待や育児放棄)」にも、この問題が横たわっているだろう。
 昔から「わが子」という言い方があった。親にとって子どもは自分の所有物のように感じられるようだ。「他者」が入ることのない一体の関係。これは無償の愛ともなるのだが、自他の区別がなく、子どもが別人格であることを理解しないことにもなる。現代はこうした親子の一体化、共依存関係が進行しているために、子どもの親離れ、親の子離れが極めて困難になっているのではないか。
 他方で、この数年でビジネスマンの父親をターゲットにした子育て情報雑誌が多数出版されるようになった。経済紙誌の「お受験キッズ誌」だ。私立中高一貫校の受験に成功した子どもの家庭を紹介し、受験情報を提供する。
 これは児童虐待とは正反対のあり方に思われる。しかし、親子一体の強化という意味では同じ事態が進んでいるのではないか。これまでの母子一体化に父親までが加わったのだ。母子一体化を壊す役割は、本来は「他者(社会)」を代表する父親が担っていた。その父親までが家庭の一体化に加担してしまうと、そこには「他者」がいなくなってしまう。
 
「自分探し」から「自分作り」へ
 若者のフリーター、ニートが急増していることが話題になって久しいが、それももちろんこの問題と関係するだろう。
学校では「個性」の教育を強め、「自分探し」をさせることが流行っているようだ。しかし「自分『探し』」とは不適切な言葉だ。それは自己理解を内化によって成し遂げられるというメッセージになってしまう。本来は「自分『作り』」が正しい。つまり、人は社会で自分を外化し、それによって初めて内化も可能になる。つまり、自己理解とは、自分が社会でどのような役割をはたせるか、自分の労働の意味を考えることと切り離せず、それは自分を「社会の働き手」「労働力」として「作る」ことを意識しない限り不可能だろう。
 「自分探し」しかできない子どもと、子どもの自立を促せないでいる親子関係は一対のものなのではないか。

「他者」としての父親の役割
 弊塾の保護者会では、私はこうした私の危機感をお話しする。私自身が「他者」代表として、閉じた家庭に社会の風を送り込みたいからだ。そして次のプリントを配布する。

(1)高校三年生の課題
子どもの親離れ=親からの自立=親のではなく自分自身の夢・テーマを持って生きること
(2)親の課題
 親の子離れ=子どもを生き甲斐にすることを止め、自分の人生を生き始めること。
 特に母親と子どもの関係が問題。母子一体の関係を断ち切る役割は、父親に求められる。
(3)親子で進路・進学についての十分な意見交換をする。
 親は、子どもに望むことを率直に伝えてよい。しかし、一番肝心なことは、親が自分自身の進路・進学。仕事の経験を語ること。
(4)最終決定は本人に委ねる。

 子どもの自立をうながすためには、親が正面から子どもと向き合うべきだ。親には、自分の「本音」を、自分自身の経験に即して語ってもらいたい。特に父親には、職場で何が問題になっているのか。その職場から見える日本の問題とは何か。それを語ってほしい。現代は激動の時代なのだから、それを肌で感じている親が、それを語るべきだ。時代はすでに、両親の育ったような社会ではない。そして、「母子一体化」に切れ目を入れるのは、何よりも父親の役割だという自覚をもってほしいのだ。 
もちろん複雑な家庭も多い。だからこそ、学校や塾、地域の大人たちが、「他者」としてできることを引き受けていきたいと思う。 (2010年7月13日)

7月 15

新しい学習指導要領では「全教科での言語活動」「その中心の国語科」が謳われている。
その実際の実現のための提言を月刊『高校教育』に連載している。

8月号の 第5回 言語教育を育成する教育
         木下是雄氏と「学習院言語技術の会」から学ぶ 

1.温故知新 過去から学べ
新しい学習指導要領では、全教科での「言語活動」の充実がうたわれた。これによって、「言語活動」が教育の中心に取り上げられ、あわせて国語科の意味が正面から問われることになった。これは画期的なことである。
「言語活動」に関しては、さまざまな実践が行われてきたが、従来の国語科への批判から生まれたものとしては、木下是雄氏の『理科系の作文技術』と彼を中心とする「学習院言語技術の会」の活動が挙げられよう。
教育の歴史をながめると、過去の歴史が生かされていないことを痛感する。詰め込み教育から「ゆとり教育」への転換と「総合的な学習の時間」の導入、学力低下論争以降の揺れ戻し。一体この騒ぎは何だったのだろうか。同じような事は戦後すぐに導入された「新教育」をめぐる対応でも起こり、その後も何回か同じ事が繰り返されてきた。しかし、いっこうにそうしたことから学習していないように思われる。
今回も、「言語活動」の充実を言うのなら、まずは、木下是雄氏と「学習院言語技術の会」(「言語技術の会」の表記する)が残した仕事を学ぶことから始めたい。

2.木下是雄氏と「学習院言語技術の会」
物理学者で学習院大学教授だった木下是雄氏が当時の学習院大学院長に言語技術教育の必要性を答申したのが一九七七年。彼は学会での研究発表や論文の作成で、諸外国の研究者に比べて、日本の若手の能力不足を痛感していた。「読み・書き、話し・聞き、考える」。このすべてで、小学校からしっかりした論理教育を行うべきだ。しかし日本ではそうした教育が放置されている。国語科は文学偏重でその任を果たしていない。したがって、理科系の研究者である彼が、自ら言語教育に乗り出したのである。
木下は、その問題意識を共有する学習院の小学校から大学までの先生方(国語科・国文学、文系だけではなく教科横断)と「学習院言語技術の会」を組織し、小学校から高校までの一貫した言語教育の教科書を作った。学習院内の各学校のすべての教科でそのテキストが使用され、一貫した言語技術教育が行われることを希望したのだ。
このテキストは小学校用が二冊、中学、高校用に各一冊。この計四冊が一九八〇年から八八年までに刊行されている。この間に、木下氏は八一年には『理科系の作文技術』(中公新書)を、九〇年には『レポートの組み立て方』(ちくまライブラリー)を刊行している。

3.言語技術の教科書
 この教科書の目次を見てみよう。木下氏が強調している「事実と意見の区別」「パラグラフ理論」「レポートの書き方」などはすべてに含まれている。中学用ではさらに「人前で話す(スピーチ)」「話を聞き取る」「説得をする」「討論をする」「図書館で調べる」「速読に慣れる」などの項目が並ぶ。高校用では「新聞を読む」「ノートをとる」「資料の使い方」「ディベート」「会議運営の原則」などが並ぶ。
 これらを通読して、私は強い感動を覚えた。ここには、中学生、高校生に必要なあらゆる言語活動が網羅されているのではないか。これにネット社会に必要な技術を追加すれば、現代でも十分に通用する。否、今もこれを越えるレベルの教科書は生まれていないのではないか。
 私が一番感心するのは、これらのテキストが、多様な言語活動を一つの原則で貫いていることだ。それは木下氏の根本原則である、「事実と意見の区別」「パラグラフ理論」であり、「レポートの書き方」で強調される文章作成法である。他にも言語活動に打ち込んでいるところはあっても、個々の活動がバラバラに指導されているのが普通ではないか。「読み・書き、話し・聞き、考える」。このすべてで、一貫した教育が行われることの意味は大きいはずだ。
本誌の読者の方々が、これから言語活動を導入するにあたって、または従来の活動を反省する際に、これらのテキストは大いに役立つだろう。実は、私自身がこのテキストで自己反省を行ったのだ。私の塾では「生きる力」の習得を看板に掲げ、そのために必要なあらゆる言語活動を学習することを組織してきた。その方法を、これらテキストから、もう一度再点検をすることになった。
学ぶことは多かった。一部不十分な点があると考えて、この連載でもそれを指摘し代案を提示したが、それは木下氏の方法をさらに発展させるためであることに、留意していただきたい。
しかし、学ぶのは、直接的なことだけではない。木下氏たちが取り組もうとした課題の大きさ、その困難さをも、しっかりと受け止めたいものだ。これだけの教科書を用意した学習院で、このテキストは実際にはどう扱われてきたのか。経過を省き、現状だけを述べれば、それは全教科での一貫した言語教育にはほど遠い。テキストは小学校、中学、高校で全生徒に配布されてはいるものの、高校ではその授業は行われておらず、中学でも一部の生成方が使用するだけだ。これだけの努力を傾注した学習院ですらそうなのだ。そこにそびえる壁の大きさが推測できよう。しかし、それに取り組めなければ、今回の学習指導要領も、ただのかけ声だけに終わるだろう。
教科書編纂に関わったある先生は、「このテキストを使用した教育は、学習院よりも、他で行われ、そこで深化されているのかも知れません」という。

4.学ぶこと
さて、私が『理科系の作文技術』や「言語技術の会」の教科書から学んだこと、改めて再確認したことを以下にまとめておく。またいくつかの点については小さな問題提起をしておいた。少しでも参考にしていただければ幸いだ。

(1)文章のまとめかた
木下氏は、最初にイイタイコト(結論)を「目標規定文」にまとめ、「その目標に収束するように文章全体の構想を練ること」を求める。これは、文章の基本中の基本であり、すぐれた書き手の多くが同じ事を述べている。例えば、哲学者の牧野紀之氏は「結論がすべてを支配する文」と定式化しているが、全く同じ事を言っていると思う。ただし、この基本の正しさだけではない。「言語技術の会」のすばらしさは、この方法をあらゆる言語活動で貫こうとした点にある。弊塾でも、この原則を文章、口頭発表、スピーチ、取材などのすべてで求めている。
ここで、一つ注をつけたい。この方法は基本中の基本だが、前提があることに注意すべきだ。それは対象を十分に捉えきっており、結論が出せる段階になっていることだ。そうでなければ、こうした方法で生まれる文章の多くは表面的なものになりやすい。対象と深く切り結んでいない場合には、まずは実際に対象にぶつかるように求めるしかない。つまり現場に行き、取材させることである。
「『主観的感想』を入れるな」という指示についても同じで、自分の考えがまだ漠然としているような段階では、「主観的感想」こそが、意見を作り出すためのヒントになる。
なお、木下氏はこの「目標規定文」を「主題(文)」と名付けるが、「結論(イイタイコト)」の方がわかりやすいと思う。

(2)テーマ設定、テーマの絞り込み
 レポート作成で、木下氏が力を入れているのは、作業の一番最初の段階であるテーマ設定である。これは本連載で取り上げた海城学園の社会科でも、川北氏の総合学習「環境学」でも同じだ。高校生は大きなテーマを選びたがるが、小さく具体的で、できれば身近な経験から検証可能なテーマに絞りたい。すでに述べたように、対象にどのテーマを選択するかと同時に、なぜそのテーマを選ぶのかの、自己理解が重要である。テーマ設定に成功した場合は、半ばは終わったようなものだ。教師の力量は、ここで試される。
 なお、このテーマ設定で、木下氏は「課題」からのテーマの絞り込みを「話題」と表現するが、「テーマ(問題)」の方が良いと思う。

(3)事実と意見の区別
木下氏たちは、事実と意見の区別の学習をすべての基礎としている。これは正しいと思う。なぜなら、私たちが目にするすべての記述には、事実と意見の両面があり、その多くでは両者が渾然一体となっているからだ。
だから、まずはこの二つを切り離すことが必要になる。事実だけのように見えて、秘かに主張が忍び込まされている場合もある。反対に、根拠のある意見のように見えても、実際は根拠が弱い場合もある。テキストには、誰のどのような意見があるのか、その意見はどのような事実にどれだけの必然性で支えられているか。
与えられたテキストで、事実と意見を区別するのは、書き手が事実のどの面を取り上げ、それをどの立場から考えているかを分析するためだ。その作業をする中で、事実の他の面は何か、他の立場とは何かを意識的に考えていく。これが「批判的に読む」ことになる。
事実と意見を切り離すのは、両者を再度、自分自身の視点から結び合わせるためなのだ。それが自分の「思想」になっていくから。
「言語技術の会」の教科書では、新聞記事を取り上げ、「新聞を批判的に読む」ことを実践させている。
ここで、注意したいのは、事実と意見を区別する作業は、実際は果てのない作業になると言うことだ。どんな事実も、それを取り上げた書き手の視点から切り取られたものだ。事実を追いつめようとすると、事実は限りなく消えて行く。そうしたことまでをわきまえながらも、やはり事実と意見の区別の練習をすることが重要だ。これはテレビやネットでの報道などにまで広げて練習させたい。
なお、この事実と意見の「意見」とは「主観的感想」を入れないのだろうか。これは当然含まれているだろう。事実を書き手がどう意識したか、それが「事実」と切り離した側に残されるものになる。

(4)パラグラフ理論
これは有名だし、私もこうした考え方を以前から使って読解の授業をしている。注としては、文系の評論では、段落内部に傍流や逆説があることも多いという事実をあげておきたい。また、木下氏も段落相互の関係を問題にするが、その「立体的」関係を意識していないことを挙げておく。私は各段落の冒頭の一文、冒頭の言葉(特に接続詞)、ラストの一文を意識すれば、各段落のトピックセンテンスだけではなく、全体の立体的構成がわかる、と指導している。この点については拙著『日本語論理トレーニング』(講談社現代新書)の第八章を参照していただきたい。