12月 28

2021年が終わります。
読者の皆さんにとって、どのような1年でしたか。

コロナ感染症が2年目の今年も社会全体を支配し、その中でオリンピックが強行され、あいかわらず滅茶苦茶なことが、無理やりに通ってしまうことが多かった。
コロナ感染症は、私たちの社会の問題をくっきりと示してくれました。

私個人にとっては、マルクスについての本を刊行するための作業に打ち込んだ1年となりました。
2022年1月下旬に『現代に生きるマルクス』が社会評論社から刊行されます。
サブタイトルは「思想の限界と超克をヘーゲルの発展から考える」。
A5判並製、290ページほど。本体価格2500円(予定)です。

マルクスの思想、唯物弁証法、唯物史観を検討する本を出すことは、2020年に『ヘーゲル哲学の読み方』(詳しくはメルマガ392号参照)を刊行する時に、次はマルクスと決めてありました。その準備もこの数年で進んでいましたし、今年の春には原稿を書き上げられる予定でした。
それが、ほぼ今年1年、この原稿とひたすら向き合うことになったのです。

その意味は、すでに「おわりに」に書いたので、それを読んでいただきたいと思います。

へとへとになりましたが、今のベストはつくしました。
私の課題ははっきりと見えていますから、少し休み、態勢を整えて、それに取り組んでいきたいと思います。

今回のメルマガに『現代に生きるマルクス』の目次と、後書きに当たる「おわりに」の一部を掲載します。
関心を持っていただけた方は、是非『現代に生きるマルクス』を読んでください。

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目次

はじめに

?章 理想と現実の間 ヘーゲルとマルクスの間
?章 存在は運動し、自らの本質を外に現わす。だから認識はそれを見ているだけで良い。
?章 マルクスの人生  ?『経済学批判』への序言から?
?章 若きマルクスの闘い 「フォイエルバッハ・テーゼ」 
?章 唯物史観
?章 「経済学の方法」(「経済学批判序説」の第三章)
?章 時代の限界と時代を超えること

おわりに

付論 ヘーゲル哲学は本当に「観念論」だろうか

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「おわりに」


 本書の原稿は2021年1月に完成する予定だった。すでに30年以上マルクスについて学習してきており、この3年ほどはマルクスの唯物史観や資本論について中井ゼミで集中的に取り上げて考えてきた。マルクスの思想について書くべきことはすでに固まっていて、それを書くだけのつもりだった。前著『ヘーゲル哲学の読み方』を書く時に、次の本はマルクスと決めてあり、その準備を進めてあったのだ。しかし1月に終わるはずの原稿執筆が3月にのび、5月になり、夏の終わりに伸び、そして10月までずれ込んでしまった。これは当初は考えられなかったことだ。

 自分の考えの根本は変わっていないマルクスの思想はフォイエルバッハとヘーゲル哲学を二つを中心点とする楕円運動だと考えている。しかしいくつかの点で私には不十分な点があった。
一つはマルクスの人生において、1848年の革命の挫折の前後の転換について重く考えるようになった。これは、マルクスの思想の発展をどうとらえるかという問題、前期のマルクスと後期のマルクスをどう関係させてとらえるかという問題、「初期マルクス」の理解の問題に関係する。
 そこで、マルクスの人生とその時代背景を改めて学習した。そのために、城塚登『若きマルクスの思想』、廣松渉『唯物史観の原像』、吉本隆明『カール・マルクス』などを読み、そこで示されている参考文献などをながめた。
また、いわゆる「初期マルクス」のテキストである『ユダヤ人問題によせて』『ヘーゲル法哲学批判序説』『経済学・哲学草稿』『ドイツ・イデオロギー』などを読み直した。
こうした作業のために時間がかかったのだが、それだけではない。

 本書は私の30代までの人生の総括になった。
 私は「マルクス主義者」ではないし、かつて一度もそうであったこともない。むしろ20代には、その政治主義に反発し、それと違うところから、もっと生活の根本、意識の根底から世界を変えることを考えていた。当時の私は政治闘争や経済の問題には関心がなく、文化の革命に専ら関心があった。それはライヒの『性と文化の革命』やカール・ロジャースの人間関係論、身体や心のひらき方、エコロジー運動や共同体運動である。しかしこうした運動に行き詰まり限界を感じた時に、私の前に見えてきたのがヘーゲルとマルクスの世界であった。そして牧野紀之の下での修業が始まった。
 しかし今思うのは、1960年代70年代に学生だった若者達にとって、マルクス主義に賛成であろうが反対であろうが、または全くの無関心であっても、大きな違いはない。すべてがマルクスが設定した枠の中にあったと思うようになった。 事実としてそうであった。本書では、その枠組みそれ自体を相対化し、その全体をはっきりと確認し、それを吟味したいと考えた
それを強く意識し始めたとき私の筆は止まった。10代20代の私自身の姿が浮かんできた。
 60年代70年代の世界の動乱が思い出された。学生紛争が生活の日常の中にあった。大学は封鎖され、教授連が壇上に並ばされ、吊し上げられる。中国の文化大革命の小型版がどこでも無数に繰り返された。
左翼の内部で共産党系と新左翼の対立があり、内ゲバで頭をかち割られた知人がいた。その最果ての連合赤軍事件。
 「アメリカ帝国主義」のベトナム戦争への反対運動があった。世界中に起こった反乱や共同体運動。性の解放、女性の解放。左翼だけではなく右翼の動きもあり三島由紀夫の割腹自殺もあった。
 私は自分の20代の挫折に区切りをつけ、次のステージに進むために牧野紀之の下でヘーゲル、マルクスを学習した。牧野は『先生を選べ』の原則を厳しく追及するように方向転換し、その成果を下にして、「自然生活運動」を試みた。それはマルクスが打ち出した、私有財産の止揚、精神労働と肉体労働の止揚、「一つ財布の共同生活」の実施を目標としたが、それをヘーゲルの発展の立場からそのレベルで実行しようとするものだった。しかしそれは2年ももたずにあっけなく崩壊し失敗に終わった。それは、1990年4月から92年のの3月までであり、私の30代後半の2年間である。その総括は牧野にはできていないので、私がしなければならない。その課題の前で私はたじろいだのである。
 それらを強く意識し、それに向けて答えることを目標の一つとして本書を書き上げた。まだまだ不十分だが、今の自分の力は尽くした。

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 2001年に『ヘーゲル哲学の読み方』を刊行した。これから私が自分の考えを展開していくために、その全ての基礎として最初はどうしてもヘーゲル哲学について書かなければならない。そこに私の立場を示さなければならないと、思い定めていた。そしてその次はマルクスの唯物弁証法と唯物史観を書くと決めていた。
 ヘーゲルとマルクスの二人の思想が私にとっての大前提であり、そこから自分の考えを少しずつ作ってきたからである。この2人についての私の立ち位置を示した後で、やっと各論を展開できる。

 ヘーゲルの弁証法とは、一言で言えば、発展の立場であり、その方法と能力である。この発展とは何かという問いに答えを出すことが、ヘーゲルの目的だったし、私の目的でもある。そしてその発展の立場から、マルクスの唯物史観を考えると、そこによくわからないものが出て来るのだ。
 一番大きいのはヘーゲル哲学が観念論だというものだ。
 さらに、マルクスの上部構造を下部構造が規定するという命題も、よくわからない。これはヘーゲルの前提と定立の関係から考えなければならないし、絶対的真理観から考えなければならないと考えた。
 そうした大きな観点とは別に私が一番考えたのは、マルクスの唯物史観の定式5の叙述である。ここは革命成功の条件を発展の立場からとらえており、私には最も重要な箇所に思える。しかし、ここがわかりにくい。比喩ばかりで、きちんとした説明になっていないように思う。
 私は、それをもっとわかりやすく表現するための代案をアレコレと考えたのだが、その結果、発展について理解が深まったと思う。それをまとめたのが本書?章3節の(5)である。
それらはすべて前著『ヘーゲル哲学の読み方』の中に出しておいた(例えば第?部第4節や第?部第5章)。本書での主張の伏線のつもりであった。これは私自身の発展観をつくる上での礎になった

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 付論「ヘーゲル哲学は本当に『観念論』だろうか」は10年ほど前に執筆し、中井ゼミのメルマガに発表した文章である。
 これは私にとって思い出深いものである。ここで初めてマルクスに対する私の立ち位置が定まったと思うからだ。
 私が牧野紀之のもとでヘーゲルとマルクスを学んでいた時に、1つの疑問が私の中にあった。それは、マルクスによるヘーゲル批判で、ヘーゲル哲学は「観念論」であり、「逆立ち」しているというものだった。これは牧野の学習会では大前提であり、疑う余地のないこととされていた。しかし私は最初から、何かもやもやするものがあり、いつも納得できなかった。腑に落ちないのだ。しかし、誰ひとりそれに疑問を出す人はいない。私も自分のもやもやを言語化できない。どこにどう納得できないのかすら、最初はわからなかった。しかし、その違和感は強く、その疑問はいつもついてまわった。だんだんとおかしさが明確になっていった。まず「逆立ち」している、といった物言いが、いかにもバカっぽい表現に思った。真っ当な批判ではない。それならば、ヘーゲル哲学は「観念論」だ、という物言いも同じほどのバカっぽさがそこにあるのではないか。自分の答えが出たのが、50歳になるころだった。その考えをまとめたのが、この付論である。
 それからもう10年になるが、この10年はここに潜在的にあったものを明確な形で示すための時間だった。
 この付論が基礎となって、そこに潜在的にあったものが、やっと本書の形にまでまとまった。そして、今回のこの本が今後の研究のための基礎となる。


 本年2021年には、斎藤幸平氏の『人新世の「資本論」』がベストセラーになり、話題となった。環境危機とマルクスを結び付けた本だ。マルクス本がベストセラーになるのはいつ以来になるだろうか。
 この本に大きな反響があったのは、地球温暖化対策としてのCO?排出量の規制の運動の国際的高まり、「持続可能な開発目標」やSDGsへの強烈な批判があったからだろう。それは「アヘン」であり、真の解決策へと向かうことの障害となる。そしてそれを超える、真の環境保護運動のあり方を、正面から問題にしたことが大きな反響の理由だろう。
 こうした斎藤氏の主張には私も同感である。ただし、SDGsの立場やCO?削減を強引に推し進める立場の本質が何かを、その生成とここまでの展開の中で、具体的に明らかにしたいと思う。その政治的、経済的立場、社会関係の中での立場が何か。その限界と、それを超える運動が生まれる必然性とその条件を示したいからだ。
 この本の反響が大きかったもう1つのポイントは、マルクスがその最晩年に、成長経済至上主義を引っ込め、エコロジーと共同体の思想に大きく転換していたという主張である。
これも内容としては、そういう可能性はあると思う。しかしan sich(潜在的可能性)をただちにfuer sich(顕在化した思想)とは言えないだろう。
 もし、マルクスにそうした考えの転換、変更があったとしよう。そこでの私の関心は、そうした内容よりも、そうした場合の革命運動の指導者の責任の問題にまず向かう。
社会運動のリーダーの責任とは、思想における重要な変化や変更があった場合には、それを公表することではないか。なぜ公表できなかったのか。自分の研究ノートや手紙は、公的なものではない。『共産党宣言』のロシア語版の前書きにちょこっと書くのでは到底その責任はとれない。以前の考えに現在の考えを対置し、その違いの意味を説明するのが、革命運動の指導者の最低限の義務であり、思想者に必要な誠実さではないだろうか。こうしたことがマルクスとエンゲルスには弱すぎる。
 斎藤氏に、こうしたマルクスへの批判がないことが気になる。なぜなら、これは民主主義の問題の核心に関わるからだ。共同体を無条件に良しとするわけにはいかない。その中での個人のあり方が問われるからだ。近代以前の共同体には個人が存在しなかった。個人の出現は近代の資本主義社会と結びつく。しかし、個人がいると悪の問題が起こり、社会内部の対立・闘争が必然的に起こってくる。これに組織は、共同体はどう対応できるか。これが民主主義の問題だが、そこでは情報の公開と共有が不可欠だろう。
 また唯物史観や唯物弁証法について、私有財産、分業、国家について、斎藤氏はどう考えているのだろうか。

(以下略)

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12月 12

来年2022年1月から3月の中井ゼミの日程が決まりました。

いずれも日曜日で、午後2時開始予定です。
ただし、変更があり得ますから、確認をしてください。

月の前半は、文章ゼミ+「現実と闘う時間」を行い、
月の後半では、読書会+「現実と闘う時間」を行う予定です。

「現実と闘う時間」は、参加者の現状報告と意見交換を行うものです。

参加希望者は今からスケジュールに入れておいてください。また、早めに申し込みをしてください。
遠距離の方や多忙な方のために、ウェブでの参加も可能にしました。申し込み時点でウェブ参加の希望を伝えてください。

ただし、参加には条件があります。

参加費は1回2000円です。

1月
 9日
 23日

2月
 6日
 20日

3月
 6日
 20日

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読書会テキスト

(1)1月23日、2月20日はプラトンの『国家』岩波文庫 上下巻

政治家は哲学者でなければならない。
私有財産も、家族も、持ってはならない。
それはどういう意味でしょうか。

タイトルは「共和国」(今でいえば「民主主義国家」)であり、サブタイトルは「正義について」です。

「弁証法」とはヘーゲル、マルクスで有名になりましたが、もともとはプラトンが展開したソクラテスの対話法から生まれた言葉です。

この本は以前から、いつか読みたいと思いながら、手が出せませんでした。
今なら、何とか勝負に持ち込めそうだと思います。
とても楽しみにしています。

大部であり、丁寧に考えたいので、2回で読みます。
1月は上巻、2月は下巻を範囲とします。

(2)3月20日はエンゲルス『家族、私有財産および国家の起源』国民文庫

タイトルの通りの内容です。
家族、私有財産、国家について考えるための古典であり、議論の前提となる本です。

人類史の中で、個人が個人としてどのように生まれたのか、
それは家族から生まれた、家族と共同体との対立と協同の中から生まれたとエンゲルスは考えています。
これも検討したい論点です。

12月 10

昨日、大倉集古館「生誕120年記念 篁牛人展 昭和水墨画壇の鬼才」を見てきました。

お薦めします。

ホームページには、以下の紹介がありました。
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孤独と酒を最良の友とした異色の水墨画家・篁牛人(1901?1984)。

特定の師につくことも美術団体に属すこともなく、芸術に至上の価値を置く自由奔放な生きざまを貫いた孤高の画家であった牛人は、「渇筆」という技法(渇いた筆などで麻紙に擦り込むように墨を定着させる)によって、独自の水墨画の世界を開拓しました。

大胆さと繊細さを併せ持つ渇筆は、細くたおやかな筆線と共存し、中間色層が極端に少ない白と黒の画面の中で、デフォルメされた特異な形態表現が不思議な緊張感をみなぎらせます。

本展では、牛人の画業を三章に分けて構成し、水墨画の大作を中心として、初期の図案制作に関連する作品なども含め、水墨画の鬼才・篁牛人の世界をあまさず紹介します。
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また、この展覧会を記念して、
「市川慎 箏コンサート」があり、尺八の小湊昭尚氏も助演。
現代曲がとてもよかった。
私にとっては、これはジャズのセッションでした。

10月 15

先に、10月の読書会のテキストとしてプラトンの『国家』(上下巻 岩波文庫)を取り上げることをお伝えしました。

しかし、その前に、牧野紀之氏の以下のテキストを読むことにします。

プラトンが理想社会として出している、私有財産、家族の廃止、政治は哲学者こそが行わなければならない、といった理念を検討する前に、
マルクスが打ち出した、私有財産の止揚、分業の止揚、 共同体と共同生活、国家の止揚、唯物史観では政治は誰が行うのか、などについて、考えておいた方がよく、
このマルクスの理想を、運動の到達目標ではなく、運動において、今、ここで実現すべきこととして打ち出した牧野さんの考えを、
まずは検討しておく必要があると思うからです。

ですから、今月はそれを先に行います。

テキストは以下の5つとします。
(1)「牧野道場の規約」
(2)「問答式・牧野道場案内」
この2つは『ヘーゲルと自然生活運動』に収録

(3)道場の3原則
(4)生活の4原則
(5)討論の5原則
以上の3つは『先生を選べ』に収録

いずれも、参加希望者にはお渡ししますから、申し出てください。

10月 06

10月の読書会のテキストが決まりました。

10月24日の読書会では、プラトンの『国家』(上下巻 岩波文庫)を読みます。

政治家は哲学者でなければならない。
私有財産も、家族も、持ってはならない。
それはどういう意味でしょうか。

タイトルは「共和国」であり、サブタイトルは「正義について」です。

この本は以前から、いつか読みたいと思いながら、手が出せませんでした。
今なら、何とか勝負に持ち込めそうだと思います。
とても楽しみにしています。

1回で終わるかどうかはわかりません。
場合によっては11月も、この本にあてます。
政治家は哲学者でなければならない。
私有財産も、家族も、持ってはならない。

関心のある方はメールをください。

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10月以降の中井ゼミの日程は以下です。

月の前半は、文章ゼミ+「現実と闘う時間」を行い、
月の後半では、読書会を行う予定です。
いずれも日曜日で、午後2時開始予定です。
オンラインでの実施予定

「現実と闘う時間」は、参加者の現状報告と意見交換を行うものです。

参加希望者は今からスケジュールに入れておいてください。また、早めに申し込みをしてください。
ただし、参加には条件があります。

参加費は1回2000円です。

10月
 10日
 24日

11月
  7日
 21日

12月
  5日
 19日