6月 05

6月以降の読書会と文章ゼミの日程はすでにお知らせしたように、以下です。
いずれも午後5時開始。料金3千円(文ゼミのみの場合は2千円)。場所は鶏鳴学園です。

6月8日 読書会と「現実と闘う時間」 
6月22日 文ゼミと「現実と闘う時間」
7月6日 読書会と「現実と闘う時間」 
7月20日 文ゼミと「現実と闘う時間」

7月の読書会テキストが決まりました。

7月の読書会では、さらにマルクスの方法について考えるために、牧野紀之と許萬元の以下の3つのテキストを読みます。
現代日本の研究者で、ヘーゲルやマルクスについて考える時に参考になるのは、牧野紀之と許萬元の2人だけだと思います。

 牧野紀之「許萬元のヘーゲル追考論」(A4で11ページほど)
 許萬元の『ヘーゲル弁証法の本質』から第3編「マルクス弁証法の本質」(35ページほど)
 許萬元の『認識論としての弁証法』第3編の?「学的認識の論理」(50ページほど)
を読みます。

 許萬元の2冊は品切れになっているようです。図書館でコピーしてもいいですし、購入したければ、古書として青木書店版か創風社版で入手できます。
 牧野のテキストは、参加者にはお渡しします。

5月 17

2010年から、私のゼミで関口存男の冠詞論と取り組んできた。不定冠詞論から始めて、定冠詞論をこの4月に読み終えた。
 この世界一の言語学から学んだことをまとめておく。
 
1.名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―  中井浩一
2.判断の「ある」と存在の「ある」の関係 中井浩一

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判断の「ある」と存在の「ある」の関係
                     中井浩一
目次
1.問い
2.判断とは名詞が主語と述語部に分裂すること
3.存在の「ある」
4.存在の「ある」から判断の「ある」が生まれた →本日5月17日
5.すべての動詞は名詞の分裂から生まれた →本日5月17日
6.判断の「ある」と存在の「ある」についての関口存男の意見 →本日5月17日 

                                    
4.存在の「ある」から判断の「ある」が生まれた

ではこの存在の「ある」は、判断の「ある」とどう関係するのか。
上記の判断の形式は、結局、存在の「ある」から生まれた、というのが私見である。

Die Blume ist rot.    この花はある 赤い(赤く、赤)。 
Die Blume ist shoen.  この花はある きれいだ(きれい)。
Die Blume ist klein.   この花はある 小さい(小さく)。
Die Blume ist ein Rose. この花はある バラ。 

Die Blume ist(「この花は(が)ある」)とはDie Blume (「この花」)と同一なのだ。
そして、「この花」から外化した、「赤い」「きれい」「小さい」「バラ」などの諸性質、本質を「この花は(が)ある」の外に外化させる。これが判断の形式だ。
存在の「ある」を入れることで、分裂と外化を明示しているとも考えられる。
さきに、「ある」には具体的な内実はなく、その上に付け加わる「赤い」「きれい」「小さい」「バラ」によって初めて具体的な諸性質が表されると述べた。これは、「ある」がその次に具体的な諸性質を誘導する役割を果たしているとも考えられる。
だから、極端に言えば、判断の「ある」はなくてもよいのである。事実、これがなく、主語と述語部をぶっつけて置く言語(ロシア語)があることを、世界的ドイツ語学者の関口存男は示している(『不定冠詞』249ページ)。

なお、日本語の場合を考えると、日本語の判断では「ある」が最後に置かれることだけが、西欧語と違うことがわかる。
この花はある バラ。と表現する西欧語に対して、
この花は バラ である。と表現するのが日本語なのだ。「この花」と「ある」の間に、「バラ」「赤い」「小さい」などを入れてしまうのだ。
 外にぶつける西欧語と、内に含みこもうとする日本語の違いだ。

                                     
5.すべての動詞は名詞の分裂から生まれた

 今、特別な動詞「ある」について考えたが、他の動詞はどうなのか。

(5)Die Blume ist.
(6)Die Blume riecht.
(7)Diese Blume zieht Leute an.

(6)この花はにおう。
(7)この花は人を引き付ける 

(6)と(7)の動詞、動詞部分も、実は「ある」と同じなのだ。つまり、「この花」の諸性質が外化したものでしかない。普通はこれを判断とは呼ばないが、実は同じ分裂が起こっているのだ。ここからわかるのは、動詞であろうが、形容詞や名詞であろうが、述語部に来るすべての品詞は、主語に置かれた名詞からその諸性質として外化したものでしかないのだ。その意味では、動詞は決して特別なものではないのだ。

                                        
6.判断の「ある」と存在の「ある」についての関口存男の意見

関口存男は、判断の「ある」と存在の「ある」について『不定冠詞』で次のように述べている。
「真の基礎的な述語文と思われているSie ist schön, Ich bin muede.等にしてからが、実を云うと此のist,bin の素姓は、本当の繋詞的seinではなく、実は存在のseinなのである。Sie ist schönは、実は「彼女はschönとして存在する」のであって、その関係はSie bleibt schön, 「彼女はschönとしてとどまる」と同じことなのである」(『不定冠詞』249ページ)。
関口も、存在の「ある」から判断の「ある」が生まれたと主張しているのだ。しかし、関口は存在の「ある」がどこから生まれたのかを、説明できなかった。両者を名詞の分裂から統一的に理解することはできなかったのである。
(2013年4月19日)

5月 16

2010年から、私のゼミで関口存男の冠詞論と取り組んできた。不定冠詞論から始めて、定冠詞論をこの4月に読み終えた。
 この世界一の言語学から学んだことをまとめておく。
 
1.名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―  中井浩一
2.判断の「ある」と存在の「ある」との関係 中井浩一

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判断の「ある」と存在の「ある」の関係
                     中井浩一
目次
1.問い →本日5月16日
2.判断とは名詞が主語と述語部に分裂すること →本日5月16日
3.存在の「ある」 →本日5月16日
4.存在の「ある」から判断の「ある」が生まれた
5.すべての動詞は名詞の分裂から生まれた
6.判断の「ある」と存在の「ある」についての関口存男の意見

                                      
1.問い

西欧語、たとえばドイツ語のsein(存在)には2つの意味がある。
A ist B. AはBである。
A ist.  Aが(は)存在する。Aが(は)ある。

この前者を判断の「ある」、後者を存在の「ある」と呼ぶことにする。
では、この両者はどう関係するのだろうか。この問いに私案を出しておく。

                                         
2.判断とは名詞が主語と述語部に分裂すること

まず、以下の6つの文例をあげておく。

(1)Die Blume ist rot.
(2)Die Blume ist klein.
(3)Die Blume ist schön.
(4)Die Blume ist eine Rose.
(5)Die Blume ist.
(6)Die Blume riecht.
(7)Diese Blume zieht Leute an.

(1)この花は赤い(赤くある、赤である)。
(2)この花はきれいだ(きれいである)。
(3)この花は小さい(小さくある)。
(4)この花はバラだ(バラである)。
(5)この花は(が) ある。
(6)この花はにおう。
(7)この花は人を引き付ける。 

このうちの(1)から(4)までが、いわゆる判断と言える。これらに現れるseinは判断の「ある」である。(5)のseinは存在の「ある」で、(6)と(7)は普通の動詞による文だ。

(1)から(4)の判断だが、普通の理解では、これらの判断を、主語の「この花」と述語部を人間という認識主観が外から結びつけたものととらえる。しかし、ヘーゲルは「この花」自身が、自らをなんであるかを示し、個別と普遍に分裂したのだと考える。そして、それを認識主観内に反映させたのが、いわゆる判断文だと言うのである。(ヘーゲルの論理学の判断論から)。
「花」に内在化していた諸性質が、外に現れたものが述語部の「赤い」、「きれいだ」、「小さい」、「バラだ」等なのである。これは対象世界の「この花」の分裂であり、したがって、認識世界の判断文でも「この花」とされる名詞が主語と述語部に分裂し、また統合されてもいる。
このヘーゲルの考えを前提にして、以下を考えていく。

                                       
3.存在の「ある」

さて、では(5)「この花は(が)ある」をどう考えたらよいのか。
私は、これも先の判断文と同じで、「この花」の分裂の1つだと考える。「ある」も「この花」の性質の1つで、それが外化されたものなのだ。その意味で存在の「ある」は、「赤い」、「きれいだ」、「小さい」、「バラだ」などとなんら違いはない。
しかしもちろん違いはある。存在の「ある」も「この花」に含まれた性質の1つでしかないのだが、それはもっとも根底にある性質といえる。「この花」の持つ諸性質の中で、「ある」が一番基底にあるからだ。
なぜなら、「赤い」「きれい」「小さい」「バラ」ではなくても、「花」は存在できるかもしれないが、「ある」がなければ、「花」は存在できない。それは無だ。つまり「この花」と「ある」は切り離せず、「この花」とは「この花はある」ということなのだ。(以上は、ヘーゲルの論理学冒頭の「存在」「無」の展開と同じだと思う)
以上のことを逆に言えば、「この花」と提示することには「ある」も前提されており、その上での「赤い」「きれい」「小さい」「バラ」なのだ。しかし「ある」には実は、具体的な内実はない。それは「ある」というだけで、その具体的な諸性質は、その上に付け加わる「赤い」「きれい」「小さい」「バラ」によって初めて表されるのだ。

5月 15

2010年から、私のゼミで関口存男の冠詞論と取り組んできた。不定冠詞論から始めて、定冠詞論をこの4月に読み終えた。
 この世界一の言語学から学んだことをまとめておく。
 
1.名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―  中井浩一
2.判断の「ある」と存在の「ある」との関係 中井浩一

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名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―
         中井浩一

目次
1.関口存男の冠詞論と闘う
2.定冠詞論のむずかしさ
3.冠詞論とは名詞論である
4.名詞論としての定冠詞論
5.名詞が抱え込んだ矛盾
6.附置規定の主述関係
7.言い換えにおける名詞の分裂
8.名詞の発展の3段階
9.名詞こそが運動している
10.関口の生き方 →本日5月15日

                                     
10.関口の生き方

私は、関口の本当の凄さがよく出ているのが、「第三章 温存定冠詞(概論)」の以下の文章だと思っている。ただ一人で人跡未踏の新大陸にいどむ、そんな男の姿がここにある。

 「意味形態はもちろん決して万能ではなく,辞典の隅から隅までを”空理“で割り切ることはどうせ不可能かもしれない。いわんや一個人が限りある時間を以て無限の言語現象に画するに於てをやである。けれども,たとえどんなジャングルであるにしても,主な方向にむかってせめて数本の大道を拓き,問題を提起し,研究慾を刺戟し,メトーデとしての意味形態論のために将来を開くことはできないものか?
 次章以下の温存定冠詞各論は,そうした意味から企てられた二三の試みであると思って頂きたい。(中略)此の温存定冠詞というものに限って,全部を意味形態論で割り切ろうなどとは夢にも考えていないことを謙遜に附記しておく。いわんや筆者一人の研究を以てするにおいてをやである。筆者は温存定冠詞という現象が存在することを指摘しただけであって,その充分な研究は将来に俟つべきものと思っている次第である」(784ページ)。

 関口は、ただ一人で人跡未踏の最高峰へといどんだ。自分が倒れた後を、後世の人々に託して。託されたのは、私たちである。(2013年4月25日)

5月 14

2010年から、私のゼミで関口存男の冠詞論と取り組んできた。不定冠詞論から始めて、定冠詞論をこの4月に読み終えた。
 この世界一の言語学から学んだことをまとめておく。
 
1.名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―  中井浩一
2.判断の「ある」と存在の「ある」との関係 中井浩一

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名詞がすべてである ― 関口冠詞論から学ぶ ―
         中井浩一

目次
1.関口存男の冠詞論と闘う
2.定冠詞論のむずかしさ
3.冠詞論とは名詞論である
4.名詞論としての定冠詞論
5.名詞が抱え込んだ矛盾
6.附置規定の主述関係
7.言い換えにおける名詞の分裂
8.名詞の発展の3段階
9.名詞こそが運動している →本日5月14日
10.関口の生き方

                                            
9.名詞こそが運動している

以上説明したように、定冠詞論は名詞論であり、その問題の本質的な解明は一応、第1篇、第2篇で終わった。では「第3篇 形式的定冠詞」では何をしているのか。ここでは、名詞の「特殊な場合」(名詞が傍局にある場合)を取り上げて、その特殊現象をも名詞の本質から解明しようとしているのだ。むしろ、名詞の解明のために、未踏の領域に踏み込んでいく。
1章と2章の「示格定冠詞」では名詞の格の意味、名詞が直接他の品詞に移行する場合、固有名詞、名詞の凍結などが取り上げられ、3章以下の「温存定冠詞」では前置詞+名詞で、さまざまな品詞になる場合の名詞を取り上げる。ここは前置詞論であり、名詞は名詞でなくなろうとしている。「名詞的意局が止揚される」。

すべてで名詞の本質が問題にされているが、1章と2章の「示格定冠詞」では、以下が特に目を引いた。事型名詞の本質、固有名詞、「凍結現象・掲称的語局」(名詞の凍結化)だ。

事型名詞とは、「?する(される)ということ」というdaßの副文章であり、「文章の短縮形」である。それは極端に言えば、「動詞」である。(593?5ページ)。
私は、ここで名詞から文や動詞が生まれていることに注目したい。
また、固有名詞の特殊性を説明しているのも面白い。固有名詞は特殊(個別)と普遍への分裂が前提となったもので、両者の統合で生まれるのだ。(682ページ?)
関口が「凍結現象・掲称的語局」(名詞の凍結化)の問題を取り上げていることは、とりわけおもしろいと思う。(709ページ?)
名詞化とは、そもそも凍結することに他ならない。それをさらに凍結すると言うのはどういうことなのか。
名詞は、確かに静止しているように見えるが、実際の内実は、内部で激しく運動し、分裂を引き起こそうとして待ち構えている。そうした名詞の運動を、本当に殺してしまった形態が、ここにあるのだ。逆に言えば、それまでの名詞は決して凍結していなかった。ぴちぴち跳ね回っている。
ちなみに、「凍結現象・掲称的語局」とは無冠詞の形態である。名詞の発展段階で言えば、「凍結現象・掲称的語局」とは第3段階の名詞が凍結されたものである。したがって、無冠詞は、一番最後に生まれた冠詞だということになる。
この凍結の形態は、すでに「6.附置規定の主述関係」で紹介した
das Tier Mensch(人間という動物 )、der Begriff Staat (国家という概念 77ページ)の例でもある。下線部がそれ。
こうした形態は、Der Mensch ist ein Tier. Der Staat ist ein Begriff.という主語・述語関係(判断)、命名文を繰り返した後に生まれると思う。
関口はさらにこのMenschやStaat を「人間ということ」「国家ということ」という掲称(概念を概念として際立たせる)としてとらえ、これを名詞だが、「省略された文章としての語局」ととらえる。しかし、もともと文章だったのだから、これは当然なのだ。

 3章以下の「温存定冠詞」では前置詞+名詞で、さまざまな品詞になる場合の名詞を取り上げる。ここでは名詞が名詞でなくなるまで、「名詞的意局が止揚される」過程が説明される。
前置詞+名詞から、動詞、副詞、形容詞、前置詞、接続詞的な観念が生まれる際に、「名詞的意局は,外廓を成す動詞的意局,副詞的意局等へと発展的解消を遂げる。これを名詞的語局の棄揚と謂う」(764ページ)。

特に面白かったのは「第七章 副詞概念の迂言的表現」だ。
 ここで、見地の意局の例として「バターは値が上がる」が挙げられる。
Die Butter steigt im Preis.
バターは「値が」あがるの「値が」は主語ではなく、形式的には副詞(952ページ)。
見地の意局はとかく動詞と一体になってまとまった観念を成す(953ページの備考)。
事物を比較して評価する場合は最も、見地の意局が必要(955ページの備考(1))。比較とは、「他と関係させ」その関係に現れる本質(運動)を示すことだろう。

「バターは値が上がる」にも、実は名詞の分裂がある。「バター」と(バターの)「値」への分裂だ。名詞こそが、実は運動している。その動きがなくなった(止揚された)時、副詞や動詞になる。名詞の運動を封じ込めているのが冠詞であり、前置詞ではないか。
運動の中で、他との関係が生まれるが、その関係性を示すのが「副詞」「動詞」ではないか。「関係性」として固定すると、名詞性の止揚(副詞か動詞)になる。「動詞」は運動していない。運動しているのは名詞だ。
ドイツ語で、定形が重要なのは、動詞が重要なのではなく、その主語が他との関係の中でその本質を示す際には、その関係が重要で、その関係を示すのが定形だからではないか。